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ハイライト

いつからか桜がグレーに見えるようになった。
僕たちは自分で自分をコントロール出来ているのか。それは自由意志なのだろうか。
昔の教え子が引退する試合に出向いた、かつてテニスツアーコーチをしていた僕。コーチとして評判はよかった。しかしその教え子によってテニスコーチの職を失っていた。失わざるを得なかった。
試合会場でたまたま隣に座った初老の男性の口から話される、忽然と姿を消した自身の娘。
ドイツの児童文学「クラバート」。そして「千と千尋の神隠し」。
二つの物語が闇の中で光を探す僕らを引っ張って行く。
【2023note創作大賞応募作品】

あらすじ

                  
 前日の雨で桜の花はほとんど落ち、路面や水たまりに散らばっている。泥にまみれた花びらを踏んで歩く。靴の裏にも花びらはついているだろう。僕はいつからか桜の花が灰色を帯びて見えるようになった。
 僕は「クラバート」と言うドイツの児童文学書をビジネスバッグに入れている。といっても分厚い本をそのまま持ち歩く訳にはいかない。なので本をばらし、その日の気分によって何章かを表紙に差し込む。なんだってそんなに面倒な事をするのか、なかなか説明しづらい。もしかしたら僕にとってスヌーピーのライナスの毛布のようなものかもしれない。

 名門と言われる大学のテニスコート。そこで行われる国際大会。国際大会と言っても大坂なおみや錦織圭が出る訳ではない。ツアー最下部のフューチャーズ。世界を狙うプロのキャリアはここから始まる。ここでポイントを稼いで上位の大会の予選に出場する。シングルスで優勝すると15万円を獲得。ちなみにウィンブルドンは1回戦で敗れても一千万を超える。優勝すると3億円だ。
 フューチャーズを廻る選手の生活は苛烈だ。日本の大会でオフィシャルホテルが旅館だった際、玄関に置いた選手のテニスシューズが別の選手に盗まれた。

 以前コーチを務めた女の子がこの大会で引退すると連絡を受け、仕事の合間に来た。フューチャーズで引退するという事は、上には行けなかったという事だ。大学生の手作りの観客席にスーツ姿で座る。客はほとんどいない。平日にツアー下部の試合を見に来るのは関係者ぐらいだ。少し雲がかかる春の昼下がり。気温は少し上がり、ピクニックに行くにはちょうどいいかもしれない。その暖かい日差しに反して、僕は少し前に沼の様に引きずられた闇を思い出している。

 子どもの頃からやっていたテニス。中学高校とそれなりの戦績をおさめ、大学に在籍しながらツアーを廻った。しかしプロとしては大した戦績を上げられず、選手としては早いうちに諦めた。賞金を得るという、身をそぎ落とす場所に耐えられなかった。
 引退する前にヒッティングパートナーとして数多くの選手から声を掛けられた。ヒッティングパートナーとは練習相手のことだ。中には世界ランキング10位以内に入る選手もいた。聞くところによると、僕は球筋が素直でミスをしない。リズムを作り、調子を確かめるには最適らしい。逆に考えると、僕は相手が嫌になるボールを打てないという事だ。これでは選手としてのし上がれない。

 幸運だったのは練習相手を務めるうちに、自分はある技術を持っている事に気が付いた。相手の足りないところが見え、それをしっかりと言葉に出来たことだ。相手に素直に入る言葉を選べる。当然だが選手は皆、我が強い。コート外では好青年であっても試合では強烈なエゴイストであることが多い。そうでなければ上には行けない。更にテニスは試合開始から終了まで、誰からもアドバイスが受けられない。コーチングが禁止されている。チームメイトもいない。小学生でも1時間以上一人で戦う。自分以外信用できない土壌が彼らに出来上がる。
 故にコーチングには繊細な雰囲気と言葉が必要だ。コーチの我は不要。僕はそれが出来た。

 コーチとして身を立てることができた。そのうち声がかかり、ツアーコーチとして活動を始めた。ツアーコーチは特定の選手についてツアーをまわる。コーチとしては名誉なことだ。何人か受け持ち、彼らはみな上部のツアーに這い上がって行った。その後は選手のマネジメント会社が著名なコーチをつけ、僕は身を引く。でもその流れは僕にとって嫌いではなかった。僕の仕事は彼らが階段の一段目を踏み込む事が出来る力。一番苦しいところを支える。駆け上がる作法はそれを得意とする者に預ければいい。

 しかし、僕はしばらくしてコーチを辞めた。
 今は学生時代のつてで、金融大手に拾われ投資信託などのファンドマネジャー業務を担っている。仕事を抜け出して、コーヒー片手にコートを眺める。本当は楽しいはずだ。でも僕は手に冷たい汗をかいている。

「湊くん、元気?」
 見上げるとジュニア時代から一緒に練習して来たさおりさんだった。彼女も現役引退後、ツアーコーチをしている。女性のツアーコーチは少ない。思いつくところで元世界ランキング2位のマルティネス、アンディマレーや杉山愛のお母さん。それぐらいだ。出産、育児でキャリアが途切れてしまうからか。それとも選手の意識として女性にコーチングされることに抵抗があるのか。
「今日で亜紀ちゃん、引退なんだってね」
「そうなんだよ」
「あの才能、もったいないよね。視野が広くてセンスあったのに」
 亜紀の才能は突出していた。ストロークのキレとコントロール。女子では珍しい果敢にネットに出る状況判断。身体能力。ネットに出るという事は相手と距離が近くなる。近く速いボールを受けなければならない。自分の陣地の最前線に自ら飛び込むようなものだ。しかし辛うじて返すだけでもポイントを得る確率が高まる。ハイリスクハイリターン。彼女はそれが出来た。

 彼女は他にも武器を持っていた。たぐいまれな美貌。小学生の頃からその容姿は目立っていた。繁華街を歩くと何度も芸能事務所からスカウトをされたらしい。そんな彼女が創造力豊かなプレイを繰り広げる。あり得ないことだが、高校生の亜紀がインターハイ優勝のトロフィーを掲げた写真がテニス専門誌の表紙とwebサイトを飾る。次の月の表紙はフェデラーだ。
 誰もが彼女の将来を疑わなかった。彼女が高校三年生、プロとして海外に出る際に僕がコーチとして呼ばれた。それはとても光栄な事だ。可能性のある選手。人を惹きつける魅力。すでに周りから注目を得ている。
 しかもプロとして戦績が無いのにスポンサーが四社ついた。それも大手ではないがそれなりに名が知れた企業。本当にありがたい話だ。ツアーを廻るのは恐ろしく金がかかる。しかしある程度名が知れた企業が四社もつくのはあまり聞いたことがない。少し不安になった。

 コーチを始めると戸惑った。練習を始めようとしてもコートに来ない。そうかと思うと先にコートで待っており、自分にすさまじい負荷を掛ける練習をする。気分屋なのかと思ったが、そうではなかった。
 周りに自分を見ている誰かがいると、しっかりと練習する。いないとやらない。コーチ以外で自分を見ている人がいないと何もしない。
 彼女に何度も話した。周りに人がいようがいまいが関係ない。プロとしてやっていきたいのならそこは気にするところではない、と。

