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取ら(せ)なきゃいけない有給休暇の向かう先
基本毎日リモートワークなのだけど、月に数回出社することがある。駅のホームに入ってくる通勤電車に、「懐かしい」という形容詞を当てている自分に驚くことがある。
こちらの引用は、ちょうど1年前、2019年12月の記事から。
「都会で、おおくの人々は、感覚を遮断して生きているそうです」
感覚遮断(sensory deprivation)か。
かつて心理学の教科書でみたおぞましい実験場面を思いつつも、なるほど・・・言い得て妙だな、と思いました。
確かに、都会では、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた満員電車で、「五感を解放」しているひとを、僕は、ほとんど目にしたことがありません。
スーハースーハーと匂いをかぐ
じっくりと物事を見つめる
何かを味わう
そんなことをしていたら、周りから「変な目」で見られてしまうこと請け合いですし、場合によっては、「お縄」になってしまうこともあるかもしれません。
むしろ、満員電車などのひとがたくさんいる場所では、一時的であるけれども、
「感覚すること」を止める
「感覚する自己」を放棄する
そして
満員電車に身を委ねてボーっと過ごす
という方がしっくりきます。
それが、わたしたちの「サバイバルストラテジー」でしょう。
『「感覚遮断」して生きる私たちの日常と「五感の解放」!?』より
この記事が描写しているちょうど1年前はたしかに、「懐かしい」と呼ぶほどには時間軸が離れている。と同時に、急ブレーキと急アクセルと急ハンドルを繰り返したこの1年を経ると、「懐かしい」という形容詞が持つ「ついさっきまで忘れていたけど、実はつながっていることを、いま思い出した」という、付かず離れずのニュアンスがすっぽりと抜け落ちてしまうほどの隔世の感がある。
リモートワークになって感じるのは、「それ以前」はたしかに感覚遮断していたな、ということ。満員電車に加えて、スーツを着ることも感覚遮断につながっていたかもしれない。スーツ自体は嫌いじゃないが、暑かったり雨の日は、さすがに気が乗らなかった。
一日のなかの時間を、仕事とプライベートという別々の入れ物のなかでやりくりしていたのも、今になって思うと、感覚遮断のひとつな気がする。
仕事(≒会社に居る)の時間なので、あれをやってはいけない、これをやってはいけない。プライベートの時間にしか休めないから、プライベートな時間には「休まなきゃいけない」。
リモートワークと称して個人が自宅でひとりPCに向き合うとき、頭の中は仕事のモードでありながら、目に飛び込んでくるのは、このあと夕食を取るときと同じ景色だったりする。
耳ではテレビ会議越しの会話を聞きながら、目ではこのあと来そうなにわか雨の前に取り込まなくてはならない洗濯物を追っている。
ビジネス(≒パブリック)パーソンとしての「自分」と、パーソナル・パーソン(個人的個人)とも言うべき「じぶん」が溶け合う。
『リモートワークで変わったのは、生産性か?それとも?』より
期せずして2019年4月から、年5日の有給休暇取得が義務づけられた。「誰の」義務なのかがよくわからなくなる、不思議な日本語だとは思う。
「休まなきゃいけない」プライベートな時間と、「休めない」仕事の時間のあいだの境界線が溶け出したとき、義務化された(誰が?)有給休暇というものが、どんなふうに使われるのか、はたまた使われないのか。「使われない」はまずいので(誰が?)、どのように「消費」あるいは「処理」(廃棄物?)されるのか。
東京駅や成田空港でのインタビュー映像が極端に少なくなりそうな今度の正月休み。私たちは、どんな休みを過ごしているのだろう。そして、来年はどんな休みを過ごすのだろう。過ごしたいのだろう。
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