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ハイライト

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増補改訂版「ハイライト」はnote創作大賞2023に入選しました。


 前の日の雨で桜の花はほとんど落ち、路面や水たまりに散らばっている。泥にまみれた花びらを踏んで歩く。靴の裏にも花びらはついているだろう。僕はいつからか桜の花が灰色を帯びて見えるようになった。
 僕は「クラバート」と言うドイツの児童文学書をビジネスバッグに入れている。僕にとってスヌーピーのライナスの毛布のようなものかもしれない。
 名門と言われる大学のテニスコート。そこで行われる国際大会。国際大会と言っても大坂なおみや錦織圭が出る訳ではない。ツアー最下部のフューチャーズ。世界を狙うプロのキャリアはここから始まる。ここでポイントを稼いで上位の大会の予選に出場する。フューチャーズを廻る選手の生活は苛烈だ。日本の大会でオフィシャルホテルが旅館だった際、玄関に置いた選手のテニスシューズが別の選手に盗まれた。

 以前コーチを務めた女の子がこの大会で引退すると連絡を受け、仕事の合間に来た。フューチャーズで引退するという事は、上には行けなかったという事だ。大学生の手作りの観客席にスーツ姿で座る。客はほどほど。少し雲がかかる春の昼下がり。
 大学卒業後、僕はプロとしては大した戦績を上げられず、選手としては早いうちに諦めた。ただ、教え方がうまかったのかツアーコーチとして様々な選手から声がかかるようになった。ツアーコーチは特定の選手についてツアーをまわる。コーチとしては名誉なことだ。しかし、僕はしばらくしてコーチを辞めた。
 今は金融大手に拾われ、投資信託などのファンドマネジャー業務を担う。仕事を抜け出して、コーヒー片手にコートを眺めるのは本当は楽しいはずだ。でも僕は手に嫌な汗をかいている。

「湊くん、元気?」
 見上げるとジュニア時代から一緒に練習して来たさおりさん。彼女も現役引退後、ツアーコーチをしている。女性のツアーコーチは少ない。思いつくところで元世界ランキング2位のマルチネス、アンディマレーや杉山愛のお母さん。それぐらいだ。出産、育児でキャリアが途切れてしまうからか。選手の意識として、女性にコーチングされることに抵抗があるのか。
「今日で亜妃ちゃん、引退なんだってね」
「そうなんだよ」
「あの才能、もったいないよね。視野が広くてセンスあったのに」
 亜妃の才能は突出していた。ストロークのキレとコントロール。女子では珍しい果敢にネットに出る状況判断。身体能力。そしてたぐいまれな美貌。誰も彼女の将来を疑わなかった。彼女が高3、プロとして海外に出る際に僕がコーチとして呼ばれた。それはコーチとして光栄な事だ。可能性のある選手。人を惹きつける魅力。まだ戦績が無いのにスポンサーが何社かつく。
 
 コーチを始めると戸惑った。練習を始めようとしてもコートに来ない。そうかと思うと先にコートで待っており、自分にすさまじい負荷を掛ける練習をする。気分屋なのかと思ったが、そうではなかった。
 周りに自分を見ている誰かがいると、しっかりと練習する。いないとやらない。コーチ以外で自分を見ている人がいないと何もしない。
 彼女に何度も話した。周りに人がいようがいまいが関係ない。プロとしてやっていきたいのならそこは気にするところではない、と。
 しかし、だめだった。
 彼女はテニスに興味がなかった。可愛らしく、運動神経も良い。昔からずっとちやほやされていたのだろう。ジュニアの頃からマスコミに頻繫に取り上げられた。何をやってもうまくいく。褒められるのが当たり前。練習も周りで見ている人から褒められる。コーチしかいない所で練習などする意味が彼女にはない。自分を褒めてもらえるのがたまたまテニスで、褒めてもらえなければやる意味がない。周りから過剰に褒められることで彼女は徐々に駄目になっていた。
 戦績が下降する。練習量が根本的に足りないからだ。ジュニア時代の貯金は直ぐに尽きる。勝てない。そうなると、周りの目はコーチが良くないと考える。
 あんなに才能のある子を潰して。

