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ヒラコーの百点満点の答え

 ツイッター(現X)を見ていたら、漫画家のヒラコー(平野耕太)が次のようなツイートをしていた。
 
 「自分は「足立区に住んでて、日陰で世間様を妬みながら斜に構えた半笑いの、ヒネた思考と嗜好の性格の悪い、強制的にびっちりと通わされてる興味のない塾と習い事をサボって漫画読んでる14歳位の度の強い眼鏡かけたデブのガキ」に向けて描いてる。あいつは気に入るはずだ」
 
 これは誰に向けて、漫画を描いているかに対するヒラコーなりの答えだ。
 
 この一つ前には、他の人のツイートが表示されている。ヒラコーのツイートは、その呟きへの応答という形になっている。一つ前のツイートは、藤堂というアカウント名の方だ。そちらも引用してみよう。
 
 「多くの作家さんは基本的に自信がないものだと思うけど、市場に作品を出してる以上は痩せ我慢でも「ぜってぇ面白えから見てくれよな!」という気概でプロモーションしないと売れる物も売れない。作った本人が自信なさげだと、買う側も「ならいいです」ってなるよね。」
 
 藤堂という人のツイートは、多くのアクセスと多数のいいねを伴っている。要するに「バズって」いるわけだ。それをたまたま目にしたヒラコーは、それへの応答という形で以上のようなツイートをしたのだろう。
 
 ※
 以上の二つのツイートを私は見て、(ヒラコーと藤堂という人では格が違うな)と思った。もっともこう言うと、有名漫画家のヒラコーを一般人と比べて、(格が違う)と言っているという風に思われるだろう。私はそういう評価はしないので、そのあたりを説明していこう。
 
 まず、藤堂という人が言っている事は、「一般的に考えて、(確かにな)と思われるような意見だ」。だからこそ「バズっ」たし、多くの人が「いいね」したのだろう。
 
 しかし、問題はこの「一般的には正しい」という意見だ。「一般的には正しい」という意見は本当に正しいのか、とまで多くの人は考えない。多くの人は漠然とした共感や「いいね」で過ぎ去っていく。
 
 藤堂という人の意見で考慮されていないのは、「面白い」とは誰にとって面白いのか、という事だ。その点が考えられていない。
 
 売り手が作品の「面白さ」に自信があり、買い手はその自信に引かれて作品を買い、面白さを感じる。それは「市場」だけを見れば結構な事だろう。
 
 しかし、例えばサミュエル・ベケットやトーマス・ベルンハルトの小説は「面白い」のだろうか。ベルンハルトが自分の作品の面白さに自信を持っていたら、それはそれで不気味だろう。
 
 受け手の理解力が低ければ、その作品がどれほど「面白かろう」と、作品の面白さは伝わらない。逆に受け手の理解力が高い時には、難解でつまらないと多くの人に思われる作品が面白い、と思われる場合もある。
 
 これは芸術とか文学とかいうものを考えると普通の話だが、ほとんどの人はそういうものを知らないので、「面白さ」というのは客観的に存在していると考えたがる。そう考えると、大多数の人が褒めているものは無条件で面白い、という理屈に繋がっていく。
 
 作品というのは送り手と受け手の間で発生するコミュニケーションだと考えると、受け手の質がそのコミュニケーションの質に大きく反映する。
 
 しかし、受け手の質の低さを批判する事は、言ってみれば、かつての王を誹謗中傷するのと同じような事態に発展する。というのは、現代の王とは集団になった大衆だからだ。
 
 ※
 とはいえ、藤堂という人の言っているのは、あくまでも商業作品の範囲で言っているのだからそんなにムキになる事もない、という反論も考えられるだろう。
 
 しかしそう考えたとしても、商業的な位置にいる漫画家ヒラコーの発言に対して、藤堂という人の意見はあくまでも「一般的な正しさ」に留まるものでしかないな、と思う。
 
 一般的な正しさ、というのは、多くの人が(うん、そうだよね)と思って通り過ぎるだけであって、強い情熱によって、個性的な作品を生もうとするのとは、ベクトルが違う。
 
 いくら商業的な作品と言っても、ある程度作者の個性や資質が関与してくるので、一般論だけで押し切るのはそもそも無理だ(だから「漫画の描き方」という一般的な方法論をマスターしただけの漫画家がいたとしても、彼には駄作しか作れない)。
 
 そういう意味においては、ヒラコーの解答は百点と言ってもいいだろう。
 
 ヒラコーはオタク少年だった過去の自分自身に向かって漫画を描いている、そう吐露している。創作というのはそういうものだし、それでいいのだと思う。
 
 しかし、ここで「そういうものだし、それでいいのだ」と言っている時点で、私の答えも一般論の中に入り込んでいってしまう。
 
 なので結局は、「誰」に向かって作品を作るのか、という事と、「誰(それは"自分"でしかありえないが)」が作品を作るのかという事と、その両者の存在を作者は自覚し、作品を作り続ける中で、そうしたイメージそれ自体をも創造していかなければならない。私はそう思う。
 
 ※
 藤堂という人のツイートに戻ると、そこには「誰」に向かって面白いのか、というイメージが抜け落ちている。
 
 マラルメの難解な詩を、マラルメが一般人に向かって自信満々に朗読するというのは有り得そうもない。マラルメは一般人が理解できないのを知って、ごく一部の仲間にだけそれを読んでもらうだろう。
 
 だから、そもそも作り手が自信満々である必要もないが、しかし藤堂という人のツイートをよく見ると「市場」とか「プロモーション」とか「売れる」とかいう言葉があるので、結局はそういう話をしているだけ、というのが本当なのだろう。

 ここで言われているのは本当は創作論ではなく、創作された作品をいかにして売るのか、という方法論でしかない。
 
 通俗バンザイのこの世の中では芸術論は存在しないが、その代わり、「芸術(アート)をいかに売るのか」という事については散々に議論されている。創作論は皆無に近いが、創作されたものをいかに金に変えるかについては散々に議論されている。そして、後者の方を「芸術論」だの「文学論」だのと言ってごまかしているのが現状だ。
 
 そうした論に抜け落ちているのは、ヒラコーが言っているような、個人的なイメージである。ヒラコーの中には、かつてのオタク少年だった自分のイメージがある。

 そして大体において創作というのは、そうした個人的な印象、イメージ、つまり一般論には載せられないが、個人にとっては極めて大切なイメージから発せられるものだ。そういう意味においてはヒラコーの、藤堂という人のツイートに対する回答は、百点満点と言っていいだろうと思う。

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