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小説「W.I.A.」一気読みver.

あらすじ
こことは違う次元、違う時代。
科学ではなく、魔法が生活に深く関わっている世界、「ヴァルナネス大陸」。そこでは、神や天使が実在し、ドラゴンやゴブリンなどの魔物が跋扈している。

「冒険者」と言う職業が成り立った、剣と魔法、そして魔物の支配する世界に、時代にそぐわない男が誕生した。マール・ワング・ジェンター、「発明家」だった。知識を得たら試しておかずにはいられないその性格で、生活を犠牲に発明を続けていたが、冒険者エアリアとその一行との出会いが、マールの人生を大きく変えることになった。

これは、マールとエアリア一行が、剣と魔法に科学を足して、ヴァルナネスを、「世界」を救う物語である。

約132,000文字です。

第一部

第1章 第1話 「運命の出会い」

   マール・ワング・ジェンターは困り果てていた。     

 王都ハイペルで毎年開催される見本市に自慢の発明品を出品するため、荷車に発明品を満載し、意気揚々と出発したところまでは良かったが、ハイペルに向かう途中のちょっとした山道で、体力が尽きてしまった。

 マールは、人間の成人男性だったが、背丈は背伸びしたホビットほどしかなく、胴回りはドワーフ並みだが、ついているのは筋肉ではなく贅肉だった。

 普段は家に引きこもり、研究と開発の日々のため、ただ外に出て過ごすだけでも体力を削られるのに、満載の荷車を牽いて長距離を移動しようとは、自分で自分を呪いたい気分だったが、もはやそんな元気もなく、ただ荒い呼吸が早く静まって欲しいと願うばかりだった。

 山道に差し掛かったところで疲労を感じていたが、それよりも見本市で各地から集まる商人達に発明品の説明をして、あわよくば気前のいい商人との取引で大金に在りつけるかも、という期待の方が大きく、ニヤニヤしながら中腹まで登ってきたところで、限界を迎えてしまったのだ。   

「大丈夫ですか?」

 突然掛けられた声に驚き、マール飛び上がらんばかりだった。

 声の主は人間の男性で、マールよりも若く見え、その立派な体格はところどころに金属製の補強がついた革の鎧で包まれている。

 左の腰に長剣が吊られ、背嚢には盾が載せられているとこから見て、冒険者に違いない。それも、前衛職だろう。

 その後ろには、濃い紺色のローブに身を包んだ細みの女性と、いかにも気の強そうなエルフの女性が見え、ガチャガチャ金属音を鳴らしながらヨタヨタ山道を登ってくるドワーフも見えた。

 「まもなく日も暮れます。街道筋とは言え、獣や盗賊が出ないとも限りませんよ?」

 そう言われて辺りを見回すと、確かに陽も陰り、夜の帳が近付いているようだった。疲労のために気を失ってしまっていたらしい。

 キョロキョロと不安そうに辺りを見回すマールに、若い男性が続けて言った。

 「もしよろしければ、もう少し先に冒険者用の待避小屋がありますから、ご一緒にどうですか?」

 マールに否やのあるはずもなく、水飲み人形のように首をカクカクするばかりだった。
思えば、出会いはマールにとってなんとも不名誉な形で行われたのであった。

 マールはてっきり、この一行のリーダーは声を掛けてきた若い男性だと思い込んでいたが、リーダーはローブの女性の方らしかった。

 若い男が小声で何かを話し掛けると、ローブの女性は大きくうなずき、エルフの女性を先頭に立たせ、自分は荷車の隙間に乗せられたマールのそばに付き従った。

 その荷車自体はドワーフが牽き、若い男は荷車の後ろから付いてくる形となる。

 ドワーフに荷物のように荷車に放り込まれたあと、ローブの女性がマールの腕にそっと触り、フードの奥で何事かをつぶやくと、マールの疲労が和らぎ抗しがたい眠気に襲われた。

 眠りに落ちるその瞬間、フードの中を覗いたマールは、そこに深い慈愛の表情を浮かべた美しい女性の顔を見た。その顔は、故郷の礼拝所に掲げられている女神の肖像にそっくりに見えた。

 柔らかな暖かさに目を覚ましたマールは、辺りを見回すとゆっくりと体を起こした。

 すぐに気付いた若い男が、床で高いびきをかいているドワーフを回り込むようにしてマールに近付いてくる。

 「だいぶお疲れのようでしたが、少しは休めましたか?」

 マールは若い男の方に向き直ると、フラフラと立ち上がって礼を述べた。

 「おかげさまで、楽になりました。助けていただいてありがとう。私はトンカから来たマールと言う者です。」

 若い男は、手振りでベッドに座るように示すと、礼儀正しく答えた。

 「私はアルウェンのカイルと言います。修練中の、冒険者です。」

 先ほどは気付かなかったが、カイルと名乗った若い男は、マールよりも一回りは若そうな、まだどこかに幼さの残る少年だった。

 落ち着いた態度や礼儀をわきまえた言葉遣いと、その立派な体格が、カイルを大人びて見せているようだった。

 「アルウェンと言えば、大陸の西のはずれじゃないですか!そこから旅を続けているのですか!?」

 マールは驚いたように声を上げた。

 「ええ、アルウェンを出たのが半年ほど前です。依頼をこなしながら、北のノストールを目指しています。」

 「ノストール!?それはまた、遠くまで!」

 自分でも愚かなことだと思いながら、カイルの言ったことを繰り返した。
 そこに、ローブの女性がトレーに乗せて食べ物を運んでくる。
 フードは脱いでおり、肩に優美な膨らみを作っていた。

 金色の長い髪を後ろで結んでおり、長いまつ毛に縁どられたその瞳は、整った顔立ちによく映える深い緑色だった。

 「お腹が空いてるでしょう?お口に合うといいけれど。」

 よく通るアルトの声は、華奢な体から発せられたとは思えないほどに力強かった。

 「この方は、エーテルの神官で、名前はエアリア。現在の我々の依頼主でもあります。」

 マールはさらに驚いた。エーテルの神官と言えば、この大陸では大衆向けの神話に出てくる存在だ。はるか昔にこの世界を滅ぼそうとした異世界からの侵略者に対し、その身に神の眷属を降臨させて戦ったという。

 侵略者は異世界に追い返したものの、同時にエーテルの神官たちもその数を激減させ、今でははるか東の島国に廃墟と化した神殿の名残があるのみで、絶滅したと思われている。

 「エーテルの、神官・・・ですか・・・。実在するとは・・・。」

 マールはちょっと警戒しながら、もう一度エアリアを見た。
 この手の話は、簡単に信じると痛い目を見ることになる。
 だが、目の前にいる女性は、美しい顔立ちといい、溢れ出る気品といい、現実離れしていることも確かだ。

 エルフの、いかにも高慢な感じの、どちらかと言えばきつい美しさとは違い、どこか人を優しく包み込んでくれるような、包容力のある美しさだった。

 それに・・・先ほど眠りに落ちる前に自分が感じた、あのイメージ・・・。

 マールが無言で逡巡している間も、エアリアはマールから視線を外さず、柔らかな笑顔で見つめ返してくる。その視線に、マールは自分の考えが揺らぐような錯覚を覚えて、自ら視線を外す。

 「お疑いになるのは、無理もないことだと思います。我々はかつての力を失ってから随分の時が経ちます。私自身も、私の母以外のエーテルの神官に会ったことはないくらいですから。」

 エアリアがトレーを差し出しながらマールにそう告げる。
 エアリアは続けて、

 「ですが、北のノストールにエーテルの神官がまだ残っているらしいのです。私はその方に会い、母から受けられなかった秘儀を授けてもらいたいと、カイルたちと旅を続けています。」

 カイルが語を継いで、

 「実は私もエアリアと出会う前は、ただのアルウェンの農夫だったのです。農作業中に誤って雷獣を殺めてしまい、この身に呪いを受けましたが、エアリアのおかげで何とか生きていられます。エアリアが秘儀を授けられれば、あるいはこの呪いが解けるかも知れないと思い、冒険者となって旅に同行することを申し出ました。床で寝ているドワーフはガルダンと言い、別な理由でノストールを目指している熟練の冒険者で、私の指導者でもあります。そして・・・。」

 カイルが、窓辺で外を見つめているエルフの女性を振り返った。

 「私はアルル。東の森のエルフよ。古の理に従い、エーテルの神官を守護するのが務め。」

 アルルと名乗ったエルフは、切り口上でそう言うと、また窓の外に意識を移した。

 ここに来て、マールはエアリアが本物のエーテルの神官と認めざるを得なかった。エルフが、エーテルの神官の守護者だと言うのは、大陸では子供でも知っている話だった。それに、エルフは絶対に嘘をつかないということも。

 「そうすると、私はとんでもない幸運の持ち主ということになりますね。まさか伝説の存在とこうしてお会いすることになるとは・・・。」

 マールは交互にカイルとエアリアを見ながらそう言った。

 「ところで、マールさんはあそこで何をされていたのですか?」
 その質問に、マールは我に返り、慌てて立ち上がった。

 「そうだった!見本市!」

外に飛び出そうとしたマールはカイルに止められ、今は落ち着きを取り戻してここまでの経緯をぼそぼそと語り始めた。

 自分が発明家であること、見本市で発明品を発表しようとハイペルに向かっていたこと、自分の体力が自分の認識よりもはるかに低く、途中で力尽きてしまったことなどを告げると、あまりの情けなさに泣きそうになった。

 そんなマールを、エアリアは優しくなだめ、簡素ながら滋養に溢れる食事でもてなし、こうなったのにも何かのわけがあるはずだから、現実を受け入れて次のことを考えるようにと励ました。

 それから、自分たちも路銀を稼ぐためにハイペルで少し依頼をこなすつもりでいたから、と、ハイペルまでの同行を申し出てくれた。

 アルルは不満そうに鼻を鳴らしたが、マールが起こした騒ぎに目を覚ましたガルダンは、マールの発明品の数々に大変な興味を持ち、中でもバネ仕掛けで一瞬にして弓になる折り畳み式の武器については、あれこれ改良の案まで出してくる気に入りぶりで、マールがお礼にとそれを差し出すと、喜んでハイペルまで荷車を牽く、と請け合った。

 見本市の開始には間に合わないだろうが、どうやら開催中にはハイペルに到着できそうな見通しに、マールは元気を取り戻し、ガルダンとあれこれ話しながら食事を摂って(相伴したガルダンは今夜二回目の食事)、ゆっくりと休むことができた。

 まさかこの申し出が、自分の運命を想像もしていなかった方向に進ませることになるとは知らず、マールは夢も見ずに、深い眠りに着くのだった。
 

第1章 第2話 「ズレた歯車」


 翌朝、日が昇るとすぐに冒険者の待避小屋を出た一行は、ハイペルに向けて比較的整備されている街道を進んだ。小屋を出る前に、次に来る冒険者のために、薪や保存食、日用品などを小屋に残す。これが、待避小屋を使用した冒険者のマナーとなっている。こうした小屋は、街道沿いを始め、様々な場所に設置され、「冒険者ギルド」が管理をしているが、余裕のある冒険者が、小屋の修繕や消耗品の補充をするのはごく一般的なことだった。

  約束通り、ガルダンが荷車を牽き、ぐんぐん街道を進む。昼過ぎにはハイペル王城の尖塔が見え始め、この分なら日が落ちる前にハイペルに到着しそうだった。

 「す・・・すごい・・・ですね・・・さすがに、速い・・・。」

 息も絶え絶えに、マールが言った。マールは着いていくだけで精一杯だった。荷物も荷車に乗せ、鎧を着ている訳でも武器を持っている訳でもないのだが、ガルダンやカイルはもちろん、エアリアもアルルも汗一つかかずに速度に着いていっているのだが。

 一行の先導をしているアルルが、時折マールを振り向いて、蔑んだような目で見てくるのが辛い。それでも、その直後は若干ではあったが進行速度がゆっくりになった。

 研究三昧の生活が、マールの身体を蝕み、情けないことになっている。足を引っ張っているようで申し訳なく、何度か自分一人で向かうことにする、と言い掛けたのだが、その都度エアリアに優しく微笑まれ、機会を失っていた。

 『ここまで来たら、がんばるしかない・・・』

  昼の休憩を取り、幾分元気を取り戻したマールは、覚悟を決めた。街道は各支道との合流を重ね、道幅も太くなり、行き交う人々の数も増えてきた。そのため、必然的に行軍速度が落ちたのも、マールに幸いした。

  「ハイペルまでもう少しですね。着いたら、何をなさるのですか?」

  まもなく城門、というところで、ハイペル軍の検問がある。検問所は、日没までに街に入ろうとする旅商人や冒険者、耕作地や放牧地から帰って来た農民などで溢れかえっている。その列に並んでいる時に、カイルが話し掛けてきた。

  「そうですね、まずは商工ギルドに申請して、見本市の出店場所を確保しなければなりません。今日はギルドの宿泊所に泊まって、明日からは発明品を販売することにします。・・・たくさん、売れるといいのですが・・・。」

  「大丈夫、マールダのご加護があることでしょう。」

  カイルはにこやかに微笑んで、マールを勇気づけた。実際、売れてくれないと困るのだ。売れ残れば、帰りもこの荷車を牽いて行かなくてはならない。マールにとっては絶望的な苦行となることだろう。それに、経済的な問題もある。研究開発に費用が掛かっていて、トンカでは親戚を始め、借りられるところから借りられるだけ借金をしている。マールの現在の所持金は30デルほどだが、商工ギルドの申請に20デル掛かる。借金は合計すると10デテイクにはなるから、今後のことを考えれば、20デテイクは稼ぎたい。できれば、30デテイクは欲しい。

  無事に検問所を通過し、城門前に並んだ露店通りを進む。城門内の市街地に店を持つことができない駆け出しの商人や、一般向けの野菜や総菜、日用品などを売る露店が、隙間なくビッチリと並び、多少雑多な活気を生み出していた。

 城門を潜り、無事に市街地へと入る。ここは「戦勝広場」と名付けられており、出陣式や軍の式典などが執り行われる場所だ。冒険者ギルドは広場から見て右手に位置しているが、商工ギルドは左手の奥、王城の裏手となるため、マールはここで一行と別れるつもりでいたのだが、急ぎの用事のない一行が、先に商工ギルドに立ち寄ってくれる、と言う。

  「そこまでしていただいては、申し訳ない!」

  マールは手持ちの乏しい所持金から、いくばくかの報酬を出そうと考えていたのだが、それもエアリアに拒否され、さらにそこまでお願いするのは、さすがに気が引けたが、エアリアも引かない。あの笑顔でそう言われると、マールは言葉も返せない。結局、商工ギルドまで同行してもらうこととなった。

