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【エッセイ】 若気のいたり スチュワーデス採用試験

ぜいたくな話をする。

私は、ここだけは行かないと決めていた地元の大学に進学してから、やめることばかり考えて最初の2年を過ごした。でも、私は実務的な考えかたも持っていたし、親に対して筋が通らないことをしようという気持ちも、する度胸もなかった。

合格発表があってから入学式までは、それなりにワクワクしていたが、授業が始まった初日から、夏休みに入るまで、毎晩泣いて寝た。志望校に受からなかったから、とか、入った大学をやめて、行きたいところを目指し直すといって予備校に通う同級生が、向こうはこちらをうらやましがるが、憎いほどうらやましかった。

私は、大学に通いながら、受験し直したいと思った。春まで使っていた参考書やら問題集もある。でも、受験勉強だけをした方が効率がいいに決まっている。夏休み前に、京都の大学に行っている兄に相談するため、電話をかけた。兄に、大学をやめたいと告げた。言ったとたん、涙があふれた。
 
しゃくりあげながら話す私を、兄はさえぎらず、長い間しゃべらせてくれた。二つしか違わないのに、親元を離れた兄は、私が覚えているより、おにいさん、になっていた。話を聞き終えたあと、兄は、賛成できないと言った。そして、静かに言葉をかさねた。
 「これ以上、親に迷惑かけるな。」

私たちは、自分たちの家庭環境を、貧しいとは思っていない。でも、裕福でないのはわかっていた。父の仕事はいわゆるブルーカラーで、母が外で仕事をすることに難色を示す世代の夫婦の家だった。そして、私たちはどちらも、分をわきまえること、身の丈にあわないことを求めないことが正しいと、自然に思うように育っていた。無理をさせるほどの価値は、自分にはないことも知っていた。

兄は男だったせいで、あとで聞くと気の毒なくらい、過分な期待を感じて育ったようだ。その兄でさえ、私と違って大学受験も、東京や関西の何校も受けさせてはもらえたのに、意にそぐわぬ大学にしか受からなかった時、父は浪人という選択はハナからはねつけた。

兄にもやめるなと諭されたので、私は、それから、他の手立てを考え出した。もし、行きたい大学に行けなくても、とにかく今の大学をやめたい。でも、ただやめる、のでは自分も嫌だし、両親が許すはずはない。何か、かわりになるもの、仕事でもなんでも、あれば。

それで、こうして書くのにためらってしまうが、NHK の朝ドラのヒロインに応募しようと思った。

私は演劇が好きだった。小学校の時は脚本も書いたし、5年生の時の演劇クラブで、まわりの人の反応から、読み合わせだけでも、自分がどんなに上手だと思われているのか知った。高校生の時、準主役で舞台に立ち、演じる醍醐味を知っているつもりだった。

なにより、朝ドラのヒロインは、全くの新人ばかりで、オーディションで選ぶらしい。私は顔は、美人かブスかというと、ちょうどまんなかくらいで、スタイルがいいか悪いかというと、まんなかくらい。だが、身長が、高いか低いかでいうと、高かった。この身長と、若さと、若さゆえの可能性を信じる力のおかげで、私が朝ドラのヒロインになるのは、私には夢想より現実感のほうが大きかった。

でも、どうやって応募するのかよくわからず、その当時はインターネットもなかったし、そのままになった。私は今でも、新しいことを始める行動力に欠けていて、始めるよりはやめておくし、始めることでも、ながーい決断期間がいる。この時も、その一つで、私がどのくらい本気でヒロインに応募しようとしていたのかも疑わしい。


でも、大学3年生になろうかという春、私がひとつだけ、行動を起こしたことがある。全日空のスチュワーデス募集に応募したのだ。

大学がきらいだとは言え、私はそれなりに、サークルにも入り、やめ、別のサークルに入りと、大学生らしいこともしていた。その最初のサークルで知り合った、近くの女子大に通う1つ上の学年の先輩が、一念発起してスチュワーデス試験を受け、みごと合格した話を聞いたからだ。

