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【エッセイ】 自意識過剰

自意識過剰は、じゃまになる。

自分が生まれ育った時代でも、私はそうだったのだから、今のように「格差社会」などの言葉が日常語になっている時だったら、私はもっと自意識過剰で疲れていたと思う。

私はブレイディみかこさんが好きで、彼女が絶賛という本のあおりだけで、ギリシャ経済についての本も手に入れ読んだ。彼女の「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」は、評判になり始めた頃、すぐ読み、感動し涙した。

だが、彼女の作品のような、まわりの人のことを書いているものに、私は少しどきどきする。ブレイディみかこさんの場合だったら、もし私や両親がブライトンに住むイギリス人だったら、私は恵まれない方の一人だったろうし、富裕層の地域には住んでいなかったと思う。そしたら、ブレイディみかこさんに、私や親や兄のことを、選んで書かれる候補になっていたのではないかと思ったりする。

他人のことをおもしろおかしく書きやがって、と言っているのではない。そんなことは、ブレイディさんだけでなく数多の物書きがしてきた。西原恵理子さんなども、マンガエッセイの形で、そういうことを作品にして、私も含め、読む者を感動させてきた。

でも、もしも、その書かれた人のなかの誰かが、文句を言って来たら。文句は言わないけど、悲しく思ったら。そう思うと、それだけで、自意識過剰の私には、できない世界、行けない世界になる。

私は、米国でノンフィクション作品を書く友人がいる。初期の作品に、自分の姉の精神病や自殺のことを書いたものがある。書かれた人たちは、これを読んで大丈夫なのかな、と思う箇所も多い。お姉さんのことでも、本人は亡くなっているからいいだろうが、私が、この家族の一員だったら、世間の目にさらされたことを、嘆いたかもしれないと思う。はたで読んでいる分には、文章のうまさもあって、めちゃめちゃにおもしろいのだが。

書くということから全く距離のあった頃の私は、そういう作品を読んで、だから私は物書きになれない、と思っていた。書きたいのに、書けなかった頃の、えらそうな言い草だが、少し書き出した今も、正直、そう思う。

でも、たぶん、たとえばブレイディみかこさんの「ぼくは」の本に書かれた人たちで、抗議する人はいないと思う。心を揺さぶられるような、書いてくれてありがとうと思うような書き方だから。それは、私の友人の作品でも、つまるところ、そうなのだろう。

さっき、私は、私がブライトンに住んでいたら、私の家族は書かれる方の人口になっていただろうと書いた。じっさい、できることなら、私は自分の父や母のことをブレイディみかこさんに書いてもらって、それを読みたいと思う。自分で、父や母に話を聞けばいいだけか。でも、自分では書けない。もう、そのうちの一人はこの世にいないこともあるが、私の母は、私がそういうことをするのを、むかしから、いつも恐れていた。

誰も悪くいう人のいない「ぼくはイエローで」の作者を、(私も悪くは言っていないはずだが)、いちゃもんつけるようなことを言う私に、うらやましいからではないかと思う人もいるかもしれない。私は彼女と共通点も少なくない。プロとド素人の違いはあるが、私も、エッセイまがいのことをnote にいくつか投稿するようになったし、日本国外に住み、年代も近い。パンクも好きだ(った)。自分では、まったくそういうつもりはないが、近いものへの妬みを、知らずしらず持っているのだろうと言われたら、そうではないと言い切りたいが、自分ではわからない。

ブレイディさんは、私がしたくてできなかったことを、早くからしている。地方を出て、日本も出て。イギリスに住んで。音楽の周辺で仕事をして。たぶん、親をふりきって。好きなように。自分が決めて。自分で責任持って。私ができなかったことでなく、実際は、私がする勇気もなかったこと。それらを全部してきた。なんだ、私、うらやましいんだ、彼女のこと。

    *     *     *

米国で、This American Life という、インタビューなどや一人語りのノンフィクションで構成されているラジオ番組がある。私はその番組を立ち上げたプロデューサー、または、ラジオマンの、アイラ•グラスという人に、講演会で質問したことがある。自意識過剰にもかかわらず。

私は以前、何の縁でか彼にインタビューされ、編集された私の声が、ラジオ番組の中で流れた。This American Life が始まる前だ。つきあいは、ほとんど全くない。私が住む町に、7時間かけて彼が訪ねてきてくれたことがあり、少しの間、手紙や電話で交流していた時期がある程度。シカゴでブランチをしたこともある。でも、その後おたがいに連絡もせず、友人と呼ぶほどの間柄ではなかった。

そのグラスさんが、私がその頃いた中西部の大学に講演に来た。そのラジオ番組が評判になっている頃で、会場となったところは満員だった。来る前からの、キャンパス内での熱も高かった。

講演の会場で、自意識過剰な私がグダグダ思っていたのは、彼が私を覚えているだろうかということではない。私はこの人を知っていたことがある、というだけで、それがどうした、有名なら、知っててよかったということか、有名だからまた話がしたいのか、私はこの人を知っていますと自慢できる、というわけか、それのどこが自慢だ、などと、ぐじゃぐじゃ自問していたのだ。

私は、できたら彼と話したかったが、いろいろなことが頭に浮かび、一人で緊張していた。でも、彼に声をかけてはみたかった。そして、ほんとうに聞いてみたい質問もあった。彼にというより、彼のような仕事をする人に。他人の話を聞いて、人に伝える人たちに。

講演の後の質問が始まった。私は、前の質問者が終わるのと同時に、さっと手をあげた。壇上で、遠くに見えるグラスさんが、会場の私の方を指差した。回って来たマイクを握り、私は、今日の話をありがとう、と言い、何度も心の中で反芻した質問をした。

あなたがインタビューして、その声や話をラジオにのせた人の中で、後であなたが文句を言われた人はいますか。

彼は、私の方向を見つめて、少し間をおいた。私に気がついた、のではない。答えを待つほんの少しの間に、別のぐじゃぐじゃが浮かぶ。私の自意識のはげしさよ。この質問に、まさか私は二重の意味を持たせてる?私は文句があります、と言ってる?私は腹を立ててる?話せないから、こんな形でしか?

私、怒ってはないよ。あなたがあの時も、どの時も、私の話を聞いてくれて、話をひきだしてくれたの、すごくうれしかった。結婚も、おめでとう。

そして、彼は、きっぱり言い切った。

いいえ、いません。今までに何百人もの人をインタビューして、そのほとんどをラジオで流しましたが、ありがたいことに、一人もいません。


私が彼に連絡したのは、講演会が終わって何日かしてからだ。私は結婚のお祝いもかねてカードを郵送した。すぐに返事が来て、言ってくれたらお酒でもいっしょに飲めたのに、と書いてあった。

恋愛感情はない。少なくとも、もうその頃には。そして、彼もまた、私が、自分の父や母のところに送って、できることなら、彼らの子供時代に飛ばして、インタビューしてやってもらいたいと思った人のひとりだった。


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