高橋和巳「邪宗門」 感想

 高橋和巳の「邪宗門」を読みました。傑作と言ってもいいですが…佳作な印象です。どちらかと言えば。

 「邪宗門」というのはタイトルに現れている通り、宗教の話です。「ひのもと救霊会」という理想的な宗教団体が想定され、その団体が戦後の現実の中でどんな風に滅亡していくかが描かれています。「ひのもと救霊会」は世直しを目指していきますが、戦後の、日米結びついた権威に敗北します。最後は滅亡なので、物悲しい話になっています。

 この作品が出た頃は学生運動が盛んでした。運動をしている学生によく読まれたそうです。学生達は、日本を改革しようとして滅亡していく団体に自分達の姿を重ねながら読んだのだろうと思います。つまり、涙を交えた読書、というやつです。今は時代が下っているので、リアルタイム性ではなく、客観的にこの作品を評価する素地ができていると思います。私も、そのように読みました。

 作品を読んで考えた事、勉強になった事は沢山有るのですが、書いていたらキリがないので絞って考えていきます。作品の一番の見所は、ラストの、ひのもと救霊会が壮絶に滅亡していく場面になっています。

 その場面を読んでいて、私は三島由紀夫を思い出しました。最後の滅亡の仕方が、なんだか、三島由紀夫の自決に似ているように思われました。

 ちなみに言えば、作中で、本作のヒロインである阿礼という女性が自死する場面があります。彼女はひのもと救霊会のリーダー格ですが、自刃して壮絶に散っていきます。その前夜には、本作の主人公である千葉潔と交わった事が説明されます。余談ですが、この、エロスと死の結合に荘厳なる栄光を見るという視点は、三島由紀夫とイコールだと思います。そのあたりでも、三島と相通じるものがあります。

 今、三島の話をしましたが、調べてみたら三島が自決したのが70年で、高橋和巳が死んだのが71年です。二人は同じ時代感覚を持って、同じ時期に世を去ったのだなと私は思いました。

 三島と高橋の違いは、天皇制を擁護するか否かです。三島は天皇を中心とした日本再生を考えていましたが、高橋は「邪宗門」を読む限りは、天皇制擁護ではないようです。そのあたりは違うのですが、本気で日本という国を変えようという熱情は似通ったものがあった気がします。

 私がなぜ、三島と高橋を対比させて話をしているかと言えば、この二人の死、また高橋の場合は「邪宗門」という作品、三島の場合は彼が実際に起こした自決事件、これらによって一つの時代の終わりが告げられているように感じたからです。

 それではどういう時代が終わったのでしょう? 一言で言えば「真面目な日本」の終わりです。日本という国、日本人というものが、真剣にこの社会が何であるべきか、それを考えていた時代が去ったという事です。70年を境に、日本からは真面目さがなくなった。私はそう感じました。

 「邪宗門」という作品は、極めて真面目な作品です。今、私がここで言う真面目さとは、社会が何であるのかを本気で検討する、というような意味です。戦後の混乱期には、まだそうした事を考える余地があったのでしょう。それは一方では学生運動になり、もう一方では三島の自決事件になった。左翼や右翼といった人達が本気で活動していた時期があったのだと思います。

 それでは今はどうかと言うと、もう社会を疑う人はいません。社会がどうあるべきかはもはや問われる事なく、社会の中でいかにうまくやるのか、稼ぐのか、それだけが問題になっています。社会がどうあるべきかを今、真剣に問う人がいたら中二病とか、大人になれないとか言って、笑われてしまうでしょう。

 資本主義の社会の中で、いかに興隆するか。それ以外の道は全然、考えられません。思考の枠組みが世界によって決定されているにも関わらず、その事を意識すらできないのが今の我々だと私は考えています。だからこそ、今の文学作品よりも何十年も前の文学作品の方が遥かに面白く、リアリティを感じるのでしょう。それは、動物園の檻の中で一日をいかに過ごすかを考える動物と、厳しい自然の中でいかに生きるべきかを問うている動物の差と言っていいかもしれない。真剣さにも差が出てきます。

 戦後の混乱期は、日本社会とは何か、どうあるべきかを本気で問い、決定できる最後のチャンスだったのでしょうが、それはもう終わりました。もちろん、今、我々が取っているルートこそが一番素晴らしいルートだった可能性はあります。ただ、ここで私が問題にしたいのは、正解かどうかではありません。世界の在り方や自己の在り方を問う事ができるか?、どこまでその問いを深くできるのか?…そうした機会は今の我々にはなくなっている、という事です。

 今、私が言ったような事は「邪宗門」の最後に現れていると思います。その部分を引用します。これはひのもと救霊会の面々が集団自殺を遂げた後に、政府が彼らを非難した文章です。

 「あらゆる文化は個々人の生命を尊重することからはじまる。いかなる理由があるにせよ、自殺や殉死を善と意識するなどということがあってはならない。文化国家日本の、それは恥辱である。生活に窮した母が子を死の道づれとし、虜囚となるよりは死を選び、あるいは一身を弾丸と化して死ぬ特攻精神などともに、それは日本民族が今後、克服しなければならぬ精神的な盲腸、精神の尻尾である。」

 (「邪宗門」 下 河出文庫)

 語り口は古いですが、こうした生命尊重の論理は我々が普段聞いている常識的な論理と合致します。この事は、何を意味するかと言えば、この社会からはもはや生命を賭して戦う、そのような意義のある戦いそのものが消えてしまったという事だと思います。ひのもと救霊会は無惨に散りましたが、それと共に多くのものが消えていった気がします。

 もっとも、作者は周到にも、この世界から消えたもの、死んだものが必ずしもただの「不在」ではない、そうした論理を作品の一番最後に残していきました。

 (生き残ったひのもと救霊会のメンバーの、政府の非難に対する反論)

 「だが、救霊会に自殺教という罵倒を投げかけただけでは、何事も解決はしない。生者が死者よりも無条件にすぐれるわけではなく、人類がこの地球上で、あるいはこの宇宙において成し遂げようとすることの総体との関連においてのみ、その死の意味は判定されうる。もし仮りに人類がその智慧によって世界を征服しながらも、他の動物植物を虐げ尽くし、さらに自らも内訌し続けて、かつて恐竜が巨大化しすぎたその体躯ゆえに滅びたように自らの武器によって晩かれ早かれ滅びるにすぎないのなら、この人々の自殺衝動を悪とは到底断定できないからである。」

 問いは、まだ続いているのです。

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