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4168文字、ポストモダンを近代の焼き直しと位置付けた場合の近代の乗り越え方について

2024-7-004

理想を割り引いたものとしての現実、この関係を踏まえた上で理想が大事とする主張にも、現実が大事とする主張にも、
限定を受けてない状態の準備、それが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、

これらの上限化の下で生じてる割り引きは修正余地がなく受容に値するとする立場に立つならば取り合わずに済みます。
(例えば、カントは、認識に関しては理想を切り捨て道徳に関しては現実を切り捨ててると言え、
理想を割り引く程度を最小にする現実から見た過剰な理想軽視や過剰な現実軽視を押さえないまま、カントやその被影響物に接すると振り回されてる形になると考えます。

とはいえ、有限性に対する過剰否定と過剰肯定を、当然、できる事できない事の有り様である有限性形態に対するそれらも同時否定するこの立場に立つには、
理想を割り引く程度を最小にする現実であり、かつ、上二つの上限化がその内容であるところの、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる必要が、

つまり、抽象化具体化交互反復としての歴史を抽象化具体化不十分さ解消の下で紡いでるケースの反映である、
という意味で内実の確からしい場合のできる事できない事有り様を、自身に関して肯定してる必要があります。)



同様に、言語化は割り引きが生じるので言語化前が大事(実際は言語化前も種の認識形式による加工があり、この形式も生涯という規模では特化や欠損による加工を受ける、
つまり、上で言う実存を生きているいないの差異が具体化精度の差異になる為に論点は同じであるわけだけれど、

論理を理系のような個別性が根拠にならない局面で要請されるタイプに限定した上で、主体の個別性の疑似化部分の反映分が論理飛躍であるところの感情を論理の対象から締め出して対立構図をつくる内容の疑似問題である、
感情と論理に関する前者が上の上下論をもって飛躍を擁護してるパターンも構造は同じ)とか、

現象が受けてる加工の除去が大事で、現象前を気にする必要はない(したがって、現象後が現象前から見てどれだけ割り引かれたものであろうと気にしないし、
当然、取りこぼす有限性をその修正余地なさをもって受容する話にもならない)とか、

自己に関する問題と社会に関する問題とではこちらの方が大事(持つべき問題を抽象化具体化の不十分さ解消、
この場合、修正余地の総体から代替不可能な内外事情にしか応じない実存を具体化条件に具体的問題を切り出す事で、持つ問題に修正余地なさを持たせる処理であるこれと関係なく定めようとする、
したがって、問題状態の解消が原理を欠いてる証拠であり、利己利他の疑似対立の解消を妨げるものでもある有害な働きかけ)とか、



これら主張にも取り合わずに済みますし、これら主張に動的側面を持ち込む試み(絶対性やその暴力性なり短絡性なりの切り崩し込み)は、

仮説検証関係のような確からしさ向上系も、単なる変遷(例えば、言葉の意味合いやニュアンスのこれ)のような非確からしさ向上系も、
抽象化具体化の不十分さ解消を論点とする抽象化具体化交互反復として捉えるならば、
抽象化具体化が十分でありさえすれば、変化という表層形していようが、不変化という表層形をしていようが、そこの差異自体は扱い差異に反映されない為、

取り合わない理由(論点の取り違え)が繰り延べられてるだけですから、プラトン問題
(割り引きを指摘しておきながら先の上限化を解決状態としなかった件)の弊害の一種と捉えましょう

(動性自体を重視する哲学、例えば、創造を重視しながらも先の疑似問題と大差ない近代パラダイムの外に出ない、
したがって、近代の焼き直ししか生み出せないそれを、真に受ける必要はない)。



ところで、先の疑似問題における後者が上のパターンに既存の教育が落とし込まれてる弊害として、
文系的な論理飛躍(個別性の疑似化部分)の集積でもある市場や民意を、あるいは、同欧米文系の産物を正しいものとして扱い、
そこに合わせ込む像を優れたものとして自他に受容させるケースがあると思います。

しかし、妥当不当は通用が行き渡っているいないの判定だと解せば、肯定否定反応の類は通用してる領域の広狭と確からしさとの相関に依拠してる事になり、
この依拠自体にも同相関を見ると、何の差異に関して同相関を持ち出すかという観点設定についても同相関が適用され、
場の不可避な偏り(認識場で言うと、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる場合の個別性)のみが観点に反映された確からしさ判定が選ばれるはずです。


したがって、例えば、自分の為す批判は妥当けれど、自分が受ける批判はどのようなものも不当とする人が権力を持った場合
(肥大化した偏り持つ観点の下で肯定されてるもの、この問題は取り上げるだけの価値があるという判断含むそれは修正余地がある、
この理解の反映でない批判は過不足があって、この意味で過不足ない批判が、対他者も対自己もひっくるめた対有り様の原理になってるのなら起きない事態であり、


