『平成のヒット曲』から日本の音楽界の30年を深掘る
『平成のヒット曲』は名著です。1989年から2018年までの30年間を年毎に代表する1曲と、社会的な意味を浮き彫りしていくという困難な作業を見事にやりきっています。
平成の日本人にとっての価値をヒット曲から紐解く
音楽関係者や音楽ファンだけで無く、日本社会全体を視野に入れて、音楽の価値や意味を語る「ジャーナリスト」として、柴くんは貴重な存在です。前作『ヒットの崩壊』で、ベストセラー作家になった彼は、音楽ライター、編集者としてキャリアを積み上げてきた人です。
本作は、ジャーナリストとしての誠実を突き詰めたがために、アカデミズムの分野でも意義がある本として、長らく読み継がれることになるでしょう。平成30年間の日本人にとっての意味を、ヒット曲を軸に考察するという営みにエールを贈りたいです。音楽愛と客観的に俯瞰した視線の両立は簡単にできることではありません。是非、たくさんの方に読んでいただきたいです。
音楽プロデューサー/音楽事務所社長として、キャリアを始めた僕は、今は起業家と一緒に新規事業を創出することが本業になっていますが、そこは、いわば現住所で「自分の本籍地は音楽業界」との認識はあります。
そんな僕にとって、本作は確認、再発見がありまくりの内容で、いろんなことを考えさせられました。
注目のトピックス、考察ポイントだらけの本なのですが、いくつか絞って
引用したいと思います。
「ヒットが全てを解決する」と信じられたミリオンセラーの時代
1989年から始まる平成の最初の10年は、CD売上がピークに向かう10年間でもありました。ミリオンセラーが続々と生まれていきました。
「国民的ヒット」という考え方が成立して、全国放送の地上波TVと結びつき、大衆に広く受け入れられて、大ヒット曲は誰もが知っていて、カラオケで歌おうとするような時代だったと思います。
音楽業界は大衆的な支持ということを迷いなく信じていて、「ヒット曲」を出すことに注力していました。僕がお付き合いしたレジェンドたちはみなさん、「ヒットが全てを解決する」と疑い無く信じていました。そのわかりやすい魔法に僕も魅せられていました。
1990年「おどるポンポコリン」(B.B.クイーンズ)
TVアニメ「ちびまる子ちゃん」の主題歌を大瀧詠一がプロデュースした際のコンセプトが「平成のスーダラ節」だったとは知りませんでした。原作者のさくらももこが大瀧さんのファンで、巨人ファンという共通項が結びつけたというのはいかにも「昭和的」エピソードですね。
1994年「innocent world」(Mr.Chirdren)
「曲を作ったときに100万枚売れると思った」「大衆に届くっていう感覚があった」という桜井和寿のコメントが、ミリオンセラーの時代を象徴しています。時代の気分を反映し、多くの人の気持ちを代弁すると、日本人なら誰もが知っているヒット曲になり、社会の空気を牽引する、ポップスがそんなポジションにいた時代ですね。
著者が、桜井くんが好きなサッカーと結びつけて「アイデンティティに迷いや葛藤を抱えながらも、諦めず屈することなくいどみ続ける」というミスチルの楽曲のモチーフと平成のアスリートの精神性が共通点があるという秀逸な洞察をしています。「昭和の根性論を自分探しの価値観に書き換えたのがミスチルと平成の日本サッカー文化だった」、確かにそうだったかもと思いました。鋭いインサイトです。
CDバブルが翳る「スタンダードソングの10年」(ミレニアムを超えてデジタル時代へ)
2000年というミレニアムを超えることには、ある種の熱狂はあったと思います。1999年の終わりにコンピューターが止まるという噂もありましたw
デジタルコミュニケーションが音楽に本格的に浸透していく10年間でした。
2004年 坂本龍一が「CD永眠の年」になると語る。
坂本さんのブログを引用することで、音楽業界の個別の事象への言及を避けているところに、柴くんの優しさを感じます。
悪夢のようなCCCD(コピーコントロールCD)をレコード会社がプッシュしていたことを思い出されました。CDバブルに浮かれて、音楽業界が傲慢になっていたのでしょうね。CompactDiscという長年普及させてきた規格から外れるノイズデータを混ぜることでリッピングをしづらくなる(リテラシーが高ければ可能)という中途半端な商品を売ろうとしたのは、経営的に最悪の選択でした。音楽ファンを甘く見ている上に、テクノロジーへの無知をさらけ出しています。
僕は音楽事務所社長として、自社のアーティスト担当のレコード会社ディレクターから「音も大丈夫なので聴いてみてください」と言われて、「俺が普通のCDとCCCDを聴き分けられたら、CCCDやめてくれるの?それができないのに聴かせないで。」と答えた苦い思い出があります。音質の劣化は理論上避けられません。音質は音楽の全てではないのですが、「この程度なら大丈夫だろう」という志の低いチョイスに呆然としたことを覚えています。
そんなに違法リッピングを止めたいのなら、あの時に、レコード会社が家電メーカーと組んで、CCCDではなく、既に商品化されていたリッピングができないハイレゾ規格、DVDオーディオやSACDを推していたら音楽ファンとの信頼関係は壊れなかったのでは無いかと夢想します。時代の流れで「衰退に追い込まれた者は、非合理的で愚かな選択をして自分の首を絞めてしまう」というのは歴史上に繰り返されていることなので、仕方ないのかもしれませんね。