 しかし、だめだった。
 彼女はテニスに興味がなかった。可愛らしく、運動神経も良い。昔からずっとちやほやされていたのだろう。ジュニアの頃からマスコミに頻繫に取り上げられた。何をやってもうまくいく。褒められるのが当たり前。練習も周りで見ている人から褒められる。そして容姿も相まって、周りから過剰に注目される。コーチしかいない所で練習する理由が彼女にはない。自分を褒めてもらえるのがたまたまテニスで、褒めてもらえなければやる意味がない。センスが良いので練習をしなくてもジュニアでは勝つ。今まではそれで勝ち進むことが出来た。勝利は全てを肯定してしまう。
 彼女は徐々に駄目になっていた。

 戦績が下降する。練習もトレーニングも量が根本的に足りないからだ。ジュニア時代の貯金は直ぐに尽きる。勝てない。そうなると、周りの目はコーチが良くないと考える。
 あんなに才能のある子を潰して。
 
 さおりさんが言う。
「湊くんも大変だったよね、あそこまで練習しない子、それをうまく隠しちゃう子持たされて。私も途中まで全然わかんなかったな」
「まあ、しょうがないよ。僕がうまくコントロール出来なかっただけだよ」
「でも褒められるためだけにテニスやるって、あの子この後大変だよ。おまけにあそこまで可愛いと。湊くんも無茶苦茶な話、彼女から流されたし。あ、ごめんね」

 春の強い風が舞いあげた砂ぼこりに目を閉じる。その教え子の試合が始まる。過去に輝き放った才能は染みの様なものとして僅かに残るだけ。相手に圧倒される。それに対しての工夫がない。相手を見計らい、タイミングをずらし、繋ぎ、粘る。そんな負けている側のあがきが一つも見えない。自分のプレイスタイルを貫くと言えば格好いいのかもしれない。それは勝利への執着がないだけだ。なすすべもなく負けた。誰かから花束をもらい、未練もなく笑顔で手を振りコートを去って行った。
 この後、男子シングルス一回戦、車いす女子シングルス一回戦がある。

 亜紀のツアーコーチをしたことで、僕のテニスコーチとしてのキャリアも終わった。ジュニア時代に期待され、輝きを放った子を選手として大成出来なかった事実。それはどこに行ってもついて廻った。しかしそれだけではない。もう一つ、鉛の様なものが体に纏わりつき、重くのしかかったままだ。

 次の試合が始まったが、六十代ぐらいの黒縁メガネをかけた、背の高い、体つきがしっかりとした男性がスタンドを動き回る。テニスは観客のマナーにうるさい。オンプレイ中の声援はもちろん、観客が席を移動するのもNGだ。背が高いので余計に男性の動きは目立つ。スタンドの向こうから運営の学生が走って来る。
「プレイ中は座ってください」学生は遠慮がちに言う。
 男性は不審な目で学生を見る。
「ここを歩いてはいけないのか」
 虚を突かれ、学生は何も返せない。テニスの大会での当たり前は世間の当たり前ではない。僕は思わず声を掛けた。
「そういう訳ではないのですが、テニスのマナーとしてプレイ中はスタンドを歩いていけないんですよ」
「何でだ?」
「選手の視界に入ってプレイの妨げになっちゃうんですよね」
 男性は、そうか、とつぶやき、辺りを見回す。そしてしばらく僕を見て横に座った。学生は僕に会釈をし、試合が再開する。男性の手にはくたびれたエコバッグ、地味な濃紺のジャケット、少し皺の目立つチノパン。ただ、不潔だとかそういう感じはなく、身なりに気を遣わないだけかもしれない。
 それにしても、テニスの観戦マナーを知らない様な人がわざわざ平日にフューチャーズの試合を見に来るというのはどういう人なのだろう。少し考えたが近所の散歩のついでかも知れない。

 コート上の男子シングルス。強打を売り物にした大柄な選手がボールが潰れそうな音をさせ叩き込む。相手の選手は小柄でボールは遅い。しかし守備範囲が広く、コントロールとタッチに優れている。小柄な選手のコーチはさおりさんだ。さおりさんのプレイスタイルは創造性があり、観るものを楽しませた。それが彼にも受け継がれている。
 隣に座った男性が問いかけてくる。
「これぐらいの声で喋るのは構わないのか?」
 僕らの周りには客がいない。
「まあ、そうですね。ポイントの合間なら大丈夫ですよ」
「あの大柄な選手の方がボールが速く、重そうだ。でもいつの間にかポイントを奪われている。何でだ」
 男性はどこまでそれを知りたいのだろう。適当に話そうと思ったが、僕はしっかりと答えていた。男性の声とその表情。世間話で終わらせられない気配がした。
「小柄な方がよく見ています。相手の得意、不得意なコース。コートカバーリングの弱点。ホームポジションはどこなのか」
「ホームポジションというのはどういうことだ?」
「ベースライン、コートの後ろのラインですね。そのポジションから勝負が始まります。そのラインの後ろで打つことが多いのか。それより前で打つことが多いのか」
「前だと攻撃的になるのか」
 この男性はカンがいい。
「そうです、それからラリー中に相手が右寄りなのか左寄りなのか。小柄な彼は試合前半、左のバックハンド側にボールを集めて、ここぞというポイントから連続で右のフォアに集める。今、そんな餌を撒いていると思います」

 男性は僕の話に聞き入っている。ここまで自分の話を聞く人は久しぶりだ。僕は続けた。
「タイミングを外しているんですよ。大柄な選手は相手のコースを読み切れていない。それからここからだと分かりにくいのですが、小柄な方は同じボールを打っているようで毎回スピンの量が違う。相手が打つコースを誘導している。試合を支配している。大柄な方はいつの間にかミスしている。彼は自分の調子が悪いからと思っているでしょう。自分のせいだと思っている。そうではなく相手にはめられているだけです」
 男性は眉間に深いしわが刻まれ、語気がはっきりとしている。昔気質の職人のようだ。話を聞いてくれたからという訳ではないが、男性に少し好感を持った。何か知性というかそんな匂いを感じた。

 表情を変えずに、しかし随分熱心に目の前の試合を見ている。
「大柄な選手はそれに気が付いていないのか」
「そろそろ気が付くと思います。彼もプロですから。この後試合はもつれます。でも気が付くのが遅く、小柄の彼が逃げ切るでしょうね」
「それにしても、大柄な方は凄いボールを打っている。それで時々だがミスを誘っている。この試合はまだ分からないのではないかな」
 僕は少しためらった。大柄な選手も僕の友人がコーチをしている。でもこの男性に話をしても何も起こらないだろう。
「大柄な選手は強いボールを打つことが目的の一つになっています。小柄なほうは全てを勝つために注いでいます」
「目的の一つとはどういう事だ?」
 僕は少し考えた。
「野球は見ますか?」
「時々なら見る」
「ピッチャーでストレートにこだわる選手いますよね、バッターならホームランにこだわる選手。でもそれって少し変だと思いませんか? チームが勝つために彼らはそこにいるのに、そのこだわりって必要ないですよね。あの大柄な選手も同じで、速いサーブ、威力のあるストロークにこだわっている。もちろん彼も勝ちたい。でも無意識にそのこだわりがある。結果、目的が勝つ事ではなくなってしまう」

 男性はしばらく僕を見て、またコートに視線を向けた。試合はもつれたが僕が予想した通り小柄な選手が勝った。強打が売りの選手は首をかしげながらコートを後にした。
 男性は君の言った通りになったなと言い、席を立った。

