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現時点の検討対象(目指すべき在り方やその実現に必要なもの)に関するログ投稿

2020-2-005

現在の検討:

通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、それら(第一原理)から成る確からしさそのもの(認識が頼るべきもの)としての無限性と、
有限性(内外境界、認識が踏まえるべきもの)が、
合わさったもの(無限性が無限性足るべく、確からしさの向上や確保に必要な、抽象と具体の行き来を、つまりは、有限性を要請すると想像)を、
無限性の側から見ると、性質把握や有り様規定(自由)、それらを微視的とした時の巨視としての歴史(時空は具体化条件)、
有限性の側から見ると、次元設定やリアクション(平等)、それらを微視的とした時の巨視としての秩序。

合わさり方に確からしさを問う、という働きに当たる、
抽象化と具体化条件割り出しでの差異形パターンの網羅志向(抽象と具体のより確からしい関係構造構築)が前者の群に実質を与え、
問われるべき事(場の本質)と捨象の対象選択との合致配慮(次元設定自在性としての人間性のフェア化)が後者の群に実質を与える。

なので、確からしくないものを確からしい扱いするという不当な扱いを避ける(上の運動性の反映)べく、
いらぬ飛躍を取り除いた、つまり、通用領域を最大化させた歴史や秩序である、
場の本質に即した扱われ方(実質を与えるそれら働き)から成ってる歴史や秩序を我々は求めるべきではないか。
また、
それら働きも相補的で、例えば、上の網羅性は場の本質を抽出したり無数の場に同じ原理を見る際に要請され、
その相補性が知性(認識に対するいらぬ飛躍の除去)や倫理(資格認定に対するいらぬ飛躍の除去)を機能させる上で必要。
ただ、
相補的とは言え、有限者(人間)の責任(有限性の代替不可能化、有限性を排安易な言い訳にする)は上のフェア化と思われ、
善と悪は次元設定での合致の成功(フェア化)と失敗(罰的扱いは、場の本質を損なわせない秩序の反映としての両者の区別)。


場の本質に即した扱われ方から成ってる歴史や秩序を求める一環として、
場の本質を損なわないように形式や帰結が組み上がってるかどうかで、
無数にある局面も、内面世界や自国社会や国際社会も、秩序を評価する(評価結果への自身の反応も)。
それが人同士、国同士、人なり企業なりと国との間、需要と供給の間(消費行動の倫理性から類推される投票行動の質の問題も射程)の付き合い方の前提になってる世界。
フェア(場の本質に即した扱いへの支持)が権利及び資格認定全般を律する時代に要請されるものとしてのその前提。


ここで、過去の主張におけるデカルト関連を持ち出すと以下。
理解(原理把握も含めた性質把握)は対象に関する、抽象と具体の関係構造を確立できた感に過ぎず、
Aにしか勝てないよりBにも勝てる方が強いとか、Cさんのイメージ覆す行動を見て認識改めたといった、
通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、
この両者を損なわないように設定した着目無視(問われるべき事と捨象対象の合致)をもって展開される、
抽象化と具体化条件割り出しでの差異形パターンの網羅志向(その下での、抽象と具体の行き来)が、
有限能力の下で理解(上の確立できた感)の確からしさを最大化(向上や確保)する要。

(例えば、数学者と特段詳しくない一般人では、数学関連の抽象次元がカバーしてる領域、
つまり、数学的な理解の通用領域は異なるが、この差異自体は、個々人が資質と環境を、
同種の他との共通要素の捨象に関する、上の網羅志向を持ちつつ引き受けた、さらには、
環境に合わせ具体化した際のフィードバックを得、抽象と具体を行き来させた為に生じた特化の帰結なら、
それぞれが己の有限の形をいらぬ飛躍のない形に持っていったという、
肯定される表層形から成る世界の反映であるし、かつ、割り振りの秩序が機能してれば社会的にも問題なし)

その意味で性質把握は確定的な話とはならないわけだけれど、
局面事情が具体化条件となり、確定的扱いも生じ得る。
つまり、実在や存在であれ、理屈上はあくまで局面事情から確定扱いするに過ぎないといった、
言わば、嘘における加工の過大過小を排除する枠組み(場の本質に即した加工のみ肯定)が、
実在や存在との付き合い方を関係正常化させる上で必要(それを持たない者の対存在は健全化無理)。

この観点では、内外分離(の域を出ない明晰化)の枠組みで実在非実在の確定を問う対存在を、
その不健全さにもかかわらず、起点として立ち上がってる近代以降の世界は、
その不健全さの原因を修正した形で再構築されるべきもの。
デカルトは、通用領域の広狭と確からしさとの相関に厳格ではあるけれど、着目(論点)がずれていて、
それは、感情を無加工に表出したケースであれ、それが許される局面だったかそう勘違いした形と見なす、
この種の理解の欠如によると思われ、その欠如と同義である、
内在の性質と外在の性質が合わさって現象となり、両性質が代替不可能なものに近いほど現象は確からしい、
この現象観の不在は、プラトンやカントの示した分離への解答として上の網羅志向が提示されてない以上、
現代にまで続く、古代以来の問題として見る必要がある。

以上の主張を踏まえると、
有限性(内外境界)が常に与件扱いにあるとは言い難く、
与件である有限性を確からしく(代替不可能化)する事に論点を置いてるとも言い難い近代以降の世界と、
その論点と整合的な、目指すべき、場の本質に即した扱われ方から成ってる世界(歴史や秩序)との、
断絶を根本から解消するものとして、
言い換えると、場の本質に即した扱われ方から成ってる歴史や秩序を求める上での、現状採られるべき形として、
場の本質に即した扱われ方から成ってる対存在(対生も含むかも)や(さらに遡り)理解を求める必要があるのではないか。

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