「湊くんも大変だったよね、あそこまで練習しない子、それをうまく隠す子持たされて。私もわかんなかったな」
「まあ、しょうがないよ。僕がうまくコントロール出来なかっただけだよ」
「でも褒められるためだけにテニスやるって、あの子この後大変だよ。おまけにあそこまで可愛いと。湊くんも無茶苦茶な話彼女から流されたしね、あ、ごめんね」

 春の強い風が舞いあげた砂ぼこりに目を閉じる。教え子の試合が始まる。過去に輝き放った才能は染みの様なものとして僅かに残るだけ。相手に圧倒される。それに対しての工夫もない。なすすべもなく負けた。誰かから花束をもらい、未練もなく笑顔で手を振りコートを去って行った。
 今日はこの後男子シングルス一回戦、車いす女子の一回戦がある。
 亜紀のツアーコーチをしたことで、僕のテニスコーチとしてのキャリアも終わった。ジュニア時代の輝きを放った子を選手として大成出来なかった事実はどこに行ってもついて廻った。僕はそこから這い出せない。

 次の試合が始まったが、60代ぐらいの黒縁メガネをかけた男性が客がスタンドを動き回る。テニスは観客のマナーにうるさい。オンプレイ中は声援はもちろん、観客が席を移動するのもNGだ。男性の動きは目立つ。スタンドの向こうから運営の学生が走って来る。
「プレイ中は座ってください」学生は遠慮がちに言う。
 男性は不審な目で学生を見る。
「ここを歩いてはいけないのか」
 虚を突かれ、学生は何も返せない。テニスの大会での当たり前は世間の当たり前ではない。僕は思わず声を掛けた。
「そういう訳ではないのですが、テニスのマナーとしてプレイ中はスタンドを歩いていけないんですよ」
「何でだ?」
「選手の視界に入ってプレイの妨げになっちゃうんですよね」
 男性は、そうか、とつぶやき、辺りを見回す。そしてしばらく僕を見て、横に座った。学生は僕に会釈をし、試合が再開する。男性の手にはくたびれたエコバッグ、地味な濃紺のジャケット。皺の目立つチノパン。ただ、不潔だとかそういう感じはなく、身なりに気を遣わないだけかもしれない。

 コート上の男子シングルス。強打を売り物にした大柄な選手。ボールが潰れそうな音をさせ叩き込む。相手の選手は小柄でボールは遅い。しかし守備範囲が広く、コントロールとタッチに優れている。小柄な選手のコーチはさおりさんだ。さおりさんのプレイスタイルは創造性があり、観るものを楽しませた。それが彼にも受け継がれている。
 隣に座った男性が問いかけてくる。
「これぐらいの声で喋るのは構わないのか?」
 僕らの周りには客がいない。
「まあ、そうですね。ポイントの合間なら大丈夫ですよ」
「あの大柄な選手の方がボールが速く重そうだ。でもいつの間にかポイントを奪われている。何でだ」
 男性はどこまでそれを知りたいのだろう。適当に話そうと思ったが、僕はしっかりと答えていた。無垢なような好奇心を男性から感じたからかもしれない。
「小柄な方が相手をよく見てタイミングを外しているんですよ。大柄な選手は相手のコースを読み切れていない。それからここからだと分かりにくいのですが、小柄な方は同じボールを打っているようで毎回スピンの量が違う。相手が打つコースを誘導している。試合を支配している。大柄な方はいつの間にかミスしている。彼は自分のミスが調子が悪いからと思っているでしょう。自分のせいだと思っている。そうではなく相手にはめられているだけです」
 男性は眉間に深いしわが刻まれ、語気がはっきりとしている。昔気質の職人のようだ。僕は男性に少し好感を持った。何か知性というかそんな匂いを感じた。
 表情を変えずに、しかし随分熱心に目の前の試合を見ている。
「大柄な選手はそれに気が付いていないのか」
「そろそろ気が付くと思います。彼もプロですから。この後試合はもつれます。でも気が付くのが遅く、小柄の彼が逃げ切るでしょうね」
「大柄な方は凄いボールを打っているぞ」
 僕は少しためらった。大柄な選手も僕の友人がコーチをしている。でもこの男性に話をしても何も起こらないだろう。
「大柄な選手は強いボールを打つことが目的の一つになっているんですよ。小柄なほうは全てを勝つために注いでいます」
「目的の一つとはどういう事だ?」
 僕は少し考えた。
「野球は見ますか?」
「時々なら見る」
「ピッチャーでストレートにこだわる選手いますよね、バッターならホームランにこだわる選手。でもそれって少し変だと思う。チームが勝つために彼らはそこにいるのに、そのこだわりって必要ないですよね。あの大柄な選手も同じで、速いサーブ、威力のあるストロークにこだわっているんです、勝つためにでなく」
 男性はしばらく僕を見て、またコートに視線を向けた。試合はもつれたが僕が予想した通り小柄な選手が勝った。男性は君の言った通りになったなと言い、席を立った。