2006年 レミオロメン「粉雪」が初の弾幕ソングとなる
2006年12月にサービス開始したニコニコ動画は、動画へのユーザーコメントによる「共有」という新しい現象を起こしました。象徴的なサビのところで「こなああああゆきいいいい」みんなが書き込みで盛り上がって画面埋め尽くされる「弾幕」が最初に行われた曲だったそうです。
スマホシフトに乗り切れずに、メディアとしての影響力は下がってしまったニコ動ですが、ボカロPという新たなジャンルや絵師とのコラボの作品創り、「歌ってみた」や「踊ってみた」など、今のTikTokムーブメントに繋がる日本らしいUGMムーブメントの源流は全てここにありますね。米津玄師もYOASOBIもこのムーブメントから生まれたと言って良いでしょうから、すごいことですね。
2008年 GReeeeN「キセキ」が代表する着うた
サブスク時代の前に、日本ではiTunes Storeが一般的にならず、特殊な音楽配信市場がありました。着メロ〜着うた〜着うたフルと通信環境とガラケーの機能アップで、市場は拡大していきました。着信音がこんなに大きな市場になった国は世界にありませんので、良い意味でガラパゴスだったのでしょう。問題は、そこからスマホ時代に対応できなかったことです。
レコード会社が揃ってプラットフォームをつくるというのは、それまでなかったことでした。レコチョクは、ユース世代に新しい市場を創ったのですが、そこで終わってしまったのは残念なことですね。
「キセキ」は、その後映画にもなりましたが、当時の若者の気持ちをよく表していた名曲だと思います。
「ソーシャルの10年」を経て令和へ
マスメディアとTVタイアップがヒット曲の源泉だった時代は終わりを告げて、SNS上のクチコミが全ての流行の起点となるようになりました。
2009年 嵐「Blieve」のネット解禁が10年早かったら?という悔恨
国民的アイドルグループである嵐のレパートリーは「J-Popのお手本」と呼べるような名曲集です。アジアの人たちの心の琴線に触れる「歌謡センス」が必ず盛り込まれています。ジャニーズがデジタルとグローバルに挑戦してくれていたら、、、という著者の思いを共有します。
時代は、令和になりました。デジタルとグローバルの時代に、日本の音楽を文化を世界に広めていくことは、「日本のブランディング」を高めていくことは、IT後進国になってしまった日本にとって死活的に重要です。僕は、そのために起業家と一緒に、日本のメディア・コンテンツビジネス生態系のUPDATEに日々取り組んでいます。
そして、この本を読んで、僕は自分が「平成の音楽プロデューサー」だったことに気づきました。この機会に自分がやってきたことを振り返りたい気持ちになっています。時間がある時にnoteにまとめていこうと思いました。
平成の音楽プロデューサーとして
本書の時代区分に乗っかって、ざっくり言うと、僕は「ミリオンセラーの時代」に音楽ビジネスを始めました。BUGコーポレーションという会社の設立は平成元年/1989年です。アーティストマネージメントの仕事から始まっています。日本の音楽界の隆盛をつくったレジェンドな先輩がバリバリ現役で、大いに刺激をいただきました。その中で「新しい価値を作ることが一番大切。一人がそれを作ったら100人が食っていけるので、そういう可能性のあるやつを応援する」という音楽業界のカルチャーが好きになり、僕自身も新しい価値を作りたいと思いました。二番煎じ的ではない、新しいアーティストとヒット曲を作りたいと、文字通り必死で取り組みました。「ヒット出せなかったら死ぬ」って思いつめていましたww
東京エスムジカ、ピストルバルブ、Sweet Vacationといったアーティストは、僕がコンセプトから考えて、メンバーを選んで、トータルプロデュースをしました。ミリオンセラーを目指そうと思ってました。
既に「スタンダードソングの時代」で、CDビジネスに陰りは見えていましたが、僕は「CDが売れている間に最後のミリオンセラーを出す」という目標に取り組んでいました。やり方は、次に来る「ソーシャルの時代」の方法論でした。「山口は早すぎるよなー」って当時、業界でよく言われていたのが、たしかにそうだったなと、今なら冷静に振り返れます。ソーシャルの時代を先取りして勝てれば、最高にカッコよかったのですが、様々なトラブルもあって、挫折したのは2010年でした。背後には非道い裏切り行為があることを知って、人間不信になりかけながら、プロデュース手法自体は間違ってないと思えたので、自分のスキルを活かそうとモガいたら、結果として「エンターテック・エバンジェリスト」になっていました。最初の書籍『ソーシャルネットワーク革命がみるみるわかる本』(ダイヤモンド社)の出版は2011年の春のことです。
普段は、自分の過去を振り返ることはあまりやらない性格なのですが、素晴らしい書籍と名曲の思い出は、珍しく僕をセンチメンタルな気持ちにさせるようです。『平成のヒット曲』が『ヒットの崩壊』を超えるベストセラーになることを期待しています。そして数年後は、大学で教科書になるでしょう。大阪音楽大学ミュージックビジネス専攻で教科書としてつかわせてもらうつもりです。オススメします。
モチベーションあがります(^_-)