 もう帰ってしまったのかなと思ったが、男性は手に大きい紙カップに入ったホットコーヒー二つと紙袋を手にして戻って来た。コーヒーの一つを僕に差し出す。金を払おうとすると手でそれを制した。向こうにキッチンカーが出ているんだ、と言う。紙袋の中にはチュロスが入っており、二人で食べる。香ばしく、思いのほか美味しい。男性も僕の方を向き、うまいなと初めて微笑んだ。そして唐突に話し始めた。
「娘はチュロスが好きだった。私は甘いものがそんなに好きじゃない。だから休みの度にドーナッツ屋に行くのが少ししんどくてな。娘は昔から他の子と何か少し違っていた。俺は医者だ。精神科だ。普通の家に生まれて奨学金を貰いながら苦労して医者になった。俺が精神科と児童精神科、妻が小児科でクリニックを開業した。患者さんがたくさん来てくれた。ちなみに、看護師が扱いやすい医者ってわかるか? 彼らにとって会う前に既にわかっているそうだ」
「ちょっとわからないです」
 いきなり始まった男性の話だが、男性の話し方は分かりやすく、僕は少し引き込まれ始めていた。

「医者には横暴な奴がすくなくない。医者が決めたことが患者の命を左右する。看護師や技師の彼らは医者に決断を仰ぐ。それが絶対だ。縦型の社会だからな。ある意味軍隊に似ている。つまり医者が横暴になる土壌がある。もちろんそうならない医者も多い」
 男性はチュロスをコーヒーで流し込む。唇の右端にシナモンの粉がついている。
「二代目か、そうではないかだ。両親が医者ではないものは自分で医者になる道を選び、徒手空拳で進路から何から自分で決める。学費でも相当苦労する。勉強もあり得ないくらい大変だ。二代目は金もノウハウも大抵揃っている。余裕があるなかで育つ。だから二代目の医者が病棟に来るとスタッフが和む。たたき上げで医者になったのは独善的になりやすい。昔いた新しい病院に桜並木があった。植樹してから10年程年を重ねてしっかりとしてきた。ところが桜並木の真ん中にある木がどうも雰囲気が違う。よく見ると桜じゃなくて欅なんだ。植樹した業者もそんなことある訳がないという。でも欅だ。調べたら10年前にいた高齢の医者が真ん中は欅が良いと、誰にも言わず桜を切って欅を植えた。もちろん苦労したたたき上げの医者だ」
 吹き出しそうになってしまった。春、桜が満開のところに一本だけ若葉をつけた欅。男性は手に付いたチェロスの粉を払う。

「二代目がいいところは、看護師なんかの意見をたくさん聴く。三十代の頃に努めた病院でな、そこの二代目理事長がカンファレンスに色んな人を呼ぶ。普通は医師や看護師長、担当看護師、ケースワーカーぐらいだろう。この理事長は看護助手、介護士から病棟事務、総務、みんな集める。ある時なかなか状態がよくならない、重度のうつ病の患者さんがいた。そしたらな、掃除のおばさんが恐る恐る言うんだよ『あの方のお部屋、カレンダーが無くて、時計は止まったままです』ってな」

 男性はコーヒーのカップを手の中で廻しながら続けた。
「虚を突かれたよ。人間にとって大事なのはリズムだ。俺たちは普通に接しているが、今何時で今日は何曜日というのは、とても大事な情報だ。それがリズムを作る。リズムによって自分をコントロールできる。小学生の頃から言われるだろ、夏休みの規則正しい生活ってやつだ。理事長はすぐに病室全部に大きな時計と大きなカレンダーを掛けた。さっきの患者、時間はかかったが寛解した。全ての患者に当てはまるわけではないが、とてもよいヒントだった。あの理事長から学んだことは多いな。他にもよくボールペンをカチカチ言わせる奴いるだろう。あれはあの音でリズムを作り、無意識に自分のストレスに対抗しているんだ。他人のリズムを聞かされるのはたまったものではないが」

 男性は少しの間僕の顔を見て言った。
「なんの話だったかな」
「娘さんのお話だった気がします」
 僕は少し笑い、男性もつられたように笑った。

「娘が保育園の年長の時に事務的な手続きの間違いがあって私が出向いた。先生が娘の様子をちょっと見ていきませんかと誘ってくれた。あんまりいない子だと思います、と言うんだ。廊下から気が付かれない様に覗いた。娘は他の子の話を一生懸命に聞いていた。小さな椅子に座って、三人ぐらいに囲まれている。三人の話を丁寧に聞いている。三人が話し終わると次の子達が来て話を始める。お坊さんとかそんな人いるだろ。自分の娘を例えるのもどうかと思うのだが、そんな光景だった。わらわらと信者が集まるような。それから一方的に聞くだけでなく、時々質問を入れながら。わかると思うが医者は患者の話をよく聞いてよく見ることが最初の仕事だ。特に精神科はな。親バカかもしれないが、娘は医者に向いていると思った。二代目だしな」
 
 次の試合まで時間があるとアナウンスが流れた。それまでコートは他の選手の練習にあてられると言う。目の前で女子選手二人が試合形式の練習を始めた。周りの客は別のコートの試合を見に行き、僕らの周りは誰もいない。

「さっきの男子の試合と比べると、この女の子たちは何と言うか、お互い同じショットの打ち合いと言うか、繰り返しに見えるのだが、気のせいか?」

 かなり鋭い事を言う。同世代のコーチ仲間で時々上がる話題だ。単調なハードヒットのみで試合を組み立てる選手が、ある地域やあるスクールで複数同時に育つ。比較的女子が多いが、男子でも同じ事が起きる。僕らが出した推測にすぎないが、その地域のテニス協会が閉鎖的な指導者で固まる。もしくは自分の主張を押し付ける傾向のあるコーチが力を持つ。共通するのは目先の勝利にこだわる。そうなるとインスピレーションがある選手が愕然とするほど減る。

「体格的な問題は当然ありますよね、男子なら余裕を持って追いつけるボールが女子ではギリギリかもしれない」
「それはあると思うが、何と言うかさっきの男子の方が色々試しながらやっているように見えるんだが」
「個人的な考えなんですが、女の子のほうがコーチのいう事を真面目に聞いて、男の子は遊びの延長線上でやっている気がします。女の子は昔から真面目にちゃんと話を聞く風潮があるかもしれない。それからコーチは男性が多いし、女の子にとっては何もしなくても圧がありますし」
「旧来の社会的な性差の様なものが創造性を阻害していることもあり得るという事か」
「そうかもしれませんね」

 男性はしばらく空になったコーヒーのカップを見つめていた。
 そして口を開いた。
「想像に過ぎないのだが、もしかしたら単調なテニスをする子たちは礼儀正しくないか?」
 驚いた。精神科医とはいえ、この男性はどんな人なのだろう。
 確かに閉鎖的なテニス協会やスクールで育つ子たちは必要以上に礼儀正しい。その子たちのテニスからは何も感じられないことが多い。
「僕の考えに過ぎませんが、その通りだと思います。締め付けが緩い環境で、適当な性格の方がおもしろい事になる気がします」

