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何が「オレもそれやりたいです」と言わすか?

「バスケがしたいです」というセリフが、マンガ『スラムダンク』の中に出てくる。そのマンガは週刊少年ジャンプで連載されていたころ(1990-1996)、とても人気があった。それを読んだ若者は「オレもバスケしたい!」と思い、こぞってバスケを始めた。
これは何度か書いていることだけど、人の欲求は「本人がしたい」と思う以前に、何かの影響を受けている。

なぜ当時の若者はバスケをやりたがったのか?

『スラムダンク』を読んだ若者は、本当にバスケをしたかったのだろうか。
ぼくの経験でいうと、バスケは確かにしたかった(これは経験談である)。

『スラムダンク』を読んでいると、バスケットボールの面白さに気づく。それに選手たちがかっこいいと思う。それで実際にバスケをやってみると、シュートが入ったときは気持ちいいことがわかり、ますます「バスケがしたいです」と思うようになる。
しかし、「オレもバスケがしたいです!」と思っていた若者のうち、多くの人が気づいていなかったのは、バスケをはじめて、練習をしたとしても漫画の主人公たちのようにうまくはなる人はごく稀だということと、バスケの試合で有利に立つためには、身長がだいぶ足りないということだった。そして、走り続けるととても苦しいということもわかっていなかった。

仲間と路上ではじめたバスケは、ダラダラとした動きでも大丈夫であり、時々ダッとドリブルしてシュートして決まると気持ちいい。とにかく気持ちいい感じで動けたのだが、実際のバスケ部の試合は地味である。なんといってもディフェンスがいるからシュートもそうそう決まらない。それに、10分でもバスケットコートを走り続けていると本当に疲れる。「ここまでしてバスケを続ける必要はあるのか?」と、漫画を読んでいたときは人ごとだった身体のの問題に、そこではじめて気づくのである(ぼくだけかもしれないが)。

バスケ部に入る以外の道に気づけない


何かを「本当にやりたいどうか?」を判断する基準は、それが下手でも続けたいと思うかどうかだ。

他人と比較して「この世界ではやっていけない」と感じたとしても、やりたければ続けることはできる。たとえ試合に出られず、プロになれないとしても、アマチュアとしてそれを楽しむことはできる。他人からとやかく言われても、大抵のことは続けられる

問題は、それで稼ぎたいとか、それで試合に出て勝ちたいとか、試合に出て一番活躍したいとかいう欲望が混ざってきたときだ。その欲望は、「バスケがしたい」とは別物である。「バスケがしたいです。しかも勝ちたいです」ということなのだ。

そうやって、欲求はいとも簡単に濁っていく。
最初に「やりたいです」と自発的に思っていたことは、いつの間にか他人の影響を受けて、少しずつ変わったものになっていく。純粋な気持ちに、勝ちたいです、活躍したいです、そしてプロになってお金持ちになりたいです、という気持ちがプラスされる。

イラストレーターも同じである(ぼくはイラストレーターです)。
絵が好きだから絵を描きたいです。絵を描いているのでそれを仕事にしたいです。仕事にするならお金はたくさんほしいです。というふうに変わっていく。そのうち、描きたい絵を描くのはプロじゃないです、依頼されて描くのがプロです。に変わる。それが問題だということではなく、そうやって欲求はいつの間にか変化していくものだということだけを言いたい。


他人の顔を見て欲望を決めるケース


親の顔を見て、親が喜ぶようなことを言ってしまう子どもがいる。テレビに出ている子役などはその代表格で、彼ら彼女らは「なんだか夢の中にいるみたい!」というように(?)、大人がウフフと微笑んでしまうようなことを言うのが子役としての務めだと認識しているかもしれない。子役的な子供は、もしそのまま反抗期を経ずに育つとすれば、たとえ大人になっても、誰かの顔を見て「やりたいこと」を決めるようになるだろう。そのやりたいことは、自分のためではなく、誰かのためなのだ。

100点を取りにいくことの弊害

ぼくはいま、ミームデザイン学校というデザインの学校に通っている。デザインという行為をしばらくやってみてつくつぐ、自分はデザインに向いてないなぁと思うわけだけど、いろいろな理由があって、まだもう少しデザインを学ぶつもりでいる。

その学校にはいろんな現役デザイナーが講師としてやってきて、生徒は大抵課題を与えられる。それで作った作品は、みんなの前で講評されることになるのだが、その講評中にデザイナーの高田唯さんが言った言葉が印象に残っている。それは「先生から100点をもらおうとしないでね」ということだった。

先生から100点を取るのは、先生の指標に自分の指標をあわせるということだ。先生の指標を獲得すれば、仕事には役立つかもしれないが、その先、先生を越えることはできない。

自分が「これ良い」と思うことを深掘りすべきだ、という意味で高田さんは言っているのだと思う。先生に合わせようとすると、「自分はこれが良いと思うけど、先生はこうしたほうが喜ぶだろうな」という考え方になる。それは仕事で役立つ考え方ではあるが、自分が創作を続けていく上では間違った考え方だ。

先生から100点を取ろうとする考え方は、クライアントから100点を取ろうとする考え方であり、親が喜ぶ答え方でもある。
世をうまく渡っていくためにはおそらくそのほうが良いのだが、それは自発的に生まれてきた「やりたいこと」とは違う、ということだけを言いたい。


なぜ、多くの若者がバスケをやりたがって、実際にバスケをはじめてしまったのだろう?その多くは長続きしない。「やりたいこと」がなんなのかを深く考えずにはじめてしまったからである。バスケがただしたいだけなら公園のバスケットコートを使うだけで良かった。そうすれば、バスケ部で苦しんで練習する時間は、もっと有意義に「他のやりたいこと」のために使うことができたのである。

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