無題0

理解とは、対象についての抽象と具体の関係構造を確立できた感だとして、望ましい確立を導く理論も実践もいらぬ限界を抱えてる原因は、現象観レベルのパラダイム

2019-5-001 4-006の内容へのレスに対する回答をまとめたもの

まず、有限性(内外境界の発生、場に置かれるものと置かれる場の関係)の存在は、
与件レベルの確からしさを持つと判断するとして、

認識の対象が、認識の主体に認識されるとは、

対象が、ある着目無視(置かれる場の性質)の観点で規定される事を意味します。


また、認識自体においても、

認識の根拠である、
通用領域の広狭と確からしさとの間の相関(第一原理)が、
何かについての確からしさ、
という場の性質による制限(具体化)を必ず受けています。

問題は、この制限(場の設定、着目無視)にも確からしさを問う必要がある点です。

(ある種の徹底ぶりを見せたデカルトも、
そこについては不十分だったと見るべきで、その歪さが、

認識の限界に対するカントの指摘も、その問いを含まなかった点と相まって、
近代以降の世界に特有の不幸の、根本的原因と見るべきでしょう。)

つまり、誰もが認識に際して、
先の相関に制限を与えるその処理を行っているけれど、

場の性質の把握に深浅が生じ得る分、
確からしさ判定にも精度の差が生じてくるわけで、

欧米的知性においてこの問題は、
捨象に際する場の性質把握が浅い上に特殊(特化型)という形で現れ、

かつ、世界標準なので、弊害が深刻と言えます。

実際、理解を、
対象についての、抽象と具体の関係構造を確立できた感と見なすなら、

具体形のパターン網羅への追求や閉じない態度を押さえるだけでなく、
抽象化や具体化条件割り出しに際する捨象の的確さも、
理解の精度に関わる事は明らかであり、

理解能力に関してだけ取り上げても、人類はいらぬ限界を負ってるようなものです。


しかし、いらぬ特化を避ける能力の付与を、
育成の実質として押さえるならば、

欧米的な知性や倫理、それらの世界標準化による弊害にも、
妥当な対応は可能と考えます。

その能力には、
対象にいらぬ特化(場の本質からの乖離)部分を見出し、
そこを否定するという主題を、

己の資質や環境から取り出した代替不可能要素を具体化条件(主題の置かれる場の性質)として、
修正を試みるなり、精神的に距離を取るだけなり、

具体化する事も含まれるからです。

(対象が場の管理者ポジションなら、
割り振りに関する責任(管理側も被管理側も権利行使の根拠とすべきもの)の要素も絡んでくる事になります。)


ところで、自由に対する解釈を見ても、

内と外に上下関係を見る人や文化の打ち出す理論と、
内在と外在の価値対等性を前提にした理論とでは、

距離があるわけです。

教育方法(抽象と具体の望ましい関係構造の確立の導き方)に限らず、

既存の理論は前者の部類と思いますし、
先の避ける能力の付与は後者の部類の話なので、

既存の理論に対しては、上の否定するという主題を後者の立場から立てて、
可能なら修正する対応が必要と考えます。


また、
美味しいリンゴも不味いリンゴも、リンゴはリンゴだ的捨象と、
対象にとって引き受けざるを得ない、それがそれである限り代替が利かない性質を見出す的捨象も、

(通用してる領域が、狭い(井の中の蛙的)ものでなく、
より広いものを選ぶ処理である点では同じである両者を、)

局面に合わせて使い分ける能力は教育されてない
(むしろ、現行教育には前者特化のリスク有り)。

この問題も結局は、

認識作用が生じてる時点で誰もが先の相関を根拠に用いてるのに、
その相関を上手く使えてない、

この話(第一原理はあるけど、必要な現象観がない)に収斂するように思われます。


なので、
例えば、感情と理性の関係で言うと、

内在場の産物と局面に合わせる能力の関係
(抽象物と具体化能力の関係)と見た上で、

場の(代替可能要素を現状可能なだけ削ぎ落とした)固有性に即した加工なら引き受ける、
そのような加工であるかどうかに焦点がある、

という観点で捉える。
(同様に、個人の外在場と国の内在場を重ねて、
場の管理者被管理者の関係問題に一般化すれば、
社会契約論もホッブズ問題も廃棄可能と考えます。)

そうした更新がパラダイムの次元で必要で、

理論構築の場(仮説と実証、という抽象と具体の行き来含む)も、
現場(理想と現実のバランスが主題の適切な具体化と言えるか)も、

それらを具体と見た時の抽象次元に、
まだ問題(パラダイム更新前ゆえのいらぬ限界)がある状態と思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。