 以前、日本代表チームが国別対抗戦で負けた際、選手全員がコート上でインタビューを受けた。会場の雰囲気はお通夜。重苦しい雰囲気だ。選手の中には観客に深々と頭を下げ謝罪する者もいる。その中に日本を代表する一人の選手がいた。彼は先に試合が終わっていたとはいえ、適当なTシャツにサンダル、日曜日のお父さんの様な姿だった。彼は世界的にもインスピレーション豊富な、見ている者を魅了する選手として人気がある。そして忘れ物が多い事で有名だ。海外の大会の準決勝、ラケットの入ったバッグを忘れた。
「礼儀やしつけはコントロールに通じるものがあるからな」
 男性はそう言い、向こうにある桜並木を眺めていた。

 キッチンカーのコーヒーは相当なレベルで、冷めても美味しい。隣の男性に聞いた。
「まだ、ここにいらっしゃいますか? コーヒー、もう一杯飲みませんか? 今度は僕が買って来ますよ」
 男性は頷き、チュロスなら私はもういいよ、と言った。

 キッチンカーに向かう途中で気が付く。教え子の引退試合に来ているのに何も声を掛けていない。しかしここで声をかけることを迷う。引退試合だ。彼女の周りに関係者がたくさんいる。でも本人の前に姿を出すことで疑いを少しでも薄めたいと考えたが、今更それは無理だろう。
 それでも行くしかない。

 クラブハウスで彼女の姿を探す。亜紀が僕に気づく。
「コーチ! 今日来て頂いて、本当に、本当に嬉しいです!」
 押しの強い高い声がする。亜紀は花束を持ち、七~八人に囲まれていた。さしたる戦績を残していない選手とは思えない。
「湊コーチと歩んだ期間は私にとって本当にかけがえのない時間でした。本当にありがとうございます!」
 周りの目が僕に注がれる。こいつが亜紀を潰した。そしてあれはどうなんだ。それでも、言葉を交わしておいたほうがよい。
 今日の試合は惜しかったね、まだまだ、現役でいけるんじゃないのか? 
「コーチにそんな事行って頂けるなんて本当に嬉しいですよ。湊コーチについてもらえたらまだまだいけるかも!」
 冗談ではない。そしてすぐ近くに今のコーチがいる。思わず彼を視界に捉える。彼に表情は無かった。

 亜紀の成績が伸び悩むと、彼女は僕に性的行為を迫られたと周囲に流した。もちろんそんなことはしていない。僕は以前から疑いを掛けられた時の事を考えていた。彼女はそのような話を流す癖があるとコーチや選手の間に小さな声で流れていたからだ。その気配はすぐに感じた。人目がある時の距離が近い。逆に人目が無い時はそんな素振りはない。まともな大人なら警戒する。なのでコート以外では二人きりにならない、ボディタッチはしない、自分の居場所はGPSで記録するなどをしていた。

 彼女が僕がそんな事をしたと言った日、僕はナショナルチームに帯同していた。調べればすぐわかることだ。でも彼女はまるで気にせず言う。
 本当に分からないのが、その様な噂を自ら流しておいて僕とはいつも通り接する。二人の時も、周りがいる時も。
 噂は別の段階に入った。彼女と僕が付き合っているというものに変化した。迫られたという話からつじつまが合わない。当初から話を聞いていた者はその展開に戸惑い、さらに興味を持つ。ここから聞いた者はコーチと選手が付き合う事に目が行く。彼女が作り出した訳の分からない波が僕に押し寄せる。
 桜の咲く頃だった。その頃から桜の花がグレーに見える様になった。

 クラブハウスを出る。背中にえぐる様な視線を感じる。何回もこの視線を受けたが、慣れない。
 さおりさんがクラブハウスから出て来た。
「湊くん、頑張ったね。もう、何があっても放っておけるよ。彼女この後、テレビ局に入るんだって。二度と関わる事無いじゃん」
 いい年して「頑張ったね」と言われるのもどうかと思ったが、さおりさんの言葉は古くてつまらないピンナップを壁から勢いよく取り払ってくれた。
「さおりさんからそう言ってもらえると救われるよ。何だっけ、さおりさんの座右の銘ってあったよね」
「いつの話よ、恥ずかしいな」
さおりさんは大きな声で開けて笑った。
「でもそれ、今でも変わらないよね、部屋に筆で大きく書いてあるんだよね、何だっけ」
「絶対合格、日々是決戦」
「なんだよそれ。そんなんじゃなかったよ、受験生じゃないんだから。ちゃんと教えてよ」
 僕は笑い声が大きくならないように、口を抑えた。
「しょうがないな、湊くんだけよ。素敵なことは素敵だと言うのは素敵ってね」
 恥ずかしいと言いつつ、さおりさんは僕の目をしっかりと見て言った。
 さおりさんは結果を褒めない。その代わりに過程を認め、選手と二人で考える。褒めることは上に立つ事だとよく言っている。褒める行為が子どもをコントロールする下心だと。その上で素敵だという事を相手に伝える。「私は今日の試合を見て楽しかった」「プレッシャーのかかる場面であの攻め方を考えたのは驚いた」「今日うまくいかなったことを二人で考えよう」
 僕は亜紀の事を考えた。でもさっきまでと違い、客観的に冷めた目で見る事が出来た。
 さおりさんが言う。
「彼女、もう病気だから。早く診てもらわないと大変なことになるよ」
「褒めてもらう事を長い時間されると歪むんだね」
「そうだと思う。私カウンセラーでも精神科医でもないから、細かいところわかんないけど」
「でもよく考えると、このまま行っても周りはちやほやするから何とかなるんじゃない?」
「湊くん、甘いね。彼女の武器は容姿がベースよ。それがこの後15年とか経つとどうなる? それで売ってきた自分の武器が少しずつ、薄らぼんやり消えていくのよ。周りから照らされる光でできてる自分の影が薄くなっていくのよ。だんだん薄くなるの。年齢を重ねても魅力的な人は大勢いるわよ。その人達は色々積み重ねてるのよ。彼女は何も積み重ねていない。だから大変。さっき二度関わる事ないって言ったけど、もしかしたら何十年後かにコンタクト取って来るかもね」
「それ、おっかないな。でもさおりさんは15年後もいつまでも魅力的でいると思うよ。さおりさんに関わった子たちもみんな楽しそうだ」
 これは本心だ。彼女がコーチした子たちは、テニスでよい成績を収めた子も、そうでない子も、テニスを離れた後も自分の足で歩いている気がする。
 さおりさんは大きく口を開け、笑いながら僕の背中を叩いた。
「湊くん昔っからそういうの上手いよね」

 少し長い時間スタンドを離れている。コーヒーを買って来ると言った手前、さっきの男性が気になる。スタンドに目をやると男性はまだそこにいた。目の前の女子の練習を見つめている。その様子はうまく言えないが、観戦という雰囲気には見えない。

 僕らの目の前のコートでさおりさんのコーチングを受けている翔太朗という大学生が試合に入っている。彼のテニスは見ていて興味深い。速いテンポで展開し、相手に時間を与えない。しかしそれだけではない。時折まるで蜘蛛の巣を張り巡らせるように相手が絡まるのを待つ。
「ほら、翔太朗も楽しそうになったじゃない」
 翔太朗のお父さんは小学生の頃から負けると試合会場で1時間以上、強圧的な叱責をしていた。練習も長く、お父さんの大きな声がコートに響く。翔太朗はテンポが速く、攻撃的なテニスが持ち味だった。しかしジュニアがそれを押し通すとどうしてもミスが増える。翔太朗はお父さんの顔色を伺ってテニスをするようになった。ミスを避ける、恐る恐るのテニス。守りのテニスではない。委縮し、そして負ける。悪循環が続く。