  「ウチの姫様は、ああ見えて強情だからな!ま、いつも不機嫌なエルフ娘ほどではないが!」

  そう言ってガルダンが豪快に笑う。エアリアはそんなガルダンを笑顔で見つめ返していたが、アルルの方は露骨に嫌な顔をした。

  商工ギルドに着き、見本市出店の申請をしようとして、マールは膝から崩れ落ちそうになった。既に申請受付は締め切った、と言うのだ。今年は出店希望者が多く、ギルドが準備した場所は出店者でいっぱいになり、客が入れないと苦情が出たため、急遽、さらに場所を確保したが、それももう埋まってしまったということだった。

 マールも必死に食い下がったが、結果は変わらなかった。

  落胆の色が隠せないマールがトボトボと一行の元に戻って来た。事情を聞いたエアリアがカイルに「何とかできないのか」と尋ねたが、カイルにはその術もツテもあるはずもなかった。

  「・・・もう・・・いいんです・・・諦めます・・・。」

  カイルの困った表情を見て、居たたまれなくなったマールは、そう言ってはみたものの、自分でもこの先どうしたらいいか、わからなくなっていた。

  その後、追い出されるようにその場を立ち去るように告げられ、一行は仕方なく第二の目的地である冒険者ギルドへと向かった。ここでハイペルでの依頼を受け、ノストールまでの路銀を稼ぐ必要がある。それまでは、冒険者の宿を拠点にして生活をするのだ。

 カイルとエアリアが代表してギルドへと赴く間、マール、ガルダン、アルルは荷車と共に街路の端で二人を待つ。

  「それにしても、災難だのう・・・」

 「最初から、計画が杜撰なのよ。」

 不器用ながら慰めようとするガルダンと、冷たく突き放すアルル。マールは苦笑いするしかなかった。

 カイルとエアリアは、すぐに戻って来た。どうやら、うってつけの依頼があったらしい。マールと違って、こちらはタイミングが良かった、ということだ。

 「ちょうど依頼主がギルドに依頼したところだったんだ。どうやら、ブドウ農場の近くにゴブリンが数匹、住み着いたらしい。その討伐依頼だよ。」

 「報酬は2デテイク。明日討伐してくれたら3デテイク出してくれるそうよ。今日はこのままゆっくり休んで、明日、片付けてしまいましょう。」

  ゴブリンと言うのは、「闇の種族」の中でも低俗な怪物だった。粗暴で薄汚く、頭は良くないが狡猾なところがある。辺境の村などでは、村人が農具で撃退することもしばしばだが、ハイペル程の街ともなれば、冒険者に駆除を頼むのが一般的だ。最近は特にこの手の依頼が増えて来ていて、内容の割に報酬がいいので、冒険者の間でも取り合いになる。

 「それで、マール?今日は、私たちと一緒に冒険者の宿に泊まりましょう。実は、農場の水車の調子が悪いんですって。あなたなら、直せるんじゃないかしら?」

 『僕は発明家であって、修理工じゃない』

と、言おうとして、思いとどまった。今はそんなことを言っている場合じゃない。何としてでもデルを手に入れないと、帰る場所さえ失ってしまう。それに、恐らく依頼主にエアリアが頼み込んで依頼をもらったんだろう。だとしたら、そんな不義理なことは言えるはずもない。どうしてかはわからないが、この人の悲しむ顔は見たくなかった。

  「ありがとうございます!見てみないとなんとも言えませんが、たぶん直せると思いますよ!」

 「そう?良かった!きちんと直してくれたら、1デテイク出してくれるそうよ。明日、私たちと一緒に農場へ行って、私たちが依頼を遂行している間に、見てみてくれる?」

 「わかりました!がんばります!・・・いろいろ・・・ありがとうございます!」

 「じゃあ、決まりね!そうと決まれば『跳ね馬亭』に行きましょう。」

  『跳ね馬亭』はいわゆる冒険者御用達の宿で、御多分に漏れず、一階が酒場兼食堂、二階から上が宿となっていた。ハイペルには他にも冒険者の宿があるが、基本的にはギルドが宿の割り振りをして、全ての宿が均一に儲かるような仕組みを作っている。部屋は二階の部屋が充てられ、男女は布のカーテンで仕切るだけだったが、寝台は人数分より多くあり、清潔なシーツと毛布が添えられている。

 木製の窓を開けると、夕暮れの街の喧騒とともに、涼しい微風が室内に流れ込んでくる。申し分のない部屋だった。

  「装備を解いて、メシとしよう!」

  ガルダンがひと際元気にそう言うと、慣れた手付きで革のベルトや金具のラッチを外して鎧を脱いでいく。カイルも同様だった。

 エアリアとアルルの方は簡単だった。アルルが自分のローブを脱ぎ、エアリアの分厚いローブを脱がせると、窓の外からぶら下げ、砂塵を払い、ブラシで布目を整えた。窓の下から苦情が起きたが、アルルは平然と作業を続けている。

 マールは特にすることがない。薄い革のベストを脱いだら、それで終わりだった。

 武具や荷物をひとところに集めると、アルルが「留守番言葉」を掛けた。この言葉が解かれる前に、誰かが荷物に触ろうとすると、屋敷精霊を始めとした付近の精霊が騒ぎ出す。厩に止めておいたマールの荷車にも、同様の「留守番言葉」が掛けてあった。

 こうしてみんな平服になったが、マール以外のそれぞれのベルトには、ダガーが挟まれ、ポーチも数個着いている。冒険者の心得として、どんな場合も武器は一つ身に着けておき、ポーチには火打石や火口、磁石、革紐、油瓶などが入っている。ガルダンはその他に、パイプタバコのセットと小型のハンマーを持っていた。

 ガルダンを先頭にして階下の酒場へと入っていく。酒場は冒険者以外にも冒険譚を求める町人や吟遊詩人、旅人とその相手を勤める着飾った女たちで混み始めていた。一行は奥の客の少ないエリアのテーブルに案内され、すぐに給仕の男性が全員分のジョッキと取り皿をテーブルに並べた。

 ガルダンはパイプにタバコを詰めながら作業を見守る。注文はエアリアとアルルの仕事のようだった。

 すぐにワインとエールの小樽が現れ、ガルダンの前に据えられる。酒の類を飲むのは、どうやらガルダンだけのようだった。

 「なんじゃ、マールも飲まんのか!ようやく飲み仲間出来たと思ったが!」

 そう言いながら、ガルダンは酒を独占できるのが嬉しそうだった。

 「はい、でも、パイプは嗜むので。」

 「おお!そうか!これはアルウェン特産のタバコ葉で『希望』と言うのだが、味見してみんかね?」

  そう言って、ガルダンはポーチから小さな麻袋を取り出し、マールに手渡した。袋の口を開くと、燻した濃厚なムスクの香りの中に、柑橘類を思わせる爽やかさを含んだ芳醇な香りが漂った。

  「とても良い香りだ!じゃあ、遠慮なく・・・。」

  マールも自分のパイプを取り出して、タバコ葉を詰める。テーブルの蝋燭で火を着けると、口の中に得も言われぬふくよかな甘さがいっぱいに広がり、同時に口からは紫の煙が吐き出された。

  「うん!これは、逸品ですね!」

 「気に入ったか!なら、その袋ごと持っていてくれ。二階に大袋で持ってきてあるからな!」

 「ありがとうございます!」

  ガルダンはとても気前がいい。タバコ葉は、決して安くはない。マールは経済的な理由から、しばらくタバコを吸っていなかった。いつか、必ずお返ししよう。

 その間に、テーブルには次々と料理が運ばれてきた。小さなジャガイモを揚げてスパイスをまぶした物、ハーブで味付けされた大きな魚、焼き目も美しい、丸ごとの鶏肉は、あっさりした塩味だった。それに、焼き立てのパン、コンソメ、色とりどりのフルーツ入りサラダ、数種類の豆を使ったベイクドビーンズ、デザートはミルクプリンだった。

 マールは味もさることながら、その量に驚いた。

  「す、すごいですね・・・いつも、こんなに食べるのですか?」

 「普段が質素な分、街に来た時は豪華に食べることにしてるのよ。私たちはともかく、食べ盛りもいるから。」

 「もう育ちもしないのに、無駄に食べるドワーフもいるしね・・・。」

 アルルの一言で、カイルがコンソメを吹き出して咳き込んだ。テーブルに笑いが広がる。

 「む、無駄に食べるは、さすがにひどいよ、アルル!」

 カイルが袖で口元を拭いながら、にこやかに抗議する。

 「そうじゃい、アルル!儂の腹はデルが掛かってる分だけ、ちゃんと育っておるわい!」

 「それは、育ってるんじゃなくて肥ってるんでしょ!横に伸びるだけを、育つとは言わないわ!」

  ガルダンとアルルのやり取りを見て、エアリアまでが吹き出した。アルルやガルダンも笑いの渦に加わる。マールはアルルがこんな風に声を出して笑うのに驚いた。いつもにこやかにしていれば、とてもチャーミングな女の子なのに。普段の仏頂面は、冒険の緊張感のためなのだろうか?

  楽しい食事の時間があっという間に過ぎ、テーブルの皿もジョッキもきれいに平らげられた。なんだかんだと言いながら、マールも存分に食べ、ハイペル特産の「弾ける水」に新鮮なライムを絞った飲み物も、ジョッキに3杯は飲んだ。食事中に明日の依頼についての話になったので、邪魔にならないように黙って耳を傾けていたが、どうやらワイン貯蔵庫として使っている洞窟にゴブリンが数匹、住み着いたらしい。寝かせているワインに被害が出ないうちに片づけて欲しい、というのが依頼主の意向だそうだ。

 ガルダンは生木を燻してゴブリンを洞窟から追い出し、出てきたところを一気に片付けるつもりのようだ。話し方からして、そこまで危険な任務ではなさそうな感じだった。

 やがて、エアリアとアルルが先に二階へ上がる。これから二人は、盥と湯で体を清めるのだ。その間、男性陣は下で待つことになる。

 気を利かせた給仕が、小さめのジョッキに各々の飲み物と、干しブドウを持ってきてくれた。ガルダンが丁重に礼を言い、チップを渡す。

  「ところで、マール。これからどうするんですか?城外で発明品を売っても、それほどお金にはならないのでは?」

 そうなのだ。明日はいいとして、その先はどうしたらいいのか、マールも考えてはいたのだが、どうしても希望が持てる考えが浮かばず、後回しにしていたのだ。

 「・・・そうですね・・・。明日はエアリアさんの計らいで何とか仕事に在りつけましたが・・・。城外では、私の発明品など見向きもされないでしょうから・・・。」

 城内と城外では、客層があまりに違う。かといって、見本市以外に城内に店を出すなど、今のマールにはできない相談だった。だからこそ、この見本市に懸けていたのだが。

  「仕事のアテもないなら、しばらく儂らと一緒に旅をしてはどうかね?」

  ガルダンがパイプにタバコを詰めながらそう言った。冗談で言っているようではない。カイルも真剣な表情でうなずいている。

  「私がですか!? それは、魅力的な申し出ですが・・・私は体力もありませんし、戦えるわけでもないですから・・・。」

 「うむ・・・だが、見たところまだ若いし、旅をすれば自然と体力はついてくるじゃろうて。危険がないわけではないが、お主の仕事に役立つ経験が得られる可能性もある。儂もこう見えて細工師の端くれじゃが、ノストールの細工物は、それはもう見事だ。地下遺跡にはもうそこでしか見ることのできないカラクリがあったり、古の魔動機があったり、実に興味深いぞ。」

 確かに、他地域の素材や技術を手に入れるには、冒険者と旅をするのはうってつけと言える。通常は誰もいかないような場所にも、行くことができる。逆に冒険に出るのなら、今が最後のチャンスと言えなくもない。これ以上齢を重ねては、体は弱る一方だろう。

 それに、経済的な問題もある。危険も多いが、うまくいくと、一生研究室に籠っても生活に困らないだけの富を得ることだって、不可能ではない。

 『だけど、どうして僕にこんなに良くしてくれるんだ?足手まといになっても、役に立つことなんかありそうにない、昨日出会ったばかりの人間に・・・。』

 マールは感じたままを口にした。答えは意外なものだった。

  「アルルが昨夜、エアリアにそう進言したそうです。・・・マールさんに旅の同行を申し出るように、と・・・。エルフには私たち人間やドワーフにない感知能力・・・予知能力、と言うのでしょうか?そういうものがあるのは、ご存じですよね?」

 「ええ・・・まあ、そう聞きますけど・・・。」

 「アルルは、今日のことを見事に読み当てておったのだ・・・。つまり、お主が希望通りに出店ができず、この先路頭に迷う、ということが。そして、お主が一行に加わることで、儂たちにもお主にも、いい影響があるらしい・・・。」

 「ほ、本当ですか!?」

  にわかには信じがたい話だった。だが、一行の行動は「先が分かっていた」からこそだったと言われれば、それはそれで納得がいく。

  「確かに、にわかには信じがたいですよね・・・。アルルにしても、いつもその能力が働くわけではないので、戸惑いは感じているみたいです。だから、本当はこの話はしないことになっていたんですが・・・。」

 そこまで言って、カイルはガルダンを振り向いた。ガルダンが「続けろ」というようにうなずく。

 「マールさん、もしかして、トンカで借金とか、してらっしゃいませんか?」

 マールは飛び上がらんばかりに驚いた。このことは、誰にも話していないし、借りたのは大半が親戚で、借用書なども作っていない。返済期日も見本市の後にしてあるので、冒険者に借金の取り立てを依頼したとも思えない。大体、それでは日数が合わない。

  「ど、ど、ど、どうして・・・それを・・・!」

 「あ! あるんですか・・・そうですか・・・。」

  そこまで言って、カイルは俯いて黙ってしまった。

  「・・・アルルはこうも言ったのじゃ。お前さんは、借金が返せなくなって、親戚の一人に襲われる、とな・・・。」

  もはや、疑いの余地はない。アルルは借金先までお見通しということだ。恐らくこの申し出を断ったら、間違いなくそうなるのだろう。はした金でこちらを襲おうと考えるような親戚の顔も、自然と思い浮かんだ。

 「・・・そこまで見えているなら、私は皆さんと一緒に旅に出るしか、ないようですね・・・。」

 カイルの顔がパッと輝く。

 「決断していただけましたか!良かった!」

 「うむ。儂らもお主の身を案じながらでは、毎日の目覚めが悪いからの。まずは、良かったわい。」

 「エアリアやアルルも喜びますよ!きっと!」

 「すみません・・・お役に立てるように、がんばります・・・。」

  とは言ってみたものの、マールの気持ちは晴れなかった。もしかしたら、親戚に襲われるというだけなら、冒険の旅に出るよりもそちらの方が危険は少ないかも知れない。何といっても、そこは親戚だし、命までは取らないんじゃないだろうか?