垢抜けた雰囲気の先輩は、医者の娘で、私たちの世代は、ユニクロ前のブランドばやりだったが、そういうものを、嫌味なく身につけている人だった。その人が、やはり、サークルを通して知り合った短大生らが、スチュワーデスとして就職した話を聞いて刺激を受けたらしい。先輩は、大阪にあるスチュワーデス予備校のような所に、3ヶ月くらい新幹線で毎週通って、試験に合格するためのノウハウを学んだ。

お嬢様の雰囲気バリバリだった先輩は、結婚でもして大学やめよっかな〜と言っても、嫌な気にもさせない雰囲気の人で、就職しないと聞いてもびっくりしなかったと思う。でも、その人が就職を決めた。大学は、あと1年を残して退学する。それもスチュワーデス。5才の時、なると宣言した仕事。いとこの家のおばちゃんが、「やすこがスチュワーデスになったら、おばちゃん、心配するわあ、いっつも。」と言ったので、優先順位をぐっと落としてはいたが、魅力のない仕事ではなかった。

そして、募集が出た。目の前に。ただし、日航の国際線でなく、全日空の国内線、中途採用。英語を生かすのには、先輩のように、国際線でないと?日航のほうがネームバリュが?でも、募集が出ている。受かれば、仕事があるのだから、父と母に、これこれこういう理由で大学はやめるが、心配しなくていいと言える。

考えてみれば、意にそぐわぬ大学になってしまったのは、私の、うまくいきそうにないことは、わりと早くにすっぱりあきらめてしまう傾向のせいではあった。受験の時、共通一次の得点を見て、私は自分の志望校への合格率が、「絶対」ではないことを知り、出願校を変えた。賭けはできない、と思ったのだ。一つしか大学を受けられないのに、落ちるわけにはいかなかった。そして、二次試験までの勉強を投げた。そして、それは、努力してなにがなんでも入ってやる、という気概も決心もなかったということでもある。

私は、スチュワーデス採用試験の応募書類を準備し、送った。行動を起こした。一次試験の書類審査が通り、大学の長い春休みのまんなかくらいで、家に結果を知らせる手紙が来た。2次の英語の筆記試験の日程が記されていた。春休みが終わる頃に、私は新幹線に乗って大阪に行き、全日空の支社で筆記試験を受けた。

ただ、試験に行く前に、母にどこに行くのかとたずねられた。実家に住んでいた私は、母が、全日空の社名入りの封筒が届いたのを見ていることは知っていた。もしかしたら、手紙の内容も知っていたかもしれない。私は、隠さず、でも、最小限の情報だけを伝えた。
    スチュワーデスの募集がでとったんで、受けに行ってみる。
     受かったら、どうするん?
母がきく。なにげないふうに。
      受からんわあ。受けるだけじゃ。
私もこたえる。なにげなく。
       出してみるだけ出してみたら、試験受けに来い言うんよー。せっかくじゃけえ、受けて見るわ。英語の試験じゃし。

試験は、よくできたと思った。筆記試験は受かるはず。私は、成績の送り先を記入する欄に、自分の家でなく、大学の友人のアパートの住所を書き入れた。

ほどなくして、筆記試験合格の手紙が、友人のアパートに届いた。三次試験の面接への招待、日時と場所、が書いてあった。ここまでは、えらそうだが、想定内だった。国内線だし、全日空だし、中途採用だし。適切な人材は、新卒採用枠でとられているはずだし。容姿も資質も求められるものは、ふだんよりは高くないだろうし。

母は、私の筆記試験の結果が届かないのを、うすうす感じているようだった。
 あれは、どうなったん?
ある日母が私にきいた。
 うん?
実はその週の終わりが、面接の日だった。大学の新学期は始まっていた。
  受かったと思うんじゃけど、わからんなあ。
     結果はこんのん?
     まだ、こんなあ。
子供に関して鋭い母なら、きっと何かを察しそうな会話をかわして、私はその日も次の日も大学に行った。

母は、私が地元の大学に行っているのをとても喜んでいた。自身は15才で、就職で家を離れた母は、自分の子どもには近くにいてほしいと強く願っていた。私が県外に出たがった時、隠れて泣いていたのも知っている。そして、学校の成績がよく、教員になることを夢見たことのある母には、私が、自分の通う大学に不満があることが、理解できなかったと思う。

