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戦前の経験を生かし切ってると日本について言える為(大した中身のない反省なのに満足したり、強いられるがままとならない為)に必要と思われる話

2021-6-006

例えば、世界の現システムは歴史を生かし切ってない結果と考えます。

例えば、日本の戦前の経験について、それを生かしたい、その類を用いた誘導も修正したいなら、
戦争遂行能力に低さの形で露呈した価値付け能力の育成不全(重要なものへのどうでも良い扱いや、その逆を許す教育)、
帝国主義の内面化の形で露呈した対欧米での(行動様式の模倣による対抗に際する取捨選択の精度が、欧米の問題点を掴み切れなかったせいで上がらなかった結果の)肥大側面、
この二点を押さえるべきと考えます。


アメリカも人種差別を黙認してた以上、価値付けが歪な領域は抱えてるわけで、
日本の場合、価値付けが上手く機能しない領域として、兵站や練度の軽視に代表される、戦争絡みで致命的となる類を抱えてた
(他方で、相手側は知的エリートの亡命流入などにより、立場の優位性が加速した)という事なのでしょうが、


しかし、機能しなくなる原因として疑える、
場を荒らさない事に解決見るスタイルが、望まれる役回りの積極引き受けとして好転にも働けば、場を荒らすべき役回りが引き受けられなかったり支持されないが故の悪変にも働く傾向を、

単に、分離処理に解決見る(分離で話が終わってしまう)スタイルの立場(欧米側)から評価したところで、
林檎は数えられるが蜜柑はできないとその逆パターンの、どちらを選択するか的話に留まるわけです。

つまり、数を数えるの次元を確からしくする的方向に修正する観点から問題点を見るのでなければ、経験を生かし切れないと見て、

(例えば、医者の能力なりステータスが価値を持たない局面だってあるわけで、)
価値は場が決める事としつつ、各場の代替不可能な固有性に、ポジションや具体的有り様の割り振りを即させる教育の不在をこそ問題にすべきでしょう。


また、二点目について言うと、
欧米列強(やその行動原理を利用した試みで、日本に間接的に関係あるもの、直接関係あるもの、古くは帝国主義の前々段階で確認されてるもの)への、
対抗的側面まで否定に含む日本批判(政府有り様からの国民解放の文脈だろうと)では、

ある帝国主義による獲得行為は肯定するのに別のそれは否定する、不当獲得を根拠にしてない形の批判
(批判自体が不当獲得への支持の現れの側面持つ)となる為、

欧米のそれも、日本のそれも、
さらには、中国や国際経済の現有り様(内実不問な保障の権利観という欧米が構築した世界の隙を利用した囲い込みと言える前者、市場整備の拡張の小さい政府版と言える後者)もひっくるめて否定した上で、
たまたま日本のそれが切り出される局面だった、といった抽象具体の関係構造として扱う必要があるでしょう。


ただ、帝国主義のみを否定するのでは不十分と思われ、

得る資格を開くツールとなるよう権利を持ち出せど、帰属の修正が分離処理に留まる
(内実の確からしさの検討にまで至らない処理故に、奪われない為の保障が奪う有り様の保障にもなる)せいで不当獲得のツールに堕す、

量的観点からのみの拡張(内面含めた各場の、代替不可能な固有性の発現保障を内容とする、各場の固有性尊重は含まない)である権利観刷新という、近代以降の流れを問題とする事で、

否定対象を、国連システム(先の大戦前の世界の修正形なつもりのもの)まで含めた、
ヨーロッパ古代以来の不当獲得問題(中世は個人の精神や国家の権威、科学の在り方を束縛する形で教会が押さえつけてた、求め過ぎる者の登場問題)を、
解決し切れない近代(その内実不問傾向は今なお主流)自体に定めるべきでしょう。


結局、分離処理による帰属修正試みで満足せずに、何らかの保護を帰属の修正(より確からしいものが取って代わる運動性)に先行させない態度の、
社会(その前段として文系の学問や教育)への取り込みをもって、

