見出し画像

医学と、倫理について

「コロナ後の世界」という本を読んだ。

様々な分野の識者の意見をまとめたコラム集のようなもので、免疫学、経済学をはじめとして、社会学、精神医学、哲学にまで意見が及んでいて、それぞれが違う角度でコロナを論じているのでなかなか読み応えがある。
 
なかでも特に関心を引いたのが、精神医学者の斎藤環氏が述べている主張だ。コロナは、感染性が高いが、潜伏期間が長いうえに発症が限定的なため、感染していても本人に自覚がない、ということが起きている。

なので、外出時には常時マスクをする、密を避けるなどの対策は、「自分が感染しないため」というよりは、「自分が感染している前提で、他者に感染させないために行動する」ことが目的となる。

これは、キリスト教における「原罪」の概念に似ているのではないか、というのだ。全人類が、「自分が感染しているという前提でふるまうことを『社会的に』求められる」という点で、これは原罪的だ、と。
 

感染予防と自粛の要請が、純粋に医学的な見地からであるにも関わらず、倫理的な要請に似ているところが、さらに事態をややこしくしている、という。

コロナ禍においては、外出・外勤・外食・旅行・交際をすることが、ことごとく「罪」の意識を生んでしまう。その結果、「自粛警察」という概念が自然発生的に生まれ、見知らぬ人に罵倒されたり、家に張り紙を貼られたりしている。
 
パンデミックは、目に見えないのがやっかいだな、と思う。以前、スプーンやフォークなどの食器で、自分専用のものを持ち歩いている人と接したことがある。

レストランで、他人が使ったものを使うのは、たとえそれがキチンと洗浄されていたとしてもいやだ、と。

潔癖症な人だな、とそのときは思ったのだけれど、よくよく考えてみれば、レストランの食器なんてのは何百人、ひょっとしたら何千人と使う可能性があるわけで、それだけの数「使われた」食器と考えると、確かに気持ちが悪い。

普段はそれを意識していない、考えていないだけで、そういうことを具体的に想像してしまうと、気持ちが悪くなる、ということはあるかもしれない。

コロナも同じで、「周りの人が全員感染しているかも」と考えたら、怖くなるだろう。自分だけならまだしも、お年寄りや子どもなど、家族がいるならなおさらだ。
 

戦争やテロとは違って、コロナは「完全解決」はないし、「グラウンド・ゼロ」もない。

もし、どこかの国が集団免疫を確立して、「コロナの収束」を宣言したとしても、封じ込めによって「コロナを防いだ」国の国民からしたら、そうした国は「けがれた国」になるわけで、国交が断絶することもあるかもしれない(少なくとも、いまは一時的とはいえ、国交が断絶されたに近いような状態だし)。
 
これから、どうなっていくのでしょうか。自然と忘れられ、なくなっていくのでしょうか?

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。