 もう帰ってしまったのかなと思ったが、男性は手に大きい紙カップに入ったホットコーヒー二つと紙袋を手にして戻って来た。コーヒーの一つを僕に差し出す。金を払おうとすると手でそれを制した。キッチンカーが出てるんだよ、と言う。紙袋の中にはチュロスが入っており、二人で食べる。香ばしく、思いのほか美味しい。男性も僕の方を向き、うまいなと初めて微笑んだ。そして唐突に話し始めた。
「娘はチュロスが好きだった。私は甘いものがそんなに好きじゃない。だから休みの度にドーナッツ屋に行くのが少ししんどくてな。娘は昔から優秀だった。俺は医者なんだ。消化器が専門だ。普通の家に生まれて奨学金を貰いながら苦労して医者になった。おかげで小さな病院まで建てた。ちなみに、看護師が扱いやすい医者ってわかるか?彼らにとって簡単にわかるそうだ」
「ちょっとわからないです」
「医者には横暴な奴がすくなくない。医者が決めたことが患者の命を左右する。周りは医者に決断を仰ぐ。それが絶対だ。縦型の社会。ある意味軍隊に似ている。医者が横暴になる土壌がある。もちろんそうならない医者も多い」
 男性はチュロスをコーヒーで流し込む。唇の右端にシナモンの粉がついている。
「2代目か、そうではないかだ。両親が医者ではないものは自分で医者になる道を選び、徒手空拳で進路から何から自分で決める。学費でも相当苦労する。勉強もあり得ないくらい大変だ。2代目は金もノウハウも大抵揃っている。余裕があるなかで育つ。だから2代目の医者が病棟に来るとスタッフが和む」
 手に付いたチェロスの粉を払う。
「娘が保育園の年長の時に事務的な手続きの間違いがあって私が出向いた。先生が娘の様子をちょっと見ていきませんかと誘ってくれた。娘は他の子の話を一生懸命に聞いていた。一方的に聞くだけでなく、時々質問を入れながら。わかると思うが医者は患者の話をよく聞くことが最初の仕事だ。親バカかもしれないが、娘は医者に向いていると思ったんだ。2代目だしな」
 
 次の試合まで時間があるとアナウンスが流れた。それまでコートは他の選手の練習にあてられると言う。女子選手二人が試合形式の練習をしている。周りの客は別のコートの試合を見に行き僕らの周りは誰もいない。
「さっきの男子の試合と比べると、この女の子たちは何と言うか同じショットの繰り返しに見えるのだが、気のせいか?」
 かなり鋭い事を言う。同世代のコーチ仲間で時々上がる話題だ。単調なハードヒットのみで試合を組み立てる選手が、ある地域やあるスクールで複数同時に育つ。
 それは女子に限らない。男子でも同じ事が起きる。その地域のテニス協会が閉鎖的で高齢の指導者で固まると、インスピレーションがある選手が愕然とするほど減る。
「体格的な問題は当然ありますよね、男子なら余裕を持って追いつけるボールが女子ではギリギリかもしれない」
「それはあると思うが、何と言うかさっきの男子の方が色々試しながらやっているように見えるんだが」
「個人的な考えなんですが、女の子のほうがコーチのいう事を真面目に聞いて、男の子は遊びの延長線上でやっている気がします。女の子は昔から真面目にちゃんと話を聞かなければならない風潮があるかもしれない。それからコーチは男性が多いし、女の子にとっては何もしなくても圧がありますし」
「旧来の社会的な性差の様なものが創造性を阻害していることもあり得るという事か」
「そうかもしれませんね」
 
