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ライトグレーのスーツと就活

私の就活スーツは明るい灰色です。履歴書用の写真もこのスーツで撮りました。

この写真、気合いを入れすぎてあまりにも気迫のこもった目でカメラを見つめたせいで母から「独裁国家のアナウンサーみたい」との感想を賜り、友達に愚痴りながら写真を見せたところ「たしかに」と言いながら呼吸が怪しくなるほど笑われました。普段は大変優しい友人なのですが、目の前で写真を手にした友人がうっすら悲しそうな目で笑い転げる彼女を見つめていることには気が付かなかったのでしょうか。

それから暫くして、この写真を拡大コピーする必要があったためWordに貼り付けたところ「スーツを着た男性というテキストに替えますか」という提案がなされました。ベリーショートをぴっしりなでつけた髪型だったから?でもスーツの形どう見ても女物よね?
Wordの開発者は余計なお世話という言葉を知っているのでしょか。

免許を更新する度に身を削るタイプの持ちネタが増える系の私の顔のことはさておき、就活のスーツです。
就活の画一黒スーツをやめませんか、パンプスをやめませんか、という提案は各方面から聞くものの、まだまだ選考の段階で黒スーツ以外の服を着ている就活生は少ないように思います。今こうやってnoteに「灰色のスーツを着ていたんです」と書くだけで「あぁ、あいつだ」と同じインターンや説明会に参加した人に気付かれるのではないかと思うくらいには。

じゃあなぜ私がライトグレーなんて集団から浮きまくる色のスーツを着て就活をしていたのか。1年生のときに塾講のバイト用に買ったこのスーツの形が私の体に合っていて、わざわざ就活のためにこれより素敵なシルエットの黒スーツを探して買うのがめんどくさかったという理由もあるのですが、もう一つ大きな理由として私がアトピー持ちだからというのがあります。

ここ数年はだいぶ症状が落ち着いているのですが、私の肌は脳がまだ頑張れるかもと無理をする前にストレスを察知してボロボロになる仕様です。精神衛生のバロメータとしては優れてるけど現代社会を生きる人間のハードとしてはちょっと不良品気味。

肌が荒れて痒かったり痛かったりするよりも辛いのが他人からの視線です。特に中高生の頃、濃紺の制服を着ているときは悲惨でした。なぜって掻き壊した皮膚と薬による汚れがすごく目立つから。ただでさえ辛い病気によって不潔と思われることほど辛いことはありません。幸い友人もクラスメイトも皆出来た人ばかりで、一度も不快に感じるような言葉をかけられたことはありませんでしたが、制服の色と素材を恨んだことは数え切れないほどありました。

だからどう考えてもストレスで肌が荒れる就活の時期に黒いスーツを着るのは出来れば避けたかったのです。

私の母の友人できれいな空色のスーツで就活に挑み大企業から颯爽と内定をかっさらっていった方がいらっしゃるので、私だって!と自分を鼓舞しながらライトグレーのスーツを着て就活に参加していましたが、人と違うスーツを着ていると「服装にこだわりのある面倒くさい奴」「服装でアンチ標準化というアイデンティティを表している奴」「目立ちたがりの中身が伴ってない奴」と思われているのではないかとオンライン、対面共にインターンや説明会に参加するときは内心ひやひやしていました。元々服装に対しては朝洋服を選ぶ手間が省けるからという理由で制服が好きだった程度のこだわりだったのでスーツの色で人柄をジャッジされるのは困るなぁと。

で、びくびくしながらもライトグレーのスーツを身にまとい髪にパーマを当て、「お前内心ひやひやしてたとかあほぬかせ」と各方面から叩かれても文句を言えないような出で立ちで3年の春から秋にかけて就活に参加してみて(結局その後カナダに飛ぶことになったのですが)思ったことは、「あれ、思っていた以上に服装は関係なさそうだぞ」ということでした。

エントリーシートの段階で面白いほどつるっつるに落とされはしましたが、業界、規模に関係なくエントリーシートが良く書けたなと思うところは通るところも多かったし、落ちたところも採用人数が物凄く少なかったり納得のいかないままエントリーシートを提出していたりと写真のせいにはできないほかの理由に思い当たるところがありました。インターンとベンチャーの早期選考にしか参加していないので本格的に本選考が始まる時期の就活はまた違うような気もしますが、就活生が感じている「完璧な就活生コーデで参加しなくては」というプレッシャーに見合うほど、いわゆる「就活生の格好」に注目している採用担当の方は少なくなってきているのではないか、というのが私の推測です。

就活生と聞いて誰もがパッと一つの格好を思い浮かべられるような"あの"服装が、社会からの圧力なのか、就活生各々の内面から発せられる圧力なのか、私のこの経験だけではなんとも言えません。

ですが、左利き用のハサミが右利き用よりも手に入れにくいように、駅でベビーカーを押しているお母さんが何度も謝りながら歩いているのが日常の光景になってしまっているように、大方の人にとってうざくはありつつ変えるほどの労力はかけなくていいかなと思われているような「標準」が一部の人にとっては致命的になる。就活を始めてみたくせに考えが纏まらず日本を出てみた理由の一つとして

日本の企業で評価されようと思ったら「健康で仕事以外のことに思い煩わされることなく長時間働ける男性」という暗黙の了解で設置された基準点に立って、そこからの努力がやっと可視化されて評価を受ける。つまり、その基準点を満たしていない人はその地点に這い上がって行けるように評価されない余剰の努力をするか「ありがたく」制度の恩恵を受け、足りない部分を「埋め合わせ」されるべきものである。というシステムの中に基準点を満たしていない者として入っていかなくてはならないのだ

と感じたから、というのがありました。

当事者にならないと見えてこない、もしく中高生の頃の私がそうであったように当事者であることにすら気がつけないことがある。そのことがじわりじわりと蝕んでいくものがある。就活のスーツから考え始めたことですが、あまりにも身近で存在に目を向けることすら長年思いつかなかった、日本で生きていく際に感じる無言の圧力がどこからくるものなのか。社会からなのか個人の内面からか、教育で作られるものなのか。どこまでが文化でどこからが変えなければならない悪習なのか。朝の通勤電車でもスーツ姿の人を見かけることがほとんどないこの国にいる間の課題として考えたいと思っています。


でもそもそもさ、この「肌がおかしくなるほどのストレス」が標準に設定されてる就職活動って活動の在り方、技術も相当進化してるんだしそろそろ変化してもいいんじゃない?


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