文系学問は権威を持つ一方で、少なくとも、既存の論理学を理系的な論理飛躍への対策とした時の、文系的な論理飛躍に無力であったこれまでの有り様に対する批判、
言い換えると、文系者の実質を、個別性が根拠になる局面での場の不可避な偏りから成る観点の下で通用が行き渡っているいないの区別ができる能力とした時の、
この能力を要件とする、という意味での文系専門家が事実上いないにもかかわらず、個々の文系学問の専門家がいて、原理なり体系なり各仮説の通用領域を判断してるという事態、

および、局面に着目無視設定を合わせる働きとしての理性の機能不全というその原因、
さらには、実態の過剰否定である個別性捨象と実態の過剰肯定である個別性無条件根拠化から成る疑似対立二択の次元に縛られ、

個別性が持ってる修正余地を有り様が抱えてる安易さとして掴まえる事のできない知性倫理美意識が影響力を持てるというその弊害、
これらに対する批判が通ってない、つまり、文系学問は先の意味での近代パラダイムに関してはここで言う権力パターンになってる)の修正点を、


場の不可避な偏りのみが反映された秩序から見た偏りの肥大化部分とするのではなく
(感情で言えば、どのような種類の感情であるかという表層形を論点とする表層形断罪な発想による小手先な解決を捨象しつつ、

認識場の個別性が代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きた結果のものである、
つまり、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にした有限性のみを引き受ける事により、認識場の個別性を具体化条件とした時の具体化精度を上限化させてる、
という意味で内実の確からしい場合の感情選抜とそうでない場合の感情選抜との差分を修正余地とするのではなく)、


この肥大化部分の指摘に限らない、どのような批判も肯定されてる(場合によっては表現の自由や学問の自由の名の下に肯定してる)状態と実際とのズレとする人
(無条件受容が内容の多様性確保を解決とする発想、言い換えると、内実の確からしさ程度を不問とするタイプの表層形開放をもって解決とする為に開放されているいないという表層形を論点とする表層形断罪な発想)は、

依拠の低確からしさ(限定通用的な立脚具合)故に、批判Aは妥当で批判Bは不当とする枠組みは不当で、AもBも対等とする枠組みは妥当とする矛盾をもって、
場の不可避な偏りのみを肯定するケースを偏りが肥大化してるケースと一緒にまとめて扱う
(秩序で言えば、搾取の発生と言える優勢劣勢有り様肥大化が防がれてる状況と防がれてない状況とを同等に扱ってる事態)という有限性への過剰否定に陥ってると考えます。



注1

例えば、空気を読む(場を荒らさない)と空気を読まない(場を荒らす)との二択に対し、
場の本質に合わせた結果に場を荒らさない事も場を荒らす役回りを担う事もあるというタイプの表層形開放(この場合、両極保有)をもって二択を脱する場合、

表層形は内実の確からしさ(有限性の過剰肯定と過剰否定の同時回避)の反映です
(認識場と社会の関係で言うと、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映である個別性から成る認識場の持ち主の集積である社会の性質に合わせる話になる、
当然、表層の汚れを拭うだけの帰属修正である実態露呈で終わらせず、実態が内包してる帰属操作、つまり、存在するのと引き換えでない要素の存在への帰属まで対象になる為、

課されてる条件の違いによらず誰に関しても、理想を割り引く程度を最小にする現実としての自己、および、役回り振り分け含めた同受ける扱いが、
目指される点で平等な内容の開放であって、帰属操作による獲得を開放してるだけの多様性確保とは別物です)。


一方で、個別性が根拠になる局面での個別性無条件根拠化(実態の過剰肯定であるデカルト的いらぬ飛躍)と個別性捨象(実態の過剰否定であるカント的いらぬ飛躍)との二択から成る近代パラダイムを、
本文タイプ(代替不可能な内外事情にしか応じない主体像をもって歴史を紡ぐスタイルの下で起きた偶然とそうでない偶然との区別をつけずに、表層形を偶然性次第とする態度込み)の両極保有をもって脱する場合、
場の本質にも合わさない為に実態(有限性形態)の過剰否定なので、その種の処理センスから生み出されるものは近代の焼き直しにしかならないと考えます。


注2

冒頭で言う上限化は、文系域(例えば、対常識におけるその上限化をもって特定時空性を付し直した像を導き、
その像と実際とのズレ部分に付き合わない対応)では、個別性の取り違え最小化としての具体化条件把握の精度が、
前者(具体形パターンを可能なだけ網羅した上での具体化条件が付される前状態の把握)の精度に響くわけですが、

この事実はヘーゲルの問題点を、個々具体(矛盾関係)の具体化精度の高低差異を無視した抽象化
(理系における精度の低い実験結果の仮説へのフィードバックに相当する事態)ではなく、抽象重視とした上で、

具体重視へと反転させた形の体系であるヘーゲル後の3つの主流哲学が見せたこの対ヘーゲルに疑問を持たない人には、
文系事象に関するその上限化と同等の処理の精度について疑念が残る事を意味してると考えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。