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言ってることと やってること 違くない?~どっちがいい?~

おはようございます。
今日は朝から いろいろな方々と交流をもつことができました
その時に感じたこと書きます

多様性について 話題に上ったのです

教員の方々とお話していたので
自然と先生の話に

私が生徒だったころ
先生はくわえ煙草をしながら授業をしたり
たまに、「お前 こうするぞ!」と煙草を押し付ける仕草をしながら
電気あんま をかけてきたりもされていました

今やったら一発アウトですよね

朝は竹刀をもって 先生が校門に立っていたのも普通でしたし
(私は遅刻したことなかったので、その竹刀がどのように活用されるのかはしりませんでしたが)

かといえば、その当時珍しく 生徒を下の名前で呼び
先生のことを愛称で呼ばせている フレンドリーな先生もいました

自宅も開放して いつでも遊びに行ける先生もいれば
やけに生徒の家に出入りする なんなら子守りまでしてくれる先生もいたり

だけど、その当時の私たち生徒はといえば
校則で縛られ(スカートの長さ、髪の長さ(前髪含む)、文房具の種類など)
個性というものはまったくない軍隊寄りの生活

でも、先生は自由で
大人は自由だから、大人になれば自由になれると夢を持っていました
(職員室に行くと、お菓子とかコーヒーとかおいしそうなものがたくさんあって
その当時は私たちは水道水、部活でもポカリかお茶程度、お菓子なんてご法度 大人は飲み食い自由で仕事ができると思っていた)

昔は、いろんな大人が 良くも悪くも共存していました
(近所にも怖いおじさんとかいたし 注意が必要なおばさんもいたし
だけど、家族のように頼りになるおじさんやおばさんもいた)

しかし、今はどうでしょう
多様性だの、個性がどうだの
子どもたちは 昔の私たちに比べたら自由度は高いと思います

でも今の先生はどう? 大人はどう?
なにかすると すぐにクレーム 避難殺到
常識とやらに縛られ ホワイト化社会
自分らしく生きているのでしょうか

自分の世界にうつる大人たちは
その個性の範囲が狭くなっている気がします
(表向きで見せる部分が、統一化・常識にかなった面しか見せなくなっている気がします)

そんな大人をみて、子どもたちは 大人は窮屈そう
・・・となってませんかね
気のせいでしょうか

大人が輝いていないと、子どもは希望を持てないですよね
日本自体が、少し沈み気味な 昨今
難しいのかもしれないですけど
口ばかりで 多様性だの個性だの言っていますが
それを目で見える形にしてほしいものです

SNSなど情報社会となっている今
ホワイト化は良くも悪くも必要なのだとは思いますが
ペンキのように べったりとしたホワイトではないことを祈ります



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