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主張行為はじめ、外界への働きかけから暴力性を取り除くのに必要と思われる事について(加筆の流れや背景やり取りはTwitter参照)

2021-4-002

自己が過剰な負わされにまで応じてる形にならないよう自己を取り扱う(例えば、その意味で応じない鈍感さを保障するのに資する敏感さを、捨象処理に反映させる)のと、
過剰に負わせる構造してる外界に対し修正を働きかけるのとは、話が繋がってるわけで、

その話が、表層的要素込みの都合(他者が大した理由なく殴るはダメだけど自分は良い的な、通用の行き渡った原理の不在を意味する態度)の反映としての外界関わりな内容になってしまうとしたら、

それは、内実の差異への鈍感さによるもの(内実改善の観点の欠落が論点)でないかと疑います。
(何らかの繊細さも、そこが鈍感なら、ドーピング選手を参加させつつ、ゴール付近は写真判定レベルで厳密といった事態で満足してるようなものでないかと疑います。)

実際、その話(いらぬ限定の忌避)に沿う振る舞いに実質を持たせよう(内実を通用の行き渡ってる状態、いらぬ限定のない状態にしよう)とすると、

他人や他の生物や無生物、概念等々についても、
過剰に負わされてない、かつ、引き受けるべきものを引き受けてる(擦り付けという過剰負わせの発生が抑えられてる)状態を望む事になるはず、

というのも、林檎は数えられるけれど蜜柑はできない、この状態で対象を数えるが十全にできてるとしてしまうと、
限定通用状態を普遍通用状態として扱う事になる為、自分が自分にいらぬ限定を負わせてる形とも言えるはずだからです。


原理なり全体像なり理想像なりのより確からしいそれら(つまり、具体化限定化前)への志向最大化を(文系域で)欠いてるのが当たり前な社会を、
(せっかくの批判行為もその志向が弱い程、権威偽装やレッテル張りで黙らせようとする側面を含んでしまう為、修正したいものがあっても知的説得力を持たせられないのに)
作ろうとしてたり保持しようとしてたり望んだりしてる人は、

過剰に負わせる負わされるのが当たり前な、仮に表面上は自由のように見えたとしても、過剰な負わされ現象の発生縮減の働きを持たないという意味で、自由へと近づく術のない世界(形骸自由が関の山な世界)を、
支持してるも同然でないかと思われるわけです。

ただ、そういう人達にしても(その暴力性に気付いていようと)自分なりに確からしいものを選んでる結果であって、
より確からしいものが取って代わる運動性を展開させる場の設定が、たまたまそういう帰結を導くものだったに過ぎない、つまり、次元設定に対する確からしさ判定の精度問題なので、

捨象対象選定と局面性質との合致(何を確からしさ差として取り出すかについての実際と要請との一致)に、
知性(先の批判実態の例から分かるように、これなら通用するとの十分不十分判断の現れという点だけ見ても、知性と倫理は表裏と言えるはず)の、
実質(内実十分性)を見てもらう方向でもって、

外界の過剰に負わせてくる有り様を弱めるような修正は可能と期待します。



批判行為が表層形をもっての断罪という差別的側面
(誰もが尊重対象への不当に思える扱いを望まない点踏まえると、他者はダメだが自分は良い的構造)を持ってしまうのを防ぐには、

対象の現象について、具体化限定化される前の姿はこうで、それがこういう具体化条件限定化条件の下に置かれてるのだから、表層形はこうならないとおかしいのでないか、
この枠組み(内実改善の観点)に落とし込めば良いと期待します。

逆に、批判行為がその内容から成ってないなら、
己が持つ主張やその表出形(場に即した割り振られと言える役回りに、合わせる事で生じる偏り)を、その内容をもって検討できないわけで、

主張現象(例えば、自分が自分である限りこうならざるを得ない的ニュアンス出す事なども含む)が不当な不利益回避や利得を、
つまり、擦り付けたり奪ったりの暴力性を帯びてしまうのを防げないのでないかと考えます。

一方で、近代枠組みの内側にいる限り(近代枠組みに押し込めるだけの処理で理解作業を十分としてる限り)、
何ら加工されてない状態の準備も、やむを得ない類の加工条件の割り出しも、(それらから成る具体化抽象化の繰り返しとしての歴史性も、)文系的局面では捨象観の事情で不全に陥る為、

暴力性を抑えた(他者を尊重してる形の)主張行為は厳密には無理(近代の外に出るという選択肢を捨てて、代わりに暴力性を選んでる形)なのでないかと思います。



例えば、管理側に暴走する隙を、罰するなり規制するなり被管理側への介入機会を開く事で与えるのは止めよう的主張と、
大会運営も選手も意義保障(場の固有性の発現保障)の観点から縛られる存在なのは同じであって、それ以外の観点から肯定否定するのは止めよう的主張があったとして、

