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野球社会に背を向けて

ミラーマンでズレ始めた私の人生はその後も着実に、事あるごとに世間からズレようとしていた。物心ついてから、自分の嗜好は皆と決定的に違うのだな、と自覚したのは小学生のころ。当時、それをたしなむか否かで子供の社交界に大きく影響を及ぼすものがあった。すなわち、野球。

今も野球は国民的スポーツではあるが、Jリーグなどの台頭、キャプ翼やスラダンの影響でスポーツの人気は多様化し、かつてほどの独占状況にはない。しかし私が小学生をやっていた昭和50年台において野球といえばこれすなわち大正義。世の中の男子は老いも若きも贔屓の球団を持ち、春先からはナイターの中継でテレビのチャンネルを独占。子供たちは他のスポーツなど存在しないかのように野球を語り、遊び、選手の名前と顔と背番号をポケモンのごとく覚えてナイターの翌日には野球談義に熱中していたのである。



私は西日本のとある県の産であるが、その地は野球が特に盛んであり、高校野球ではしばしば優勝してしまうほど県民あげての野球の王国であった。中学高校においては野球部はグラウンドも部室も最優先であてがわれ、所属の部員はスクールカーストの上位を占め、女子からはワーキャー言われ、顧問の先生はでかい顔をし、父兄のバックアップは物心両面から手厚く、とにかく地域を挙げて野球を推進していた。小学生であれば自治会によって地区ごとにソフトボールのチームが組織され、男子ともあればそこに有無を言わさず所属、日々うさぎ跳びや捕球練習に明け暮れ、家に帰っては巨人の星の再放送を見る。というもはや洗脳レベルの野球漬け生活を送っていたのである。



そんななか、野球に全く興味を持てない私がいた。

あれだけまわりが寝ても覚めても野球野球と騒ぎ、放課後は校庭で野球、ちょっとしたスペースとボールと子供が二人以上いれば目を離したスキに野球が始まるという環境で、あまつさえ父が高校球児だったにもかかわらず、野球に全く興味がわかない。

一因として、小学生当時の私が極度の運動音痴であったせいもあると思う。

当時の小学生のたしなみとして、親からグローブとボールを買い与えてもらってはいたが、ゴロに向かえば球は華麗にスルー、投げれば渾身の一球は目の前にぽてんと落下、打ってはボールが目の前を通過するのを確認してからスイング、という有様であった。

こんな体たらくで当時の野球社会に仲間入りをするのはかなりの困難事であった。一応、最低限の仁義として、地区の野球チームに参加したこともあったが、このような鈍くさに励ましの声をかけるほど子供というものはジェントルではない。まともに捕球すらできない私にチームの子供たちは何しよんじゃクソボケ去ね去ねとたいへんストレートな論評を加えるのであった。自分の運動能力に起因するとは言え、この状況では私がいじけて野球に背を向けるのも無理はなかろう、と思うのである。



野球は観るのも面白くなかった。というよりも、当時の私にとって野球中継は毎週楽しみにしている「怪物くん」や「ルパン三世」の時間を勝手に横取りしてしまう理不尽な存在であった。あるいは放送そのものはあっても、裏で野球中継をやっている場合はかなりの高確率で父がチャンネルをそちらに合わせた。ウキウキしながらテレビを付け、7時になった瞬間に後楽園球場の光景が映ったときはこの世を呪いたくなった。もはやどう考えても野球中継は不倶戴天の敵であり、したがってそれを見て野球に興味を持ったり、試合を面白がったりすることもなかったのである。当然、ナイターの翌朝の友人たちの会話には加われない。江川とか江夏とか江本とか楽しそうに話してはいるが、全くわからないからその輪には永遠に加われない。つまらない。

さらにまずいことに、試合を見ないものだから野球のルールもほとんど判らない。頭数合わせで試合に強制参加させられたときも、味方がフライを打ち上げた瞬間に意気揚々とベースを離れて余裕のホームイン。その後フライは取られ当然のようにアウト。ホームに戻った自分もアウト。野球をロクに知らない私が「タッチアップ」などという面妖なルールを知る由もなかった。味方チームからは罵声を通り越して「なぜこいつはこの程度の事も知らぬのだ…」と、文化の違う異人種を見るようなあきれの視線が飛んでくるのであった。つらい。



野球があまり好きではない→積極的に関わらない→そのために上達しない→責められる→もっと野球が嫌いになる、という鉄壁のスパイラルが生じ、小学校も中学年になるあたりで私は完全にアンチ野球派となっていた。いや、確かにあそこで野球に染まっていればきっと楽しかったであろう。友達と毎日グラウンドで遊び、チームワークの喜びに目覚め、長じては野球部に入って活躍し女子にきゃいきゃい言われ、ついには部室で煙草やエロ本をたしなむなどの充実した学生生活を送っていたかも知れぬ。正直なところ、そう言う連中が羨ましくはなかった、というと嘘になろう。

しかし悲しいほど運動神経の欠けた私にそれは無縁の世界。向いていないと悟った私は野球社会に背を向けざるを得なかったのである。そこには何においても野球ばかりが優先される世間への反発もあった。憎しみもあった。もしあのころ地下に野球を好まぬ者たちの集いがあって、野球ばかり優遇される社会に制裁を加えんがため立ち上がろうとしていたなら、私は進んでそれに入り反野球戦線のレジスタンスとして活動していたであろう。そして虐げられしアンチ野球の民に人権を!あとチャンネル権を!と日々戦いに身を投じていたかも知れぬ。



私の運動音痴は中学生になって身体ができてくるに従い解消されていった。責められた経験からチームスポーツには恐怖感があったが、バレーボール部に入ったおかげでそれもそれなりに克服した(ここでバレー部を選んだ点もまた味わい深い)。キャッチボールくらいは普通にできるようになった。野球のルールも主に「大甲子園」などのマンガで覚え、ひと試合面白く観戦できるくらいにまではなった。しかし、いまだに野球はまともにやれる気がしない。遠くからキンという打音が聞こえ、自分の方めがけて大きなフライが飛んできたら、たぶんパニックを起こしてあらぬ場所に移動しバンザイとともに大ジャンプ、凡庸なライトフライをたちまちホームランに化かすくらいの自信はある。



ところで、反野球レジスタンスは本当に実在しなかったのだろうか。サッカーその他のスポーツの台頭と、相対的な野球人気の凋落で、いまでは中学校でも野球部がない学校すらあると聞く。かつての野球天下もいまは昔なのである。それはもしかしたら反野球レジスタンスの地道な抵抗活動が実を結んだ結果ではないだろうか。私のようなズレた者たちが団結してたゆまぬ戦いを続けた結果、千年続くかと思われた野球王国はかつての権勢を失い、新興勢力に民を奪われ、いまや数あるスポーツのワン・オブ・ゼムとしての地位に引き下げられたのではないだろうか。そしてあのころ抑圧されていた私がそのことを知ったら、あんなにいじいじとすることもなく、結果私の人生のズレももう少し修正されるのではないだろうか。

早急なタイムマシンの開発が待たれる。

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