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無神論的生も、有神論的生も、事実上、論点は同じでないかという話(2年に及ぶ千葉雅也さんへの反論の、集大成の側面あり)3105文字

2022-5-003

神は不在であるとの立場を採る人にも、より確からしいもの(通用領域の広いもの)が取って代わる運動性と自身との関係はあると見るべき
(その運動性に対して阻害的であるとは、自身の上限には至れない状態で生を紡いでる、
つまり、自己疑似的、自己埋没的ひいては自己否定的とも言える側面が生じてる事を意味してるはず)でしょうから、

その運動性を無限性(有と無の間の差異も有限性扱い)と捉えれば、その人達が生に関して抱えてる論点は、
無限性と有限性の関係正常化としての信仰やその形骸化問題と事実上同じであるように思えます。



ところで、ニーチェのキリスト教への批判は冤罪的でないかと、もちろん、キリスト教的倫理には今なお批判が必要と考えますが、思われます。
(分かりやすさ重視といった局面事情も無いのに有る時と変わらず、平和や愛は素晴らしいものであると内実無視して言い張り、かつ、神の名の下でである場合、

負わされるに値しない内実をしてる平和や愛まで通ってしまう的な搾取可能状況の構築を、神に擦り付けてる帰属操作の形になると思うので、
無限性と有限性の関係正常化として信仰を捉えると、信仰が形骸化してるように見えます。)


旧約聖書の問題は、立場反転の試みの肥大化を抑える仕組みがあるようには見えない点と思え、
奴隷化など不当な扱いに対しフェアな割り振りを修正像として求めたり、持たないものを求めるにせよフェアな獲得に留める、フェア志向による補完が必要な気がします。

(自他を個々具体とする抽象次元を確からしくする、具体化条件次第では自分の話になる、この枠組みであれば、
利他性に対し肯定的であれ否定的であれ過剰に反応したり、他者性に対し配慮や受容で話が終わったりを防げると考えますが、

下の意味でのフェアは、不当な扱いを受ける現象の受け手について、自己絡み限定から他者や他種、無生物や概念等へと広げた上で、
不当な扱いが生じてない状態を捉えたものであり、その枠組みの拡張の産物に相当する、そう推測します。)


新約聖書の問題は、求め続ける者や裏切る者の登場可能性へのケアを欠く為、秩序担当的には現実に対し通用してないのに、
理論の通用領域の狭さを修正するのでなく、個人の精神を縛る等小手先の対処で秩序担当を展開した(この構図自体は解放したはずの近代以降にもある)点であって、
実際的な立場反転に対し精神的な立場反転を図った点にあるとは言えないように思います。


もちろん、ニーチェの立場(体系化の権化であるらしいヘーゲルに、惨敗したらしいショーペンハウアーの道具立てを採用してる立ち位置)的には、対秩序での対処ミスとの批判では自己否定になるのでしょうが、

そうだとして自己都合による冤罪創出という話になるわけで、しかし、価値は場が決める為、
批判自体が形骸でも、苛烈な批判が時代事情的に必要であったのなら、引き受けてくれた形であり、感謝すべき話とも言え、

問題はニーチェ自体よりもむしろ、帰属関係を修正しなかった後続の哲学者達にあるように思います。



その修正不足の結果が、
単なる立場反転では、負わされるに値しないものを押し付け合う、その強弱から成る秩序の側面を保存する
(例えば、都合を押し付けられた場合に、余裕が無いならともかく有ってなお都合を押し付け返すスタイルは、
良くて、値引き交渉でのふっかけ合いの末の妥協点しか得られない上に、そこを保存してる)以上、
負わされるに値しないものを誰も負わされない世界への接近ルートを絶ってしまう点への批判であっても、

