リモートワークで変わったのは、生産性か?それとも?
「リモートワーク、どう?」
はたらく人どうしのオンライン飲み会で、そんな話題になることも多い。
僕も先日そんな話しをしたので、おぼろげな記憶をたどって書き残しておこうと思う。
会話のなかでのなんとなくの結論というのは、「リモートワーク環境下での生産性」といったときに、それが組織(たとえば経営者や人事部)から語られたものなのか、あるいは個人(はたらく一人ひとり)から語られたものなのかによって、なにをもって「生産性」と呼んでいるかが微妙にズレているよね、ということだった。
微妙に異なるものを同じ「生産性」という言葉で指し示しているなかで、組織と個人のあいだの対話は成り立つのかな。
経営や人事に携わる人たちは、はたらく一人ひとりとどう向き合うとよいのかな。
そのあたりで会はお開きになった。
2つの生産性
組織が言うところの生産性というのは、「投下した単位リソースあたりの、得られたリターン」という計算式で計測されるものであって、それはリアルだろうとリモートだろうと変わらない。
「リモートワーク、どう?」という問いは、「生産性をいかに計測するか?」(アウトカムと投下リソースの数値化&見える化)と「計測されうるところの生産性をいかにして上げるか?」(スキル開発、モチベーション、エンゲージメントあたりの各種人事的打ち手)というふうに換言される。
一方で、個人が「リモートワーク、どう?」という問いに答えようとすると、「話しかけられないから集中できる」といった、組織が言うところの生産性と同じ文脈での答えがありつつも、実際はもっと多様な方向性の応答にあふれている。
「満員電車に揺られるストレスがなくなった」「家族との時間が増えたから、うれしい」「家族との時間が増えたのだけど、居心地悪い」
個人がリアルとリモートの間での生産性の変化を語ろうとするとき、それはリソースとリターンの分数には到底収まらない、それこそQOLというか、はたらく一人ひとりの価値観に触れざるを得ないものとなる。
パッチワークからグラデーションへ
リモートワークと称して個人が自宅でひとりPCに向き合うとき、頭の中は仕事のモードでありながら、目に飛び込んでくるのは、このあと夕食を取るときと同じ景色だったりする。
耳ではテレビ会議越しの会話を聞きながら、目ではこのあと来そうなにわか雨の前に取り込まなくてはならない洗濯物を追っている。
ビジネス(≒パブリック)パーソンとしての「自分」と、パーソナル・パーソン(個人的個人)とも言うべき「じぶん」が溶け合う。
僕の場合、リモートワークに移行する前、つまりなんの疑いもなく通勤という行為を毎日繰り返していたときには、オフィスでいろいろなことがあったとしても、自宅の玄関のドアノブに手をかけたときには、このあと「おかえりー!あそぼー!」と飛びついてくる息子の顔と声が頭の中を占めて、「いまから2つ目の人生が始まる」といった感覚になっていたことをよく覚えている。
(オフィスでの時間もハードだが、仮面ライダーごっこの無限ループもハードだ。ドアノブをひねりながら、気持ちのネジを巻きなおす必要があるのだ)
それがいまは、「ひとつの人生」という言葉がしっくりくる。
24時間を、朝起きてから出社するまでの時間、オフィスにいる時間、退社してから寝るまでの時間という3つの時間でパッチワークしていた当時とくらべると、いまは、すべてがグラデーションとして溶け合っている。
今日のタスクリストの中に、テレビ会議と洗濯物の取り込みと資料作成と仮面ライダーごっこが仲良く並んでいる。
悪意なき混同
パッチワークとグラデーションのどちらが望ましいかは人それぞれだし、そこに優劣をつけたいわけではない。
ただ、グラデーション的な時間の流れのなかに身を置き続けたとき、個人が「リモートワークによってあなたの生産性はどう変わりましたか?」という問いを投げかけられたら、それに対する回答というのは、リソースとリターンの分数には収まりきらない、それこそQOLとしか呼びようのないものを吐露しているのではないだろうか。
会社がリモートワーク環境を改善しようと思って、すなわち善意でもって、個人に対して「リモートワークによってあなたの生産性はどう変わりましたか?」とアンケートを送ったとき、個人の側では悪意なき混同が起きてしまう。
このアンケート結果をもとに、会社がなにか手を打ったとして、それは本当に個人が望んでいるものにつながっているのだろうか。
「家族との時間が増えたのだけど、居心地悪い」と感じている個人が、「リモートワークによってあなたの生産性はどう変わりましたか?」というアンケートに対して、「生産性が下がった」と回答したとして、そこから組織と個人のあいだの対話は始まり得るのだろうか。
(もちろん、程度問題として。こういったアンケートにまったく意味がないわけではない)
はたらく幸福論
経営や人事に携わる人たちは、はたらく一人ひとりとどう向き合うとよいのかな。
組織と個人のあいだの、幸福論という文脈での交信は、今後どうなっていくのかな。
アルコールの後押しもありつつ、組織(人事)の側の「自分」と、個人としての「じぶん」を行ったり来たりしながらの時間だった。
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