  その夜は、寝心地の良いベッドでの睡眠となったのに、マールはなかなか寝付けなかった。先ほど浮かんだ疑問が、頭の中で何度も繰り返し、浮かび上がってくる。

  「この選択は、正しかったのだろうか・・・?」

  その疑問に答えの出る前に、一番鶏の鳴く声が響き渡った。マールは結局、一睡もできなかった。

第1章 第3話 「思わぬ収穫」

 街の朝は霧に覆われていた。城の上部は雲の中と言っていいほどだった。朝の早い冒険者は、すでに装備を整えて出発して行った。

 マールは眠い目を擦りつつ、宿の正面で一行が降りてくるのを待ちながら、ぼんやりと朝の風景を眺めていると、やがてそこにカイルとガルダンが加わった。

  「お待たせしました。行きましょうか。」

  最後に、エアリアとアルルが降りて来る。依頼主の農場は、街の東に広がる丘の上にあるらしい。支道に入るため、一旦は街道を北に進む。陽が高くなるにつれ、這うように煙っていた霧も晴れ、雲もまばらな晴天が顔を出した。

 支道に入るとすぐ、ワイナリーの看板が道の脇に立てられていた。その向こうに、ブドウ畑に囲まれた、レンガ造りの大きな建物が見えてくる。赤い屋根には多くの甍と、塔のようなものまでしつらえてあり、かなりの大きさのようだった。

 「ハイペルで最大規模のワイナリー、というのは、嘘ではないようですね。」

 エアリアがカイルに話し掛けると、カイルもうなずいたが、その大きさには相当驚いているようだった。ワイナリーと言うよりは、砦のような大きさだ。

 ブドウ畑の中の道を進むと、やがて勇壮な鉄柵付の、これまた巨大な門が一行を出迎えた。その下に、二人の男が立ってこちらを見ていた。

 「ようこそ、シャトー・ピプローへ。昨日は、ありがとうございました。・・・こちら、当シャトーのオーナー、ジャン・ピプローでございます。」

 頭の薄い男が、背の高い立派な身なりの男性を指しながら言った。ジャン・ピプローと紹介された男性は、今から狩りにでも行きそうな服装だった。手には乗馬鞭を持っているところからすると、馬当てでもするつもりでいたのだろうか。

  「こちらこそ、ご依頼をありがとうございます。ピプロー卿、初めまして。私がゴブリン退治を引き受けました、冒険者エアリアと、その一行です。」

 エアリアが一歩進み出て、優雅に膝を折り曲げて挨拶をする。ピプロー卿は礼法に適った挨拶に、驚いているようだった。ゴブリン退治をするような冒険者と言うからには、いかめしい男たちが来るものと思い込んでいたようだった。

  「これはこれは、ご丁寧なご挨拶をありがとうございます。本日はご足労を掛けまして申し訳ございません。まさか、このようなうら若いレディがお出でになるとは・・・。これ、ノッティ、そうならそうと、きちんと伝えんか。」

 「はっ・・・申し訳も、ございません・・・。」

 ノッティと呼ばれた男は、ピプロー卿の秘書的な役割をしているものらしい。冒険者ギルドへの依頼も、この男が行ったものだろう。

 その後、全員の紹介がなされ、マールはノッティによって水車の修理工と紹介された。情けない気持ちになったが、事実なのだから仕方ない。

 本当ならそのままどこかへ行こうとしていたらしいピプロー卿が考えを改め、自ら先導してゴブリンが住み着いたという洞窟へ案内する。本当の目的はエアリアを話すことにあるようだったが、並んだ二人の後ろにアルルがピッタリと張り付いていては、会話も弾まないようだった。

  それから間もなく、ブドウ畑を縫うように流れる用水路の先に見える水車を指差したピプロー卿が、マールに不調の様子を伝え、マールは一行と分かれてそちらに向かうことになった。

 「では、マール、また後で。」

 エアリアに見送られ、一人で水車へ向かう。水車は遠目から見ても、回転がぎこちなく、問題の一つは軸にある、とマールは考えた。どうやら、ブドウや小麦をすりつぶす役目の水車らしかった。水車小屋もレンガ造りの立派なもので、その隣に少し小ぶりの小屋が建てられており、そこに鍛冶職人らしい初老の男性が見える。

  「こんにちは。水車の修理を頼まれた者ですが・・・。」

  マールはその男性に名乗り、水車を見せて欲しい、と伝えた。男はタレンと名乗り、ワイナリーで使用する農具や日用品を作る鍛冶職人だと言った。

  「どうも、回りが良くなくてな。まもなく本格的なブドウの収穫時期に入るから、それまでに調子を戻したいんだよ。」

  タレンの案内で、まずは外から水車を点検する。思った通り、右と左で水車の軸が狂っている。これでは円滑に回転するわけがなかった。次に、マールは水車小屋の中へと入る。太い樫の丸太が3本吊り下げられ、その下に石臼が置かれている。水車の力で丸太を持ち上げては落とし、石臼の中のブドウを絞るようだ。

 マールは水車に登ったり、下から覗いたりしながら計測器具で測った数値を次々と書き留め、タレンにいくつかの部品を作るように依頼する。

何に使うのか、見当もつかない様子のタレンが、不思議そうにしながら部品を作ると、さらにマールが注文を加えて手直しをさせ、それらを組み合わせて二種類の部品を仕上げさせた。

  一つは、大小二つの輪の中に、オイルに馴染ませた鉄球をはめ込んだ物。もう一つは板状の細い鉄を、長さを少しずつずらしながら重ね合わせた物。

  最初の部品は、水車の軸受けを慎重に削り、そこにはめ込んだ。左右のズレを解消するように、大きさを若干変えてある。後の部品は、小屋の中の丸太の上に取り付けた。

 取り付けが終わると、マールは手で水車を回そうとして、タレンに笑われた。屈強な男でも一人で回せるような大きさではない。まして、いかにも不健康そうな体形のマールが動かせるわけがない、と思ったようだった。

  だが、大して力を入れた風でもないのに、水車は滑らかに回った。驚くべきことに、マールが何度か水車を回すと、後は水車がひとりでに回っているようだ。タレンは驚いて、用水路を覗いた。もしかしたら堰き止めたつもりで、水が流れていたのかも知れない。しかし、水はまだ堰き止められたままだ。

 「ど、どうなってるんだ?何かの魔法か?」

 タレンが目を丸くしてマールに問い掛ける。マールは当たり前のような顔をしていた。

  「魔法じゃありませんよ。軸を真っ直ぐにして、転がり抵抗を低くする部品を付けただけです。毎日使うようになったら、三日に一度、オイルを継ぎ足すのを忘れないようにして下さい。」

 水車の出来栄えに満足したマールは、水門を開けさせ、今度は小屋の中にタレンを呼んだ。

 水が流れ出すと、水車が勢いよく回り、丸太が唸りを上げるようにして次々に石臼に叩きつけられた。

  「こ、こ、これは・・・!」

 「丸太の上に反動を付ける部品を付けました。ほら、丸太が上がると作ってもらった部品がしなるでしょ?しなりを戻そうとして、丸太を勢いよく打ち下ろすんです。それと、丸太に波型の溝を切りました。打ち付けた時に捻りが加わるので、今までよりも速くブドウが潰せますよ。」

 「は、速いなんてもんじゃない・・・今までの3・・・いや、5倍は速い!」

  丸太が石臼に打ち付けられる音は、さながら鼓笛隊のドラムロールのようだった。

 「その分、今までより丸太の減りも早いと思いますから、気を付けて下さい。あと、石臼の大きさに合わせた鉄環を被せると石臼の持ちが良くなると思いますよ。」

 「あ、あんた、修理工じゃなかったのかい!」

 「えーと、修理もできる発明家、です。どうですか?出来栄えは?」

 「どうですかもこうですかもないよ!すごいな、あんた! 発明家? 俺は魔法使いかと思ったよ!」

 「いやいや・・・そんなに言われると、困りますけど・・・。」

  頭を掻きながら、マールは満更でもなかった。自分では大したことはしていないつもりだったが、こんなに喜ばれると、悪い気はしない。

 それから、余った時間を使って水車の力で空気を送る大きなふいごも作った。これで鍛冶に使う火力温度が、手間なく簡単に上げられるようになり、タレンは飛びつかんばかりに喜んだ。人力で空気を送るより、はるかに速く温度が上がり、タレンの手間は減るのだから、鍛冶の効率も上がるだろう。

  そこに、ゴブリン討伐を終えた一行が、ピプロー卿に連れられて戻って来た。タレンは走って迎えに行き、ピプロー卿の手を引いてマールが改良を加えた水車小屋を見せた。

  「これはすごい! これならブドウを無駄にせずにワインにすることが出来る!」

  ピプロー卿も手放しで喜んでいる。マールの手をがっちりと握り、派手に上下に振ってその喜びを表現した。今までは摘み取ったブドウを全部潰す前に、ブドウが痛み始めてしまい、かなりの量を無駄にしていたらしかった。だが、この改良水車でなら、収穫した全てのブドウを絞ることができる。さらにその作業がない時でも、粉作りの仕事を引き受けることまでできそうだ、と言う。そうしたら、ワイナリーの売り上げは飛躍的に伸びるだろう、と話を結んだ。

  「いやはや! 在野には、まだまだ有能な若い力が眠っている! なあ、ノッティ! さあ、皆さん! もう午後も遅い。ぜひ、一晩、我が家へ逗留を。食事でもしながら皆さんの冒険譚をお聞かせください!」

 ピプロー卿はそう言うと、タレンに何事かを告げて、先に屋敷へ走らせた。タレンの顔からして、一行を歓待しようと準備に向かわせたらしい。

 屋敷への道すがら、ピプロー卿はカイルたちのゴブリン討伐の様子を、身振り手振りを交え、まるで演劇の場面を語るように話していた。その働きに、深い感動を覚えているようでもあった。

 「いや、何度思い出しても、痛快痛快! 煙がシルフの力でどんどん洞窟に流れ込んで、あっという間にゴブリンどもをいぶり出した! それからのカイルとガルダン殿が、またすごい! ガルダン殿の斧が一振りで二匹のゴブリンの首を落とせば、カイルも負けずに剣を振るってひと際体の大きなゴブリンを倒す! そこに槍で突き掛かろうとしたゴブリンは、アルルの弓で串刺しだ! 私は何度もゴブリンやオーク退治を目にしているが、これほど手際の良かったためしはない! 見事。見事というほかない!」

 まるで自分もゴブリン退治に携わったかのような興奮振りだった。時折カイルやエアリアが謙遜した遠慮気味の合いの手を入れるが、ピプロー卿の勢いは止まらず、話はいつまでも続くように思えた。

 屋敷に着くと、エントランスで執事らしき男性を従えた、ピプロー卿の老いた母と若く美しい妻、子供と思われる男の子と女の子が、一行を出迎えた。ピプロー卿は妻の頬にキスをし、男の子を抱きかかえると、またさっきの話を始めた。エアリアとアルルが話に加わり、ピプロー一家からの賛辞を受け、丁重に礼を返した。

 「さあさあ、ジャン。いつまでもシャトーの英雄を立たせたままにしては、申し訳もありませんよ・・・。フィリー、お客様方をお部屋にお通しして。それから、皆様をスパにご案内なさい。疲れを落としていただいて、晩餐の時に、ゆっくりお話を伺いましょう。」

 いつまでも話の尽きないピプロー卿を、マダム・ピプローがたしなめる。フィリーと呼ばれた執事は、黙礼し、エアリアを左手奥の階段へと導いた。一行もそれぞれ礼をし、二階へと進む。

  屋敷は広く、落ち着いた雰囲気の建物だった。隅々まで清潔に保たれ、華美な装飾などはどこにもないが、なんとも言えない上品さが漂っている。成り立ての名家と違い、歴史と重みのある豪華さだった。

  一行が通されたゲストルームも、その雰囲気は変わらなかった。大部屋と、扉で隔てられた二部屋の寝室があり、大窓の付いたバルコニーからはシャトーが一望できた。

 一行が部屋に入るや否や、数名のメイドが銀器に乗せられた飲み物と軽食を運んでくる。行き届いた配慮に感謝し、エアリアはフィリーに礼を伝えた。フィリーも丁寧に礼を返し、「スパの準備が整い次第お迎えにあがるので、それまで装備を解いてお寛ぎ下さい」、と一行に伝え、部屋を出て行った。

 「いやはや! なんとも行き届いたことだ! 冒険者風情にここまでして下さるとは、ピプロー卿とやらは、余程立派な人物に違いない!」

 ガルダンがワインを注ぎ、渇いた喉に一口流し込んで、その美味さに感動したようにグラスを見つめる。カイルは盆に乗せられたサンドイッチに興味を示していた。鴨肉とレタス、トマトが贅沢に挟み込まれている。エアリアとアルルは、「スパ」が楽しみなようだ。普段は湯で体を拭くだけだから、やはり女性にとっては何よりの御馳走、ということだろう。 

 マールは、丸くてナッツの香ばしい香りのする焼き菓子を手に取り、口に放り込む。バターと卵をふんだんに使った贅沢な甘さが、口の中で解けるように広がった。

 「こちらも、礼を失しないように気を付けねばなりませんね。ガルダンは食べ物をこぼさないようにね!」

 既に顎鬚にワインを垂らしたガルダンを見て、アルルがエアリアにやんわりと釘を刺した。一行の恥ずかしい行為は、そのままエアリアの恥となる。

 「うふふ、そうね。お話した感じは、とてもお優しそうな大奥様だけれど、躾には厳しい方のようね。」

 そう言って、エアリアはガルダンの顎鬚を指差す。ガルダンは慌てて髭についたワインを拭い、照れ隠しの笑いを浮かべてエアリアを見た。

 躾に厳しそうなのは、子供たちの落ち着きを見ればわかる。まだ幼いのに、こちらにきちんと敬意を払い、無駄に騒いだりはしない。

  「お話には出なかったけれど、マールの修繕した水車にもご満足いただけたようね?」

 「ええ、そうだといいんですが・・・。少なくても以前よりは良くしたつもりではおります。」

 「遠目に見てもガタガタだったのに、あんな短時間で、どんな修繕をしたんです?」

 カイルが装備を解きながら、マールに尋ねてきた。アルウェンの農夫であったというカイルも、一度や二度は水車の修繕に携わったことはあるはずだった。その作業の大変さは、身に染みてわかっているのだろう。

 「いえ、大したことはしてません。軸受けが悪かったので、金属製の物に付け替えて、落とし丸太にちょっと細工しただけですよ。」

 そう聞いても、カイルの疑問は深まるばかりだった。あそこには二人しかいなかったのに、水車を持ち上げたり、移動したりはどうしたのだろう?