 幸運かどうか分からないが、お父さんは翔太朗が小学校六年生の時に海外赴任になり、翔太朗はさおりさんが見ることになった。さおりさんは翔太朗が元々持っている速攻を生かし、さらにお父さんが身に着けさせた「ミスを恐れる」部分を「相手にミスを仕向ける」に変化させた。対戦相手は息をつかせない速攻、そして時折織り込まれるテンポが遅い沼の様なテニスに翻弄される。大学在学中にプロに転向し、上を目指している。
「元は翔太朗、のほほんとしていて楽天的なのよ。ヒントはあげたけど後は自分で勝手にやったからね。自分で考えて自分でやる子なのよ」
 それはさおりさんの声のかけ方が良かったからだ。
 僕は考えた。もし、さおりさんが亜紀のコーチに就いていたらどうだっただろうか。

 さおりさんは僕が持っているショルダーバッグに視線を送る。その目は柔らかい。
「今日もあの本、持ってるよね、クラバートだっけ」
「まあ、まだこういう所に来るには必要みたい」
 昔、さおりさんだけにはこの本を持ち歩いている理由を話していた。
「これ、湊くんにずっと聞きたかったんだけどさ、クラバートってジブリの千と千尋の神隠しのモチーフになったんだよね。千と千尋、最後に千尋が何匹かの豚からお父さんとお母さんを選ぶ場面あったじゃない。千尋はなんでお父さんとお母さんが並べられた豚の中にいないってわかったのかな」
 クラバートにも似たような場面がある。豚ではなく主人公がカラスになる。そして何羽かのカラスから主人公のクラバートを選ぶのは恋人だ。外れればクラバートも恋人も命を落とす。
「クラバートは愛する人の命が失われるかもしれないっていう、とてつもない不安が彼女に伝わったからだけど、千と千尋はわからないな」
 さおりさんは少し微笑んで「私、なんとなくわかる気がするけど、ちゃんと言葉に出来ないんだよね」とつぶやいた。

 さおりさんが僕に言う。
「さっき湊くんと一緒にいた男の人、知り合いなの?」
「いや、そうじゃない、初めて会ったんだ」
「一昨日もいたのよ」
「一昨日ってこのフューチャーズの予選? 誰がそんなの見るの」
「でしょ。選手の関係者なのかな。でもなんか違うのよ。子どもの頃、蟻の行列って見たでしょ。延々と。あの人の試合の見方、そんな気がする」

 キッチンカーでコーヒーを二つ買い、スタンドに戻る。コートではダブルスの練習が行われている。しばらく二人で目の前の練習を見ていた。
 男性が口を開く。
「君は随分テニスに詳しそうだが、コーチか何かなのか」
「昔、やっていました」
 それだけを答えた。男性は少しの間僕を見ていた。そして聞いた。
「テニスで重要なのは何かな」
「それは勝つために、ということですか?」
「まあそうだな。それだと的が絞れないな。身長が高い方です、足が速いほうです、だと元も子もない。なら、技術と体力は同じレベルだとしたらどうだ」
 不思議な設定だが、即答した。
「相手をどれだけ見ることができるか、そしてそれを生かせるかどうか」
 男性は僕を見ながら「そうか」と言った。

 練習をしていた選手たちが引き上げ、目の前のコートには誰もいない。次の試合が始まるまで二十分ほどある。亜紀の引退試合に顔を出したことでここでの用事は終わったが、この男性に興味を持った。

「すまんが、ここでタバコ吸わせてくれ。私が風下のそちらに行こう。いいかな」
 敷地内禁煙だが、周りに誰もいない。誰にも迷惑をかけない。どうぞ、と言い場所を移動した。ハイライトの青いパッケージを出し吸う。
「さっき娘の話をしただろ。話を聞くのが上手い娘。医者にさせたかった。向いていると思った。ただ、私もそうだがそんなに勉強が出来る方ではない。だから勉強させた。そしたら小学生四年ぐらいか、テニスがやりたいって言い出した。勉強するのに邪魔だと思ったが、妻も運動も大事、と言うからやらせた。そしたら夢中になってな。勉強も頑張っているんだが時間が足りない。中学にあがると更にそうなった。私立中学で程々の進学校、成績はかろうじてクラスで10番ぐらい。それじゃ駄目なんだ」

 男性はハイライトを1本吸い終わる。携帯灰皿に吸殻をもみ消す。青いパッケージを出しそれを眺めながら続けた。
「娘のテニスは見たことが無い。テニス自体よく知らない。クリニックを少し大きくした。有床にした。ベッド数は19床だ。個人の病院ってやつは大抵院長とか理事長が一番受け持ちの患者が多い。他の勤務医の負担を減らすためにな。何日も泊まり込むことがたくさんあった。いつの間にか娘は高校生になっていた。おまけにテニスでインターハイまで出た。さすがに国公立の医学部は無理だ。それでも私立の医学部でも入って、うちのクリニックに来てくれればそれで良かった」

 男性は眼鏡を外し、片手で目頭を強く抑えながら話を続けた。
「運動生理学をやりたいって言い始めた。医学部の範疇ではない。参ったよ。医者になるのに私がどれだけ大変な苦労をしたか、その苦労をしないで医者になれるというのに。人の話を丁寧に聞くいい医者になれるはずなんだ。でもまあ、しょうがない。ちょっと枠に収まらない子なんだ。中学生の時、近所の一人暮らしの老人たちに声を掛け、家まで連れて来てお茶会始めた。高校の時は学校に行けない子とか勉強に遅れた子を集めて勉強会だ。そしたら老人と子どもたちは相性がいい事に気が付いた。老人たちは人生経験が豊かだ。職人だった者もいるし、先生だった者もいる。様々な経験から子どもたちに教えることが出来る。そして関係性だ。学校や家庭の様に強い絆ではない。中途半端に緩い関係でつながっている。これが一番いいんだ。他者を強制することがお互いない。それを娘を含めた2,3人の女子高校生が仕切るんだよ。妻も私もついていくのがやっとだ。家に帰ったらじじいとばばあ、それにガキども、合わせて15人ぐらいいるんだぞ。玄関がガキどもとジジババの靴で埋まっているんだ。知ってるか? 子どもの靴ってやつはものすごい匂いだぞ、それが積み重なって山になっているんだ」
 僕は少し笑った。想像するだけで楽しい。
「麦茶とかお菓子の消費があり得ない。箱買いだ。もう自分のやりたいようにやればいいと思ったさ。娘を医者にするのは諦めた。テニスは大学でも続けていい成績上げたらしい。もちろん私は見ていない。時間がなかった。学生なのに海外にも出て、時折勝ったらしい。海外にテニスで遠征するついでに現地でボランティアしたりしてた。あいつのFacebookとかとんでもないことになっていたよ。少し気になったのは海外での人との接し方が日本にいる時と同じ様な感じだった。海外の文化の違いによる、女性への扱いとか治安とかだな。オープンで何事も受け入れやすい子だから。そして、卒業したらいきなり結婚した」

