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162.歯の治療

昨年の夏、歯が疼いた日があった。

痛みなどは無いし、このままほっといても良かったが、久しく歯医者に行ってなかったので点検も兼ねて行ってみる事にした。

昔から同じ歯医者に通っていたが、当日連絡しても入れず、予約してを取ろうにもだいぶ先になってしまうので、急遽違う歯医者に行く事にしてみた。

ネットで口コミやなんやかんやを調べて電話をかけた所、当日の診察可能な歯医者があったので早速伺ってみた。初見の印象はスタッフも多く、設備も建物も綺麗。受付の接客も申し分なく、非常に好感が持てる。先生の人柄も良い。50歳程度の柔和な、優しい雰囲気の男の先生が診察してくれた。

診察の結果、虫歯などではなく現状で特に問題は無いとの事だったが、先生曰く"それよりも歯周病が気になる"という事だったので、言われるがまま提案された治療を受ける事にした。治療内容は簡単に言うと歯石取りがメインなのだが、全ての歯に対してメンテナンスを行うだのどうのこうので通院する必要があるとの事だった。

それは良い。別に構わない。だが、少し思う事があった。

私は歯の痛みというか、口内の痛みが苦手なのだ。大人だし、外傷的な肉体の痛み、切り傷や擦り傷だとかは人並みに耐えられる。打撲的痛みは若かりし頃の父親(183センチ、90キロ)のヘビー級の肉体から繰り出される教育的摂関というか、愛のコブシを受け止めてきたのである程度の耐性はある。だが口内における刺す様な痛みだとか、シャープな痛みが昔から非常に苦手なのだ。

苦手なもんは苦手だ。恥ずかしがる事でもないので、正直に『口内の痛みに対して耐性が無いので、お手柔らかにお願いします』と伝達をして治療を開始した。『分かりました』と朗らかな笑顔で返事をする先生。ありがとう先生。私の意思が伝わっただけでハラハラする気持ちが少し救われる気がする。

そして治療が開始された。

その直後にこう言われる。

《もし痛かったら手を挙げてください》

先程の提言を受け入れてくれた先生は気を使ってくれたのだろう。

だが、私は思う。

《もし痛かったとしても、手を挙げるタイミングが分からん》

痛かった場合、手を挙げるより先に体がビクッとならないだろうか。ともすれば、痛みを感じる→体がビクッとなる→手を挙げる。という流れが主になってしまう。どこで手を挙げるのが適切なのか昔からよく分からない。

そしてこれは"先生、痛いです"というサインじゃなくて"先生、痛かったです"という、ただの事後報告に過ぎない。これに何の意味があるのだろうか。

仮に中断したとしても、治療に必要な行為を行った結果、それが痛かったのだ。それで中断した所で、治療に必要な行為なのだから再開したとて結局同じ痛い行為を繰り返すだけなのではないだろうか。だったら手を挙げようと挙げなかろうと変わりはないのではないか。

逆に手を挙げた事をきっかけに痛くない手法に切り替えたとするのならば、本来やりたかった治療法が行えないという事でもある。もし"そういう事ではないですよ。こういう手法もあるんですよ"と言うのならば、こっちは初めに"優しくしてくれ"と伝えているのだから、最初からそうしてくれという話だ。

大きく口を開けながらそんな事を考える。そして、それと同時に力強くこう思った。

『(めちゃくちゃ痛い)』

既に結構痛い。何をされているのかよく分からないが、ものすごくガリガリやられている。

『(お前、人の話聞いてたか?)』

そう思う程、痛い。たまに痛いなら良いが、一個一個の挙動が痛い。私の提言など無視して治療を進められている気がする。だが私は我慢する。なにせ手を挙げるタイミングや理由を見失っているのだ。

『(いてっ)』

『(いててて)』

『(いててて)』

これが繰り返される。断続的な痛みと『さっきの笑顔は何だったんだ』という気持ちが相まって少しイライラする。だが"優しい先生にそんな気配は悟られてはダメだ"と、私はクールダウンに努めるよう気持ちを切り替える。

だが、ここまでで最大の痛みが1発入ってきた。

『(いっった)』

この瞬間、反射的に手が出そうになってしまった。かなりイラッときた。もし手の届く範囲に先生の頭があったらパシッと叩いていたかもしれない。

これには自分も驚いた。割と温和に生活しており、年齢と共にそれは加速しているのだがまさかここで己の内なる狂気に遭遇するとは思いもしなかった。"治療してくれ"と現れ治療してもらい、その最中に優しい先生に手を出すなどという行為があったら問題である。

『(あぶなー)』

少しヒヤヒヤしたものの、それを先生は知る由もないし、悟られてはならない。何事も無かった様に治療を受ける。だが、変わらず繰り返される痛みに再びイライラしている自分がいる。

そしてこう思った。

《痛かったら手を挙げてください》

この言葉は私が先生から授かった言葉だ。だがもしかしたらこれは、先生が伝えたかった事と意味が異なる可能性があるのではないだろうか。

口頭で受け取った言葉なので漢字までは分からないのだ。もしかしたら先生が言いたかった事は【挙手】ではなく、"生徒に手を上げる"などに使われ、“叩く"とかそっちの意味の【手を上げる】という可能性もあるのではないだろうか。

《痛かったら手を上げてください》

とは『患者さんに痛みを与えた私に制裁を与えてください』そう捉える事もできるのではないだろうか。可能性はゼロではない。

『(だったら、次痛かったら手を出してもいいのかな)』

という言葉が湧いて出てくる。

『(・・・・・・)』

『(いやいや、何を考えている。そんな事こんな優しい先生にしてはダメだ)』

堪える衝動。長く続く葛藤と治療。こうして心身共に悶絶しながら第1回目の治療を終えた。
治療後にうがいをすると血が多く含まれた水が口から吐き出された。治療の壮絶さを物語っている。

まあでも仕方ない。治療に必要な行為だったのだ。先生だって痛くしようと思ってやっている訳ではない。ちゃんとそこは理解しなければ。私は大人の感受性を発揮し、全てを受け入れる事が出来た。

〜1ヶ月後〜

第2回目の治療である。

この日は先日の先生ではなく、女性の方が対応してくれた。リクライニングが倒され、口を開けると前回の痛みを思い出し、緊張感が走る。

だが、治療を受けながら私は思った。

『(・・・全然痛くない)』

前回は左側の歯、今回は右側の歯を治療しているのだが、何が違うのだろう。時折、痛い事もあるが基本的には痛くない。雲泥の差である。

『(これでは左右の仕上がりに差が生じるのではなかろうか)』

一抹の不安を覚える。

そしてそのままスムーズに治療を終えてしまった。すると女性のスタッフはこう言った。

『先生にチェックしてもらうので少しお待ちください』

数秒後、仕上がりをチェックしに先日の先生が現れ、私の口内を覗き見る。そして女性に向かってこう言った。

『うん。大丈夫ですね』

『(・・・・・なんだと?)』

いや、ちょっと待てと。今回の治療で仕上がりに問題が無いのであれば、先日のあのクソ痛い治療はなんだったのだ。

『(やってくれたな、お前)』

そんな気持ちが溢れ出てくる。

帰り道、車を走らせながら

『(意味が分からん)』

『(意味が分からん)』

と、呪文の様に唱えて帰宅した。

私にはよく分からんが、普通の歯医者とはこういうものなのだろうか。この時点でまだ治療は終わっていない。次はどうなるのだろうかと、くじ引きする様な気持ちで一ヶ月後の通院を待つのであった。

おわり

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