 キッチンカーのコーヒーは相当なレベルで、冷めても美味しい。隣の男性に聞いた。
「まだ、ここにいらっしゃいますか?コーヒー、もう一杯飲みませんか?今度は僕が買って来ますよ」
 男性は頷き、チュロスなら私はもういいよ、と言った。

 キッチンカーに向かう途中で気が付く。教え子の引退試合に来ているのに何も声を掛けていない。しかしここで声をかけることを迷う。でも本人の前に姿を出すことで疑いを少しでも薄めたい。
クラブハウスで彼女の姿を探す。亜紀が僕に気づく。
「コーチ!今日来て頂いて、本当に、本当に嬉しいです!」
 押しの強い高い声がする。亜紀は花束を持ち、7~8人に囲まれていた。
「湊コーチと歩んだ期間は私にとって本当にかけがえのない時間でした。本当にありがとうございます!」
 周りの目が僕に注がれる。こいつが亜紀を潰した。そしてあれはどうなんだ。
 亜紀の成績が伸び悩むと、彼女は僕に性的行為を迫られたと周囲に流した。もちろんそんなことはしていない。僕は以前から疑いを掛けられた時の事を考えていた。コート以外では二人きりにならない、ボディタッチはしない、自分の居場所はGPS経由で記録するなど。彼女はそのような話を流す癖があるとコーチの間に小さな声で流れていたからだ。
 更に彼女が僕がそんな事をしたと言った日、僕はナショナルチームに帯同していた。調べればすぐわかることだ。でも彼女はまるで気にせず言う。周囲も嘘だと何となく察しても、彼女の魅力に巻き込まれる。桜の咲く頃だった。桜の花がグレーになった。
 さおりさんが言っていた。彼女、もう病気だから。早く診てもらわないと大変なことになる。
 
 キッチンカーでコーヒーを二つ買い、スタンドに戻る。コートではダブルスの練習が行われている。しばらく2人で目の前の練習を見ていた。
 男性が口を開く。
「テニスで重要なのは何かな」
「それは勝つために、ということですか?」
「まあそうだな。それだと的が絞れないな。なら、技術と体力は同じレベルだとしたらどうだ」
 不思議な設定だが、即答する。
「相手をどれだけ見ることができるか、そしてそれを生かせるかどうか」
 男性は僕を見ながら「そうか」と言った。

 目の前のコートには誰もいない。次の試合が始まるまで20分ほどある。
「すまんが、ここでタバコ吸わせてくれ。私が風下のそちらに行こう。いいかな」
 敷地内禁煙だが、周りに誰もいない。誰にも迷惑をかけない。どうぞ、と言い場所を移動した。ハイライトの青いパッケージを出し吸う。
「さっき娘の話をしただろ。話を聞くのが上手い娘。医者にさせたかった。私もそうだがそんなに勉強が出来る方ではない。だから勉強させた。そしたら小学生4年ぐらいか、テニスがやりたいって言い出した。勉強するのに邪魔だと思ったが、妻も運動も大事、と言うからやらせた。そしたら夢中になってな。勉強も頑張っているんだが時間が足りない。中学にあがると更にそうなった。私立の中学で進学校。成績はかろうじてクラスで10番ぐらい。それじゃ駄目なんだ」
 男性はハイライトを1本吸い終わる。青いパッケージを出し、それを眺めながら続けた。
「娘のテニスは見たことが無い。テニス自体よく知らない。病院が大きくなり、医者が足りなかった。個人の病院ってやつは大抵院長とか理事長が一番受け持ちの患者が多いんだ。他の勤務医の負担を減らすためにな。何日も泊まり込むことがたくさんあった。いつの間にか娘は高校生になっていた。おまけにテニスでインターハイまで出た。さすがに国公立の医学部は無理だ。それでも私立の医学部でも入って、うちの病院に来てくれればそれで良かった」
 眼鏡を外し、片手で目頭を強く抑えながら話を続けた。
「運動生理学をやりたいって言い始めた。医学部の範疇ではない。参ったよ。医者になるのに私がどれだけ大変な苦労をしたか、その苦労をしないで医者になれるというのに。人の話をよく聞くいい医者になれるはずなんだ。でもまあ、しょうがない。ちょっと枠に収まらない子なんだ。中学生の時に街中のホームレスに声かけて家まで連れてきたり、高校の時は地域で学校に行けない子とか勉強に遅れた子を集めて勉強会したり。妻も私もついていくのがやっとだ。家に帰ったら子どもが30人ぐらいいるんだぞ、玄関が子どもの靴で埋まっているんだ」
 僕は少し笑った。想像するだけで楽しい。
「娘のクラスメイトも何人かいて年下の子たちの面倒を見ている。麦茶とかお菓子の消費があり得ない。箱買いだ。もう自分のやりたいようにやればいいと思ったさ。医者は諦めた。テニスは大学でも続けていい成績上げたらしい。もちろん私は見ていない。時間がなかったしな。学生なのに海外にも出て時折勝ったらしい。海外にテニスで遠征するついでに現地のボランティアしたり。あいつのFacebookとかとんでもないことになっていたよ。そしてな、卒業したらいきなり結婚した」

