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「癒やし」「泣ける」「実話に基づく」 ~僕が避けている3つのフレーズ


皆さんは、例えば映画の宣伝文句で、聞いただけで萎えてしまって観る気にならないようなものがあるでしょうか?

僕が気難しい人間だからなのかもしれませんが、僕にはそういうのがいくつかあります。萎えた気持ちで観たって却々のめりこめないので、そういうフレーズで売っている映画はついつい観るのを避けてしまいます。

それは「癒やし」「泣ける」「実話」の3つです。

まあ、でも昨今そういう売りの映画が大変多いですから、完璧に避けるのは難しいし、宣伝文句には拒否感が強くても他に観たくなる要素があって見に行くことはもちろんあります。ただ、そういう宣伝をされると、そこで一旦がっくり来るのは確かです。

「癒やし」で売らないで

僕が映画や演劇を観たり音楽を聴いたりするのは、100%とは言いませんが、ほとんどが刺激を求めてのことです。刺激がほしいのであって、癒やしてほしいのではないのです(だから音楽だと転調や変拍子が大好きです)。

そもそも傷ついたから、落ち込んだからと言って関係ない他人に癒やしてほしいとも、関係ない他人が癒せるとも思っていません。落ち込んだときは逆に、猛烈に暗い、奈落の底に突き落としてくれるようなドラマを観たり、音楽を聴いたり、本を読んだりします。

本当かどうかは知りませんが、水死体は一旦水底に沈んでしまわないと浮き上がってこないと聞きました。だから、そういう苛烈なものを鑑賞して、一旦自分をどん底まで突き落としてもらうのです。

もちろん癒やしに害があるとは思っていません。でも、自分に活力を与えてくれるのはむしろ刺激だと思っています。だから、「この映画には癒やしの要素がたっぷりある」とか「この音楽を聴くと癒やされる」などと聞くと、「あ、僕向きのもんじゃないわ」とパスしてしまうのです。

泣きたくもない

「泣ける」という宣伝文句にも同じようなものを感じてしまいます。僕は別に泣きたくないです。泣けなくていいです。

もちろん何かを観たり聴いたりして泣いてしまって、結果的にすごくデトックスされたという経験がないわけではありません。でも、それはたまたまであり、結果論です。初めからわざわざ、自ら求めて映画館に泣きに行こうとは思いません。

「癒やす」というのはポジティブな表現だから、それを宣伝に使おうという魂胆も分からないではないのですが、「泣く」というのはむしろネガティブな行為です。なのにそれを宣伝に使って効果があるということは、世の中にそんなに泣きたい人がいるということでしょうか? 僕はいつもそれを不思議に思います。

自分の身の周りのこと、自分の実体験ではなく、架空の物語に浸って泣きたいということなのでしょうか? いずれにしてもそれは僕の趣味ではありません。だから、「泣ける」と言われると、「おやおや、そうですかい。じゃあまた別の機会に」とパスしてしまうのです。

実話だからって何?

あと「このドラマは実話に基づく」というコピーにも全く食指が伸びません。実話だったらどうなのよ?という感じ。「実話に基づいていたら、一からストーリーを構築する必要がなくて、さぞかし作り手は楽だったんでしょうね」などと嫌味さえ言いたくなります。

何故多くの人が実話というところに魅力を感じるのでしょう?

だって、実話ったって、それはあくまで部分的にであって、頭から尻尾まで丸ごと事実じゃないんですよ。本当にその通りだったかどうかはその時その場に居合わせた人にしか分かりませんし、仮にその時その場に居合わせた人が3人いたとして、3人に訊いたら多分3人が語る事実は3通りになるでしょう。

「実話」という売りであっても、実は肝心なところが実話でない可能性はかなり高いです。そう、誰がいついつこう言ったなんて記録が全部完璧に残っているわけではありませんから。

むしろ、記録の残っていない部分をどう埋めてどう盛り上げるかが脚本家の腕だと思うのですが、なのにどうしてそっちではなくて実話に基づいていることのほうを推してくるのでしょう?

一番心を動かされた台詞が実は脚本家の創作だったとか、一番驚いた展開が実はその作品のオリジナルだったとかいうことはザラにあるはずです。それが悪いなんてちっとも思いません。ただ、だったら実話に基づくということを宣伝文句にするなよ、というのが僕の感じ方です。

僕はむしろ、「この作品は史実に基づいて過去に何度も描かれてきたのとは異なる解釈で、大胆に再構築してみました」みたいなコピーに惹かれるんですよね。むしろそういう映画や舞台や小説に触れたいのです。「実話」で押して来られるとどうも萎えてしまって観る気にならないのです。

歴史は好きですが、歴史小説はほとんど読みませんしね。

それが僕です

もちろん僕は自分の人生の全局面において「癒やし」を拒否し、何かを見聞きして泣くことを自分に禁じ、事実に基づく全ての物語を無価値なものだと切り捨てているわけではありません。

ただ、それを宣伝文句にしなくても良いでしょ?他に何かないの?という気がしてならないのです。

まあ、上にも書いたように、単に僕が気難しいのかもしれません。僕がひねくれているだけなのかもしれません。

だからか、中学時代は結構友だちとつるんで映画を観に行ったりしたものですが、年を経るに連れ一緒に観ようと誘う相手がいなくなり、デートで行くにしても自分が本当に好きな映画は避けるようにして、今ではもっぱら一人で映画館に通っているありさまです。

ただ、妻とだけはそこそこ映画の趣味が合って(音楽の趣味は却々合いませんが)、年に何回かは一緒に映画を観に行きます。彼女が「癒やし」「泣ける」「実話」という宣伝文句をどう感じているのかを訊いたことはありませんが、でも、きっと僕と似たような感覚なんじゃないかなと思っています。

そういう人が一人でも残っていてくれて良かったです。だって、映画だって伴侶だって、自分の好きなやつを選びたいですからね。

もちろん、僕が避けているものを他の人が求めることを悪く言う気はありません。それがあなたなのでしょうから。

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