 実のところ、マールや組み合わせ滑車とロープを使っていたのだが、カイルはその技術を知らないようだった。トンカで井戸から水を汲むのが大変になった老人たちのために、マールが考案したもので、ヴァルナネスではまだ普及していない技術だったのだ。

 ほどなくして、メイドがエアリアとアルルを迎えに来た。スパの準備が整ったらしい。男性用のスパは、ピプロー卿が直接お連れするので、用意が整ったらエントランスに行くように、と併せて伝えられた。

 エアリアもアルルも、溢れ出る喜びを隠すのに苦労しているようだった。いつもは厳しい表情のアルルでさえ、顔が綻んでいる。

 エントランスに降りた男性陣は、ピプロー卿に案内され、地下のスパに向かう。一度に10人は入れそうな、大きなスパだった。温度は低いが、その分長く楽しむことができる。浴槽の横には、冷えたシャンパンも用意されていた。

 汚れと汗を洗い落とし、浴槽で体をほぐす。上がると、ミントの香りがする香油と、真新しい衣服まで準備されていた。

 さっぱりした一行は、食堂の片隅に設けられたカウンターに腰掛け、エアリアとアルルを待つ。大きなテーブルには使用人たちの手によって既に食器が並べられ、蝋燭の炎を受けて煌びやかな光を発していた。

 カウンターで、ガルダンとピプロー卿がブランデーの話で盛り上がっていた時に、奥の大扉からマダム・ピプローとミセス・ピプローに先導されて、エアリアとアルルが入って来る。エアリアは濃いグリーンのイブニングドレス、アルルは水色のエンパイアスタイルのドレスを身に着けていた。二人とも、見違えるほどに美しい。

 マールの隣で、カイルが「ほっ」とため息をついた。

 「・・・いやはや・・・これは・・・。」

 さすがのガルダンも言葉を失っている。エアリアはもちろんだが、恥ずかしそうに頬を染めつつ俯いているアルルの美しさは、普段からは想像がつかないものだった。

 「あらあら、紳士方が見惚れて言葉を失っているようよ。」

 茫然と立ち尽くした男性陣を後目に、女性陣はサッと席に着く。それに誘われるように、マールたちもそれぞれの席に着いた。

 マダム・ピプローが卓上のベルを鳴らすと、待ちかねたように使用人の列が料理を運んできた。どうやら、コース料理になっているようだ。シャンパンがポンッと音を立てて開けられ、それぞれのグラスを満たしていく。

 「素敵な出会いに!」

 全員のグラスが満たされると、ピプロー卿が立ち上がって乾杯の音頭を取る。それぞれの席でグラスを掲げた皆がそれに答え、グラスを干していく。普段は酒を口にしないマールでもわかるほど、上等なシャンパンだった。

 その後、食事を楽しみながら、今日のゴブリン退治の話、今までの冒険の話、これからの予定などを話題にして、会話が弾んだ。ピプロー家の人々は、人の過去を詮索しない品の良さと、会話を弾ませる優秀な聞き手の能力を持っているようだ。

 「さて、そろそろ水車の話をさせてもらおう。我がシャトーの水車は、本日から生まれ変わった! 恐らく、ハイペル広しと言えども、これより優れた水車はあるまい。マール、どのように修繕したのか、教えてはくれまいか?」

 なかなか会話に加われず、料理を頬張りながら愛想笑いを続けていたマールを見かねたのか、ピプロー卿がマールに話を振って来た。

 マールはカイルに話したのと同じ内容を披露したが、反応はカイルと同様、あらたな疑問を生んだだけのようだ。一同に沈黙の間が訪れたが、それを察したエアリアが、助け舟を出す。

 「マールは有能な発明家なんです。ハイペルの見本市で華々しいデビューを飾る予定が、少し出遅れてしまって・・・。どうでしょう? 今度、それらの発明品をハイペルで披露する機会を与えていただくわけには、参りませんか?」

 「そういうことなら、喜んでお力添えさせていただきます。ですがその前に、個人的に私に見せてもらう訳にはいきませんか? いや、あれほどの技術をお持ちの方の発明なら、ぜひ優先的に購入する機会を与えていただきたいのです。」

 「それは、何よりのこと。マール、どうかしら?」

 「も、もちろんです! 私もピプロー卿のような方に、私の発明品を役立てていただきたいです!」

 エアリアの会話は、それと狙っているわけでもないのに、優秀なスカウターも顔負けの交渉能力を発揮していた。マールのピンチを、一瞬で大チャンスに変えてしまった。 

 「それは良かった! そうそう、それとは別に、新たな水車の建造にもお力添え願えませんか? 実は、もう一基、水車小屋が欲しいと思っていたのです。」

 「もちろん、喜んでお手伝いさせていただきます!」

 そこからは、マールの独壇場だった。シャトーにふさわしい水車小屋のアイデアを次々に披露し、一同を驚かせた。ビジネスの匂いを感じたピプロー卿は大いに乗り気になり、そういった場所に女がいるべきではない、と判断したマダム・ピプローとミセス・ピプローが退席しても、話は続いた。

 話し合いの場所がピプロー卿の書斎に移り、酒がワインからブランデーに変わっても、ピプロー卿のビジネスに対する情熱が衰えることはなく、時折話を書き留めながら、熱心にマールの話を聞いている。

 とうとう、具体的な日取りや必要な資材についての話になり、ピプロー卿はノッティを同席させ、指示を与えながら詳細を詰めていく。

 「どうやら、話は尽くしたようですな! 後は報酬、ということだが・・・。」

 そう言うと、ピプロー卿がノッティに命じ、本棚の下から重厚な木箱を取り出させた。

 「まず、本日のゴブリン討伐分、5デテイクをお支払いします。それから、水車の改良に3デテイク。お話したより多いのは、私の気持ちと捉えて下さい。それから、水車小屋増設の前金として、5デテイクをお渡しします。無事に完了したら、もう5デテイク。それでいかがでしょう?」

 「ありがとうございます。ご配慮に感謝致します。私どもには過分な報酬ですが、お気持ちはありがたく、受け取らせていただきます。」

 エアリアは見事な交渉者だ。最初の予定から倍の報酬を引き出し、水車の増設だけなら明らかにもらい過ぎの上乗せ分まで獲得した。もちろん、今までの水車に比べれば、最低でも倍の働きをする水車が、単純にもう一基増えるとなれば、シャトーの売り上げはそれ以上になることは間違いないが、それにしてもこの申し出は破格だった。

 「良かった! では、早速資材の調達と水路の工事を始めましょう! それで、その間のことなのですが、よろしければもう一つ、お願いを聞いていただけないでしょうか?」

 そら来た。やはり、話がうますぎると思った。さすがピプロー卿もやり手のビジネスマンだ。破格の報酬はこのための前振りだったのだ。

 「はい。喜んで、お話を伺います。」

 エアリアも負けてはいない。話は聞くが、引き受けるとは言わない。

 「先ほど、ノストールを目指して旅を続ける予定だ、と仰ってましたな? 実は、私には妹がおりまして・・・。なぜか魔術を習得したいと言い出しまして、ハイペルの魔術学校で勉強をしていたのですが、恥ずかしながらちょっとした問題を起こしまして・・・放校処分になり、今はノストールで魔術の勉強を続けているのです。これからシャトーも忙しくなることですし、戻って来てこちらを手伝うように、伝えてもらえませんか? そしてその間の護衛をお願いしたいのです。もちろん、報酬は別にお出ししますし、そちらのノストールでの用件が終わってからで構いません! 私からの手紙も準備いたします! 何とか、お願いできませんか?」

 ピプロー卿が、珍しく狼狽したような様子を見せた。恐らく、血を分けた妹とは言え、苦手な部類の人間なのだろう。実のところ、扱いに困ってノストールに送り出した、というのが正解なのかも知れない。

 「なるほど・・・。お話はわかりました。私どももノストールへ向かいますから、ありがたいお話ではありますが、護衛して連れ帰る、となると、諸々の相談もございます。夜も更けて参りましたし、一度戻って皆で話し合い、明日の朝の回答で、構いませんか?」

 「ええ、ええ! もちろんです! 報酬は前金で半金を・・・10デテイク、いや、20デテイクお支払いします! ぜひ、ご検討下さい!」

 20デテイク!しかも、半金だ。冒険者の依頼の中でも、かなり高額な依頼料と言える。ノストールまでは遠いし、道のりも険しいが、それでも併せて40デテイクとなれば、武官の一年の俸給と、ほぼ同額だ。護衛任務では、まず有り得ない報酬となる。

 それだけ必死ということなのだろうか。いずれにしても、エアリアは即答を避けた。

 それから、あらためて丁重なもてなしに礼を述べ、一行は自室に引き上げた。ピプロー卿は、最後には懇願するような目でエアリアを見ていたが、そこは全員が気付かないフリをした。

 「護衛で40デテイクとは、張り込んだものだな!」

 部屋に戻るなり、ガルダンが目を丸くしてエアリアを見る。エアリアは落ち着いた様子でガルダンにうなずいて見せた。

 「余程のじゃじゃ馬なんでしょうね。とは言え、男だらけのパーティーに依頼する気にもなれない、ってところじゃないかしら? 私たちはドワーフと、いかにも人の良さそうな男が二人。その辺のごろつき冒険者よりは、信用できそうだと、思ったんじゃない?」

 アルルの言う通り、冒険者とは言いながら、ごろつきや野盗と変わらないような冒険者も多くいる。マール自身、エアリアやカイルのような冒険者と出会う前は、できるだけ冒険者には関わらないようにしていたくらいだ。その点、一行はエアリアやアルルの気品も手伝い、冒険者としてはかなり信頼のおける部類ではあるだろう。少なくても、無礼や非礼を働くような人間には見えない。

 「それで、どうします? 私としては、お困りの様子だし、お助けしてあげたいと思うけれど・・・。」

 「エアリアがいいと言うなら、俺は構わない。それに、こちらの用事が終わってからでもいい、と言うなら、路銀の心配もいらないし、悪い依頼ではないと思う。」

 「儂もそれで構わんよ。」

 「私も。」

 口々に意見を述べた一行が、一斉にマールを見た。

 「ぼ、僕ですか? 僕はもちろん、構いませんよ。皆さんに従います!」

 言ってから、「やってしまった」と思った。別に、ここで待っていても問題はなかったはずなのに、つい勢いで「着いていく」と宣言してしまったようなものだ。

 「そう! なら、決まりでいいわね! 明日の朝一番で依頼を受けると伝えましょう。そうと決まれば、今日はもう、休みましょうか。ガルダンも、お酒が飲み放題とは言っても、飲み過ぎはよくありませんからね。」

 「大丈夫ですわい。もう十分に、頂きましたからな!」

 エアリアの言葉に、ガルダンが腹を叩いて答える。一同に笑いが起こり、散会となった。エアリアとアルルは左の部屋へ、カイルとマールは右の部屋へ。ガルダンは、もう少しだけ、ここにいるつもりのようだった。せめてデカンタの分の酒は、飲む気でいるのだろう。

 厚さのたっぷりしたベッドに寝転がり、マールは泣きそうになっていた。借金を返す当てもできたのに、なんでわざわざノストールなんて行くことになってしまったんだろう。いつものことながら、自分の決断力の低さに情けない思いになる。なぜかいつも、「ひどい方」の選択肢を選んでしまうのだ。だが、そんな思いも束の間で、寝不足と慣れない飲酒で、マールはあっという間に夢の世界へ引きずり込まれていくのだった。

 

第1章    第4話 「光と闇の胎動」

 翌朝の朝食の席で、エアリアは依頼を受けることをピプロー卿に告げた。ピプロー卿は非常に喜び、道中用にと馬2頭と馬車を貸してくれることになった。また、冒険者の宿に置きっぱなしのマールの発明品については、アルルから「留守番言葉」の合言葉を聞いた上で、こちらに運び、留守中はきちんと保管してくれると言う。さらに、これを正式の依頼として、冒険者ギルドに届け出ることも約束してくれた。これで、万が一の場合でも各地の冒険者ギルドで様々な支援を受けることが可能になる。

 本来なら、報酬は全額前払いでギルドへ渡すのが通例なのだが、今回はゴブリン退治の報酬と護衛任務の前金を直接渡し、エアリアとカイルの署名入りの受け取りをギルドに提出することで支払いの証明とする。ゴブリン退治でギルドに納めた依頼金は、そのままでいい、と言う。また、護衛任務の供託金は後金の20デテイクをギルドに納める。それならギルドも納得することだろう。

 「いずれにしても、皆さんにもギルドにも、礼を失しないように対処しますから、ご安心下さい。私はこれから妹宛の手紙をしたためますから、皆さんは装備を整えてお待ちいただければ。厩にタレンがおりますから、馬車の具合を見ながら、必要な物については何なりとお申し付けください。」

 ピプロー卿はそう告げると、すぐにノッティをハイペルに差し向け、ギルドとマールの荷物の受け取りに向かわせた。自身は書斎に向かう。

 一行は庭師の案内で中庭を抜け、厩へと向かった。厩の前では、タレンが馬車の清掃を行っているところだった。普段はワイン樽などを運んでいるらしい、荷車型の馬車だった。いかにも頑丈そうなつくりで、帆布の幌が掛けられている。車輪は木製で、鉄の環が嵌めてあり、重量物の運搬に耐えられるようにしてあった。

 「マールさん! 皆さん! おはようございます。ゆっくりお休みになれましたか? ご主人様からこちらの馬車をお貸しするように申し付けられました。」

 「タレンさん、おはようございます。頑丈そうで、旅にはうってつけですね!」

 「人数分の敷物と毛布、水とワインの樽を一つずつ、それと日持ちしそうな食料を積み込んでありますが、他に必要な物はありますか?」

 皮手袋を外して汗を拭いながら、タレンが尋ねてきた。マールは返答に困り、カイルを見上げた。それに気付いたカイルとガルダンが乗降段から馬車の中を覗く。

 食料は干し肉やチーズ、固焼きのパンの他、リンゴやブドウなどの生鮮品も積み込まれている。ざっと見積もって、20日分はありそうな量だ。

 「十分ですよ!こんなにいただいて、よろしいんですか?」

 「もちろんです!馬車の整備も終わっていますから、ご安心下さい!」

 タレンは朝早くから、馬車の準備をしていたようだ。たまたま使う予定があったのか、それとも、ピプロー卿が一行の返答を予期して命じていた物なのかは不明だが、駆動部には油が差され、各部は磨きあげられていた。

 そこに、馬丁らしき二名の男性が馬を牽いてやってくる。小型だが、丸々と肥えた鹿毛の二頭は、すでに飼葉も水もたっぷりと与えられているらしく、いかにも物憂げに馬車に繋がれた。

