見出し画像

2841文字、文系事象との付き合い方について、文系的な論理性の欠如問題に触れつつ

2024-6-001

包摂に際する取りこぼし自体に反応する(例えば、検証すら現実への包摂と捉え、逃げ回るなどする)のは論点ズレと思います。
場の本質に合わせるべく、場の表層に合わせるのを避ける(理想を割り引く現実という関係における防げる割り引きを避ける、つまり、代替不可能という状態にまで喪失を持ってく)のと、

場に合わせる事自体を避ける(内実の確からしさ差異に関係なく喪失自体を忌避する内容の問題意識に固執する)のとの間のズレがそれに相当し、
何ものも不当な扱いを受けないという事態は場の本質の下の平等によって達成される

(内在場と外在場に関するこの平等の実践を包含してる代替不可能な内外事情にしか応じない主体像への志向を欠いた主体を、
特に、内在性に対する疑似化からの、つまりは、存在するのと引き換えでない要素の帰属を受けてる状態からの解放に必要なその主体像とバッティングする内在不問外在軽視な自由観を、
尊重するのは、 何ものも不当な扱いを受けない事態の達成阻害になる)との理解の不在によって生じてるように思われます。



この不在は、不当な扱いの受け手を自己のみから、他者や他種、無生物や概念を含むものへと拡張してく抽象度上げ
(上限まで上げた上で、そこから受け手像をどう切り出すかは局面次第とする態度、

先の自由観を強化するなど、分離処理への過大評価を持つ近代性はむしろ妨げになるだろうこれ)によって防げると思いますが、
場の本質に即した扱いは妥当であるとの理解の不在は、局面と着目無視の合致
(次元設定自在性という人間性に振り回される程度を抑える本筋)を先立たせないまま知性倫理美意識を持ち出す弊害として以下を齎してきたと考えます。


個別性が根拠になる局面とならない局面での確からしさ確保(個別性取り違え最小化と個別性捨象)の使い分け不全
(例えば、場の本質に合わせた結果に場を荒らす事も荒らさない事もあるという抽象状態、単に場を荒らす荒らさないのどちらもある抽象状態、

対立の解消に関するこの種の差異への軽視はその典型例であり、内実の確からしさを論点とする前者的抽象化と内実を問わない後者的抽象化とが後者的に抽象化されてる)が修正されない。
局面と着目無視の合致を維持したままの対他者や対自己であれば生じない獲得喪失(フェアを越えてまで自他を助けなくて良いとの態度の下でなお残る感情、

帰属操作への不支持が先立ってる証拠であるこれを基準とした時の感情の過不足部分込み)に疑問を持たず、正当化しさえする。
局面と無関係な特化(踏み込み過ぎ)として達成されてる洗練(明晰と曖昧が両極のスペクトラムに代表される、硬軟程度と局面との不一致の現れ)に違和感を覚えない。


これらに付き合う事なく、文系事象(個別性が根拠になってる局面での存在や認識)に対しては、
内在性質と外在性質が合わさって現象が生じてる、という枠組み(現実からその具体化条件を剥ぎ取り、理想や行動原理を取り出す等、現象から外在性質を引く形込み)を踏まえつつ、

両性質の取り違え最小化を望む(どれにどの程度、どのように関わるかは自身の取り違え最小化させた内外事情による為、
最小化されてない対象に対し、修正を働きかけるケースもあれば、距離を取るだけなケースもあって、

このように振る舞う個人だけから成る社会、あるいは、国等だけから成る国際社会は、
場の個別性に修正余地がない為、理想を割り引く程度が最小な現実として立ち上がってる)以外の関わり方、

特に、両性質の取り違え最小化の下で合わさった現象を内実の確からしさが上限である(取り違えが最小化されてない状態は帰属修正余地があり、問題状態である)とした時の、
現象に対するその内実の確からしさ程度とは関係ない評価方針(例えば、自身の都合との遠近での評価)は捨ててしまいましょう。


(実存に関しては、有限者として存在してるけれど、有限性有り様が受容に値しない状態という事態は有り得るので、
修正余地がないレベルで受容に値する状態へと持っていく、という試みを埋没させてまで持つべき問題意識などなく、

埋没させてるなら、その実存に接するものが、存在するのと引き換えでない要素まで存在を理由に負わされてる事態を修正できない為、
対世界含め、対象を過剰に割り引く形でしか対象と関われないと捉えましょう。)



対他者で言うと、ある他者が代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失とを整合させてる、
かつ、その他者の置かれてる場ではその修正余地のない個別性が場における割り振り原理になってる、

この状態と実際とのズレ部分(例えば、個性認定における存在するのと引き換えでない要素が帰属してる部分、
ドーピングによる金メダル的な序列付けが持ってる帰属修正可能な部分)に対する、

否定反応(受容に値しないもの扱い)を代替不可能な内外事情にしか応じない実存で具体化する以上の内容
(つまりは、帰属修正以上の内容)を、対他者に持たせるのは避けましょう。


この持たせているいないの差異に関係なく何らかの対人理念の実践を推奨してるのを目にした場合は、
表層形で満足して内実の確からしさについては検討しない張りぼての意味での短絡さの現れと見なし、
さらには、先の弊害の事例と共に、文系的な論理性の欠如と位置付けましょう。

もちろん、対他者に限らず、表層の汚れを拭っていく事で本来の表層形が手に入る、
という構造に終始してる主張に対しては、デカルトであれカントであれフッサールであれ、
個々事情が代替不可能的かどうかと関係なく需給事情の、つまりは、場の性質の反映である点をもって市場を根拠にするのと実態主義の点で何ら変わらないものとして扱い、


近代以降のパラダイム(対常識と同様に、変化不変化有り様を肯定する条件としての抽象化具体化不十分さ解消による、具体化条件である特定時空性の付し直しの対象)に疑問を持ってない時点で、
個別性の内実不問を意味する先の使い分け不全が、ひいては、デカルトやカントを事実上真に受けてる事態が言えてしまう点も踏まえつつ、文系的な論理性の欠如と位置付けましょう。

(逆に、文系的な論理性の欠如に敏感な人が増えるほど、
例えば、国民の幸福や国の繁栄といった概念が、愛概念を歪んでいるいないの分別原理付さずに理念化するパターンで、帰属操作の被害者の意味での奪われる立場の発生と引き換えの獲得まで含んでるケースの影響力も、
表層形が犯罪や侵略戦争に近い為に、帰属修正なのに帰属操作と同等の扱いを受けてるケースの発生可能性も下がるはずです。

通念的論理観をはじめとする、個別性捨象の下でしか成り立たない判断基準を個別性が根拠になる局面で持ち出す領域侵犯に疑問を持たないのは、分離による近代科学の成功体験の影響でしょうから、
個別性捨象に際する取りこぼし自体を嫌い、内実不問なまま個別性を分離する処理で済ます表層形反転と共に、近代人パラダイムの典型として位置付けましょう。)

ご支援の程よろしくお願い致します。