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3328文字、主体への内実不問な肯定の推奨(真善美に誤認させる誘導込み)が持つ有害性について

2024-1-007

通用してる領域と確からしさとの相関は第一原理(否定もこれを根拠にするため逃れらない)である以上、本物と偽物の関係は上下論で言うと、本物が上になると見なすしかないにしても、
有限者の認識に関しては、本物が手に入らない点、および、第一原理の不可避性から、

修正余地がない(通用が行き渡ってる)為に受容に値する偽物か、修正余地がある為に受容に値しない偽物かの差異が焦点になり、
真善美とそれを割り引く有限者性の関係も、有限者性に修正余地があるかないかの差異が問題になってると考えます。

(無限者に修正余地ない有限者有り様を対峙させる内容の信仰は、理想を過剰に割り引く現実が内容の信仰との、
特に、主体への内実不問な肯定を真善美に誤認させる誘導含むそれとの決別であり、
無限性をより確からしいものが取って代わる運動性と解せば、自身に対するその運動性の受容阻害を最小にした結果である有限者有り様の採用をもって、割り引きを抑える試みと見なせます。)



ところで、既存の教育(AにもBにも言えるものをAに固有の性質とはしない能力を育てない)と整合的な権威は、
個別性が根拠にならない局面(表層形が同じなら内実は気にしないので、有限者性の修正余地有無の差異も問題にならない)での確からしさについては保証されてるけれど、

個別性が根拠になる局面での確からしさについては保証されてない為、有限者性の修正余地有無、
つまりは、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を生きてるかどうか、に関して判断できない人が文系権威を根拠にしてしまうと、
今何の差異が問われてるかという局面の固有性、局面事情を取り違えた選抜結果の流通を後押しする事になってしまいます。

言わば、金メダルという事実をもって金メダルに相応しい扱いを自他に要求する的に、
ドーピングによる金メダルのような問われてる差異(観点設定)の取り違えを利用した帰属関係の操作が、外在秩序に反映される展開を支援してるわけで、


しかし、自身の生遂行有り様を、修正余地がないという意味で受容に値するものにしたいなら、
受容に値しない優勢劣勢振り分けに許容的な環境(自身の具体化についての情報も劣化してる環境)が許容的でない環境へと修正されるに越した事ない上、

仮に修正が果たされなくてもできるだけの事をした形に持ってく必要がある為、
有限者性に修正余地のある人が文系的局面で影響力を持ってる事態に対し、肯定しない反応(具体化条件は上の実存方針)を自他に求めざるを得ない(具体化条件は上の実存方針)と言えます。



(知性倫理美意識も冒頭の第一原理を根拠にしてる点を踏まえた、通用の行き渡ってるものと行き渡ってないものの提示をもって知性倫理美意識に訴える糾弾に対し、
前者を支持しない場合それは、第一原理を持ち出す際の観点設定が糾弾者と異なってるからであり、

仮にドーピングによる金メダル的な茶番選抜を否定してるのが糾弾してる側で、
肯定してるのが、つまり、観点設定に対し厳格に第一原理を利かせてない方が糾弾されてる側であるとすると、

今何の差異を問われてるかに関する取り違えが、非を認める機会の逸失に繋がってるわけで、
獲得喪失具合よりも観点設定精度の上限化を、足し算を盛らないのと同じレベルで優先する程に先の能力を育てる事も可能だろうに育てず、
自身に固有であると勘違いして自身に帰属させてる問題からの解放機会を奪ってさえいる既存教育は、

より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を抱えた生遂行を保存してるし、
抱えてるのに自己の生遂行有り様を正当化してる人が社会に置かれるだけで生じる確からしくないものを確からしいものとして扱わせる押し付けと、
それに居合わせた者の、内実の確からしくないものを見出し受容回避する処理が、平和という表層形の名の下に奪われる的に不全である為に生じる自覚ない泣き寝入りの、主因になってると見なせます。)