もし私がスチュワーデスになると言っても、この人は喜んではくれない。母は私に教員になってほしがっていた。私に向かって、勉強しろとも、センセイになれとも、口にはしない人だったけれど。いくら仕事があっても、大学を中退すれば、母をまた泣かせてしまうのだろう。

私は迷い始めた。やめる手立てになるはずの採用試験が、大きな可能性で待ってくれているのに。

今回の就職のチャンスをふってしまう理由は、いくらでも浮かんだ。国際線ではない。日本航空ではない。中途採用なので、新卒採用とは待遇も違う。損ではないだろうか。同じスチュワーデスになるのでも、新卒採用などの、定期募集の時にまた受ければいいのでは。そもそも、私は、ほんとうにスチュワーデスの仕事がしたいのか。

迷っていても、とりあえず面接試験は受けて、受かってから悩んでもよかったのに、私は、面接に行くこと自体をやめた方がいいのかと思いだした。面接向きの服を着て家を出たら、母に絶対気づかれる。受かっても、母に何と言う。今度こそ、あなたの気持ちを裏切りますと?私は、たぶん、しない、この仕事を。私にできるとは思えない。

今の私から見ると、経験だけにでも行くだけ行って、受かったあとで迷えばいい、簡単な決断だ。が、その時の私は、ずっと、行く行かないの二択の中で迷っていた。自分自身でもどうしたいのかはっきりしないまま、私の選んだ服が、試験当日の私の答えになった。大学に行くのに家を出る私は、スカートでなくジーパンをはいていた。コンバースのスニーカー。薄黄色の、USED CLOTHES  とロゴのはいるトレーナー。

行かないんだな、私。

今までも、こんなふうに決断してきた。できないとわかったら、手に入らない可能性を感じたら、私の方から先に手放す。死ぬ気で勉強したらどうにかできたかもしれないことも。必死に話せば、県外の大学には出せないという両親を説得できたかもしれないことも。自分でできることがまだあるのに、あきらめる。自分でない何かのせいにしてしまう。私はいつもそうなんだ。そして、いつまでもそれを気に病む。

1時間に2本しかない電車に乗って、私は大学のある市に向かう。そこから自転車に乗って10分で大学がある。でも、でも、新幹線の切符が買えるだけのお金は持っている。いつもはそれほど入っていない財布に、十分な現金を入れている自分。そして、私の、キャンバス地のトートバッグには、大学の教科書などといっしょに、採用試験の面接のお知らせの手紙が入っていた。

後悔するかも。行ける。時間は間に合う。まだ行ける。行くことだけでも、できる。こんな格好でも、もしも、があるかも。

そして、私は駅から自転車でなく新幹線に乗り、面接会場のある、大阪の全日空の支社まで行った。

結果はもちろん不合格。面接された部屋を出る前からわかった。部屋を入る前からも、わかっていたのだ。静かに順番を待つ多くの受験者の中で、スカートをはいていないのも、パンプスをはいていないのも、紺のジャケットを着ていないのも、私だけだった。面接官には、ジーンズとトレーナーで面接に来た人はあなたが初めてだが、その意図はなにか、とも聞かれた。

帰りの新幹線の中で、私はどんな気持ちだったのだろう。後悔していたと思う。でも、どの部分を?何をしなかったことを?何をしたことを?少し泣いていたと思う。何に対して?誰に対して?気持ちにふたをしたことだからか、私の記憶は定かでない。許容量を超えていたのだろう、私という器の。

その頃の私は、自分が思いたいよりずっと幼稚だった。思慮深さに欠けたし、大学をやめて仕事をしたいと言うような人の気概は備わっていなかった。でも、その日、その幼稚な私は、ほんのちょっとの行動だけど、うまくいかないとわかっていても、してみるだけしてみた。だめなことがわかっていて、もしもに賭けてみた。人のせいにしなくてすむように。予想通り、結果は「失敗」だったが。

1時間たつかたたないかのうちに、ここだけにはいたくないと思う町の駅に新幹線が着いた。その時には、私はもう泣いてはいなかった。


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