 ハイライトを取り出す。風が強く、なかなか火が付かない。
「いきなりだ。いきなり。就職先がヘルスケア事業を扱うスタートアップ企業。そこの社長といきなり結婚した。驚いたけど本人がそう言うんだからしょうがないし、今まで全部自分で決めて来たんだからな。彼女の人生だから祝うさ。でも違和感があったんだよ。その結婚」

 向こうからキッチンカーのスタッフの男の子がポットを持って来た。コーヒーのお代わりを入れてくれた。
「こんなことしたら赤字だろ」
「そうでもないんですよ、お客さんもスタッフや学生も今日はたくさんいましたし。もう上がるのでこのコーヒー無駄にしてしまうから」
「でも申し訳ないから払いますよ」と僕は言った。
「なら、私は明日も来るから明日も買うよ。飲めるだけな」男性が言う。
 明日も?テニスを知らない人が明日もここに来る。思わず男性を凝視した。

 温かいコーヒーを手にし、男性は話を続ける。
「違和感は相手の男だ。話は上手い。人を魅了するってことはこういう事かと。どんどん奴が自分の中に無条件で入り込んでくる。話がおもしろい。仕草も丁寧で美しい。妻なんてもうぞっこんだ。しかし僅かだが話にほころびがあるような気がする。でも、まあ、人の話なんて大抵ほころびがあるから流した」
「でもほころびだけじゃない、巧妙に誘導する何かがある。自分の失敗談は話す。周りを和ませるような。そして人の話を親身になって聴く。しかし最後は自分の印象が上がる。利益を確保するって言えばいいのか。そして奴は本当の己を晒していない。人間関係ってお互い自分を少し晒して作り上げるものだろ。そうじゃないんだ。奴は娘や私や妻を消費している。しかし何せ具体的な話は出来ないし、今のところ何もない。私だけが違和感を感じたままさ」
 男性は煙草に火を付けるのを諦め、ハイライトの水色のパッケージをもてあそぶ。

「そうしたら、娘が会社やめるって言う。やめてどうすんだって聞いたら家庭に入るって。あんなに奔放に生きてきた子が家庭に入るってどうなんだよ。さっぱりわからん。聞くと、奴の意向らしい。家庭を守ってくれと。家庭を守るも何も子どもいないし何を守るんだよ。うちは妻が小児科医だから大変だった。医師が少ない時には二人ともなかなか家に帰れない。そんな時はさすがに家庭を守る誰かが欲しいと思ったがな」
 
