新年の目標をたてる代わりにやってみてほしいこと
そろそろ、あるいは、もう、年末年始の休暇に入る(入った)人の増えてくるこの時期。年末年始ではないが、同じく長い休暇ということで、ゴールデンウィークの過ごし方についての引用。ゴールデンウィークにやったこととして、「デイリーノートを書く」というのを紹介している。
デイリーノートって要は日記や日誌ということなんだけど、一日というよりはもうちょっと細かい単位で記録をつけていくニュアンス。
何の記録をつけていくかというと、なんでもよくて、でも個人的には「時刻」「やったこと」「思いついたこと」「感じたこと」がおすすめ。
ちなみに昨日の僕のデイリーノートはこんな感じ。
時刻と一緒に、やったこと(宿題まるつけ、カプラ)、思いついたこと(ビール冷やしとく)、感じたこと(ぶっ続けはさすがに無理)がとりとめもなく書いてある。ちなみに、カプラというのはブロック遊びの名前。
これの何が良いのか? あらゆることをメモすることを始めてみた人のこちらの感想が、それを端的に表している。
僕も自分のデイリーノートを見返すと、息子が宿題をやっているときの風景や、丸つけ終わった直後に「遊んで」と言われたときのグッタリした感じとか、カプラで作った高いタワーがありありと浮かんでくる。
それの何が嬉しいのか? ここは人によって感覚の分かれるところだと思うけど、僕の場合は「一日の密度が濃くなる」「毎日をちゃんと生活している」、大げさに言うなら、「自分の人生を生きている」感覚になる。
「どんな一日でしたか?」「毎日何をして過ごしてますか?」「何をしてるときが楽しいですか?」 自分の人生についてこんなふうに聞かれたとき、人は記憶の中からその答え、すなわち自分の人生を探そうとする。人は現実の世界を生きているのと同時に、記憶の中を生きているのだ。
デイリーノートの効果を大げさに言うのなら、人生を変えていくことなのだと思う。記録が記憶を生む。記憶が人生を生む。現実の世界は変わってないのに、記憶が変われば人生は変わる。
学生や社会人からキャリアの相談を受けたとき、「デイリーノートをつける」というアドバイスをすることが増えた気がする。キャリアが人生の一側面だとするなら、記録をつけずにキャリアについて考えるというは、自由に考えているようでいて、その実とても不自由なことだと思う。記録をつけずに考えるというのは、たまたま浮かんできた不完全な記憶の中でしか考えられないわけだから。
キャリアについての問いというのは、「これから何をしたいのか?」「どんなふうになりたいのか?」といったように、未来に向けたものである場合がほとんど。あるいは、その未来に向けた問いに補助線を引くために、「今までどんなことをしてきたのか?」と過去に向かうことも。ただ、いずれにせよ、「いま、ここ」に目を向けることが圧倒的に少ないと僕は思っている。それが、キャリアについての悩みを深めているとも。だから、キャリアについて考えることを、「いま、ここ」の記録を取るところから始めてみては、と言いたくなるのだと思う。
この年末年始、休みの長さは人それぞれだろうけど、少なくとも忙しい毎日よりは時間があるはず。ただし、「時間がある」というのはカレンダー上の話。休みが終わるときの「あっと言う間だったね」という言葉に象徴されるように、カレンダー上の時間の長さと、体感上の人生の密度は一致しない。
忙しくない、フワフワした時間のなかで「いま、ここ」が薄まるこの時期だからこそ、デイリーノートに記録をつけてみてはどうだろう。そして、休みの終わりに、自分が書き留めた「やったこと」「思いついたこと」「感じたこと」を見返す。一足飛びの未来に向けて新年の目標をたてる(夢想する)よりも、得られるものが多いと思う。
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