 「額に白線が入っているのがカイ、6歳の雌馬です。足が白い方はその息子で3歳のクィ。リードはカイが努めます。どちらも大人しくて人懐っこいですが、臆病なところもあるので・・・。」

 若い方の馬丁がおずおずと馬の説明をしてくれた。冒険者に馬を貸すのが不安なようだった。可愛がっている馬たちが、どのような扱いをされるか心配なのは明白だった。それも、慣れない長距離の移動とあっては、尚更だろう。

 アルルがカイに近付き、その鼻面に自分の額をあてがうと、下あごを優しく撫でる。カイが甘えかかるように首を振ってアルルの匂いを嗅いだ。アルルはクィにも同じことをしたが、こちらは幾分強めの力で目の下を掻くようにした。

 「とてもいい子たち。普段から愛されているのが、よく分かるわ。・・・カイは、お腹の調子が心配なのね。クィはとても元気だけど、飼葉が目に入ってかゆかったって。」

 「う、馬と話せるんですか!?」

 「話せる、と言うのとは違うわね。何となくわかる、っていうのかしら?馬も、あなたたちの動きを見て、話を聞いているわ。あなたが不安に思ってることも、敏感に感じてるわよ?」

 「そ、そうなんですか・・・。」

 「ええ、もちろんよ。あなた方の気持ちもしっかり伝わっているからこそ、慣れない私たちの前でも、こんなに落ち着いてられるのよ。馬も、安心しているのね。だから、あなたが不安なのが不思議みたい。」

 アルルがそう言うと、カイがいかにもその通り、と言わんばかりに一声嘶いた。それを見て、二人の馬丁もタレンも、マールも驚いた。

 「だから、あなたも安心して。決して無理はさせないし、道中は私がしっかりお世話をするわ。・・・それで、お気に入りのブラシがあるんでしょ? もし良かったら、私に貸してくれないかしら?」

 一人の馬丁が厩へ走り、使い込まれたブラシを持ってきた。

 「カイは、後ろ脚の太ももをブラッシングされるのが好きです。クィの方は首から胸にかけて。よろしくお願いします!」

 「ありがとう、わかったわ。大切に使わせていただくわね?」

 馬丁は恭しいとも思える態度で、慎重にブラシを差し出した。アルルも両手でそれを受け取ると、斜めに掛けている大きめのポーチにブラシをしまう。

 これもエルフの感応力の一つなのだろうか。精霊と話せるくらいなのだから、馬と話せても何の不思議もないが、目の当たりにすると驚くばかりだ。

 三人に再開を約束した一行は、馬車を表に回す。御者はアルルが務めた。馬と意思疎通ができるのだから、これ以上の御者はいないだろう。カイルとガルダンは荷車の中で荷物の割り振りをした。一番重くて場所を取る樽二つを中央の左右に振り分け、バランスを取ると、食料はそれぞれ小分けにし、その間に置く。個人の荷物は取り出しやすい後方の乗降口付近に並べられた。空いたスペースには敷物が敷かれ、片側に毛布が並べられた。樽を境にして、前部と後部に人が座れる場所が確保される。

 その間、エアリアとマールは徒歩で移動をする。

 「マールは、旅は初めて?」

 エアリアが話し掛けてくる。そういえば、旅と呼べるような経験は、あまり記憶にない。トンカからハイペルや、周辺の集落に行ったことはあったが、あとは子供の頃に東の港町、コルダーに家族で出掛けたくらいしか、思い出せない。

 「・・・ええ、旅という旅は、これが初めてくらいかも知れません・・・。」

 「そう。旅は、いいわよ。私は多くの時間を旅に費やしてきたけれど、その土地の空気、人、そう言う物に触れるのは、いつも新鮮。もちろん、楽しいことばかりではないけれど、そういうものも全て、人を成長させると、私は思うの。」

 「そういうものですか・・・。」

 「きっと、そうよ。マールのお仕事にも、いい影響を与えると思うわ。」

 エアリアと話すと、不思議に母と話しているような錯覚を覚える。決して押し付けがましい訳ではないが、なぜか納得してしまうのだ。

 「まずは、ノスハイの町でマールの装備を整えなくてはいけないわね。靴も服も、旅に備えてそれなりの物を探しましょう。」

 ノスハイは、ハイペルから北に向かって二日ほどの距離にある、比較的大きな町だった。そこから街道は東西に延び、東のコルダーと西のカリランドへと繋がる。東西及び南北の交通の要所として、様々な交易品の集まる「交易都市」だった。

 玄関ポーチに回ると、マダム・ピプロ―とミセス・ピプローが包みを手に待っていた。人数分の昼食を、手ずから用意してくれたらしい。

 「また御厄介を掛けてしまって申し訳ないけれど、息子も妹とは言え、クロエのことが苦手みたいでね・・・。でも、あの娘ももう家庭を持っていい頃だし・・・。少しご迷惑を掛けるかも知れないけれど、根はいい子なのよ。私からも、よろしくお願いします。」

 エアリアが丁重に包みを受け取り、何事かを話していたが、こちらまでは聞こえてこない。アルルも御者席からは降りたが、近付こうとはしなかった。カイルとガルダンは鎧と武器の位置を調整し、これからの行軍に備えていた。

 まもなく、ピプロー卿が家紋の入った文書筒と重そうな革袋を手に、玄関ポーチに現れた。エアリアが文書筒を、カイルが革袋を受け取る。

 「手紙と、前金が入っています・・・。どうか、妹を・・・クロエをよろしく。」

 「承りました。少しお時間を頂戴するかも知れませんが、その際は手紙でご連絡差し上げます。どうか、お心安らかに、吉報をお待ちくださいますよう。」

 エアリアが全員に向けて丁重に挨拶をする。それぞれが挨拶をし、一行はシャトーを後にした。街道を戻り、合流点で北に道を変え、まずはノスハイを目指す。遠くに見えるノストールを擁する山々には、暗雲が垂れ込めていた。この季節なら雪ということはないだろうが、悪天候には違いないだろう。

       ※            ※

 ハイペルからはるか南、「大地孔」よりも南に、尖塔のような岩山がある。湿地に囲まれたその岩山は、はるか古代に、神々がヴァルナネスに降り立った際に乗ってきた乗り物だと言い伝えられていた。

 今は近寄る者とていないその岩山の中で、漆黒のローブを着た集団が、見るからに禍々しい祭壇に祈りを捧げていた。祭壇には、大きな棺が置かれ、6つの大きな水晶球が棺を取り囲んでいた。

 水晶球は、祈りの強弱に合わせ、時に強く、時に弱くなりつつ暗黒の渦を湛え、その渦は時と共に少しずつではあるが、確実に大きさを増していた。

 詠唱の声はますます高まり、異様な熱気が周囲を満たしていく。先頭で指揮を執っているらしい長い杖を持った人物が、両手を高々と挙げると、集団の列が中央から左右に分かれた。両脇をローブの人物に押さえつけられた6人の男女が、激しく抵抗しながら、半ば引きずられるようにして空いたスペースを通り、それぞれ水晶球の後ろへと引かれていく。6人の男女は、一糸まとわぬ全裸だった。

  「アーデムハシュラー! コーデモン・ナイヤー!」

  杖の人物が、掛け声とともに杖を振り下ろすと、裸の男女の胸に、黒い染みが現れた。染みは徐々に広がり、そこから鮮血が迸って周囲に飛び散った。苦悶の表情を浮かべ、崩れ落ちそうになる男女を、両脇のローブの人物が無理矢理に立たせる。

 どす黒い染みがどんどんと大きくなる。やがてそこから、脈打つ臓器が顔を覗かせた。

  「アー・デム・ハ・シュラーッ! コーデモン・ナイヤー!」

 「アーッ・デム・ハッ・シュラーッ! コーデッモン・ナイヤーッ!」

 ローブの人物全員が、一斉に詠唱を繰り返し始める。とうとう心臓は胸から完全に飛び出し、6人の男女はそれに引っ張られるように、海老反っていく。全員の口から鮮血が流れ、ぐったりとして眼球が裏返っている者もいる中、未だに断末魔の悲鳴を上げ続けている女もいた。

 やがて、心臓を支えていた血管が、一本、また一本と切れ、鮮血と共に胸から垂れ下がる。    そして、とうとう最後の太い血管までが千切れると、心臓は勢いよく水晶玉にぶつかり、水に沈むように水晶玉に吸収されていく。どす黒い渦には赤のラインが加わり、ますます勢いを増し、大きくなっていく。

 6個の心臓が、水晶玉に吸収された瞬間、水晶玉から走り出た赤黒いエネルギーが棺に向かって放たれ、棺を大きく揺らした。エネルギーを失った水晶玉は、砂粒のようになって次々と崩壊していく。

 詠唱が、止んだ。対照的な静寂が空間を覆う。と、棺が揺れた。間隔を置いて、再び。今度は先ほどより大きく揺れた。

 「どんっ!」

 大きな音と共に、棺の蓋が高く舞い上がり、やがて落下してくると床に激しい音を立ててぶつかり、粉々に砕け散った。棺は、黒曜石でできていたようだ。割れた破片一つひとつが、鋭利な刃物のようになっている。

 棺の縁に、右手が掛けられた。その手は青黒く、筋肉質で、銀色に鈍く光る大きな鉤爪が付いていた。そして、上半身が起こされる。頭に二本の曲がりくねった角を持ち、赤い瞳の無い目が見開かれる。ギロリと、棺の前の集団を睨んだその生き物は、一声短く吠えた。

 ドラゴンの咆哮ですら、ここまでの恐怖は抱かないであろうと言うような、低く響く咆哮だった。それが証拠に、ローブを着た人物の大半が、この一声だけで気を失っていた。あとでわかったが、この時すでに絶命した者までいたほどだった。

 杖を持った人物は、棺の前に恭しく跪くと、杖を置き、ローブのフードを外した。銀色の髪の毛を長く伸ばした、初老の男性が現れる。

 「無事のお目覚め、おめでとうございます・・・猊下・・・。」

 「おお・・・『還らせる者』、ハーメルンよ。ご苦労であったな・・・。」

 「ははっ! もったいないお言葉・・・」

 「うむ・・・。」

 棺から出てきたその『生き物』は、言葉を話すが、人間ではなかった。筋肉質の大きな体は無数の鱗に覆われ、太くて長い尾を持っていた。この生き物を一言で形容するならば、それは古から恐れられる「悪魔」と言うのがもっとも適しているだろう。

 すぐに緋色のローブが運び込まれ、4人の男の手で着せられた。それ自体がかなりの重量のように見える。

 「・・・で・・・今の状況は?」

 ローブを羽織った「悪魔」が振り向き、ハーメルンと呼ばれた男を見下ろした。

 「はい・・・既に『東の魔女』と『西の伯爵』はお目覚めになり、それぞれの地で決起の時をお待ちかねでございます・・・。『北の黒竜』も直に・・・。」

 「よし。では、それぞれに伝えよ『南の教皇』アズアゼルが目覚めた、とな。」

 「はっ! 直ちに・・・。」

   ※               ※

 ノスハイまでの道のりは、順調そのものだった。これだけ人の往来もあれば、野盗や魔物の類の心配もほとんどない。そのため、徒歩で付き従う予定だったガルダンとカイルも馬車に乗り、速度が飛躍的に速くなったのもその一因だった。初日は街道脇に手頃な池を見つけ、その池辺で夕暮れ前にキャンプを張った。馬も人も、たっぷりと食べ、ゆっくりと休んだのだが、二日目の昼過ぎにはノスハイに入ることができた。

 ノスハイの町も、街の規模こそハイペルには及ばないが、活気にあふれた大きな町だった。交易の町として多くの商人が訪れるので、地方の情報も集めやすい。馬車のままでは中心部までは入れないので、外辺部に多くある『預かり屋』に荷物ごと馬車を預ける。預かり屋の主人は、ピプロー家の紋章が入っている馬車に、冒険者が乗っていることに不審を覚えたようだったが、エアリアが馬車から降りるとその疑念も払拭されたようだ。

 「へへっ、ピプロー家のお使いですか。しっかりと預からせていただきやす。」

 鼻の下にちょっとした髭を生やした小柄な主人は、エアリアに愛想笑いを浮かべ、揉み手をしながらそう言った。

 「馬には飼葉と、十分の水を。それから、ギルドはどの辺りかしら?」

 御者台から降りたアルルが、エアリアと主人の間に割って入る。主人はギョッとしたように立ち尽くしたが、すぐに気を取り直して了承のうなずきをしながら、ギルドの位置をアルルに伝えた。

 ノスハイのギルドはハイペルのギルドよりも大きく、冒険者の宿を兼ねているようだった。中央の広場に位置し、町のシンボルともなっている豊穣神マールダの聖堂にも負けないほどに大きかった。 

 「教えてもらう必要もなかったみたいね。」

 アルルが自重気味に両手を広げて見せた。 

 ギルドは冒険者でごった返していた、と言っても過言ではない。依頼の掲示板の前には、特に多くの冒険者が集まっていた。

 「冒険者エアリアと、その一行です。今夜の宿の手配をお願いします。」

 エアリアがカウンターの女性に、冒険者の登録証を差し出しながら伝える。

 「エアリアさん・・・ね・・・。ああ!ハイペルから鷹急便が来ていたわ。ええと、ピプロー卿の依頼で、ノストールに向かっているのね・・・。そうね、二階の角部屋を使っていいわ。掃除は終わってるから、すぐに入れるわよ。」

 「ありがとう。すごい盛況ぶりね、何かあったの?」

 「ああ、カリランド周辺でグールが大量に発生したって、救援要請が入ってね。いろんな教会が神父を派遣するのに冒険者を雇ってるの。教会もそれぞれに威信があるから、報酬がどんどん上がって、大騒ぎよ。ハイペルでは軍の編成も始めたみたいよ?」

 グールは闇の魔物の中でも、かなり厄介な存在だ。人肉を好み、生死を問わず襲い掛かる。さらに、グールに噛まれた者もいずれグールになるため、発生したら速やかに駆逐しないと、どこまでも増え続ける。不死の存在であり、剣や魔法では完全に殺すことができない。神の力による、「魂の浄化」「成仏」などと呼ばれる送還方法で、肉体から穢れた魂を抜くしかないのだ。400年ほど前にもカリランド周辺で発生し、その時は村や町がいくつか全滅したと言い伝えられている。

 それ以降、カリランドには『四柱神』の全ての教会が置かれ、「神聖都市」と呼ばれるほどになった。

 さらに、グールが出たと言うことは、近在にヴァンパイアが存在する、ということだ。こちらはグールに輪を掛けて厄介で、魔物の中でも上位の階級に属する。「神の対極に位置する」と教義づけられており、教会はその存在を決して赦さない。

 剣や魔法では大して傷を付けることすら出来ず、神官や僧侶による「魂の浄化」も、余程の高位術者の術でなければ受け付けない。非常に狡猾で、人に紛れて生活することもある。