大会本部からアナウンスがある。試合に入る時間が少し遅くなるとのことだ。風が強く吹く。地面の埃が舞い上がる。コーヒーをすすりながら男性が言った。
「こんな話、聞いてておもしろくないだろ」
「そんなことないのですが、僕なんかに話していいんですか」
 男性は僕を見て少しだけ微笑んだ。
「娘が俺たちに会わなくなったんだ」
「何ですか?」
「わからなかった。スマホの電話でない、固定電話からも連絡つかない。メールしても返信がない。LINEは最初は既読がついてた。でもじきに既読もつかなくなった。娘の以前の職場の人や学生時代の友人にも連絡を取るように頼んだ。でも無理だ。その旦那に聞くわけだよ、うちの娘と連絡が取れないんですがって。間抜けな質問だよな」
「そいつが言うんだ。妻は今体調を崩して静養中なんです、静かにしてやってください。何言ってるんだよな、その妻の両親は医者で小さいながらも病院経営してるんだぞ、当たり前だが娘のカルテもあるし。それ言ったら信頼のおける大学病院の先生にお願いしていますってな、腹立つだろ」
 男性は腹が立つと言いながら、その辺に煙草を買いに行くぐらいの涼し気な目をしている。

「こっちは医者なんだから会わせろっていうが、そいつは穏やかな顔で「今、一番重要な時なのです」とか言う。何が重要な時なんだよ、体調を崩して重要な時って、そりゃ危険な時とかだろ。妻は警察に、と言うが事件性の様なものは何もない。旦那は健在、その旦那が大丈夫だって言う。物証もない。でも警察に相談はした。親身になってくれた。でもそれだけだ。近辺をパトロールする際は注意します、何かあったら連絡してください」
 ライターの炎がタバコをとらえて煙が上がる。ハイライトのパッケージを胸のポケットにしまった。

「結局4か月も連絡が取れなくなった。妻が言うんだ、あの人の身辺調査しようって。娘があいつを連れて来た時は、身辺調査なんて思いもしなかった。知り合いから良い興信所を紹介してもらってな。結果、まっさらだった。真っ白じゃない、まっさら。何もないんだ。何も出てこない。結婚した時に挨拶したご両親、親戚から始まって出身地から出身校、学歴、前職。まっさら。驚いたよ。あのご両親は何だったのかとか。もしかしたら全部嘘かとか」

「奴が経営している会社に行ったんだ。そしたら社長はしばらくリモートワークだってよ。他の興信所にも頼んだけど同じ様にまっさら。娘が監禁されてるんじゃないかって考えた。そんなこと考え始めたら、娘が暗い光のない所に一人でいる絵が浮かんでしょうがなくなっちまった。体が勝手に二人がすむマンションまで行ってな。やけにセキュリティが強いところでよ、24時間警備員、昼間はコンシェルジュだぜ?コンシェルジュって普通マンダリンとかウェスティンとかオークラとかだろ?東横インにはいないよな。カードキーがないとエレベーター乗れないし。しょうがないから同じぐらいの年の男にマンション前で頼み込んだ。娘がいるんだけど4か月このマンションから連絡が取れない。一緒に行ってくれないかって。最初は訝しんでいたけど俺必死だったからな。名刺出したら連れてってくれたんだ、娘の部屋の前まで。呼び鈴鳴らして、ノックして。反応ないんだ。ずっと鳴らし続けた。奴が出てきてな、何してるんですかって。ものすごい柔らかい笑顔で。「ジョーカー」って映画あるだろ。アーサー・フレックがやったジョーカー。あの笑顔って誰も受け入れない笑顔だろ。その500倍ぐらい洗練された笑顔。でも誰も受け入れない笑顔。娘を返してくれって言ったが、笑顔で気分がすぐれないようですからって言うだけだ」
 ハイライトの煙が桜の木に向かう。僕は姿勢を直した。