 またハイライトを取り出した。風が強く、100円ライターの炎では火が付かない。
「いきなりだ。いきなり。就職先がヘルスケア事業を扱うスタートアップ企業。そこの社長といきなり結婚した。驚いたけど本人がそう言うんだからしょうがない。今まで全部自分で決めて来たんだからな。彼女の人生だから祝うさ。でも違和感があったんだよ。その結婚」

 向こうからキッチンカーのスタッフの男の子がポットを持って来た。コーヒーのお代わりを入れてくれた。
「こんなことしたら赤字だろ」
「そうでもないんですよ、お客さんもスタッフや学生も今日はたくさんいましたし。もう上がるのでこのコーヒー無駄にしてしまうから」
「でも申し訳ないから払いますよ」と僕は言った。
「なら、私は明日も来るから明日も買うよ。飲めるだけな。明日も出店するんだろ?」
 男性が言う。
 明日も? テニスを知らない人が明日もここに来る。思わず男性を凝視した。さっきからの様子を見ると何か意思を持ってここにきている気がする。決して散歩ではない。この人は誰なんだ。

 温かいコーヒーを手にし、男性は話を続ける。
「違和感は相手の男だ。話は上手い。人を魅了するってことはこういう事かと。どんどん奴が自分の中に無条件で入り込んでくる。話がおもしろい。仕草も丁寧で美しい。妻なんてもうぞっこんだ。しかし僅かだが話にほころびがあるような気がする。でも、まあ、人の話なんて大抵ほころびがあるから流した」

 男性はクラブハウスの方向を見ながら大きく息をついて続けた。
「でもほころびだけじゃない、巧妙に誘導する何かがある。自分の失敗談は話す。周りを和ませるような。そして人の話を親身になって聴く。とても感じがいい。それが何か計画された様な気がするんだ。廻り回って自分の印象を上げている。関係性の利益を確保するって言えばいいのか。そして奴は本当の己を晒していない。人間関係ってお互い自分をある程度晒して作り上げるものだろ。そうじゃないんだ。奴は娘や妻や私を消費している。そんな思いに捕らわれた。しかし何せ具体的な話はないし、出来ない。今のところ何もない。私だけが違和感を抱えたままさ」
 男性は煙草に火を付けるのを諦め、ハイライトの水色のパッケージをもてあそぶ。

「そうしたら、娘が会社やめるって言う。やめてどうすんだって聞いたら家庭に入るって。あんなに奔放に生きてきた子が家庭に入るってどうなんだよ。さっぱりわからん。聞くと、奴の意向らしい。家庭を守ってくれと。家庭を守るも何も、子どもはいないし何を守るんだよ。うちは妻も医者でそれも小児科医だ。だから大変だった。医師が少ない時には二人ともなかなか家に帰れない。そんな時はさすがに家庭を守る誰かが欲しいと思ったがな」
 
 大会本部からアナウンスがある。試合に入る時間が少し遅くなるとのことだ。風が強く吹く。地面の埃が舞い上がる。コーヒーをすすりながら男性が言った。
「こんな話、聞いてておもしろくないだろ」
「そんなことないのですが、僕なんかに話していいんですか」
「正直言うと、知らない人間にこんな事話すと私も思わなかった」
 男性は僕を見て少しだけ微笑んだ。そして続けた。
「娘が俺たちに会わなくなったんだ」
「何ですか?」
「わからなかった。スマホの電話にでない、固定電話からも連絡つかない。メールしても返信がない。LINEは最初は既読がついてた。でもじきに既読もつかなくなった。娘の以前の職場の人や学生時代の友人にも連絡を取るように頼んだ。でも無理だ。その旦那に聞くわけだよ、うちの娘と連絡が取れないんですがって。間抜けな質問だよな」
「そいつが言うんだ。妻は今体調を崩して静養中なんです、静かにしてやってください。何言ってるんだよな、その妻の両親は医者で小さいながらもクリニック経営してるんだぞ、当たり前だが娘のカルテもある。それ言ったら信頼のおける大学病院の先生にお願いしていますってな、腹立つだろ」
 男性は腹が立つと言いながら、その辺に煙草を買いに行くぐらいの涼し気な目をしている。

「こっちは医者なんだから会わせろっていうが、そいつは穏やかな顔で「今、一番大事な時なのです」とか言う。何が大事な時なんだよ、体調を崩して大事な時って、そりゃ危険な時とかだろ。妻は警察に、と言うが事件性の様なものは何もない。旦那は健在、その旦那が大丈夫だって言う。物証もない。でも警察に相談はした。親身になってくれた。でもそれだけだ。近辺をパトロールする際は注意します、何かあったら連絡してください」
 ライターの炎がタバコをとらえて煙が上がる。ハイライトのパッケージを胸のポケットにしまった。

「結局4か月も連絡が取れなくなった。仕事どころじゃない。とりあえず休院にした。妻が言う、あの人の身辺調査しようって。娘があいつを連れて来た時は身辺調査なんて思いもしなかった。知り合いからよい興信所を紹介してもらった。結果、まっさらだった。真っ白じゃない、まっさら。何もない。何も出てこない。結婚の時に挨拶したご両親、親戚から始まって出身地から出身校、学歴、前職。まっさら。驚いたよ。あのご両親は何だったのかとか。もしかしたら全部嘘なのか」

「奴が経営している会社に行ったんだ。そしたら社長はしばらくリモートワークとか言う。他の興信所にも頼んだけど同じ様にまっさら。娘が監禁されてるんじゃないかって考えた。そんなこと考え始めたら、娘が暗い光のない所に一人でいる絵が浮かんでしょうがなくなっちまった。体が勝手に二人の住むマンションまで行ってた。やけにセキュリティが強いところでよ、24時間警備員、昼間はコンシェルジュだぜ? カードキーがないとエレベーター乗れないし。しょうがないから同じぐらいの年の男にマンション前で頼み込んだ。娘がいるんだけど4ヶ月このマンションから連絡が取れない、一緒に行ってくれないかって。最初は訝しんでいたけど俺必死だったからな。名刺出したら連れてってくれた、娘の部屋の前まで。呼び鈴鳴らして、ノックして。反応ないんだ。ずっと鳴らし続けた。奴が出てきてな、何してるんですかって。ものすごい柔らかい笑顔で。「ジョーカー」って映画あるだろ。アーサー・フレックがやったジョーカー。あの笑顔って誰も受け入れない笑顔だろ。その500倍ぐらい洗練された笑顔。でも誰も受け入れない笑顔。娘を返してくれって言ったが、笑顔で気分がすぐれないようですから、って言うだけだ」
 ハイライトの煙が桜の木に向かう。僕は姿勢を直した。