この両者間にある溝も、捨象観の差異(文系域での実力、ひいては、通用してるとの判断に際して頼るべきものについての理解の違い)に帰されるのでないかと推測します。

文系的局面での捨象原理が、理系的な1型、軽視的な2型、文系的な3型があるとして、

秩序の責任を担う役回り(管理者ポジション)の存在意義(場の固有性の発現保障を外側から働きかける必要性)軽視は、
縁ある多が紡いだ歴史性、もしくは、個が紡いだ歴史性を妄信的に根拠にする(内実改善可能性を無視して肯定し保障する)自由観の反映と見れば2型と言えるでしょうし、

また、場の代替不可能な固有性の発現を損なう類の秩序課しは認めない、という圧力
(美味しい林檎と不味い林檎の差異を捨象するか検討するかを局面の検討済み性質に合わせる的処理に関して、管理者が自らに課すケース含む)においては、

保障対象を精度良く取り出したいなら、同種の他との差異要素捨象がベースである1型は乗り越え対象とせざるを得ません。

どういう秩序に置かれるのが尊重対象にとって望ましいと自他に思わせるか決める前に、

1型と2型の二択に限る作用である近代パラダイム(内実改善の観点の欠落が、分離解放の成功体験により強化されてる世界)の下で、
これなら通用するとの判断(実際は上で見たように、検討の届いてない低通用領域がある)を展開し、押し付けてきたこれまでと決別するよう働きかける、

これ自体が対秩序に関してできる事の上限
(できるだけの事したが駄目だったと言える為の、そうした対有限性含め、場で起きる事を場の代替不可能な固有性に帰属させる為の条件)でないかと疑います。



例えば、人権等を軽視した実験なりデータ取得なりを制度的に防ぐ(その類の成果物を制度レベルで不当利得扱いする)方向に展開してきたと言えるとして、
他方で、先に見たような意味での暴力性を主張現象から取り除く(他者尊重を取り込む)方向性は、権利観が既に近代枠組みである以上、同じアプローチは採れないわけです。

新薬承認の流れにおける対リスクをはじめ、緊急事態という局面事情により望ましさが割り引かれてる、
つまり、現実条件をもって理想が割り引かれる実態が分かりやすく目の前にあってなお、

割り引きは実際最小化されてるのかもしれないし、実はより抑える余地があるのかもしれない、ここを検討する枠組みが社会の側に十分に備わってるとは言えないと思います。

抽象化の次元(例えば、基礎科学)での通用領域広狭の話と具体化の次元(例えば、意識)での通用領域広狭の話の区別をつけない
(現象や歴史性を、内在性質外在性質の統合像やその抽象次元具体次元の行き来的拡張として見た性質検討を含む、限定される前後から成る関係構造への検討視点を持たない)、

負わされの受容根拠にもなる、これ以上無理という事態に内実差異(できるだけの事したが駄目だったの形に、内在事情外在事情を代替不可能化させた上での都合の反映に、なってるかどうか)の区別をつけない、

こうした捨象の下に現象を捉えても(文系域の知的上層でも見受けられる)、先の主張対比の例での前者のロジックもそうであるように、
負わされ(避けられない有限性)の受容にとって検討してほしい部分を外した主張なり批判なり許容なりが展開されるだけなわけで、

これは、ある種の割り引かれ負わされ(代替不可能化されてる限定作用)を肯定する
(差異の、もっと言うと、有限性の意義や具体形を無限性に帰属させてる事態、つまり、対無限性においてある意味割り引いてない事態の達成をそこに見る)
という内容でない、近代枠組み、さらには、プラトン的枠組みに甘んじてきた文系世界の有り様の弊害であるように思われます。



確からしさ差に当たる差異をその人が(無自覚にでも)設定した時点で、場は立ち上がってるし、
その場に置かれたものは設定に従って着目無視の反映を受け、ポジションを与えられてしまうわけです。

また、複数の主張の位置関係を規定するのも、言動に対する位置づけを選抜するのも、
その人が今はこういう場だと性質を特定し、それに即した上で言う設定を準備した上で、通用領域の広狭差異を判断してるに過ぎないし、

他者のそれを批判するにせよ、設定やそれを齎してるものに、自身の設定の下で否定対象というポジションを与え、
かつ、否定対象への具体的反応として(局面事情等を場の性質とした上で)選抜した反応形、というに過ぎないと思われます。

足の速さの差異のみを取り出すべきところを、家柄の差異まで含めた設定にしてる的事態にあるなら、
ドーピングの金メダルのごとく、場の代替不可能な固有性に帰属してない割り振りを帰属してるかのように、ひいては、通用領域を偽装してる(奪う、押し付けるという暴力性が発生してる)わけで、

その種の事態を否定対象に位置付けてくれる場(負わせる負わされるが自己も含む対象尊重を確保してる場)として、
割り振りがそこに帰属してる程度してない程度を(場に置かれてるものにとって割り振りを負わされるに値するかどうかの)確からしさ差とする設定を採用するなら、

局面要請とは無関係に(特に、帰属してる程度に関する)内実差異を無視してる形の主張(近代パラダイムの押し付けという側面を持ってる)、
例えば、局面事情(その代替不可能な性質)との一致程度とは無関係に具体的反応の表層形を肯定否定してるような主張は否定対象に位置付けられるはずです。


