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4741文字、実存の無条件肯定は無理筋でないかという話を多様性の観点から、二通りの生き方の意味するところにも触れつつ

2024-2-007

内実次元を生きてる場合、損得自体よりも妥当な損得か不当な損得かの差異が、金メダル自体よりもフェアな選抜かアンフェアな選抜かの差異が、
つまりは、割り振り結果よりも場の疑似でない個別性に即した割り振りであるかどうかの差異

(帰属修正的か帰属操作的かの差異の無視は、悪貨が良貨を駆逐する的展開の末の意義崩壊まである為、場の存在意義を保障しているいないの差異でもある)が先立つわけなので、
その生と整合的な多様性確保は、内実が肯定されるものであるなら表層形は受容に値する、という条件付きの開放性がその内容になるはずです。


この条件を外そうとすると内実不問故に表層次元を生きる事になり、肯定否定や選択の根拠が表層形
(例えば、限定がないという表層形か限定があるという表層形かの差異)となる為、

差別への非難が、自分の表層形断罪は認めるけれど他者の表層形断罪は認めない、
という差別を意味してしまい、多様性確保の推奨は自己否定を含んだものにならざるを得ません。


ところで、人は内面世界と何らかの置かれてる場を持つ為、内実次元を生きるとは獲得喪失有り様と、
そのどちらの場でもアンフェア選抜を否定してる形である、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針との整合に他ならない

(この整合から成る個人有り様を肯定し、成ってない個人有り様における肯定状態とのズレ部分を否定対象とした上で、
否定反応の具体化条件をその実存方針とする人を増やす話として、先の条件付き開放性の個々人尊重ケースは捉え直せる)と思われます。


他方で、既存の教育は能力や情報や可能性の獲得とその実存方針との整合を求めてません
(AにもBにも言えるものをAに固有の性質とはしない処理能力が、育てる対象になってるとは言えない時点でその実存方針とバッティングしてる)から、
その実存方針よりも既存の教育の方に整合的な生は表層次元を生きてると言えます。

獲得にはもちろん、思考力や想像力の展開物も含まれますから、その実存方針と整合させてない展開の産物を放棄してないなら
(その実存方針と整合させずに得た観点の下で知性倫理美意識を働かせてるなら)表層次元を生きてると言えます。


以上から、実存の無条件肯定は成立しない(無条件開放と自己否定は切り離せない)し、
成立するかのように話を進めてる議論は表層形をこねくり回してる(都合の良い表層形が選抜されるように帰属関係の操作に励んでる)だけの疑似問題でないかと疑います。



情報に関して続けると、客観性は、主観に対する同種の他との差異要素捨象(個別性捨象)の産物ですし、
記憶障害の事例から見て、客観性を踏まえてない主観は、置かれてる場に通用させ続けるという存在課題を具体的処理レベルに持ってく認識の働きを果たせない(アウトソーシングの形になる)ので、

主観客観を対立関係で見たり、客観性から主観を切り離そうとする必要はなくて、
個別性が根拠にならない局面と根拠になる局面の差異に合わせて、主観の影響を抑えるか抑えない
(代わりに、主観に対する同種の他との共通要素捨象を上限化する)かの具体化処理問題として捉えるべきかと思います。

(ちなみに、個別性が根拠になる局面で個別性を疑似化具合不問で根拠にするのをデカルト的処理不全、個別性捨象を持ち込むのをカント的処理不全と解した時、
下で言う疑問を持たない歴史観における観念論系は前者、唯物論系は後者と位置付けても良い気がします。)


また、感覚の段階で自身の個別性に立脚していて、井の中の蛙的状態の緩和に伴う自身の個別性の再位置づけ問題を持つ主観情報だけでなく、
運動方程式が正しいにもかかわらず物理学全体の井の中の蛙性の緩和に伴う再位置づけが続いた事実から分かるように、
客観情報にすら確からしさの向上余地があって、得れば済む話ではない為、

対情報の論点は、井の中の蛙性の緩和のその時点での上限化と解するべきでしょうし、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を第一原理(肯定も否定も依拠してる為に逃れられないもの)として捉えると、

その論点は、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害の最小化と言い換えられるので、
一見、その緩和は情報の量追求に思われるものの、実際には、先の実存方針(その運動性を有限性形態に利かせる方針であり、受容阻害の最小化条件)と整合しない獲得を放棄する必要があると言えるはずです。


例えば、歴史性から現在性を単純に切り離すと井の中の蛙化する為、少なくとも、情報の観点では上の意味で問題状態と見なせますが、
仮に歴史性を背景化させたとしても、抽象化具体化の不十分さ解消(限定を受ける前状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらを上限化させた理想現実関係)を、

その時点での解決状態(人では先の実存方針の体現がこれな為、体現してないなら、
自分も他人も何を成し遂げていようが問題状態、つまり、受容条件を満たしてない状態)とする生を生きる事
(この解決像からの乖離を問題状態についての抽象像とする刷新に伴う井の中の蛙性の緩和が、

例えば、不当な扱いも問題状態なので、自己尊重もより確からしい内容への再位置づけに導くなど、
対象の検討なり受容なりの前に上限化させておくに越した事ない理解力はもちろん、問題解決の集積である生に関しても期待できる)で、


歴史性を抽象化具体化の交互反復によって可能になってる同一性変化性同時達成として見た時の、
一反復の抽象化具体化の精度を最大化(特に、個別性が根拠になる局面での同種の他との共通要素捨象は、
具体化精度の低いものを統合してる事態に疑問を持たない歴史観との決別に必要)させ、

