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「いま、ここ、じぶん」ができること

母校の大学生/大学院生に向けてお話ししたことをきっかけに、4回にわたって(私の)キャリア観について書いてきました。

今回は、これまでのお話しを踏まえて、「キャリア・デザイン」という言葉について考えてみようと思います。

自分の経験や、他の人からキャリア相談を受ける経験からも、キャリアについての悩みの多くは、キャリアを「デザインする(できる)もの」と前提していることに由来しているのではと感じています。「デザイン」という言葉の意味を再確認することで、それとは別の「キャリアとの向き合い方」について書いてみようと思います。

手入れとデザイン

「やりたいこと」と「ありたいすがた」の対比を援用させてもらった『やりたいことなんかないけど、しあわせでいたい人の話』に続いて、今回もふんどしを貸してもらおうと思います。

自然というのはみんなそうですが、「自然のまま」にしているわけです。それに対して人工そのものの意識というのは「思うようにする」ということです。自然は思いのままにならない典型です。自然は非常に強いものですから、これを思いのままにしようとしても無理だということはわかっています。そこでどうするかというと、これに手入れをして人工のほうに引っ張るわけです。これが本来の手入れです。

養老孟司『手入れ文化と日本』
自然を人間の思い通りにてなづけようというのが「デザイン」の発想だとしたら、「手入れ」も結局は人工のほうに引っ張るんだけど、人間が好きなように引っ張るのではなく、あくまで自然の意思を認めつつ、その力を借りつつ、引っ張る。

手入れとデザイン』より

この記事はキャリアについてのものではないのですが、引用部分の「自然」を「キャリア」に置き換えてみても、なんとなく読めてしまうのは私だけでしょうか。「自然」と「キャリア」の相似は、両者とも「思いのままにならない」という共通項からくるのでしょう。

キャリアにおける手入れ

次は、キャリアの文脈でもってこちらを読んでみてください。

人間が結果を完全にコントロールするためにデザインするのではなく、ある意味、神頼み的なところも含めて「他力本願」で手入れをする。間違っちゃいけないのは、この他力本願は他人任せではなく、他人を信じて祈り、かつあくなき努力するということです。計算によって答えが出るとか、特定の方法を使えば結果が出るとか、病院にいけば必ず病気が治るとか、賞味期限は必ず正しいとか、安いものより高いもののほうが必ず価値があるはずだとか、そういう予定調和が成り立たないことを知ったうえで、他者を信じて自身が努力し続ける。
そういう「手入れ」へのシフトが必要なんじゃないかと感じてます。

手入れとデザイン』より

そしてここで、初回に紹介したプランド・ハップンスタンスの説明を読んでみてください。

成功を収めたビジネスパーソンを対象にキャリア分析を行った結果、実に8割の対象者が「現在の自分のキャリアは予期せぬ偶然に因るところが大きい」と答えた。
(中略)
キャリアは偶然によって左右されることが多く、これらの偶然をポジティブな方向に考えることでキャリアアップにつなげることができる、という理論となります。

プランド・ハップンスタンス』より
偶然の出来事は、ただ待つのではなく意図的にそれらを生み出すよう、積極的に行動したり、自分の周りに起きていることに心を研ぎ澄ませたりすることで、自らのキャリアを創造する機会を増やすことができる。

プランド・ハップンスタンス』より

プランド・ハップンスタンスを私なりに解釈しなおすと、「キャリアはデザインするのではなく、メンテナンス(手入れ)するもの」となります。個人から見ると「思いのままにならない」キャリアというものに対して、ガチガチにコントロールしようとするのではなく、かといって、「どうにもならないもの」として放置してしまうのでもなく。その中間の「良い加減」としての、メンテナンス(手入れ)という半身(はんみ)での向き合い方

少し前に「メンテナンス。努力と結果をつなぐもの。」という乳酸菌飲料の広告コピーがありましたが、メンテナンスの表現として秀逸だなあと感じていました。「積極的に行動したり、自分の周りに起きていることに心を研ぎ澄ませたりする」という「努力」を、「自らのキャリアを創造する」という「結果」に結びつけるもの。キャリアとの向き合い方に、そんな「メンテナンス」という視点を取り入れてみると、今までとは違う景色が見えてくるのではないでしょうか。

「デザインしない」という消極的な方向ではなく、「手入れをする」という積極的なシフトが必要かな、と。

手入れとデザイン』より

「いま、ここ、じぶん」で考える/行動する

気をつけなくちゃいけないのは、デザインではなくてメンテナンスとしたところで、悩みから解放されて、手放しでよくなるわけではない、ということ。メンテナンスとして向き合うのであれば、メンテナンスとしての厳しさが立ち上がるわけです。

大学院のとき、家庭教師のアルバイトで高校生を教えていました。

受験生にはいつも「どこを第一志望にするかは自由だけど、必ず第一志望に行きなさい」と言っていたのを思い出します。高校生から見える景色の中で大学を選ぶということは、見えないことだらけだし、もっと言えば、なにが見えてないかも見えていないわけです。志望校に行ったからといって良いことばかりではないし、嫌だなと思うことも起きるでしょう。

でもそれは、滑り止めに行ったとしても同じ。

ただ、唯一違うのは、志望校にいる自分は、過去の自分に恨み節する余地が残らない、ということです。だって、過去の自分にとっての「いま、ここ、じぶん」で最善を尽くしたわけだから。逆の言い方をすれば、滑り止めにいる自分は、「あのとき志望校に行っていれば」という後悔から逃れられなくなる可能性があります。

客観的な理屈も大切。でも、客観や理屈は、その後の自分の人生に責任は取ってくれない。仮に失敗したとしても、今の自分が未来の自分に向かって、「ごめん、うまくいかなかったけど、あのときは嘘ひとつなく、本当にそう思っていた。だから、リカバリーよろしく」と言えるかどうか、が一番強い芯たりえるのかなと思います。

【自己紹介】研究者→ITコンサルタント→人材育成という円環(赤坂優太)』より

メンテナンスとしての厳しさというのは、「未来の自分に向かって、『嘘ひとつなく本当にそうなんだ』と胸張って言えるように第一志望を選ぶ」ことであったり、「必ず第一志望に行く」ことです。生易しいことではないですよね。

メンテナンスでもってキャリアに向き合うというのは、「いま、ここ、じぶん」でもって考えたり行動することを意味します。そこには「正解」も「太鼓判」もありません。相談はできるけど、「決めてくれる他者」はいません。全部の自分で向き合うからこそ、自分のキャリアになっていくのだと思います。

はじめから絵を描ききる必要はない。

キャリアを考える学生さんには、まず一番にこれを伝えたいなと思っています。自分を振り返ってみて、「はじめに絵を描ききる」ことに縛られていたし、それができない自分を責めていた時期もありました。時間が解決する、というのは、キャリア観におけるひとつの真理だと思っています。

だけど、だからこそ、「いま、ここ」において、よく考え、よく行動することが大切というのも、一方の真理です。天命を待つ必要はあるけど、その前に人事は尽くしておかなきゃいけない。

絵は描けなくても、絵筆は手に取る』より

「デザインではなくてメンテナンス」と肩の力を抜くようなことを言っておきながら、最後は「いま、ここ、じぶん」でもって考えたり行動するという厳しさが立ち上がってきて、足がすくんでしまった人もいるかもしれません。

次は、最終回として、もういちど肩の力を抜いてキャリア・メンテナンスを考えられるようなお話しをして、締めくくりとしたいと思います。


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