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海外を旅行することにどんな意味があるか

日本から外国に行くとなると、もっぱら飛行機を使わなければならない。パスポートを取ったり、出発時刻よりも早めに空港に着いてなければいけなかったり本当に面倒なことばかりだ。

新幹線の旅は楽だ。普段の通勤電車に乗るのと文字通り地続きで、改札を抜けてエスカレーターをのぼれば、そこに新幹線のホームがある。飛行機特有の揺れも遅延もほとんどなく、目的地にたどり着く。それにひきかえ海外への旅は苦痛だらけだ。

社会科学の弱みは「実験」ができないこと

最近出版されたばかりの『社会学史』(大澤真幸/講談社新書)をパラパラと眺めていたら、「社会科学系の学問の弱みは実験ができない」ことだと書いてあった。

クリエイターはアイデアをすぐに形に落とし込みながら、質を高めていく。自然科学もどんどん実験して、失敗を重ねながら精度を高めていく。社会科学では、いわゆる実験室的な意味での実験はできないので、「比較」を使うのだという。社会がどうなっているのかを見極めるために、ある地域と別の地域を比較していく。社会学の創始者といわれるデュルケームは、カトリックの文化圏とプロテスタントの文化圏で、自殺率に違いがあるかを比較した。

日本人の弱みは「比較」がしづらいこと

ぼくが20代前半だったころ、あるアンケートで「あなたが興味のある国は?」と聞かれた。ここで外国を出すのは当たり前すぎるのではないか?と考えた当時のぼくは「日本」と答えた。今思うと、なんというダサい回答…。

日本は安全で住みやすい国だと言われる。
なぜそう言えるのだろう?
日本がどんな国か。
なぜ日本しか知らないのに堂々と答えられるんだろう?

少なくとも1カ国は、日本以外の国を知らなければ、日本がどんな国なのか、
正しく把握できるとは思えない。どれだけメディアを眺めても、どれだけ本で知識を得ても、それだけで外国のことをわかるわけがないのだ。

家族で旅行をしたことのない子供は、地理の成績が悪いという。雪を見たことのない子供は、教科書に「雪」と書かれていてもそれがどんなものかわからない。冷たいということすら。海に入ったことのない子供は、海の広さも海水の不味さもわからない。

「日本」に最も興味があると答えていた20代前半だったころ、ワタナベアニさんと出会ったぼくは、なぜか「早めに外国に行くべき」と言われた。

比較する街が東京しかない

なぜ行かなければならないのか?と思いながら、最も安く、手軽に行ける上海に2泊3日で行った。ビビりだったぼくは、空港からホテルまでの往復は添乗員がついているパック旅行を購入した。

上海タワーや高層ビルの立ち並ぶ街(浦東地区)を歩きながら、ここは新宿みたいだな、と思った。比較できる街が東京しかなかったのだ。

いまになって思う海外に行く根本の理由は、楽しむためじゃない。楽しさで考えるなら、いまいる場所に楽しさは溢れている。高級ホテルに行くよりも、家のソファに横たわっているほうが快適だ。
楽しもうと思って外国に行った人は時々、サービスの質の低さや差別に出会って期待を裏切られる。そうやって帰国した人は、日本を過剰に溺愛し、外国文化を過剰に毛嫌いしてしまう。

外国の街を見ていくと、比較できる街が増えていく。
あのとき上海に行ったことで、あのときの上海のことは少しわかる。たとえ二泊三日のパック旅行でも。公園で将棋のようなものをやって楽しんでいた男たち。指をさすだけで食べられる大衆食堂。いまはもう違うかもしれない。

なぜ海外旅行に行くのか?

結論は、外国と比較して、いまの日本をよりよく知るためだ。なんと単純。もちろん、日本全国を旅するのも日本を知る役に立つ。建築物や地形は目で見てわかる。でももっと抽象的なレベルで、雰囲気やサービス、システム、人々の感じはどうか?それはたぶん、外国に行き、比較対象を増やさない限り、あまりよくわからないだろう。そんなわけで、できるだけ早いうちに、海外には行っといたほうが良いと思う。歳をとると、行かない言い訳だけ達者になっていく。

※写真は2018年の香港。

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