 戦闘能力もずば抜けて高く、飛行や変身能力もあり、さらに「暗黒魔法」と呼ばれる独特の魔法すら操る。ドラゴンと並び恐れられる、闇の一族だった。それだけに、「ヴァンパイアを倒した」という事実があるだけで、たとえそれが修行中の者でも、一気に「聖人」に列せられることになる。それはつまり、教会の威信が高まる、と言うことだ。それゆえに、各教会がヴァンパイア退治に本気になるのだ。

 エーテルの神官であるエアリアにとっても、グールやヴァンパイアは決して相容れることのできない「絶対悪」だった。だが、「秘儀」を授けてもらっていない今の自分では、ほとんど役には立てないだろうことも、十分に承知していた。それだけに、早くノストールに向かい、エーテルの神官を探し出さなければならない。

 「なに? グールじゃと?」

 部屋に入るなり、エアリアは階下で聞いたことを一行に伝えた。即座に反応したのはガルダンだった。ガルダンたちドワーフにとって、「土」は命を守るかけがえのない物だ。その「土」を汚すのがグールやヴァンパイアのような、「不死の存在」だ。ゆえに、全てのドワーフにとっても、存在が許されない「絶対悪」となる。

 「ええ。かなりの数のようよ。ハイペルでも軍隊を編成して遠征に向かうみたい。恐らく、私たちとは一日違いになったんだわ。」

 「グールとなると、厄介ね。こちらも装備を整えなくては・・・。」

 「そうだね。売り切れる前に、油や装備を整えた方がいい。」

 アルルとカイルの懸念はもっともだった。品薄になれば、当然値も上がる。急いで装備を解いた一行は、いつもの「留守番言葉」を掛け、町へと繰り出した。

 まずは雑貨屋で、油壷、松明、火打石、火縄などを買い揃える。やはり、既に値が上がり始めていた。だが、グール討伐に向かう訳ではないので、それほど多くは必要がない。ノストールへの道中で、グールが現れた時のための用心だ。さらに、北上するにあたり、人数分の厚手の外套と中綿入りの馬着も準備した。

 次は、武具屋だ。ここで、カイルは槍を新調し、アルルは通常の矢の他に、火矢も準備する。エルフは火の使用を嫌がるものたが、グールと聞いては準備せざるを得ない。ガルダンは投擲にも使える手斧を何本か買っていた。いずれも、グールに噛まれないようにするため、できるだけ距離を取って戦うための装備だった。

 「さて・・・あとは、マールだね・・・。」

 カイルが振り向いてマールを見つめた。どんな武器がいいのか、考えているのだろう。積極的に戦いに加わらないにしても、自衛のための武器は必ず必要になる。

 カイルはガルダンやアルルと相談の末、ダガーとスリングスタッフを武器に選んだ。ダガーは大きめの両刃の短剣で、投げることもできる。スリングスタッフは、石を遠くに飛ばす役目を持った杖だった。もちろん、杖として使うこともできる。

 だが、メインは大きめのスクエアシールドだった。マールの身体がすっぽり隠れるほどの大きさだ。

 「自衛」のためでも戦わせるのに不安を感じたガルダンが、いっそ「防御を固める」ことにしたらどうか、と選んだものだった。

 さらに、レザーアーマーと肘までを覆う分厚い皮手袋、革製のブーツ、革のヘルメットも買った。全て身に着けてみると、それなりに冒険者に見える格好になった。

 マールも、鏡に写った自分を見て、まんざらでもないと思ったほどだ。何となく、自分が強くなったような気もする。

 「あら、意外と似合うわね。」

 鏡の後ろから覗き込んだアルルがマールを見てそう言った。

 「そ、そうですか? まあ、自分でもそれなりに似合うとは思って見てたんですけど。」

 「ええ、強そうに見える。髭を生やしたらいいんじゃない?」

 「ひ、ひげですか!?」

 「そう。威厳が備わるんじゃないかしら。」

 そう言うと、アルルが自分の髪の毛を髭に見立ててマールの顎にあてがう。マールが一瞬ドキッとするような、いい匂いがした。

 鏡の中に、髭を生やしたマールがいた。アルルの細い金髪では、あまりイメージも湧かないが、これが本物の髭だとしたら、悪くないかも知れない。

 「ねっ? なかなかじゃない?」

 「そ、そうですか・・・ね・・・?」

 「私は、いいと思うわ。」

 「じゃあ、ちょっと伸ばしてみます。」

 アルルが、「それがいいわ」と言い残して、鏡の中から消えてしまった。マールはとても残念な気持ちになった。

 その後、マールの希望で薬種屋と鍛冶屋に寄ってもらった。「グールは火と強い光に弱い」と聞いて、思いついた物を試してみるつもりでいた。盾にも、いずれ改良を加える予定で、それらの材料を購入しておいた。道中で少しずつ手を加えていこう。

  無事に準備を終えた一行は、宿に戻ると食事を摂って、早めに休むことにする。マールだけは、薬種屋と鍛冶屋で手に入れた材料で何かを作って時間を過ごした。

 翌朝、マールは昨晩作った物を全員に披露した。握りこぶしほどの大きさの球状のものと、紙でできたと思われる円筒状のものだった。

 「グールは火と光に弱い、と聞いたので、作ってみたんです。こちらの球状のものは『炸裂炎上弾』、筒状のものは『飛翔閃光弾』と名付けました・・・。」

 ガルダンが炸裂炎上弾を手に取り、不思議そうに眺めている。火縄が付いており、思っていたよりも重い。

 「これは・・・火を着けて使うのかね?」

 「そうです。火を着けたら、敵に向かって投げつけて下さい。5秒後に爆発します。中に鉄くずと、膠で粘性を持たせた油が入っていて、大体3mの範囲の敵に傷を負わせて、付近に火が付くように作ってあります。まだ試してないので正確ではありませんが・・・。」

 「で、こっちは?」

 「飛翔閃光弾ですね? こちらは矢に付けて空に向けて放って下さい。強烈な光を発しながらゆっくりと落ちてくるように作ったつもりです。」

 一行が、他に誰か知っているものがいないかを確認するように、それぞれ顔を見合わせたが、確認を取れる者はいなかった。

 「それで、道中のどこかでこれを試してみたいんです。被害の出ない、安全なところで。」

 「それはいいけど・・・。これをマールが作ったのかい?」

 ガルダンから炸裂炎上弾を手渡されたカイルが、その重みを確かめながらマールに尋ねる。

 「そうです。もしかしたら、役に立つんじゃないかと思って・・・。いけませんでしたか?」

 「いやいや!そんなことはないよ! ただ、ちょっと驚いたんだ。一晩で二つも、こんなすごいもの作るなんて。」

 「試してみないと、何とも言えませんよ? 設計上は効果を発揮すると思うんですけど。」

 マールが二つとも手に取ると、自分のポーチにしまう。どこか街道から逸れたところで試してみることになり、一行は宿を出た。

 前の広場では、メルス、マルダ、ゴール、ボーディの四柱神が、それぞれの教会の旗を掲げて、出陣式を執り行っているようだった。多くの神官、僧侶と、より多くの冒険者たちが、それぞれ属した教会の旗の下に集っている。

 ひと際立派な身なりの神官四人が、馬上の人となりそれらの集団を睥睨していた。どうやら、メルスの神官がこの大遠征隊のリーダーとなったらしい。その後ろには派手で大きな「聖四柱遠征討伐隊」の文字が染め抜かれた旗が翻っている。

 「こちらも出発のようですね・・・。巻き込まれる前に出立しましょう。」

 アルルがエアリアにそう話すと、エアリアも「それがいい」と応じ、預かり屋の元へ向かう。町の外には、遠征隊の荷車や馬が多数、今や遅しと出発を待っていた。あの様子では、これらの荷車が動き出すまでは、まだ時間がありそうだった。

 預かり屋の主人は、昨日受けた印象とは裏腹に、きっちりと仕事をこなしたようだった。カイもクィも腹を膨らまし、毛並みも整えてある。馬車の方も汚れを落としてあり、車輪の軸受けには油も差してあるようだ。

 エアリアとアルルが、他の客の準備のためか、汗だくで立ち働いている主人に丁重に礼を述べ、ほぼ倍額の報酬を手渡すと、主人も慇懃に礼を返し、「ノストールに向かわれるならば」と前置きして情報を与えてくれた。彼らにとっては、この情報も重要な収入源になるわけだから、過分の報酬の礼、という意味もあるのだろう。

 「最近、リザードマンの動きが活発らしいですぜ? 黒竜山に集まって怪しげな行動を取ってるとか・・・。何人か、行方知れずになってる人間もいるそうで・・・。西ではグールが出始めるし、なんだかキナ臭くなってきましたんで、どうぞ、お気を付けて。」

 併せて、ノストールで見聞きしたことを帰りに教えてくれたら、礼を出す、とも言っていた。したたかな商売人らしい一面もある、というわけだ。もっとも、この手の稼業は平和でこそ成り立つ、とも言えるので、特に敏感になっているのだろう。

 ノスハイを出て、街道を北に向かう。次の町オルスクへは、5日後には着くだろう、というガルダンの計算だった。オルスクは小さな町で、温泉の湧く保養地として、特に観光産業に力を入れている町だ。近くのオルスク湖で獲れる、魚料理も有名だと言う。一行の中では一番旅慣れているガルダンは、自然と旅の行程を管理する役割を担っていた。

 二日目、ガルダンの先導で、街道から少し逸れた位置にある小さな池を取り囲んだ開けた場所で、マールの炸裂炎上弾と飛翔閃光弾を試してみることになった。

 万が一、野火事になりそうな時のため、水辺の近くがいいだろう、という判断だった。水の精霊力が強いため、アルルの守護精霊がいれば、大事にはならないはずだ。

 「じゃあ、行きますよ?」

 マールが炸裂炎上弾に火を着け、力いっぱいに投げる。弧を描いて飛んだ炸裂炎上弾は、30mほど先の地面に転がった。一行が固唾を飲んで見守る中、火縄はどんどん短くなっていった。

 どぉん!

 という音と共に、その名の通り炸裂すると、赤熱した金属片とともに、ネバつく液体が周辺に広がり、燃え上がる。激しく燃える、という訳ではなかったが、驚いたことに水に浮いて、その上で燃えている欠片もある。油分が水を弾いているに違いなかった。

 効果範囲は3~5mというところだったが、金属片の方は樹木に刺さり、地面は少し陥没するほどの衝撃を与えていた。

 アルルはすぐに守護精霊を呼び出し、消火に掛かった。この結果に衝撃を受けているようだった。

  「なんと・・・! これは、すごいな!」

 「驚きました・・・これほどとは・・・。」

 ガルダンとカイルも驚きを隠せない。操気魔術に似たような爆発の呪文はあるが、これほど手軽には行かない。

 「これでは、破壊し過ぎよ! 森が一瞬で失われてしまう!」

 消火を終えたアルルが、抗議の声を上げた。エアリアも心配そうにしている。

 「アルルの言う通りね。これは、余程の場合にのみ、使うことにしましょう・・・。でも、すごいわ、マール! この火でなら、グールはもちろん、ドラゴンだって無事では済まないでしょう。」

 「いや・・・正直、僕も驚きました・・・。確かに、アルルの言う通りです。これでは町も作物も、あらゆる物を破壊しかねない・・・。危険です!」

 「うむ・・・。使い方を間違うと、身を滅ぼすことになりそうじゃな・・・。」

 結局、この炸裂炎上弾は、一行の誰かに命の危険が及ぶ時か、全員一致で使うことが望ましい、と判断した場合にのみ、使われることになった。マールは宿で同じ物を5つ作っていたが、新しい物を作る気はなく、残りの4つも荷物の下の方に、木箱に入れて厳重に包んでから、仕舞い込んだ。

 次に、飛翔閃光弾を試す。こちらは逆に、水に浸してから弓で打ち出すことになる。ガルダンが、マールからもらった折り畳み式弓で上空へ打ち出すと、矢が頂点に達する前に筒がほどけるようにバラバラになり、中から激しく光りながらユラユラとゆっくり落ちてくる物体が出てきた。その光は、昼間でも太陽のように直視できないほどの明るさがあり、夜に使えば周囲を照らす役目も、十分に果たせそうだ。

 多少風に流されながら、1分ほどかけて地面に落ちたその物体は、徐々に光を弱くしていき、やがて完全に消えた。

 「・・・魔法では、ないのよね?・・・」

 「はい、魔法ではないです。・・・魔法が発達する前の文明で、使われていたもののようです。曹達銀と菱苦土石、長石が水や空気に触れることで起きる光を利用してみました。」

 「そう、だつぎん・・・と、りょうく、どせき? それは、呪文じゃないんだね?」

 「いやいや! 普通に物質の名前です。この辺りの土や石にも含まれていますよ?」

 「ふうむ・・・。儂はどれも知っておるが、役に立たん金属だとばかり思うていたわい。使い方を知らんだけなのだな・・・。」

 「どうして、あんなにゆっくり落ちてきたの? 金属なら、羽根のように軽いわけではないでしょ?」

 「それは、空気を受ける「帆」を付けたからです。まぶし過ぎて見えませんでしたが・・・。」

 そう言うと、マールは少し先に落ちた飛翔閃光弾を小走りに拾いに行く。手には、十数本の糸で結ばれた、薄い布の付いた小瓶を持っていた。

 「ほら、このように、布の部分が開いて空気を受け止めるんです。船が進む原理の逆ですね。」

 そう言うと、マールはその小瓶を投げ上げた。小瓶が頂点に達し、落下を始めると、布の部分が膨らみ、空気を受けてゆっくりと落ちてくる。

 「・・・あなた・・・もしかして、天才?」

 アルルが心底感心したようにマールを見る。他の一行も同じように考えていたようだ。全員のマールを見る目が、明らかに変わった気がする。

 「いやぁ、天才なんかじゃ・・・ただ、本を読むのが好きで、知識を得たら試してみたくなる性分なだけで・・・。」

 マールは両手を大きく振って否定したが、満更でもなかった。同時に、もしかしたら自分の研究してきたことは、冒険者としてこそ、力を存分に発揮できるものではないか、という手応えを感じていた。

 「いやはや、大したもんじゃ。弓の工夫といい、水車のことといい、常人では考え付かないことをしてのけるものだと感心しておったが、これほどとはな・・・。」

 「私も、驚きました。・・・マールを助けるつもりで旅に連れ出しましたが、もしかしたら助けてもらうのは、こちらなのかも知れませんね・・・。」

 ガルダンとエアリアが、しみじみと言う。マールは穴があったら入りたいような気分になってきた。

 「と、とにかく、どちらもある程度の効果は得られそうだ、ということで! さあ、先に進みましょう!」

 そう言うと、一人で街道へ歩き出した。その後ろ姿を、全員が好意的な温かい目で見ていたが、マールが気付くことはなかった。

 その日から、マールはガルダンやカイルから、戦闘の手ほどきを受けることになった。杖や盾の効果的な使い方を、実践形式で学ぶことにしたのだ。初日は杖や盾を持って歩くだけで息が切れてしまい、二人を呆れさせたが、続けていけば徐々に体力もついてくると励まされ、それでも小一時間程は杖や盾を振り回して過ごした。 

