「珈琲一杯と、湯気の向こう」
こちらは、短編小説となっております。
無料ですので、息抜きにどうぞ𓂃🌿𓈒𓏸
「珈琲一杯と、湯気の向こう」
彼女はいつものように忙しそうに歩いていた。足元に広がる都会の喧騒が、ひとしきり冷たい風と一緒に彼女の周りを通り過ぎる。その日も、いつも通りの朝が始まっていた。慌ただしい仕事に追われる日々、少しだけ心が疲れた時、彼女はちょっとした休憩をとるために、いつものカフェへ足を運んだ。
「いらっしゃいませ。いつものご注文ですか?」と、いつも笑顔で迎えてくれる店員さんが声をかける。
「はい、お願いします。」と、彼女は微笑みながら返す。
店内の温かな空気と、香ばしい珈琲の香りが、心地よい安らぎを与えてくれる。この場所に来ると、何となくホッとする。珈琲を一杯頼み、窓際の席に座ると、外の景色が彼女を少しだけ遠くに連れて行ってくれるような気がした。都会の忙しさを離れ、静かな時間が流れる。
彼女はカップを手に取る。温かな飲み物が、冷えた手を包み込み、少しずつ心も温まっていく。その瞬間、店内のドアが開き、ひとりの中年の男性が入ってきた。どこか古びた、でも温かみのあるジャケットを羽織ったその男性は、店内を見渡し、静かにカウンターに向かって歩いてきた。
店員さんがすぐに笑顔で応対する。「いらっしゃいませ。ご注文は?」
男性は少し戸惑いながらも、微笑んで答える。「あ、珈琲一杯…お時間があれば、少しだけ座らせてもらえますか?」
店員さんは心よく頷き、テーブルに案内した。彼はそのまま、窓際の席に座った。少し顔を上げると、彼女の目と合った。
彼女は一瞬、どうしても気になってしまった。男性の顔に、どこか見覚えがあるような気がして。だが、それがどこで見た顔なのか、思い出せない。
珈琲が彼女の前に運ばれてきた時、その男性が静かに声をかけてきた。
「すみませんが、ちょっとよろしいですか?」
彼女は少し驚きながらも、「はい、どうかしましたか?」と答えた。
「実は、あなたが座っているその席、昔よく僕とおばあさんが一緒に座っていた席なんですよ。」男性は少し照れくさそうに話し始めた。「あの頃、おばあさんがまだ元気だった頃…」
彼女は驚いた。おばあさん、という言葉に心がざわつく。その瞬間、心の中で何かが弾けるように思えた。
「おばあさん…?それって、もしかして、私の…」
「はい、あなたのおばあさんです。」男性の顔に、懐かしそうな表情が浮かんだ。「昔、この店でよくおばあさんと話していたんです。おばあさんは、いつもこうして、この席に座っては、よく人生の話をしてくれたんです。」
彼女は言葉が出なかった。思い出が一気に溢れ出してきた。おばあちゃんと過ごしたあの温かい時間。小さなカフェで、おばあちゃんが何度も言っていた言葉。
「人生には、いろんなことがある。でもね、何より大切なのは、こうして誰かと一緒に温かい時間を過ごすことよ。」
おばあちゃんの笑顔が、今でも鮮明に浮かぶ。
「どうして、あの時もっとおばあちゃんと過ごさなかったんだろう」と、彼女はふと思った。おばあちゃんは、もういない。最後に会った時、「またね」と言ってお別れした日から、もう何年も経っていた。あの日から、ずっと心の中でおばあちゃんを失った寂しさを抱えて生きてきた。
「おばあさんが言ってたんです。人生で一番大切なのは、こうして誰かと心を通わせる時間なんだよ、と。」男性は静かに続けた。「あの頃、おばあさんに、いろんなことを教わりました。」
彼女は目を閉じ、しばらく静かに考えた。そして、やっと言葉が出てきた。
「おばあちゃんが…そんなことを。私、ずっと…心の中で彼女を忘れられなかったんです。」
その言葉に、男性は深く頷いた。「おばあさんのように、あなたもきっと、誰かにとって大切な存在なんだよ。だから、無理せず、こういうひとときに気づくことが大事なんだ。」
彼女は静かに涙をこぼした。涙が、彼女の心の奥底から溢れてきた。痛みがあった。でも、その痛みが温かさに変わったような気がした。
「ありがとう…」彼女は呟いた。男性はただ、温かく微笑んだ。
その後、二人はしばらく無言で、珈琲を味わった。外の風景が、どこか優しく見えた。彼女は、少しだけ肩の力が抜けるような気がした。
最後に男性が立ち上がり、言った。
「珈琲一杯もいいですが、こんなふうに、誰かと一緒に過ごす時間も、また素晴らしいものですよ。」
彼女はその言葉を胸に、深く頷いた。おばあちゃんが教えてくれたこと、それが今、自分にとって一番大切なことだと感じた。
そして、彼女は再び、この小さなカフェを訪れ、誰かと心温まる時間を過ごしていこうと心に誓った。
【完】
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