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4198文字、カントヘーゲルラッセルの流れは不当合理が保存されてる件、及び、平和教育と差別教育の間の矛盾の解消法について

2023-10-003

帰属関係に修正余地があるかないかの一種に、奪われが発生してるしてないもあると考えるとして、
表面上の幸せや平和が奪われと引き換えであるなら、ドーピングによる金メダル的な意味で茶番と言えるでしょうし、
例えば、戦争の下で奪ってる者を平和の下で奪ってる者が糾弾していたなら、その糾弾は奪う事自体ではなく、洗練されてなさへの糾弾でしかないと見なせるでしょうが、

同様に、帰属修正の原理から成ってるとは言えない知性倫理美意識が権威を持ってる場合、
その権威は、帰属操作に関する洗練されてなさ(帰属修正な見た目をしていなさ)の否定を意味してるのに過ぎないのではないかと疑います。


もちろん、理系域はガリレオ(数学を用いた自然現象の説明)以降、同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の交互反復、および、同捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消、
これらを原理抽出(仮説と検証の関係)に持たせてるので、帰属修正を上限化させた体系であると、
ひいては、知性倫理美意識が帰属修正の原理から成ってると言えるでしょうが、文系域はそう言えないと考えます。

というのも、個別性が根拠になる局面で個別性の差異を捨象してしまう不当合理パターンと、
個別性を根拠にするけれど個別性が疑似化してるしてない(存在するのと引き換えに持たざるを得ないとは言えない要素まで、言える要素扱いしてるしてない)の差異を捨象してしまう過剰特殊パターン
(疑似化に自由を覚えるなど疑似化除去に意義を見ない時点で存在に対する粗雑さが示唆される)、


この二択縛りが、宗教から科学の在り方と個人の精神を分離的に解放した成功体験によって近代以降強化されたパラダイムにより、帰属修正が個別性の内実にまで及ぶのを防がれてしまってる
(例えば、ある観点の下で通用領域の広狭と確からしさとの相関を持ち出してるだけと言える認識について、

観点設定に対しても、これ以上遡れない根拠だろう上の相関を持ち出せるなら、
その低さが非を認めないとか、異なる観点の下での確からしさを並べ立てるに留まるなどの、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害に繋がる、
今この局面でどの論点が採用されるべきかの選抜精度の確保も期待できるのに)、

したがって、仮に、帰属関係に修正余地がないものに対する、修正余地があるかのような反応(文句をつけるなど)は、その反応の方に修正余地がある、そう割り切っていたところで、
権利感覚次第では、帰属関係に修正余地があるものをないと、ないものをあると判断してしまい得るにもかかわらず、
権利感覚がその及ばなさを反映させてしまってるからです。




例えば、場に合わせる合わさないの二択な発想の持ち主であるという時点で、表層次元に矮小化した形でしか関連する話を扱えないと見なせます。

空気を読むが場の表層でなく、場の本質的要素(疑似でない個別性)に合わせる事を意味するなら表面上、場を荒らす事にも場を荒らさない事にもなり得る
(これを恣意が選択原理でない両極保有として捉えた場合の、恣意を選択原理とする両極保有は、内在場を上とした後述の上下論なので過剰特殊と見なせる)為、

その二択が論点になってる時点で、空気を読むは、場の表層に合わせる類が想定された結果の疑似二択(両者の差異への過大反応)になってると言えます。


また、外在場の個別性に合わさない事が、個別性捨象を意味してるなら不当合理(現実的事情の軽視)であり、
内在場の個別性との間の単なる上下論(個別性の疑似化は論点でない)を意味してるなら過剰特殊(肥大化した現実への尊重)であって、

通念的理性(通念的論理)と感情との対比は、この不当合理と過剰特殊の疑似二択
(代替不可能な内外事情にしか応じない主体像が解決像にならないの原因の一つ)と見なせます。


内在場の産物を局面の個別性に合わせて具体化する能力として理性を、また、通用領域の広狭と確からしさとの相関を前提に、通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転として論理性を捉え、

かつ、個別性が根拠にならない局面(理系的局面)では同種の他との差異要素捨象によって通用領域を、
なる局面(文系的局面)では同種の他との共通要素捨象によって通用領域を獲得する必要がある
(客観は対主観における前者の産物でしかなく、主観の為した判断の確からしさは、対主観における後者の産物としての主観によるものが上限)と認めていれば、

通念的理性や通念的論理は、前者局面専用物を後者局面にも使ってる不当な一般化の形である為、
後者局面での確からしさを保証しないもの(後者局面で確からしさを保証するものかのように持ち出すと、表層の話しかできなくなるので、
内実の確からしいものをそうでないかのように、また、その逆となるように偽装する帰属操作を可能にしてしまうもの)との位置づけになるはずです。


以上から、不当合理と過剰特殊の二択地平な人(働きが表層形反転に留まり、内実次元の帰属修正としては働かない知性倫理美意識の持ち主)が、
例えば、戦争と平和の関係について思考なり議論なりに臨んだところで、表層がなめされる事になるだけと言えるわけです。