 キャンプに戻ると、アルルがカイのブラッシングをし、エアリアは焚火の傍で夕食の準備をしており、スパイスの良い香りが辺りに漂っていた。マールは珍しく空腹を覚えており、準備が整う間にリンゴをかじり、喉の渇きと併せて空腹を満たす。

 「見ていた限り、戦いの方はまだまだのようね?」

 「力はすごいんだ。だけど体力面がね。ガルダンとも話して、とにかく歩かせて、体力をつけてもらうことを最優先にしていくことにしたんだ。技術的なことは、それからかな。」

 アルルを手伝い、クィのブラッシングをしながらカイルが答える。ガルダンは薪を拾いながら、近辺に生えているキノコ類や食用、薬用に適する植物を集めに行っていた。周囲は薄暗くなっていたが、ドワーフは夜目が利く。

 こうしたことを繰り返し、5日目の夕方にはオルスクの町に着いたのだが、事件はその時に起こった。町の北側から、大勢の悲鳴が聞こえ、南の入り口に人が逃げてきているのが見えた。ちょうど南の入り口から町へ入ったところだった一行に、緊張が走った。兵士が数名、武器を手に町の北へ向かっているのが見えた。

 「リザードマンよ! 人が襲われてる!」


第1章 第5話 「天女の秘密」

 御者台に立ち上がったアルルが、警戒の声を上げた。エルフは精霊の力を借りて、ある程度の遠隔視が可能だった。カイルとガルダンが反応し、武器を手に馬車を飛び降りると、北へ向かって走り出す。アルルも手綱をエアリアに渡し、軽やかに地面に降り立つと、風のように走り去った。マールはどうしたらいいのかわからず、馬車の中でオロオロする他ない。

 「このまま私たちも向かいますが、戦闘場所とは距離を取ります。場合によっては私も出ますから、その時はマール、馬車をお願いします。」

 エアリアが前を向いたまま、マールに呼び掛けた。その声で我に返ったマールは、馬車の前方に移り、いつでも変われる態勢に入る。

 馬車の後方に逃げていく人、建物の中に避難する人をかき分けるよう馬車が進むと、視界開け、少し先に戦闘の様子が窺えた。兵士数人に囲まれているリザードマンは、2体。いずれも頭一つ分は背が高く、その体躯はそれ以上に大きい。鉄製の銛を持った者と、曲刀と盾を持った者がおり、どちらも軽々と武器を振るって、苦も無く兵士を相手にしていた。足元には、すでに倒された町人らしき数名と兵士が、ピクリとも動かずに横たわっていた。

 リザードマンの銛が薙ぎ払うように振られると、まともに胴に喰らった兵士が、隣の兵士を巻き込んで宙を舞った。片方では、切りかかった剣を盾で受けられた兵士が強烈な蹴りを喰らい、こちらも吹き飛ぶ。残った兵士は、かろうじて武器を構えてはいるが、打ちかかる勇気は奮い起こせないでいるようだ。

 「どきなさい!」

 アルルが叫び、矢を放つ。ひゅるひゅるひゅると、高い音を立てて、矢がリザードマンの間を抜けて飛び去った。当てるためではなく、音で気を逸らすために放たれた鏑矢だった。

 果たしてリザードマン2体は、その音に気を取られ、矢が飛び去った方向を向く。その隙を逃さず、ガルダンは銛を持ったリザードマンへ、カイルは曲刀と盾を持ったリザードマンへと切りかかった。

 「マール! お願い!」

 そう言い残すと、エアリアも馬車を降り、両手を振って印を結びながら、戦闘の最中へと走り寄る。落ちようとする手綱をかろうじて手にしたマールは、思い切り手綱を引いて馬車を止めた。

 ガルダンの斧はリザードマンの肩口に叩きこまれたが、鱗に阻まれ、滑るように受け流された。運悪く、鱗の一番硬い部位に刃が立ってしまったようだ。カイルの槍は、まともにリザードマンの下腹部に突き立てられた。青色の血が流れ、リザードマンが機械のような悲鳴を上げたが、槍を抜こうとして抜けず、逆にリザードマンに引っ張られ、前につんのめるように体勢を崩された。

 その背中に、曲刀が振り下ろされようとした時、アルルの放った第二の矢が、リザードマンの首筋に刺さり、痛みと衝撃にのけ反った喉に、第三の矢が突き立った。体勢を立て直す時間を得たカイルが、腰の長剣を抜き払い、矢が突き立ったままの喉を、深々と切り割った。

 一方、斧を受け流されたガルダンは、突き出された銛を一度は躱したが、二度目の横薙ぎを躱し切れず、その胴に、まともに銛の柄の部分の打撃を受けたように見えた。だが、衝撃を受けた様子もなく、返した斧で銛を握った右手を切り落とす。勢いのまま、斧を大上段に構えると、咆哮と共に先ほどは受け流された肩口に斧を打ち下ろした。今度は鱗を断ち、左腕が肩ごと切り落とされ、斧は胸の辺りで止まった。信じられない、というように、二、三度、瞼の無い目を瞬かせたリザードマンは、パクパクと口を開けながら、仰向けに倒れた。

  同時に、カイルも剣を逆手に持ち替え、リザードマンの胸に長剣を突き立てた。切っ先は背中から抜け、こちらのリザードマンの目からも、生気が消えた。

 「助かりましたわい!」

 カイルとアルルが残心を示し、リザードマンの警戒に当たる中、ガルダンはその場に崩れるように腰を下ろし、エアリアを出迎えた。マールもそこでようやく馬車を降り、一行の元へと向かう。

 「間に合って、何よりでした。怪我はありませんか?」

 「大丈夫、何ともありません。」

 ガルダンの様子に安心してうなずくと、カイルとアルルの方に向かう。こちらも大丈夫だと判断すると、エアリアは倒れた人間のところへと向かった。

 それぞれの顔を眺め、ある者には短い鎮魂の祈りを捧げ、次の者へ、そしてまた次、と繰り返し、今度は意識のある怪我人のところに跪くと、怪我の場所をあらため、そこに両手をかざすようにした。エアリアの手から光が発し、怪我が見る見るうちに治癒していく。

 そうやって3人目までを治療した時、アルルが後ろから囁いた。

 「エアリア、もう、それ以上は・・・。」

 エアリアは、分かっている、というようにうなずきながらも、残り二人の怪我を治し、馬車へと戻って来た。が、足取りがおぼつかない。慌ててアルルが支え、手を貸して馬車に乗せた。

 カイルとガルダンは兵士と話をしている。マールはアルルに呼ばれ、馬車へと戻った。

 「エアリアを休ませなければならないの。私はエアリアに付き添うから、ギルドへの挨拶をお願いしてもいい?」

 「わ、わかった!」

 「宿の場所を聞いて、なるべく早く戻って来てね。」

 「そうするよ!他には何か必要?」

 アルルが無言で首を振ったので、マールは走ってギルドを探した。すでにリザードマンが倒されたという報が町を巡っており、家から出てきた町人に場所を聞いてギルドに向かったが、あいにくギルドは無人だった。どうやら、騒ぎを聞いてどこかへ避難したらしい。

 「すみません、冒険者の宿がどこにあるか、ご存じですか?」

 先ほどギルドの場所を聞いた男性に、再度場所を尋ね、マールが馬車へと戻って来る。

 「ギルドには誰もいなかった。どこかへ避難したらしい。宿の場所は聞いたから、このまま向かうよ?」

 「ええ、そうして。」

 アルルの膝で、苦しそうに呼吸をしているエアリアを見て、マールは驚きを隠せなかった。その顔は、老婆のように皺だらけになっており、今にも死んでしまいそうなほどに衰弱して見えた。

 「大丈夫よ。魔法を使い過ぎたの。事情は後で説明するから、まずは宿へ。」

 マールの様子に気付いたアルルが、小声でそう言った。マールは小さく何度もうなずくと、宿へと向かった。

 宿へ着くと、追い付いてきたカイルがエアリアを背負い、宿の部屋へ寝かせる。アルルが煎じ薬をエアリアに飲ませると、呼吸は落ち着いて来たようだった。

 「もう、心配ないわ。ナーイアスが看てくれるから、あとはゆっくり寝かせておけば大丈夫。」

 部屋の外で待っていたマールたちへアルルが呟くと、全員で階下の食堂に向かう。ナーイアスは上級精霊の一種で、病人の枕頭に寄り添い、治癒の手助けをすると言い伝えられている。四方を壁で囲まれた場所でしか召喚できず、病人以外の人間が近くにいることを好まないとも言う。アルルが宿の場所を気にしていた理由がわかった。ナーイアスを召喚できるなら、アルルの『精霊使い』としての能力は非常に高い、ということだ。

 「驚いたわよね? 隠していた訳ではないけど、あなたがどういう人か、しっかりわかるまでは話さない方がいい、って、私がエアリアに伝えていたの・・・。」

 そう切り出すと、アルルはエアリアの話を始めた。

 エアリアがエーテルの神官であることは知っていたが、それ以外のことは思慮深くて礼儀正しい、落ち着いた女性である、と見て知ったくらいのものだったマールは、強い衝撃を受けた。

 エアリアは、不老不死であるらしい。一見20歳くらいに見えるが、実年齢は400歳を優に超えている、というのだ。ただし、神官としての力を行使すると一気に老い衰えることになる。死ぬことはないが、死ぬよりも苦しい時間が、しばらくの間続くと言う。

 「死は、一種の救済なの。肉体は時間と共に衰えて、弱り、傷んでくる。・・・つまり、長命であるということは、その間、ずっと続く肉体の痛みを感じ続けなくてはいけない、ということ・・・。そうなる前に、死が魂を救う。でも、エアリアにはそれがない。・・・私から見れば、これは呪いだわ。種族としての限界を超えて生き続け、死で救われることがない。呪いでなくて、何だと言うの!」

 最後の方は、憤っている、という感じの言い方だった。確かに、永遠に続く全身の痛みから逃れられないとなれば、それは呪いと言えなくもない。しかもそれが、神から与えられたものだということが、理不尽にさえ感じる。

 「今日、エアリアはたくさん力を使った。死者に安らぎを与え、あるべき場所へ魂を還して、多くの怪我人の手当をした。それで、一気に老いてしまったのよ。時間が経てば元には戻るけど、それまでは絶え間なく、体中を痛みが襲う・・・。」

 「その前に、儂に『守護』の力を与えて下さっている・・・。おかげで、あの銛の打撃をもろに喰らっても、何ともなかったのだ。」

 「それに、俺の雷獣の呪いの分もだ。出会った頃のエアリアは、もっと若かったんだ。幼かった、と言ってもいい・・・。だけど、俺の呪いをその身に振り替えて、常に今の見た目になったんだよ・・・。」

 「・・・そういう人なのよ。困っている人がいれば、救わずにはいられない。たとえその結果が恐ろしいものと知っていてもね・・・。私もおじい様からこの『課題』を与えられた時は嫌だった。反発さえしたわ。でも、エアリアという人を知るうちに、おじい様の考えが分かった・・・。今では、深く感謝しているわ。」

 みんながそれぞれに、エアリアに対して深い親愛の情と、同時に憐れみの情を持っているらしいことが窺えた。マールが今、ここにいて、どうしようもなかった人生が良い方向に向かい始めたのも、思い返せば全てエアリアのおかげだった。

 「僕達で・・・僕達でエアリアを救いましょう! 今は・・・まだできることはそんなにないけど・・・でも、いつか、必ず!」

 「・・・ありがとう、マール。ここにいるみんなが、同じ思いよ。」

 アルルの手が、テーブルに置いたマールの右手に添えられた。その手に、カイルの手が重ねられ、最後にガルダンの大きくて重い手が重ねられた。一同がお互いの顔を見て、強くうなずく。全員の向かうべき方向が、一つになった瞬間だった。

 まずは、ノストールでエーテルの神官を探し出し、『秘儀』を授けてもらうこと。それでエアリアの『呪い』が解ければ、それでよし。ダメなら、次の方策を考えるまでだ!

 そんな思いになっていた時、テーブルに宿の主人がやってきた。町の長が、お礼が言いたいと宿を訪れたそうだ。

 町の長は、タチアナと名乗った。老齢の丸々と太った女性で、柔和な笑顔を常に浮かべているような雰囲気を備えていた。丁寧にリザードマン討伐の礼を述べ、また死者や怪我人に対する措置も、見ていた町の人間から聞いて、深く感銘を受けた、と言う。

 「冒険者というのは、およそ荒くれ者とばかり思い込んでおりましたが、皆様のような方々もいらっしゃるのね。」

 タチアナはそう言って、その場にいた全員と握手を交わす。とても温かく、大きくて柔らかな手だった。「5人と聞いていたが、もう一方は?」と聞かれ、アルルはリーダーのエアリアは、疲れがひどくて休んでいることを伝え、非礼を詫びた。タチアナは大袈裟に驚いて見せ、落ち着いたらここではなく、きちんとしたスパのついた宿を、町から提供させていただく、と申し出てくれた。ここの宿の主人はいい顔をしなかったが、タチアナの部下と思われる男性が何事かを話すと、笑顔に戻った。

 「ご配慮に深く感謝いたします。今夜一晩はこちらにお世話になり、明日の朝、そちらに移らせていただこうと思います。・・・それと、リザードマンについてですが・・・。」

 アルルはリザードマンについて、いろいろと尋ねた。それにより、ひと昔前はオルスク湖にもリザードマンの小集落があったが、その頃はお互いに干渉することなく、特に問題が起きたこともなかった、ということがわかった。そのうち、いつの間にかその集落からリザードマンたちが消え、オルスク湖の恩恵は人間が独占することになって、久しいという。

 「私たちも、なぜ急に町にリザードマンが現れ、それも町人を襲ってきたのか、皆目見当も尽きません。今はカリランドのグール騒ぎで、町の常駐兵士も減りましたし・・・今後のことを考えると・・・不安です。」

 タチアナは併せて、一行にしばしここに留まり、町の防衛を依頼できないか、と提案してきたが、アルルは既に依頼を受けており、ノストールに向かう途中であることを告げ、それについてはお受けすることができない、とタチアナに伝えた。だが、エアリアが回復するまでの期間、できる限り町の防衛に手を貸す、と付け加え、ガルダンがその指揮を執ることとなった。