戦前の経験を生かし切った事になるのだろうと思われます。


(各場の固有性への尊重の欠如なり不足は、
林檎は数えられるのに蜜柑はできない状態で数える処理を十全と見なしてる的誤解を文系域で許してきた、

つまり、内在不問外在軽視な自由観の強化に代表される、分離で解決した気になる近代人センス故に、
論理観や歴史観を抽象具体間行き来の、ひいては、捨象処理の精度論点化へと修正するのでなく、論理の弛緩に文系的価値を見出す誤解もあって、

認識はただでさえ加工の作用を伴うのに、主観が井の中の蛙状態から遠ざかってる程度を、内在事情外在事情のやむを得なさに紐付けないままに為した、
限定の前後関係が甘々という意味で具体化精度の低い対象位置づけを、自己や外界に負わせるのを許してきた、

言わば、教育の失敗。)



そして、その態度は、近代パラダイムが実績から見て理系一流である
(もちろん、科学で決着つかない領域もまだまだ有って、そこを例えば政治でフォローするにしても既存の文系では不当獲得の側面を取り除けない)点を認めると、


帰属の修正(原理特定や論理沿わせ含む)を意味する、抽象化と具体化条件割り出しの精度最大化が、
理系的局面(対主観などで、同種の他との差異要素捨象が確からしさ差の取り出しに当たる局面)でしか機能してない状態を、
文系的局面でも機能するよう拡張する方針と見なせるので、

理系論理と文系論理(獲得の過不足への抑制作用込み)は捨象対象の違いでしかないとの理解を政治や社会、教育の土台に置く事に、

近代
(対象に関する表層的要素と代替不可能要素の分別不全に由来するいらぬ負わされの発生黙認と引き換えな秩序を、

つまり、抽象化や具体化条件割り出しの不全による、行動原理等の把握やその内実の確からしさ検討の精度の低さに由来するいらぬ不幸への、
負わされるだけの確からしいものかのような扱いと引き換えな獲得構造を、維持する力、

及び、近代性帯びた諸々への固執にも繋がる、それを採用した結果がこの通用性の低い理解力なり何なりだ、といった情報のフィードバックによる修正を忌避する態度)
の乗り越えを見ましょう。


ちなみに、採用してる形のものを修正する試みは、
個人に関しても世界に関しても、結果の原因帰属を遡っていけば、最終的には哲学に相当するものが問題となるように思われます。

なので、
何らかの展開(抽象と具体の行き来)に関する、具体化精度(場の代替不可能の固有性の取り出し精度)の低さを、修正する働き持たず保存したまま(先の教育の失敗の反映状態)な内容の枠組み
(例えば、生や思考の在り方への言及)に対しては、


ヘーゲルの問題点を、
理系で言えば、実験精度無視した実験結果のフィードバックに当たる、
具体化の精度不問(統合対象扱いの分離物に対する、内実の確からしさの差異不問)とはせずに
(例えば、多様性や助け合いや概念体系を担う個々のそれは、やはり不問なままなど)、

つまり、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じてる形と言える有り様に、信頼付与を限ってない(例えば、表現の表出原理にそれを求めてない)せいで、
対象の固有性特定に資する情報に自己変容も厭わないレベルで開いてようとも、質(帰属操作の除去)に対して閉じてる等の、
近代人な捨象センスの外に一歩も出てない井の中の蛙問題に包摂される点とはせずに、

問題点を別に見て、その乗り越えをもってヘーゲルも乗り越えたかのような印象与えてる哲学群(現主流込み)の登場初期で、
知性や倫理の次元が止まってる代物(なめし作業による表層洗練があるのみ)と見なして取り合わず、


何ら限定受けてない状態の準備とそれが置かれる場(それが接する外在)の代替不可能な固有性(存在形やその様態変化を規定する条件)の割り出し、

この両者(抽象化と具体化条件割り出し)がまとめて置かれる場と言える、
同種の他との差異要素捨象と共通要素捨象のどちらが確からしさ差(通用領域の広狭)を浮かび上がらせる処理であるか問題
(後者捨象による局面の固有性の現状可能なだけの特定作業)として、

プラトン時点で提示されてる理想現実関係問題を捉え直し、
また、近代を、宗教からの科学の在り方の分離という反動反応の流れから、その捨象問題を前者捨象に特化させた形となったパラダイムと位置づけた、
哲学や理解作用の再構築にまで話を持ってきましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。