ひいては、歴史に修正余地なさという受容に値する内実を持たせる現場として現在を見てるのと同等、
加えて、そのような現場として過去は機能したか未来は機能するか、という観点を対過去(対テキスト)や対未来に持たせるのと同等の状況にはなると考えます。



例えば、特異な有り様でも事態でもない類の生理現象はじめ、人間であるというだけでこうなるという話は、
生じた人の社会的地位に関係なくありふれたものとして扱われる対象ですから、
ある社会的地位の人に生じたという点をもってありふれたもの以上の扱いに変える人がいたら、

その人の内面世界で割り振り原理になってるものには、井の中の蛙性(ありふれたものを珍しいと、あるいは、その逆と勘違いしてる事態)と同等の作用を持ち、
人間に帰属させるべきものを地位に帰属させる帰属操作の作用を持つ要素が含まれてるし、


課されてる条件における上限(修正余地なさ)以上を求める疑似問題とその上限を求めない疑似解決(修正余地許容)の同時否定
(例えば、こちらの提示内容を相手が相手なりに受け取った際に生じる齟齬等の自他の間の距離も、主語を切り出してきてそこから述語を切り出す処理と同様に、

限定を受ける前状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの上限化問題として捉え、
距離の大小という表層次元でなく、両者共が代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針をもって、
自身の有限性有り様に修正余地なさを持たせているいないの差異だけを問題とする事で、齟齬への大騒ぎや見て見ぬ振りと決別してる在り方)を、

自分自身はじめ自身との近さによらず(遠近に由来する扱い差異の肥大化に付き合う事なく)求める平等性も、
したがって、批判や擁護の内実確からしさも期待できない(言わば、売り手と買い手のふっかけ合いの末の妥協か、
降りた末の被搾取かの二択構造なリバタリアン秩序における前者的意味の平等が関の山)との判断を持たれて仕方がないかと思います。



さらに成人であったなら、10代に突入する前には既に、親や先生といった場の管理者への妄信(見て見ぬ振り系)や反動反発(大騒ぎ系)という、権威への過大評価問題が
(管理者ポジションであろうとも不完全性持つ一人の人間として捉え、管理対象である場と振る舞いの前提である着目無視設定との一致の責任を課しつつ、
その人の内外事情から修正余地なしと言える不完全性は受容し、修正余地ありと見なせる不完全性は受容しない他者尊重方針が内容の解決像と共に)生じていて、


(ちなみに、何らかの能力の獲得について、内在事情の要請であったにせよ外在事情がそれを可能にしたという事実と、
外在事情の要請であったにせよ内在事情がそれを可能にしたという事実は、実質的に中身が同じですし、

管理者ポジションの不完全性を内面化してしまうなどの、自身の外在事情に振り回される程度を少しでも下げるべく、代替不可能な外在事情しか受容しない方針を採用するのは、
仮説と検証の関係における仮説改善の上限化の効果を持つ具体化精度確保に他ならない為、
長期的に見れば、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針によって自身の有限性有り様に修正余地なさを持たせてるのと同じです)


克服しないまま実社会に突入(既存教育との相性の良さから自身の理解力に自負があるケース込み)してしまうと、国家権威や職場権威などへの妄信傾向や反動反発傾向が、
場の疑似ない個別性の下に場全体が整合されるようプレイヤー立場と管理者立場が協力し、

他方立場への要求はこの観点に即してるもの(内実次元を生きる生の現れ)のみが通る秩序の達成阻害に繋がる
(政治経済での甚大な被害生んだ事例の修正点を取り違える反省行為の形骸化込みで、実害を生む)わけですから


(感覚含む認識処理を観点が場の性質である秩序、主語や意味の切り出し等の言語処理を文脈が場の性質である秩序と捉えれば、
政治経済においてその達成阻害を、つまりは、場の性質である需給事情の肥大化に対して問題状態とは見なさずに表層をなめすだけの問題解決観の反映である需給成立洗練への着目を見せておきながら、

あるいは、被食捕食関係含む対他種や時空規模の大小によらない対自然において、
場に置かれたものが受ける扱いと場の疑似でない個別性との整合が論点になってない秩序観を採用しておきながら、

場の疑似でない性質が場全体に行き渡ってる秩序有り様の選抜に関して管理者ポジションに課されてる責任を、
内面世界の管理者ポジションである自分については果たせてるつもりである場合、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在からくる勘違いが言える)、


遅くとも10代の内に克服しておくべき課題を取りこぼしてるとの評価をその判断に付されても仕方がないかと思います。
(この課題を取りこぼしたままでもエリートになれるしエリート扱いされる状況は、
実験の精度を不問にしてる理系者に相当する、茶番選抜を修正余地として取り出さない文系者でも、

言い換えるなら、先のデカルト的処理不全とカント的処理不全から成る二択枠組み、
近代性の産物な疑似問題であり、井の中の蛙性の緩和上限の下での個別性の再位置づけへと向かうのを潰すこれをはじめとする、
茶番選抜を問題状態に含めてないのに問題に取り組むせいで、抽象度不足の下での明晰化洗練によるいらぬ対立生みだしを繰り返す疑似問題メーカーに他ならない、

表層次元を生きる文系者でも、権威を持てるという文系空間のぬるさが保存され、常にその内面化を強いてくる原因、
したがって、内実の確からしさを問えず、限定を受ける前状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、

これらの上限化と無関係に限定の大小を、ひいては、理想現実関係を肯定否定する発想が社会に蔓延る原因でもあるはずですし、
実存の無条件肯定への志向はこの蔓延るありふれたものの一例に過ぎません。)

ご支援の程よろしくお願い致します。