「警察を呼ばれてしまった。知らなかったが廊下だろうが要求を受けて立ち去らなかったら不法侵入らしい。危なく逮捕されるところだった。ただ、今考えれば逮捕されて事件として警察の介入をするような流れを作っても良かった」
「娘さんは?」思わず口を挟んだ。
「嘘ってつくか?」
 唐突な答えが返ってくる。
「嘘って、あの嘘ですか?」
「そう、事実と違う事を言う」
「まあ、つかない人はいないと思いますけど」
「それってどんな嘘だ?」
 少し考えた。
「そうですね、遅刻の言い訳とか、女の子に聞かれて似合っていないのに似合ってる、とかいうやつですかね」
 男性は少し笑って言った。「それであればいいんだよ」
「君が言ったのは自分を取り繕う嘘だ。それぐらいなら害はないし、やりすぎても自分が困るだけだ。この世には嘘をつくことで相手をコントロールする奴がいる」
「虚言癖とかですか」
「虚言癖とはちょっと違う。虚言癖は周りに構って欲しいんだ。嘘をついた自覚がなく悪気もない。つじつまが合わなくても気にしない。自分が可愛く、自己正当化したい。そして周囲は真に受けてしまう。ターゲットになった他人がとんでもない被害を受ける」
 亜紀を思い出した。
「奴は違った。その嘘は簡単にはわからない。でも全部嘘だ。ヘルスケアを扱う企業の社長と言うのは本当だ。でも実務をしていない。細かい所は分からないが、起業の時にうまく入り込んで噓を並べて社長になったのだろう。周りはうまい具合に丸め込まれた。結構いるんだ、柔らかい笑顔で一見筋道通った雰囲気を作る。結果、全部自分の思う通りにするのが。身近だとママ友グループで仕切るのがそんなのが多い。あれ、雰囲気に流れるだろ。そこに細かく精密な噓をちりばめるとスタートアップ企業の社長になれる。雰囲気と哲学らしい格言、そして自分を高みに上げるために人の非を指摘する。奴の目的は自分の言いなりになる人間を1人か2人作ることだ。それがあいつのアイデンティティなのかもしれない。宗教の様な大げさなものではないんだ」
 まあ、一応おれも精神科医なんだよな、と男性は少し笑って言う。

「興信所をいくつか使って以前の行いが薄っすらとだがつかめた。奴と一緒にいた人間がいつの間にかいなくなっている。事業を立ち上げたパートナー、同棲していた女性、スノーボードのサークルで仲が良かった男性。この3人が消えたことが分かったが、消えたことと奴とがつながる確証がない。そして奴と娘の居場所が分からなくなった。警察に届けたがあんなもの役に立たない。ありとあらゆる手段で探したよ。興信所から探偵から。俺も奴が写っている写真の背景を頼りにその場に足を運んだ。でも何もわからない。おまけにその写真の背景は合成だった。妻は倒れるし、金は底をつくし、八方塞がりだ」

「ここまで話して何だが、こんな話喋ってていいのか?」と言う。
 僕はかすれた声で、是非、お願いします、と答えた。

「半年後の深夜、警察から電話があった。交通事故で娘が搬送されていると来たよ。あの時ほど慌てた事はなかった。車で向かうがなぜか娘が置いていった水色の可愛らしい軽自動車で妻と300㎞ぐらい離れた病院行ったんだ。運転が楽なそこそこ大きい俺の車があるのにな」
 次の試合が始まるアナウンスが流れ、男性はハイライトを胸のポケットにしまう。
「命はなんとか助かった。脊髄損傷。損傷箇所は胸椎の7番。それでも消えてしまったと思っていた娘が戻って来た。こういっちゃ何だが怪我なんかどうでもいい。生きてこそだ。死んで花実が咲くものか、だ。しかし奴はいない。不安になった。なので娘がいた部屋を警察立ち会いで踏み込んだ。いなかった。少し回復した娘に何があったのか聞いた。最初は順番がばらばらでよくわからんかったが」

 一息ついて男性が言う。「試合はまだ始まらないな」
「そうですね、あと15分ぐらいですかね」
「まだ続けていいかな」
 僕は頷く。
「今から言う3つのものから選んでくれ」
「え?」
「まあいいから。で、私は今からメモを書く。4つ質問をするが、メモに君が最後に選ぶものをあらかじめ書いておこう」
 男性はレシートの裏に何か書いた。
「今から言うものを君の意思で選んでくれ『ジュース、塩、ジャム』」
「ジャム、です」
「次はそれに関係するものを選んで。りんご、海水、カレー」
「りんご」
「次も。電池、赤い、辛い」
「赤い」
「パソコン、地球、とうがらし」
「とうがらし」
 男性はレシートの裏を僕に見せた。とうがらし。
「凄いですね、何かの手品ですか」
「違う。君は自分の意思でジャムを選んだ。それが故に自分の意思が最後のとうがらしにたどり着いたと思っているはずだ。違う。簡単な仕掛けだがマインドコントロールの技術だ。最初の『ジュース、塩、ジャム』どれを選んでも『とうがらし』に行きつく。やってみるとわかる。でも君は自分の意思でたどり着いたと思いこんだ。これを巧妙かつ精密にやると人を操ることができる。さっきの試合で小柄の男が相手を巧妙にコントロールして勝った。それはテニスの試合の話だ。それを人格まで掌握して手に入れる。占い師に風俗で働かされて1億貢いだ女性がいる。マインドコントロールや洗脳って大々的な宗教だけじゃないんだ。娘はそんなことをされた。わからなかったのがマインドコントロールをした後の目的だ。さっき話した占い師は金だ。奴は娘を部屋に閉じ込めた。大学の同期の教授が言うにはそれだけが目的の奴がいるらしい。そいつに話を聞きに行くと、そんなのがこの世に結構いる。他人を徹底的にコントロールするだけで満足だ。それで飽きたらどこかにやってしまう。おもちゃの様にな」

 一つ疑問がわいた。この様な話の中で聞くのは普通躊躇するはずだ。しかし僕はためらいなく聞いていた。
「さっきお聞きしましたが、お嬢さんは学生の時から様々な体験をされていますよね。高齢者や子どもたちを集めたり、海外にツアーに行って現地でボランティア活動をされていたり。そんな体験はお嬢さんの幅の様なものを広げ、強くしたと思うのですが」
「君の言うとおりだ。娘は得難い体験を数多くした。妻も私も娘と話すのは楽しかった。幼少の頃にもう少し時間が作れればよかったとさえ思った。ダイアログってわかるか?」
 僕は首を横にふった。
「ダイアログというのは簡単に言うとお互いの理解を深めるためのコミュニケーションだ。ギリシャ語が語源で diaとlogos、通わすと言葉。ダイアログ。その場で結論を導き出すディスカッションではない。お互いの新しい土台を生み出すものだ。これが出来る者は少ない。大抵自分のことをべらべら喋って終わりだ。ダイアログに秀でている者は相手の話を単に聞くだけではない。自分の持っているものを相手に提示し柔らかい化学反応を起こす。娘は生まれながらそれが出来た。しかし、プロではなかった。相手に寄り添いすぎるところがあった。近所の子どもたちや高齢者を集めた際に、一年に一度ぐらいは子どもを養子にしたいと言い、知り合った高齢者の看取りにまで踏み込もうとした。そこに奴が付け込む隙があった。奴としては娘が様々な経験をしている、ハードルが高いターゲットだった。それを狩るのが楽しみだったのかもしれない」

 通りの向こうから誰かのクラクションが聞こえ、その音に驚き何羽かの知らない鳥が飛び立った。

「娘さんはどうやって出られたんですか?」
「それは部屋からか、コントロールからか?」
「どちらも、ですかね」
 男性はハイライトをもう一本取り出し、火をつけた。
「部屋にはスマートフォンからテレビからPC、情報を得られるものは何もなかった。判断の参考になるものが何もない。みんな自分一人で判断しているつもりだが、自分に与えられた情報の蓄積で判断している。その蓄積をさっきのとうがらしのようなコントロールで奴がゼロに戻す。その後は奴に都合のいいものだけを流し込む。暴力や暴言を使って恐怖を与え、上下関係を作る。娘が監禁されたあの部屋にあったのは大きなディプレイだけだった。プレイヤーが繋がっていたから再生してみた。環境音楽と景色が延々と流れる映像。それだけ。毎日そんなものを眺めて、奴から恐怖と安心を受けていた訳だな。で、そこからある拍子で外に出た」
「拍子」
 僕の口から勝手に言葉が出ていた。