実際、平和教育は、現実的事情の軽視(荒れた表層の下での奪う現象から荒れてない表層の下での奪う現象に移行するだけな展開へのケアがない)と、
肥大化した現実への尊重(疑似化してるしてないによらず実態を根拠にする実態主義)の、
負わされるに値しないものを負わされる事態に、どちらも繋がる二択の外に出ておらず、


前者的平和教育に至っては、同種の差別教育(奪う立場が反転されるだけな展開へのケアがない)との間で、
特定の表層形をもって断罪するのを促す働きかけと特定の表層形をもって断罪するのを止める働きかけ、という矛盾関係を引き起こす為、

同じ空間に並び立つと、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在(原理から離れるほどご都合主義的になるのに)が意味されてしまいます。


逆に、奪う現象への否定的態度がご都合主義的(奪う立場)になってる状態では満足しない(整合性を行き渡らせたい)のならこの場合、以下が必要でしょう。

表層形のみをもっての断罪についての具体形パターンを網羅(表層形のみが問われてる局面もある以上、表層形のみでの肯定否定に対する全否定もここには含まれる)した上で、
その中に差別事象もあるという具合に、井の中の蛙性の緩和による一具体形への過大反応を抑制する。
帰属操作の具体形パターンを網羅した抽象物を準備した上で、帰属操作の発生阻止を表層が荒れているいないの差異に先立たせる。


さらには、修正余地なさを受容条件としつつ、対人(自分が負わせる立場でも負わされる立場でも同じ)や対秩序の解決像として、
主体の有り様に、代替不可能な内外事情にしか応じない方針(この内容持つ実存には、
対局面も包含してるその対外在事情から、フェアな現象解釈も期待できる)の結果という修正余地なさを持たせる

(この時、主体の有り様は肯定され、当然、この肯定された主体同士の間で同じ対象への評価にばらつきが生じていたとしても、
その不一致は受容条件を満たしてるとの判断になる一方で、主体が受ける具体的扱いはあくまで場次第)、

主体間の具体的関係に、主体が置かれてる場の代替不可能な要素(これが主体事情の集積によって構成される場合は前者の拡張問題になる)を割り振り原理にした結果という修正余地なさを持たせる

(局面に合わせる主体の集積空間は、それぞれが余裕のある局面ではあるなりに、ない局面ではないなりに振る舞う為、
頑張れる者が頑張る、頑張れなくなったなら別の頑張れる者が頑張る的な連鎖を割り引く事なく、対弱者に持ち込める)、これらを押さえる。




とはいえ、上の解決像は既存の権利感覚とバッティングしますから、断絶を飛び越えて上の解決像の採用に辿り着ける為の何かも必要と思われ、次の理解はこの飛び越えに有効でないかと期待します。

カントの体系を、真善美との間に距離が生じるのは不可避としつつも、個別性捨象な内容の人間形式への立脚は、
その距離からくる混乱を抑えてくれるとの見立ての産物と解せば、文系的局面での不当合理は必至。

ヘーゲルの体系を、具体形パターン網羅(ただし、具体化精度の高低は気にしないままの集積化)によって抽象次元の統一性を高めていく事で、
その距離自体を潰せるとの見立ての産物と解せば、文系的局面での不当合理は必至。


後者の体系を、通用してない事態の発見をもっての修正の連鎖、という具体化抽象化交互反復として捉え直せば、先に見たように、通念的論理と同じ構造なので、
カントヘーゲルラッセルの流れは、一見乗り越えが図られてるように見えて、少なくとも、不当合理の観点では変わってない、

つまりは、不当合理が過剰特殊に反転する事なく(実際、人間性を次元設定自在性として捉えた場合の、この自身の形式に対する振り回されなさの獲得は、
観点について先に見たように、近代性によって強化された過剰特殊には無理であるなど、反転したところで乗り越えにはならない)、着せ替えられただけの流れ。


この流れに、不当合理と過剰特殊の同時否定(特に、過剰特殊を割り引く作用持つすべてへの忌避試みと言えるだろう事例を踏まえて、
不当合理への批判にかこつけた過剰特殊の押し通しとなるのを防ぎつつの対不当合理)を持ち込む、
言い換えるなら、集積対象に、同種の他との共通要素捨象を用いた具体化精度の上限化という限定条件を持ち込むと、上の解決像になる。

真善美そのものと修正余地なさを持たせた実存、あるいは、真善美そのものと修正余地なさを持たせた主体間関係、
この内容から成る現象は、内外性質が修正余地ないままに統合してるので、真善美との間に生じてる距離が齎す不幸等も奪われには当たらない
(したがって、フェアを越えた解決を望まない態度にも繋がるこの内容の獲得は、冒頭で見た茶番化への対策になってる)。

(無限者と有限者、両者の関係が、常に上限という意味で不変でもある、より確からしいものが取って代わる運動性についての、
それそのものとそれの阻害ない受け皿である事意味する修正余地なさを持たせた実存、
この内容から成ってる時のみ、両者の間に生じてる距離は最小と言える。)

ご支援の程よろしくお願い致します。