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163.続・歯の治療

昨年の夏から月1のペースで歯医者に通っていた。

理由は歯周病がどうのこうので歯石取りがどうのこうのだ。

前回記した通り《痛くされるのは勘弁》という願いを伝えた上で治療を始めたが、初っ端から痛さ全開の治療を施され悶絶し、2回目は全く痛くない治療を施されるという、緩急を使い分けているというか、蓋を開けてみないと何が起きるか分からない、同じ治療でも人が変わると痛みが変わる施術を受けていた。

それから3回目と4回目の治療を終え、紆余曲折ありながらもついに最後の診察を迎えた。

リクライニングを倒され口を開ける。担当は20代と思われる女性。私の頭の上側に位置取り、座りながらカチャカチャと器具を選定している。初めて見る方だ。だが誰が来ようと初回のトラウマにより緊張感は拭えない。本日は一体どんな具合に進められるのだろうか。

こうして最後の治療が始まった。

いつものようにガリガリと削られる。歯と歯の間に器具が入っていくのを感じた。ここまでくると私には分かる。ちょっとした手の誤差というか、ブレひとつで歯茎に器具が接触し、血が出るやつだ。勿論、それは痛いのだと思う。本来ならば。

だがこの日は少し違った。治療の手法にいつもと大きな違いは無いが、あまり痛みを感じない。この女性の腕前がすこぶる良いというわけでもない。きっと痛いのだろう。本来ならば。

この日、私には痛みに対して鈍感になっている理由があった。

『(・・・・・・)』

『(・・・胸が・・当たっているな・・)』

何がどうなっているのかは分からないが、私の頭に女性の胸が当たっているのを感じる。それが気になり治療どころではなかった。いや、別に私的には構わない。やぶさかではないのだが

『(・・・この状態はこの女性的に不本意ではなかろうか・・・)』

そんな事を思ってしまう。なにせ初対面の中年男性の頭に胸が当たってしまっているのだ。仕事中のアクシデントとはいえ、そんなに気分の良いものではないだろう。

もしかしたら気付いてないのだろうか。だとしたら互いに由々しき事態である。いやしかし、気付かないなんて事あるだろうか。私に女性的な胸は備わっていないが、同じ突起物として金玉なら持ち合わせている。じゃあ、その金玉が第三者に触れていたとしたらどうだろうか。それは間違いなく気付くはずだ。とはいえ、女性の胸と金玉の感覚を同一として扱って良いものなのだろうか。

頭に胸が当たった状態で考察を続ける。だが、そのタイミングで鶴の一声が入った。

『一旦うがいをお願いします』

私は体を起こし、うがいをしながら考えた。

『(もしかしたら、椅子に深く座り過ぎていたかもしれんな)』

可能性の一つとして、そういった理由もあるかもしれない。だとしたら申し訳ない事をしたかもしれないと、少し浅めに座りヘッドレストから頭が出過ぎない様に調整をした。そして再びリクライニングが倒れ、治療を再開する。

そして思った。

『(何故だ)』

また当たっているではないか。変わらぬ現実。何故当たるのだろうか。作業しやすいのかなんなのか分からないが、患者の気持ちにもなって欲しい。めちゃくちゃ気を使ってしまう。

今、私が切れる手札はあと幾つあるだろうか。

・もう一度うがいをさせてくださいとお願いする
→数秒前にとった手法。適当な事を言って体勢を整え、位置取りを調整する。だが恐らくそれを再び行った所で同じ穴のムジナの確率が高い

・くしゃみが出そうですと申告する
→嘘をついて一旦離れていただき、位置取りを調整する。などと考えたがこれも同じ穴だ。ましてや調整したのにまた元の位置に戻られたら、もうどうして良いかわからない。

・正直に言う
→『お嬢さん、胸が当たってますよ』とお伝えする。だがそれを言った所で状況が良い方向に転ぶだろうか。もしこの女性が無自覚だとしたら、辱めを与える事になってしまう。場合によっては『触れたくないほど汚いと思われているのか』と無闇に傷つけてしまう可能性さえある。その後、互いの気まずさが加速する。

パッと思い浮かぶのはこんな所である。どちらも微妙な結末が想定できる。頭に圧迫感を感じながら悩み果ててしまった。

だが、突然閃いた。小細工などせず、相手に気付かれずに接触を避ける方法を。奥の手とも言えよう。

《気付かれない様に少しずつ下に下がる》という至極シンプルな作戦だ。

10秒に1mmずつ下がるイメージ。うまくいけば1分半で約1センチ離れる事が出来る。残された手段はこれしかないと、藁をもすがる思いで作戦を決行した。

全身に力を入れ、ジリジリと首をすくめる。焦らず、おごらず、諦めず。牛歩より遅く、秒針の様に細やかに。緻密に距離を確保するのだ。治療中に動いたら危険かもしれないが、そんな事はもう知ったこっちゃない。痛むなら痛め。血が出るなら出ろ。そんな気概で立ち向かう。

だが悲しいかな。結構早い段階でバレてしまった。やはり無理があったのだろうか。私の挙動に気付いた彼女はこう言った。

『あっ・・すいません・・痛かったですか?』

いや違う。お前のおっぱいが原因だ。

一体何なのだ。何故分からないのか。気付くきっかけ、シグナル、様々なものを与えたはずだ。なのにこの振る舞いはいかがなものか。

もし私が10代だったのなら興奮なり、悦びなりワンランク上の感情に包まれていた事象だったかもしれない。だが今の私は成熟した大人。立派な中年。今更軽率にそんな感情になる事はない。それどころか悩みを通り越して若干のイラつきさえ覚えている。まさか私の人生で女性の胸にイラつく日が来る思わなかった。これがいかに罪深き事なのか分かっているのだろうか。

女性の胸を頭に乗せながらそんな事を強く思った。

なんならこの姿は滑稽に見える。はたしてこの姿は他の患者やスタッフの目にどのように映っているのだろうか。それどころか見方によっては私の方から胸に当たりにいっている様にも見えやしないだろうか。それは非常に良くない。エロ中年巨大男などと裏であだ名をつけられたら無念であり、不本意である。

そんな事に思いを馳せながら、私は滑稽な姿のまま最後の治療を終えた。

夕暮れの帰り道。街灯が点灯し始めた街並みはすっかり冬の様相を呈(てい)している。少し冷たくなった空気を体にまといながら、夏に始まり、冬に終わりを告げた歯の旅路を振り返る。

激しい痛みや無痛状態を展開し、滑稽な姿にもさせられらた。それに踊らされ四苦八苦する私の心。様々な感情を掻き立てる歯医者だった。

最後の治療は困惑を極めたが、"痛みの感じない治療"という意味ではしっかりと仕事を全うしていたのかもしれない。

私は再びあの歯医者に行く事はあるのだろうか。それはまだ分からない。色々大変なんだもの。

ちなみに歯の調子は良くなった。

おわり

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