「回復した娘が言う。奴がいない時に何の疑問も持たずに大きなテレビに流れる映像をいつものように見ていた。そしたら外国の田舎の鬱蒼とした森の中にある水車小屋が出て来た。水車は一定のリズムで廻る。見ていたら胸が有り得ないぐらいに高鳴って、初めてリモコンを触り、水車の場面に戻した。今までリモコンを触ったことが無かった。許しを得なければならなかったし、その許しを得ようとするとひどく怒られた。でもリモコンで戻して何十回も見た」
 僕の中の何かを叩くような動悸がする。
「わかるだろう、君が今、手にしている本。クラバート。あれはドイツの水車小屋を舞台にした物語だ。千と千尋の神隠しのモチーフになった物語だ。娘は子どもの頃からそれが好きで、最初に買ったのをボロボロにして1冊買い足した。私が君の横に思わず座ってこんな話をしたのも、その本が目に入ったからだ。言いなりの人形になっていた娘が、水車小屋の映像で彼女の中からクラバートが掘り起こされたんだ。水車はリズムを作るだろ。ヒーリングの映像でリズムを刻むものは少ない。水車のリズムが娘を引き上げたのかもしれない。それで立ち上がる事が出来た。しかし、まだ外には出れない」
 
 緊張感で口の中の水分がどこかに吹き飛ばされた。

「娘がいたのは築50年以上の公団住宅だ。築50年の公団住宅となるとオイルショック前に建てられた。コストダウンはされていない。壁や柱は分厚い。だから部屋の中で何が起きているかを把握するのはその辺のマンションより難しい。その辺も計算されたものだったのだろう。一つだけ難点がある。ドアだ。あの頃の公団住宅のドアは鉄製だ。一枚の鉄板をプレスしただけ。音が響きやすい。だから奴が加工をしていた」  
 男性は口を開けずに大きく息をついた。
「今でもそのドアを思い出すと、胸が潰されそうになる。あれはドアではない。ドアのふりをした闇だ」

「鉄製のドアに防音と遮熱の塗料が何重にも塗られている。そして木材と断熱材。そして吸音材。スタジオとかにあるやつだ。隙間には分厚いパッキン。元のドアの影も形もない。あれは民家のドアの厚みじゃない。銀行の金庫みたいな厚みだ。娘が外に出るにはその狂気じみたドアを開けなければならない。さらにおぞましい事に外からも鍵がかけてある。鍵っていうのは普通外から中に入れない様に付ける。しかしそのドアはそれに加えて外にも鍵がある。中から外に出ることが出来ない様にしてある。監禁そのものだ。娘は水車小屋の力を借りて、初めて自分でドアまでたどり着いた。すると下駄箱の上に鍵が3本並んでいる。その鍵には塗料が塗ってある。赤と白と青。爪で剥がそうとすれば簡単に取れてしまう。古い柱に塗られた塗料ってわかるか? かさぶたの様に触るとパラパラ取れるやつあるだろ。そんな感じだ。鍵を差し込むとその塗料は剝がれてしまう。つまりその塗料の目的は鍵を差し込んだら、どの鍵で外に出ようとしたか、分かってしまう。おまけにドアノブにはこれ見よがしに白い粉末が塗られている。触ると跡が付いてしまう。ドアノブを握ることができるかどうかの踏み絵だ」

「この時点で娘はまだ自分を取り囲む状況を正確に理解していない。それでも鍵を差し込み、失敗すると禍々しいものが自分に降りかかると思ったらしい。それはあの男への裏切りだからな。あいつは相手の生殺与奪を握って、高見からのゲーム見物だ。全能感を味わいたいのだろう。厄介な話だ」
 男性は視線を遠くに残したまま、僕に問いかけた。
「君ならどうする」
 僕は娘さんが選んだ行動がわかった。そして僕がこの場にいるのは何かに導かれた様な気がしはじめた。
 男性はカップの底に残った冷めたコーヒーを飲み干す。
「冷めてもうまいコーヒーこそ、本当に美味しいコーヒーだと思う」
 少しため息をついて男性は言う。でもそのため息の中には安堵の様な優しい光が差し込んでいる。
「君はもう分かっているな。娘は鍵を選ばなかった。三本の鍵のどれも選ばなかった。鍵を使わずにドアノブを廻した。ドアは開いた」

「三本の鍵は男が用意した選択肢だ。恐らくだが、その鍵を使うとドアは開かなくなる。鍵を使わずドアノブを廻すと開く。三本の鍵はあいつの息がかかっている。それを選ぶわけにはいかない。その男の範疇を超えなければならない。鍵を使わない選択をしたから、娘は開放されたのだろう。それは娘が男のゲームに勝ったからだ。勝手な想像だが、あいつはゲームをクリアされて笑みを浮かべていただろう。奴にとってその程度の話だ。そして娘はふらふら車道に出てトラックにひかれた」

 僕はわかった。彼女が抜け出る事が出来た理由。幼い頃から多様な人々の話を聞き、対話をした。多くの人々と作り出した何かが彼女の土台になったのだ。

 少し強い風が目の前の誰もいないコートに桜の花びらを運んだ。その風はこの春、一番心地よい風だった。
「娘はよく言う。あの二つの物語は大きな呪縛の手のひら上から、自分の力で自分を解き放つ話だってな」
 
 会場のアナウンスが次の試合の開始を告げる。
 選手が2人、車いすで入ってくる。
 唐突に横の男性が立ち上がり、地の果てまで通るような声で咆哮した。その声は何かを取り戻そうとする声だった。
「聡美! 頑張れ! な、頑張れ、大丈夫だ、安心して、頑張れ!」
 聡美と言われた車いすの選手が笑いながら男性に手を振る。
「大丈夫だ、何も心配することない、大丈夫だ!」
 周りの客が男性を見る。審判も線審も見る。
「ここにいる彼がな! 大事なことは相手を見ることだと! 言っているぞ! 大丈夫だ! ここの彼はな、今クラバートを持っている! 解き放つ話だぞ!」
 横の男性は僕のクラバートを持っている手を持ち高々と上げた。聡美さんは僕らに大きくラケットを振った。

 聡美さんは巧みなチェアワークと柔らかいタッチ、そしてインスピレーション溢れる創造的なテニスで相手を寄せ付けず、2回戦に進出した。聡美さんはこれがツアー初参戦だったがその勢いで最終日まで残り、優勝した。
 その後、聡美さんは海外ツアーに出ようとしたが、資金が足らない。僕が前から目をつけていた小さなバイオテクノロジーの会社と製薬会社の株で彼らの資金を捻出した。
 僕は会社を辞め、聡美さんのツアーコーチに就くことになった。桜は灰色から少し朱を帯びて見えるようになった。
 
 聡美さんのお父さんがハイライトを手にして言った。
「ハイライト、hi-liteの俗語は「陽の当たる場所」って言うんだぞ」






2022/4に発表したものに、大幅な加筆修正を行いました。


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