個別性が根拠になる局面で先の実存方針を生きてない状態の者が影響力持つ事態を認めないとなると、
怪我してない時のパフォーマンスを怪我してる時に求める的な過大要求(修正余地のないものを問題状態と見なす解決不能性から成る疑似問題)も、
課されてる条件上の上限かどうかを問題にしない過小要求(修正余地を受容する疑似解決)も、取り合うに値しないものとして扱われる事になりますし、

同様に、異なる時空で書かれたテキストに対する、現在(読み手)の価値観で過去(書き手)の価値観を断罪する過大要求も、
書き手について課されてる条件上の上限と言える有り様かどうか問題にしない過小要求も、
先の実存方針は求めるがそれ以上は求めない地点から見た過不足として取り合うに値しないもの扱いになります。


当然、提示されてる言説や問いの内実に修正余地がある(抽象度を上げるべき局面で明晰化に走って、林檎は数えられるけど蜜柑はできない的次元での洗練に留まってるなど)場合に、
その修正余地を掴みつつ、局面事情次第では表層整合を優先して、つまりは、見て見ぬ振りをして合わせる、

という手順を、点数の獲得効率から省いてしまい、局面次第的態度や内実に修正余地を見る視点からして捨ててしまう過小要求特化
(需給成立の内実の影響力を無化する資本主義と同じ構造)な理解処理有り様や問題解決有り様も、
個別性が根拠になる局面では取り合うに値しないもの扱い、さらには、文系空間が先の許容的環境になってる原因扱いになると考えます。



もちろん、そのような理解処理有り様や問題解決有り様に陥る直接的な原因は、
先の能力(同種の他との共通要素捨象)を局面と無関係に育てない教育環境ではありますが、

この過小要求特化に対する不採用は、小学生にもなれば問題になる対親や対先生における、対象を一人の有限者と見なし、
その人にとって不可避な不完全性は許容するにしても、課せられてる条件上の上限からの乖離部分は受容しない

(この具体形は、ただ精神的に距離を取るだけであれ、修正を働きかけるのであれ、
先の実存方針が具体化条件である時、具体化精度は最大であり、不完全性は許容条件を満たしてる)、

という内容の自己や管理者への存在尊重の延長線上のものでもある為、本人の対存在での安易さ
(尊重に対する抽象度不足故の、負わされるに値しないものを負わせてくる世界に個々存在を置いたままな尊重止まり)への責任帰属も言えるはずです。



実際、この対管理者は、次の現象理解枠組みにおける対人理解を厳密さはともかく含んでると見なせますし、
その対人理解の構造は対概念にも言えるので、欧米文系の産物に対する振り回され程度や修正機会を逸する程度を最小に抑えた世界像の獲得にも繋がってる

(逆に言うと、環境の歪みをそのまま被る環境低耐用なり、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害なり、
存在するという課題にいらぬ劣勢条件課す有害性が、主体への内実不問な肯定の推奨には含まれてる)と考えます。


現象を内在性質と外在性質との統合体(割り引かれ前後関係である理想現実関係のように、限定を受ける前後関係で見るなら、抽象物と具体化条件との統合体)として捉えた時の、
代替不可能な内外性質の統合状態(内外境界の発生を意味し、有と無の差異まで含む有限の与件性、

より確からしいものが取って代わる運動性、この両者から成るので帰属修正の限界点であり、その時点での解決状態、
時間の観点を含めるなら、抽象化具体化の交互反復を展開性とした、抽象化具体化の不十分さ解消状態)とのズレを問題状態とする問題解決観を踏まえつつ、


対象人物(の創作物込み)が自分自身から実際に受けてる扱い(を行動原理とその具体化条件の採用実態として捉えた上で、
それらについてのその時点での確からしさが上限である仮説)と、対象人物の実存有り様が先の実存方針の反映である場合とのズレ、

および、対象人物が何らかの社会から実際に受けてる扱いと、その何らかの社会
(の持つ個別性が損なわれないように整合が展開されてる秩序)が先の実存方針を生きてる人だけから成ってる場合とのズレに、知性不全や倫理不全や美意識不全を覚える。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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