見出し画像

わかった気になって「バカ」を断罪する病

何かを「わかる」ためには最初は二項対立で分けるのがよいが、そこで止まってしまうくらいなら何もわけず、何もわからないほうがマシだ。中途半端にわかっている人が一番危険である。

正義と悪で分けることの危険性

世の中の人をすべて「正義と悪」で分け、あいつの言っていることはいつも正しい、あいつの言っていることはいつも間違っている、みたいに考える癖がついてしまうと、そこからなかなか抜け出せなっていく。「わかった!」と思って世界がクリアに見えた瞬間、「バカなあいつ」が気に食わなくなって、気にくわない気持ちに縛られるからだ。しかし今「わかったばかりの自分」は、過去においては「バカなあいつ」と同じレベルにいたことを忘れてはいけない(基本的には忘れるものだけど)。

文化大革命では知識人たちが血祭りにあげられたが、血祭りにあげる側の学生や労働者たちに「殺しても良いよと理屈づけ」をするのは、また別の「知識人」なのである。実態は知的エリート同士のただの権力闘争なのだが、「二項対立でわかった気になっているタイプの知識人」が、誰が悪なのかを学生たちに指し示し、「あいつは悪なので殺して良い」という。「悪なので殺して良い」という意見を聞いた学生たちも、二項対立で物事を考えるように学んでわかった気になって、人を殺していく。

二項対立でもし考えるなら、分けたものをさらに分けて「正義の中にも正義と悪がある」ことに気づかないといけない。4分の1理論である。そうやって無限に分けていかないと、いつまでも断罪行為を続けることになる。なんのためらいもなく誰かを「断罪」できるのは、自分の中に悪がないことを自覚できている人だけだが、人は誰しも大なり小なり悪を行っているので、本当は誰かをためらいなく断罪できる人はいない。それなのに、断罪できると思ってしまう病は、自覚しない限り止まらない(若者が先鋭化しやすいのは、悪行への知識が少ないからかもしれない)。

正義の中にひそむ悪、悪の中にひそむ正義。
家庭で妻に暴力をふるう警官。捨て猫を助けるテロリスト。家計をやりくりするために盗みを働く人。タックスヘイブンに本社を移転しながら、顧客ファーストを主張する企業家。

世界は二項対立で分けられるほどシンプルではない。シンプルなのは子供向けのフィクションだけだ。子ども向けのフィクションばかり見て育って、フィクションと現実を区別できず、善悪の二項対立を信じる子どもの頭で社会生活をおくっている人は意外に多い。ぼくが「子ども心」を嫌いなのは二項対立的価値観に囚われやすいからだ。子どもを否定したいわけではない。幼稚なまま大人になる人がやばいのである。

中途半端にわかった気になりそうなとき、そのままでいるとバカを断罪するようになってしまうので、いま「何がわからないのか?」を意識する必要がある。本を読むときや何かを学習するときに大事なのは、「わかろうとする」こと以上に、「では何がわからないのか?」「ここは具体的にはどうなっているのか?」を意識することだ。そうしないとすぐにわかった気になって、わかった気になると、今度は「わかってないバカ」を探し出して断罪するようになる。

「わかった!」と思ったときに気をつけるべき点を3つ

わかった!と思ったあとそこで止まると実はわかっていないことがあるので、そこで止まらないために気をつけるべき点を整理する。

①「わかっていることは、わからないことと隣り合わせである」を自覚する

何かがわかると、その横にわからないことがある。風俗嬢の失業対策をすべきだというとき、風俗嬢の雇用形態はどうなっているのか?という疑問がわきおこる。
飛沫で感染することがわかったとき、飛沫とツバは何が違うのか?人は話すだけで飛沫は飛ばしているのだろうか?という疑問が湧く。

②時間の概念を導入して考える

・「わかった」といえる解は、過去や未来にわたっていつでも普遍的な解なのか。
・「こうすればこうなる」とわかったとき、その現象が起きる時間の幅はどれくらいか。

「タピオカはもう古いですよ。売れないです」は、今日は確かにそうだといえるが、10年後はどうだろうか?

バブル崩壊による経済破綻は一瞬の出来事ではない。世界恐慌も一瞬の出来事ではない。「〇〇だから××」の「だから」が時間的経過をどれくらい省いているかを考えると、説明の中に理解していない現象があると気づくことがある。「バブルが崩壊したから、就職氷河期になった」とか、「世界恐慌が起きたから、日本は満州事変を起こした」とか。「オーストリア皇太子がセルビア人に銃殺されたから、第一次世界大戦が勃発した」とか。

③「実際」はどうなっているのか?を考える
言葉だけ、概念だけで説明したりされたりすると、わかったような気になってくることがある。

ぼくは普段家で仕事をすることが多く、コロナ騒動に関係なく人に会わずに「情報」にばかり触れている。そうするとすぐに「概念人」や「言葉の人」になってしまう。
だから旅行をするように心がけている。旅行は「実際」を教えてくれるからである。ネットで見た華やかなスポットは、ネットなら一瞬で見ることができるが、実際にたどり着くまでの移動にはけっこう時間がかかる。飛行機だけで12時間かかったり、最寄駅から歩いて30分とか。そして、お目当のスポットに行くまでの道のりは全くネット上に載っていなかったことに気づく。華やかなスポットに行くまでの道のりにはお土産屋さんが並んでいて、華やかさとは縁遠かったり、道のりに立ち並ぶ住宅街に、生活の匂いを感じ、その生活のほうに魅力を感じたりする。そういう生活感はなかなかネット上に上がってこないものだ。(コロナ騒動で気になっているのは、「実際」を知らずに語る人が増えるだろうということだ。ぼくも含め)

「弱者」の実際を知らずに救済しようとすることがある。
「救済」の実際を知らずに救済しようとする。実際に誰かが救われるのは、瞬間的にではなく、持続的なものだ。一時的に給付されることによって「助かる」人はいるが、持続性がなければ「助かる」は一瞬で助からないに変わる。

給付とは?感染とは?軽症とは?重症とは?重篤化とは?ICUとは?保健所とは?誰が、なにをしているのが保健所?医療崩壊とは?崩壊すると、誰が、なにを、どう困る?コロナ騒動でも疑問はさまざまにわき起こる。

そこで生まれる山のような疑問を調べる時間は惜しい。だから蓋をして、誰かにお任せしたくなる。そんな疑問を解消したところで、全く稼ぎにつながらない。しかし、「稼ぐ行為」とは「概念」ではない。「実際」を知っている人だけが稼げるのである。

同時に、実際だけを知っていて概念を知らないと、今度は実際だけから得られる「学び」に縛られる。タピオカブームが来るちょっと前にタピオカ屋を始めて、「タピオカは売れなかった」と学んで店を畳み、商機を逃す。

おわり

ちょっと飛躍するが、上で触れた「稼ぎにつながらないこと」にかまけて貧しくなっていく人はたぶん多い(ちょうどそんなドラマを見たからそう思うだけなのだが)。稼ぎにつながらない何かにかまけてがんばった結果として貧しくなったとき、人は「なぜ貧しくなったのか?」を自問する。

そこで「稼ぎにつながらないことにかまけていたからだ」と思うか、「世界が間違っているからだ」と思うかによって、その後の病み方が変わる。「世界が間違っている」と思うほうが病として重症であり、立ち直りは難しい。


コメント、スキ、サポートなんでも嬉しいです。 反応があると励みになります。