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「自由に働きたい」と話す就活生が見ている世界

就活生向けのグループワークを覗かせてもらうことがあります。そこでの会話を聞いていて印象的なこと。「仕事」とか「働く」ということについて話す彼らの口から、「自由に働きたい」という言葉が、本当にたくさん出てくること。グループの誰か一人が「自分は、自由に働きたいなって思う」という口火を切ると、「ああ、私も」と応じる人が出てくる。そして、グループワークの最後には、「やっぱり、キーワードは、自由に働くってことかな」と、ゆるやかな全会一致の空気が漂う。

グループワーク当日は時間の都合もあり、「自由って、どういうイメージ?」と個々人に突っ込んで聞くことはかないません。だからこそなのか、いつも必ず出てくる「自由」という言葉に込めた彼らの思い、そして、「自由」と「働く」ことを不可分なものとしている彼らの心象とはどんなものなか、ずっと気になっています。

大久保:ある人をモチベートして働いてもらう、という考え方が私は好きではないんです。個人の中で自ずと生まれるモチベーションのほうがずっと健全で強いはずです。企業のトップやマネジャーが社員に対して行うべきは、モチベートすることではなく、一人の人間として信頼すること、敬意を払うことだと思います。

野田:まったく同意見です。人間は操作可能な道具じゃないんですから。

奥本:生き生きに関する調査結果を見ると、そうした企業の欺瞞に若い人たちが薄々感づいてきた傾向が見られます。40代〜50代は生き生きという言葉の意味をポジティブにとらえ、充実感、やる気といった言葉を連想するのですが、それ以下の若手はネガティブなとらえ方をする傾向がありました。たとえば、生き生きから連想される言葉として、社畜や疲弊という言葉が挙がりました。企業目線で生き生きを語ると、働く人の心が逆に離れていく感じがします。

Works Review 「働く」の論点2020

個人と組織の「ちょうどよい」距離感とは、どんなものなのでしょう。付かず離れずでは、少しよそよそしいでしょうか。スープの冷めない距離、というのが、前向きな感じがして良い表現のなのかなと思います。

いずれにせよ、個人と組織の距離感に対して、若者という個人が向ける視線は、「近ければ近いほど良い」という一次元的、一方向的なものではない、ということなのだと思います。

そういった個人に対して、組織がなすべきことは、《一人の人間として信頼すること、敬意を払うこと》の対義語として用いられる悪い意味での《モチベートする》のような、操作可能性を漂わせる打ち手ではないはずです。組織から個人への操作可能性というのは、組織が「個人が持つ価値観」を、なにかしら一次元的、一方向的なものとみなしている証拠だからです。たとえば、「給料を上げれば頑張るだろう」「毎週1on1をすれば部下のことが理解できるだろう」のように。

組織がなすべきことは、求心力と遠心力のマネジメント(バランスを取る)なのだと思います。

求心力と遠心力のバランスを取る、と抽象的な言い方をしていますが、組織(現場マネージャーや人事)が実際にやることは、日々の些事の積み重ねです。求心力と遠心力という、相反する価値観を両方とも是なるものとして視界に入れる。個人という顔の見えない一般論ではなく、「その人」が「いま、ここ」で何を感じ何を考えているのかを聞く。「その人」との対話を通して、組織からは何を供し、個人からは何を供するのか、裏を返せば何は供さないのかという、期待のすり合わせを丁寧に繰り返す。「給料を上げる」「毎週1on1をする」といった打ち手は、こういった積み重ねの先に、結果として現れるだけであって、本質は「打ち手の手前」にあります。

「近い」という(無条件の)善ではなく、「善き近さ」を探ることが必要です。「近い」という善は、「遠い」ということ自体を悪に貶めてしまいます。でも、「善き近さ」をちゃんと探る世界においては、「善き遠さ」という価値も両立し得ます。

就活生が口にする「自由に働きたい」という言葉には、個人と組織の間に横たわる、スープの冷めない距離への希求が含まれているのかなと、今は感じています。

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