「警察を呼ばれてしまった。廊下だろうが要求を受けて立ち去らなかったら不法侵入らしい。危なく逮捕されるところだった。今考えれば逮捕されて事件として警察の介入をするような流れを作っても良かった」
「娘さんは?」思わず口を挟んだ。
「嘘ってつくか?」
 唐突な答えが返ってくる。
「嘘って、あの嘘ですか?」
「そう、事実と違う事を言う」
「まあ、つかない人はいないと思いますけど」
「それってどんな嘘だ?」
 少し考えた。
「そうですね、遅刻の言い訳とか、女の子に聞かれて似合っていないのに似合ってる、とかいうやつですかね」
 男性は少し笑って言った。「それであればいいんだよ」
「君が言ったのは自分を取り繕う嘘だ。それぐらいなら害はないし、やりすぎても自分が困るだけだ。この世には嘘をつくことで相手をコントロールする奴がいる」
「虚言壁とかですか」
「虚言癖とはちょっと違う。虚言壁は周りに構って欲しいんだ。嘘をついた自覚がなく悪気もない。つじつまが合わなくても気にしない。自分が可愛く、自己正当化したい。そして周囲はその人物に虚言癖がある事を知らないと真に受けてしまう。ターゲットになった他人がとんでもない被害を被る」
 亜紀を思い出した。
「奴は違った。その嘘は簡単にはわからない。でも全部嘘だ。ヘルスケアを扱う企業の社長と言うのは本当だ。でも実務をしていない。細かい所は分からないが起業の時にうまく入り込んで噓を並べて社長になった。周りがうまい具合に丸め込まれた。結構いるんだ、柔らかい笑顔で一見筋道通った雰囲気を作る。結果全部自分の思う通りになるのが。身近だとママ友グループで仕切るのがそんなのが多い。あれ、雰囲気に流れるだろ。そこに細かく精密な噓をちりばめるとスタートアップ企業の社長になる。言葉と哲学らしい格言、そして自分を高みに上げるために人の非を指摘する。奴の目的は自分の言いなりになる人間を1人か2人作ることだ。それがあいつのアイデンティティなのかもしれない。宗教の様な大げさなものではないんだ」
 うちは精神科の看板も出してるんだ、と男性は少し笑って言う。
「興信所をいくつか使って以前の行いが薄っすらとだがつかめた。奴と一緒にいた人間がいつの間にかいなくなっている。事業を立ち上げたパートナー、同棲していた女性、写真のサークルで仲が良かった男性。この3人が消えたことが分かったが奴とつながる確証がない。そして奴と娘の居場所が分からなくなった。警察に届けたがあんなもの役に立たない。病院を他に医師に任せて探したよ。でも何もわからない。妻は倒れるし」
 ここまで話して何だが、こんな話喋ってていいのか?と言う。僕はかすれた声で興味はありますね、と答える。

