155.クリエイター
noteの文章を読んでいたのだが、色々見ていると、note内にこんな文言がある事に気付いた。
【このクリエイターの***】
投稿者の事をクリエイターと称しているのだ。自分のページを見てみても同じ事が書いてあった。
そして思った。
『(という事は、私もクリエイターという事なのだろうか・・・)』
少し考え、更に思った。
『(・・・・・・)』
『(・・・クリエイター?・・私が?)』
己がクリエイターなどという自覚も意識も無かったのだ。正直、クリエイターというのはもっと都会的な何かかと思っていたし、今まで様々な人と話してきたが『どうも、クリエイターの○○です』などという人と出会った事も無い。
あまり関係ないというか、自分の生活の中でクリエイターを意識する事も無かったのだ。そんな中、唐突に『やまださん、あなたクリエイターですよ』と突然言われても、困惑というか肩すかし的な反応しか出来なく、周りを一度見渡してから『あ、私ですか?』的な感覚に陥ってしまう。
そもそもクリエイターとは何なのだろうか。一応、インターネットで調べてみることにした。すると、インターネットは私にこう教えてくれた。
●クリエーター → 創造者。創作家。
何やら大層な響きである。
創造者と聞くとその意味は説明出来ないが、漠然と神だとか、その類のイメージが膨らむ。私は日々そんな大それた事をしているわけでは無い。しかし、何も無い所から妄想と屁理屈で文章を構築する事はある。そう考えると創作家と言われればその端っこくらいには引っかかる可能性はありそうな気はする。
なるほど。どうやら私はクリエイターだったようだ。
『(そうかそうか。私はクリエイターだったのか)』
そんな事を心で呟きつつ、新鮮な響きに少し身を委ねる。
どこかに私の足跡があったとしたら、それはクリエイターの足跡と呼ばれるだろうし、私が振り向いたら、クリエイターが振り向いたと言われ、私の抜け毛はクリエイターの抜け毛と言われるのだろう。
私が看板を見て美術館に入ったとしたら、クリエイターがクリエイターの描いた看板を見て、クリエイターの作品を眺めるという事になる。
こうして、しばらく色んなシチュエーションでクリエイターを堪能してみる事にした。
コンビニに行った時には『(はいどうも、クリエイターが入店しましたよ)』と心で語りながら入店し、クリエイターっぽい面構えで商品を差し出す。クリエイターに買われた商品はその影響で名称が変わる恐れがあるので、例えばお茶を買った時などはレシートの商品名がクリエイ茶に変わってないかなど、細心の注意を払った。
育てていた植物の成長を感じた時、"これも自分の作品か"などと思ったが、よく考えると、植物の発祥は大地。言わば地球。地球というのは万物の創造の根幹。地球上の水、海、草、花、木、岩から生物に至るまで、全てが地球の作品。という事は地球さんも立派なクリエイター。その事に改めて気付いた私は思わず大地に手のひらを這わせ【同士よ】と語りかけた。
クリエイターたるもの、所作にも気を付けなくてはならない。歩き方が輩(やから)の様に荒々しくては格好がつかない。尻の筋肉をキュッと上げ、白線上を歩く様にウォーキングする必要がある。風呂上がりに素っ裸で歩く時も金玉の揺れ方が無作法な動きであってはならないので、メトロノームの様に規則性のある揺れを意識して一歩一歩を踏み締めなければならない。
そして思った。『しんどい』と。
チェック項目が多過ぎる。常に誰かの視線に晒されている気がする。なんて大変な肩書きなのだろうか。肩書き一つで自我を失うくらいならそんなもの捨ててやると決意した。私は本来の私が好きなのだ。肩書きが何であろうと、書いて出すそれ以上でもそれ以下もないのだ。
それにしても思うのはクリエイターというものが、創作家の事を指すのだとしたら線引きというか、定義が曖昧過ぎやしないだろうか。
人は誰でもウンコをする。それ自体、2つとして同じ作品は無いわけだ。酒を飲む事もまだ見ぬ自分を創り出しているとも言えるし、飲み過ぎて吐いている人は見た事もない創造物を口からクリエイトしているとも言える。
職業で言えば料理人だってそうなわけで。大地との共同作成の可能性はあるが、農家もそう。接客業だって客の見た事もない笑顔を生み出している可能性がある。見方次第では、ほとんどの人がクリエイターと言っても過言ではないのかもしれない。
きっと皆何かを生み出しているのだ。できる事をやっていれば良い。肩書などに惑わされず、社会や立ち位置などに左右されず、効果や評価などはまずは己で判断すれば良い。
カネ、モノ、カタガキ、身に積もる要素は色々あるが、そこに頼りきっても仕方なく、振りかざしても仕方なく、それらを脱ぎ去った時に何が残るのか、そんな気がするのである。
おわり
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