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江戸時代の墓参り

寺の住職から聞いた話であるが、江戸では墓参りは「舟」で行くのが由緒正しいスタイルだったとか。また、寺はある種の無法地帯であったため江戸中心地域に置くことは認められず、よって浅草など江戸の外れに多くの寺が建てられたとのこと。浅草にある幾つかの寺の檀家は銀座の人が多いとか。銀座から舟で浅草に墓参りに行っていたようである。

かつ、江戸の社会は水路が交通路としても発展していたので、舟に乗って浅草の墓参りに行き、そのあと再び舟に乗って吉原参りに行くというのが粋だったとのこと。山谷堀の水路で新吉原(最初の吉原は人形町にあり、だから人形町に吉原大門の跡がある。火事で焼け出されて観音裏(浅草寺の裏側)の現在の千束四丁目に移された歴史がある)に出向くのが江戸の粋人であったとのこと。

尚、当事の寺には何処にも屋根裏部屋があり、そこで違法賭博やカジノなどの遊びが繰り広げられていたのは公認の事実である。その意味で寺は法治圏外の場所でもあったとのこと。

その意味では、江戸の社会はアウトローも含めて実にシステム化されていたのではないかと思えてしまう。弾左衛門の浅草猿若町の歌舞伎を始めとする芸能組も、”特殊技能職人集団”の穢多・非人(江戸時代は差別用語でなかった)も、それぞれの役割とプライドを持って生活が営まれていた。

当時の世界的に見ても凄く整備された大都市としての江戸から学ぶことも多いだろう。ネットやSNSでは偏った情報や間違った情報も多いので、街歩きをしながら昔話を拾いながら想いを馳せることの大切さを感じる。

私は若いころから歴史と法律だけは好きになれなかったが(今でも大嫌いである)、街歩きや人間観察・路上観察は面白いと思う。
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【記】やく・たたず(屋久 佇(竚))

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