「半年後の深夜、警察から電話があった。交通事故で娘が搬送されていると。あの時ほど慌てた事はなかった。車で向かうがなぜか娘が置いていった水色の可愛らしい軽自動車で妻と300㎞ぐらい離れた病院行ったんだ。運転が楽なそこそこ大きい俺の車があるのにな」
 次の試合が始まるアナウンスが流れ、練習していた選手たちが引き上げる。男性はハイライトを胸のポケットにしまう。
「命はなんとかな。脊髄損傷。損傷箇所は胸椎の7番。それでも消えてしまったと思っていた娘が戻って来たんだ。こういっちゃ何だが怪我なんかどうでもいい。生きてこそだ。そして奴はいない。不安になった。なので娘が暮らしていたマンションを警察立ち会いで踏み込んだ。いなかった。少し回復した娘に何があったんか聞いたんだ。最初は順番がばらばらでよくわからんかったが」
一息ついて男性が言う。「試合はまだ始まらないな」
「そうですね、あと15分ぐらいですかね」
「まだ続けていいかな」
 僕は頷く。
「今から言う3つのものから選んでくれ」
「え?」
「まあいいから。で、私は今からメモを書く。4つ質問をするが、メモに君が選ぶものをあらかじめ書いておこう」
 男性はレシートの裏に何か書いた。
「今から言うものを君の意思で選んでくれ『ジュース、塩、ジャム』」
「ジャム、です」
「次はそれに関係するものを選んで。りんご、海水、カレー」
「りんご」
「次もだ。電池、赤い、辛い」
「赤い」
「パソコン、地球、とうがらし」
「とうがらし」
 男性はレシートの裏を僕に見せた。とうがらし。
「凄いですね、何かの手品ですか」
「違う。君は自分の意思で選び、それが故に自分の意思が最後のとうがらしにたどり着いたと思っているはずだ。違う。簡単な仕掛けだがマインドコントロールの技術だ。最初のジュース、塩、ジャム。どれを選んでもとうがらしに行きつくんだ。やってみるとわかる。でも君は自分の意思でたどり着いたと思いこんだ。これを巧妙かつ精密にやると人を操ることができる。さっきの試合で小柄の男が相手を巧妙にコントロールして勝った。それを人格まで掌握して手に入れる。占い師に風俗で働かされて1億貢いだ女性がいる。マインドコントロールや洗脳って大々的な宗教だけじゃないんだ。娘はそんなことをされた。わからなかったのがマインドコントロールをした後の目的だ。さっき話した占い師は金だ。奴は娘を部屋に閉じ込めた。うちの病院の精神科の医者が言うにはそれだけが目的の奴が結構いるらしい。他人を徹底的にコントロールするだけで満足だ。それで飽きたらどこかにやってしまう。おもちゃの様にな」
「娘さんはどうやって出れたんですか?」
「それは部屋からか、コントロールからか?」
「どちらも、ですかね」
「そもそもドアのカギは自分で操作出来た。つまりいつでも出れた。でも娘は出なかった。部屋にはスマートフォンからテレビからPC、情報を得られるものはなかった。判断の参考になるものが何もない。みんな自分一人で判断しているつもりだが、自分に与えられた情報の蓄積で判断している、その蓄積はさっきのとうがらしのようなコントロールでゼロに戻す、その後は奴が都合のいいものだけを流し込む。暴力や暴言を使って恐怖を与え、上下関係を作る。あの部屋にあったのは大きなディプレイだけだ。プレイヤーが繋がっていたから再生してみた。環境音楽と景色が延々と流れる映像。毎日そんなものを眺めて、奴から恐怖と安心を受けていた訳だな。で、そこからある拍子で外に出た。ふらふら車道に出てトラックにひかれた」
「拍子って」
「回復した娘が言うんだ。奴がいない時に何の疑問も持たずに大きなテレビに流れる映像をいつものように見ていた。そしたら外国の田舎の鬱蒼とした森の中にある水車が出て来た。見ていたら胸が有り得ないぐらいに高鳴って、初めてプレイヤーのリモコンで戻した。今までリモコンを触ったことが無かった。許しを得なければならなかったし、その許しを得ようとするとひどく怒られた。でもリモコンで戻して何十回も見た」
 動悸がする。
「わかるだろう、君が今手にしている本。クラバート。あれはドイツの水車小屋を舞台にした物語だ。千と千尋の神隠しのモチーフになった物語だ。娘は子どもの頃からそれが好きで最初に買ったのがボロボロで1冊買い足した。私が君の横に思わず座ってこんな話をしたのも、その本が目に入ったからだ。言いなりの人形になっていた娘が水車小屋の映像でクラバートが掘り起こされたんだ。娘は最近よく言う。あの物語は呪縛を自分の力で解き放つ物語だってな」
 
 会場のアナウンスが次の試合を告げる。選手が2人車いすで入ってくる。
 唐突に横の男性が立ち上がり、地の果てまで通るような声で咆哮した。その声は何かを取り戻そうとする声だった。
「聡美!頑張れ!な、頑張れ、大丈夫だ、安心して、頑張れ!」
 聡美と言われた車いすの選手が笑いながら男性に手を振る。
「大丈夫だ、何も心配することない、大丈夫だ!」
 周りの客が男性を見る。審判も線審も見る。
「ここに!いる!彼がな!大事なことは相手を見ることだと!言っているぞ!大丈夫だ!ここの彼はな、今クラバートを持っている!解き放つ話だぞ!」
 横の男性は僕のクラバートを持っている手を持ち高々と上げた。聡美さんは僕らに大きくラケットを振った。

 聡美さんは巧みなチェアワークと柔らかいタッチ、そしてインスピレーション溢れる創造的なテニスで相手を寄せ付けず、2回戦に進出した。聡美さんはこれがツアー初参戦だったがその勢いで最終日まで残り、優勝した。
 その後聡美さんは海外ツアーに出ようとしたが、資金が足らない。僕が前から目をつけていた小さなバイオテクノロジーの会社と製薬会社の株で彼らの資金を捻出した。
 僕は会社を辞め、聡美さんのツアーコーチに就くことになった。桜は灰色から少し朱を帯びて見えるようになった。
 
 聡美さんのお父さんがハイライトを手にして言った。
「ハイライト、hi-liteと言うのは俗語で「陽の当たる場所」て言うんだぞ」




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