ここで、否定についての具体的反応については、
暴力性に暴力性を当ててる、この意味で単なる着せ替え事態となるのを抑えるべく、できるだけ帰属してる形と言える方向に寄せる必要がある事もあって、

他者の主張を修正できなかったところで、寄せた結果ならOK扱い、
これ以上無理(むしろそれ以上を求めるのは場の固有性から乖離した割り振りになるので、不当利得およびその分の暴力性振りまき)扱い、

つまり、精神的に距離を取るだけにせよ演出も頑張って説得するにせよ、応じる内在事情外在事情をできるだけ代替不可能化させてるタイプの都合の反映形でないなら、
自他の不当利得のように捉えるべきでしょう。


なので、寄せてる程度(内実差異)と無関係に頑張る頑張らない、受容するしない等の表層形のみで肯定否定してる主張を、知的上層が展開するのは、
近代パラダイム、及び、確からしい帰属持たない利得の承認を、権威使って押し付けてる形と言えるでしょうし、

常識やパラダイムを場の固有性に紐付けないまま強いる有り様から脱するには、加工条件の付し直しを特定時空性に関して処理できる必要があって、
文系的局面で抽象化と具体化条件割り出しを機能させるには、同種の他との共通要素の捨象(3型)でもって局面の固有性、つまり、局面が要請してる捨象対象を特定できる必要があるので、

何ら加工されてない状態の最大限準備(現段階で通用領域最大な抽象物としての理想なり意識以前なり)とやむを得ない類の加工条件(上で言う設定)の最大限追究、

特に捨象処理の具体化に関しても押さえた、それらへの志向(有限能力故の限界含め、加工自体を不可避と見つつ、不可避でない加工の負わせ負わされを取り除く対応)に紐付けられてない問題意識や枠組みは、
それがどれだけ知的に見えたとしても疑似的
(単なる設定の精度不足と言える問題を履き違えてる分だけ、いらぬ飛躍の発生に対し低通用を抱える為、少なくとも本筋でない)と見なすべきです。


例えば、内面世界(場)に置かれた情報に対し、場の性質に即したポジションや具体的有り様を与えてる、
この意味では誰もが場の性質の下の平等(通用を行き渡らせる整合処理)を支持してると言えるので、

同種の他との共通要素の捨象でもって、場の性質と見なし得る対象から表層的要素を削ぎ落してる程度により、場の本質の下の平等との遠近や、
(局面の性質特定、ひいては、今何を捨象する必要があるのかの特定の精度に響く為、割り振り原理が場を越境するしないの差異、つまり、)
他の場についてのそれの支持(各場の固有性、及び、それのみに合わせた加工形への尊重)の有無が生じる、

これが、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情から成ってる都合と成ってない都合の差
(現在の姿が、内在外在の表層的要素に応じてきた帰結の側面を、つまり、いらぬ飛躍を持ってる程度の差)が生まれる原因、
さらには、個々事情を場の性質特定に直接反映させるスタイル(市場や民主制)に質の差(割り振りへのいらぬ飛躍、つまり、負わされる筋合いない要素の混入具合の違い)が生まれる原因であり、

仮に各場(各自内面なり自国社会なり国際社会なり)の本質に即した割り振りであろうと、忌避対象(内面世界でのポジション)にしてしまう
(場の本質に即ているいないが肯定否定の根拠になってない)原因でないかと疑います。


そうだとすると、対平等などの、関連するこれまでの議論は論点ズレと見なせ、
この件だけでも知的な見かけに振り回されてきた低自由状況が言えてしまうと思います。

(ある観点の下で)通用の行き渡ってるものを選ぶ、それをやめようとする事自体もその形になってしまうわけですから、その形の外はないとするとして、
通用の行き渡ってる状態を言い換えた、より確からしい(通用領域の広い)ものが取って代わる運動性を、
場の性質に関する深掘りや変容への反応、また、各場への扱いに際する捨象要素選定に、どれだけ阻害なく持ち込んでるか(採用観点がその運動性の帰結と見なせる程度)の差異、

特に、できるだけ代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない態度、この意味での振り回されてない状態をもってその運動性に向き合えてるかどうかの差異(論点)があるだけとも言えるだろうに、

この観点から自他の問題意識やロジックにポジション与える能力
(知的な見かけや倫理的な見かけに振り回されない、この意味で文系域でのいらぬ飛躍発生に対しぬるくない社会)を教育作用持つ諸々が育成してこなかったが為に、

例えば、空気を読む傾向に、合わせる場の性質の深掘りでなく、読まないという反転(近代型反応)をもって応じたり推奨する、
常に問題は取り違えられてる可能性あるにもかかわらずそこの縮減に積極的とは言い難いスタイルで問題提起する(えん罪的批判の側面持つ事態へのケアの欠如)、
この種の事例(外界が負うに値しないものを負わせる有り様していても、修正働きかけにとって本筋でない)に疑問が持たれにくい状況もあるのでしょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。