ルサンチマン扱い(内実の確からしさ差を無視する事で可能になる質の混同状況を前提に、
内実の確からしいものを内実の確からしくないものに偽装する、この場合、持たない者による持つ者への無闇な引きずりおろしの像に話を無理やり落とし込む事)でもって封じ、
自己正当化する有り様に権威を与える弊害が、今なお可能な状況です。



(こうした自身の修正余地を自ら狭める有り様は、より確からしいものが取って代わる運動性の受け皿としては阻害的であり、
修正を前提とする方法論を奉じたところで、その方法論を生かし切れない事を意味します。

ここで、生は誰もが赤子スタートですから、正にその方法論と重なってるわけで、生をより確からしく紡ぐ事に対しても阻害的と言えます。

逆に、近代以降検証実験が取り込まれてる理系はもちろん、PDCAサイクルの類が古い知識となってる文系でも、
抽象化具体化の交互反復における確からしさ向上最大化や改悪フィードバック最小化を可能にする、抽象化具体化の精度最大化への志向が、形骸化してるかどうかはともかく前提だとすると、

文系的局面での具体化精度最大化に相当する、各場の疑似でない固有性に即した着目無視の結果である割り振りへの支持、この意味でのフェア志向は、
生をより確からしく紡ぐ上での要件であるはずですし、

ルサンチマンレッテルに限らず、フェアな割り振りも拒否する単なる割り引かれ忌避の傾向持つニーチェ系譜自体が、
生を中身の詰まってない状態に留めてると疑えるように思います。)



以上から類推すると、例えば、世界は理不尽であるとか無意味であると断じて、自他もそのように振る舞う事を許す態度(実際の有り様をもって根拠とする実態主義含む)も、

フェア志向の欠如に由来し、そこを補完すれば良いだけ(ただし、先に見た信仰の形骸化に対する阻止と同様に、
フェア志向の獲得には、内実の確からしさ差に対して敏感なまま扱い差をつける方針が前提として必要)であり、


文系でのいらぬ飛躍除去が、引き受けざるを得なさ偽装の解除、ひいては、負わされるに値しないものを誰も負わされない世界への接近を、含んでるとは言えない現状は、

フェア志向の獲得を文系教育が促さない為に、単なる立場反転(単なる割り引かれ忌避としての自由の希求込み)などの疑似問題を捨象できないが故、そう言えるように思います。



(自分のここ二年を振り返ってみると、
それ以前から持ってる、同種の他との差異要素の捨象アプローチの領域侵犯と同種の他との共通要素の捨象アプローチの埋没、という近代以降の文系領域の歪みについての理解に対する、

分析哲学やリベラルへの批判を通しての前者歪みの抑制、および、ポストモダンやリバタリアニズムへの批判を通しての後者歪みの抑制の試みであったように思います。
実際、上の議論に下の話を加えると、哲学者千葉雅也さんへの二年に及ぶ反論の集大成になる気がします。



ちなみに、後者捨象を必要とする先の意味でのフェアが、自由や平等の抽象像に相当し、
文系での論理や歴史展開や個々具体再位置づけは、後者捨象ベースの抽象化具体化の交互反復が、フェアでもって精度最大化されてる時、選ぶに値する状態である、というのが現在、自分が持ってるイメージですし、

その方向に文系世界を、例えば、表現の自由や学びの価値を謳うにせよ、
その抽象像がベースであれば、先に見たように修正作用を最大化させた状態で組み込めるわけで、変えたいです。

注、個々具体再位置づけは井の中の蛙状態から遠ざかる作用でもあり、もちろん、過去事象の再位置づけも含みます。



表層形で断罪する傾向の外、中庸を利用した都合先行が可能な環境の外、場に合わせる合わさないという表層形の二択地平の外に出る為にも、
内面や局面、社会といった場について、場の上に立ち上がってるものを、場の疑似でない固有性に即しているいないに関係なく肯定否定する文系の現状を変える事を目指す文系改革党に、

ご賛同いただけましたら、何卒ご支援の程、よろしくお願い申し上げます。)

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