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006の進捗報告(896文字)他者性の確保に関する勘違いとある種の自由について語れる場の不在

2022-5-006

他者性の確保が小手先的になってしまう(倫理が帰属の修正でなく、帰属の操作に留まる)のは、開くという量的な話に終始するからで、
単なる量追求は量を生かし切る原理に繋がらない点を、救済資格なり財産権(対封建や対課税や対私的)なりを開くケースにも見ましょう。

ハイデガーの問題点の捉え直しの話再掲
(管理者立場とプレイヤー立場は、割り振りを偽装でない引き受けざるを得なさに紐付ける方向での協力関係。
したがって、認識と存在の上下論では、その紐付けが相当する具体化条件付し直しを原理レベルで持てないし、
認識論含む近代性における実態主義的側面を乗り越えられない。

以上をハイデガーの修正点とすれば、そこの原理を獲得する方向に、自他を個々具体とする抽象次元に遡ったり、問題解決を抽象するという、具体化条件を一旦外す内容の他者性確保も含められる。)


実態主義(要求される帰属先の引き受けざるを得なさが偽装されていても不問)を強化してる形のデカルト問題
(通用領域の広狭への厳格さが、内面世界における割り振り原理の、つまり、観点設定の通用性に対する不問を強化した形)を乗り越えない限り、世界は近代の表面をなめしてるだけ。

近代枠組み(文系的捨象次元は埋没)の中にいる限り、主体や責任の発生理由を語れる場はない。

有限の与件性の下での通用領域最大化を自由の上限と見る場合、引き受けざるを得なさの偽装解除
(その帰結と言える、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像)と重なる自由についても、世界は語れる場を持たない。


実際、場とは関係ない集団性尊重と場とは関係ない個別性尊重という、引き受けざるを得なさ偽装な二択
(自由意志論ではここが、理系文系の近代枠組みになる)に話を矮小化され続けてる。

(リベラルもリバタリアンも上で言う上限に関係ないのは、その上限化を試みてる形の具体化条件付し直しと関係ない枠組み、
つまり、理想を割り引く程度の過不足除去が論点になってない、理想切り捨てな理論面と現実切り捨てな実践面を、カントもニーチェも採用してる点から明らかであるように思われる。)

山口尚さん、今のところこんな感じです、よろしくお願いします。

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