 翌朝、アルルとマールが、ナーイアスの恩恵を受けて意識を取り戻し、幾分回復したように見えるエアリアを連れて、タチアナの用意してくれた宿へと移って行った。

 その間、ガルダンとカイルは、残った兵士と町の男たちを動員し、防衛の準備を始める。冒険者の指揮下に入ることを渋った兵士長は、タチアナの一喝を受けて震えあがり、残った6名の部下を率いて、積極的にガルダンに協力するようになった。

 ガルダンも兵士長に理解を示し、慰撫したのが大きかったようだ。兵士たちは同年代のカイルとも話が弾み、リザードマンの弱点とされる、内側の鱗の薄い部分への刺突が有効なことを伝え、彼らの吐き出す毒液に注意するよう警告した。

 「なので、槍や弓矢が有効になる。距離を取って、1体に数人で掛かるようにするんだ。例えば、一人が弓矢で牽制して、残りの二人が槍で攻撃するとか。」

 実はこの話は、オルスクへ向かう途中、預かり屋からの情報を聞いたガルダンが、カイルやアルルに伝えたことを、そのまま受け売りで話しているだけだった。もっとも、そう言った当の本人が、戦いの熱に浮かされ、一番やってはいけないとされている鱗の丈夫な部位に攻撃を仕掛け、見事に失敗しているのだ。昨夜、アルルはそのことで冗談交じりにガルダンを責めたが、ガルダンは面目ない、と苦笑いを浮かべた後、

 「だが、二の攻撃でその硬い鱗ごと『開き』にしてやったわい!」 

と、自慢げに顎鬚をしごいた。

 そのような話を初めて聞いた兵士たちは、目を丸くして喜び、カイルの冒険者としての戦闘の知識を褒め称えた。

防衛の準備は順調に進んだ。町で一番高い、メルス教会の鐘楼に即席の見張り所を設け、昼夜の見張りを行う。南北二か所の入り口には大きなかがり火を準備し、『仕寄せ』と呼ばれる設置型の大型の盾を、互い違いに数個、配置した。

 また、道沿いにある建物の窓は板が打ち付けられて強化され、武器を取って戦えるものは槍で刺突の訓練をし、力のない女は半弓やクロスボウの訓練を行った。老人や子供は槍や矢を作り、余分な分は町のあちこちに配置して、誰でも使えるようにした。

 タチアナは急使をハイペルに派遣し、兵の増強を求めるとともに、付近の町の冒険者ギルドに依頼を出し、広く戦力を集めることにしたようだ。

 「ま、こんなもんじゃろ。せっかくの保養地が殺伐となってしもうたが・・・。」

 「リザードマンが入りに来る温泉なんか、ごめんですよ!」

 「違いない! しばらくは観光客も減るじゃろうが、命には代えられんだろうからな。まあ、あの女性が長なら、うまくやるじゃろうて。」

 夕方、ガルダンとカイルが大声で冗談を言い合いながら宿に帰って来た。エアリアはスープが口にできるほどには回復したと聞いてはいたが、マールはエアリアの部屋には入らないようにしていた。特にすることもなかったので、手帳にこれまでの記録を付け、余った時間は自らの盾の改良に充てた。

 ガルダンとカイルがスパで汗と埃を洗い流し、アルルもナーイアスにエアリアの看護を任せたところで、食事を摂ることにした。事情を聞いている宿の主人は、心づくしの御馳走で一行をもてなし、それぞれの部屋も最上級の個室があてがわれている。

 本日のメインは、有名なオルスク鱒のムニエルと、鴨のロースト、子羊のグリルなど多彩で、どれも脳みそがとろけるほどに美味だった。エアリアがこれらを口にできないのは残念だ。

 「いやはや、マールが加わってからというもの、美味い物にありつく機会が増えて困るわい。どうしたって、料理も酒も進んでしまうからのう!」

 ガルダンは言葉と裏腹に、満面の笑顔を浮かべてそう言うと、手づかみで子羊のグリルを口に運び、がぶりと嚙みついた。溢れ出た肉汁が、ガルダンの髭を濡らす。

 「ちょっと! ガルダン! エアリアがいないからって、無作法過ぎるわよ!」

 「バカを言うな! こんな旨そうな肉を、小さく切り分けながら食うなんて言うのは、それこそ肉に対して無作法だわい!」

 「冗談言ってないで・・・ちょ、ちょっと!カイルまで、真似しないでよ!」

 アルルが抗議するが、二人の手は止まらない。確かに、旨そうだ。アルルは「あなたまで、そんな真似はしないわよね?」とでも言いたげな目でマールを見ている。マールは一瞬躊躇したが、抗しがたい欲求が勝り、ガルダンと同じようにグリルを持ち上げた。驚いたような顔をしたアルルは、冷ややかな視線でマールを睨みつけると、俯いて首を横に振った。

 アルルの反感は買ったものの、かぶりついた肉は、まるで別の食べ物のようだった。ナイフで切り分けてしまうと、どうしても皿にこぼれることになる肉汁が、全て口の中に広がるのだ。その肉のみずみずしさに、マールは衝撃を受けた。なるほど、これならガルダンが言うことも一理ある。もちろん、正式の場では絶対にできないことだが。

 「す、すごい! 肉がこんなにみずみずしいなんて! アルルも試してみなよ!」

 「ごめんです!」

 アルルはもはや誰とも目を合わせず、俯いて黙々と食事を進めた。あっという間に全員の皿が空になると、デザートのピーチパイと、リキュール入りの香り高いコーヒーが運ばれてきた。何から何まで、美味しかった。

 「ところで、町はどんな具合なの?」

 ピーチパイで幾分機嫌が直ったのか、アルルがガルダンとカイルを交互に見やりながら尋ねる。

 「今できることは、今日で大体片付いたよ。もちろん、町の人の訓練はしばらく続ける必要があると思うけど・・・。」

 「うむ。またリザードマンが現れるとも限らんし、ハイペルにも近隣の町にも警戒と増援の要請はしてあるようだし、まずは大丈夫じゃろ。」

 「そう。それは良かったわね。エアリアの方は、あと3日、と言うところかしら。そうしたら、無理をせずに旅を続けられると思うわ。」

 「・・・そうか・・・。まあ、焦っても仕方ないから、ゆっくり休んでもらおうよ。」

 全員がエアリアの復調を強く願っている。やはりこの一行の中心はエアリアなのだ。

 こうして、オルスクの二日目も、無事に終わりを迎え、一行はエアリアと同室のアルル以外、それぞれの部屋に引き上げ、それぞれの思いを胸に、眠りについた。


第1章 第6話 「二つの島」


 オルスクで6日を過ごした一行は、7日目の朝にオルスクを後にした。

 その後、結局リザードマンは現れず、町はかつての平穏を取り戻しつつあった。『なぜ?』という疑問は残っていたが、所詮は魔物が一時の気の迷いで襲いに来たのだろう、という安易な考えが浸透しつつあり、また3日目の夕方には最初の冒険者たちが、次の日の朝には20名のハイペル兵の増援が現れ、いつまでも非常態勢では生活が成り立たない人々からの圧力もあり、その勢いに抗しきれなくなったタチアナは、警戒態勢を解いたのだった。

 エアリアも5日目の午後にはすっかり体調を取り戻し、6日目には出発できるところだったのだが、タチアナと遺族の希望で、この襲撃で命を落とした兵士と町民の葬祭を取り仕切ることとなったため、出発を一日延期したのだ。

 エアリアと一行の英雄的な振る舞いは、オルスクの記録に正式に残されることとなり、葬祭の行われた日は、鎮魂とエアリアたちの活躍を祈念した町の祭日となった。タチアナから、それぞれに金でできた『オルスクメダル』が贈られた。このメダルを提示すれば、オルスクのどの宿に宿泊しようとも、今後一切料金が無料になるという。

 タチアナを先頭に、大勢の町の人々に見送られ、一行は再び街道を北に向かう。オルスクを出ると、ノストールまでは大きな町はない。宿が数件ある程度のミンスクという集落が、ここから10日ほど進んだ峠道の頂上にあるくらいだ、とオルスクの人々が言っていた。もっとも、冒険者ギルド発行の地図によれば、冒険者用の待避小屋は数か所あるようだし、罠猟師の小屋もところどころにあるらしい。

 この6日間、丁重なもてなしを受け、3食とも豪勢な食事が続いたため、逆に一行は旅の空が懐かしく感じられているようだった。アルルが御者台でハミングするくらいだから、よほど嬉しいのだろう。最初は宿の生活を喜んでいたガルダンも、4日目には豪華な食事に飽き始め、干し肉と豆だけのスープが飲みたい、などと言い出していた。

 今日からは、マールもできる限り馬車を降りて歩くことになった。町の人に混ざって戦いの訓練に参加したマールは、自分の体力の無さを嫌と言うほど痛感させられたのだ。さらに、ここ数日の食事で、なんだか体がさらに重くなったような気もする。

 歩きながら、マールは昨日のエアリアの話を思い出していた。エアリアはまず、マールに自分の過去を話さなかったことを詫びた。そしてあらためて、自分の身の上話をしてくれたのだ・・・。

    ※         ※

 エアリアは今から400年ほど前、ヴァルナネスからはるか東に浮かぶ島、エーテルに生まれた。その頃のエーテルには大勢の人々も住んでいて、島の名前にもなっている女神エーテルを信奉し、農業や採集を中心とした平和な暮らしを築いていた。両親ともに神官の娘に生まれたエアリアは、当然のごとく幼い頃から神官になるべく訓練され、十代に入るとすぐにエーテルから『言葉』を授けられ、十代も終わりに差し掛かる頃には、エーテルでも稀代の癒し手として、多くの人々を救う働きを見せていた。

 それは、エアリアが母から『秘儀』と呼ばれる最終的な試練を受けるため、神殿の地下深くに位置する「聖窟」において、世俗の穢れを落とす修行を一人で行っている時に起きた。

 西の空から飛来した異形の集団がエーテルを襲い、あらん限りの殺戮と破壊を繰り返したのだ。特に神殿の惨状はひどいもので、建物は跡形もなく崩れ去り、町は赤々と燃え上がり、多くの犠牲者が出た。

 エーテルでは平和が長く続き、争いごとを好まない性質の民族だったため、身を守る術すら知らず、抵抗らしい抵抗もできないまま、民衆は、次々と倒されていくだけだった。

 エアリアが異常を感じて地上に戻った時には、異形の集団はエーテルの民衆を一人残らず殺した後で、一部の者たちはすでに西の空に飛び去っていた。まだ飛び去らずに残っていた者は、すでに息絶えたと思われるエーテルの民をおもちゃにし、その腕をむしり取ったり、振り回して投げ飛ばしたりして遊んでいる。

 銀色の、人の数倍はある大きな体で、背中に蝙蝠のような羽を持ち、頭髪のない頭には複数の角が生えていた。眼窩の奥に赤い点が見えるだけの目がキョロキョロとせわしなく動き、牙の生えた大きな口からはザラザラした笑い声が発せられた。まさに、異形というにふさわしい、禍々しい生き物だった。

 と、そのうちの一匹がエアリアに気が付いた。その顔に、残忍そうな笑みが浮かんだようにも見えた。エアリアは恐慌に駆られ、そこから動くこともできずに、ただひたすらエーテルへの祈りの言葉を唱えていた。

 『エーテルよ、願いは、聞き入れられました・・・戦いなさい。』

 どこからか、慈愛に満ちた女性の声が聞こえてきた。もしかしたら自分以外にも生き残りがいたのか、と、辺りを見回してみたが、誰もいない。

 ドクン

 心臓が、大きく一つなって、その動きを止めた。途端に息ができなくなり、意識が遠のく。だが、それを押し返すように、強い力が体の奥底から感じられた。やがて意識がはっきりすると、自分の身体がぐんぐんと大きくなり、近付いてきた異形の者よりも、さらに大きくなった。驚いて自分の身体を見ると、肌の色が乳白色に変わっており、ところどころに金と青の線が入った、見慣れない格好になっていた。

 『これは、何・・・』

 体はどんどん大きくなり、今まで自分の住んでいた島の形がはっきりと見下ろせるほどに、大きくなった。残っていた異形の者たちが警戒の叫びを上げ、次々に空へと舞い上がって来る。

 エアリアは、まるで飛んでいる虫でも払うように、異形の者たちを無造作に手で払った。

 ぺちり

 と音を立て、異形の者が潰れた。そのまま、一匹、また一匹と打ち払っているうちに、なぜだかエアリアはそれが面白くてたまらなくなり、自分の周りに飛んでいる全ての異形の者を、次々と打ち落とし、両手で潰し、口から息を吐いてきりきり舞いさせてから叩き落とし、足で踏みつぶした。異常を感じて戻って来た者たちも含め、合わせて50匹はそうやって倒し、気が付くと、もう異形の者はいなくなっていた。

 『なんだ、つまんない。』

 そう思った時、今度はぐんぐんと体が縮み、見える景色がいつもの景色に戻った時、エアリアは意識を失った。

 次にエアリアが目覚めると、辺りの景色は一変していた。崩れた神殿が雨と風で侵食され、至る所が風化していた。きれいに敷き詰められていたはずの敷石がボコボコの石片に変わり、隙間から雑草が伸び放題になっている。植え込みに植えられていたヒノキの若木があった場所には、堂々たる大木となったヒノキが大きな木陰を作っており、その下にも何本もの木が、日の光を求めて枝を広げていた。

 着ていた服もボロボロに風化しており、エアリアが体を起こすと、服だったものは繊維と粉になって地面にこぼれた。自分の胸を見下ろしてみると、明らかに胸の大きさが記憶と違う。手を目の前に上げてみた。その手は、まるで子供の手だった。

 自分の身に何が起こっているのか、最初は分からなかったが、徐々に記憶が蘇って来た。異形の者、エーテルの惨状、あの声・・・そして・・・。

 あれから、どれくらいの月日が過ぎたのだろう? 自分はなぜ生きているのだろう? そして、なぜ子供に戻っているのだろう? 疑問が次から次へと押し寄せてくるが、答えを与えてくれる者はいない。エーテルに祈ってみても、答えは返ってこなかった。

 辺りに夜の闇が迫るころ、エアリアの心にも闇が降りてきた。このまま生きていても、仕方がない。

 元は賑やかな町だった場所をとぼとぼと歩き、目的の物を探した。時に草をかき分け、時に石をどけて。生まれたままの姿だったが、この地にはもう誰もいないから、気にすることもない。それでも、身にまとえそうな、元は旗でもあったような布を見つけると、体に巻き付けて服の代わりにした。その日は結局、目的の物は見つからず、適当な地面に転がって夜を明かした。星空だけは、あの頃と変わっていない。父とともに見上げた星座が、今も地上を見下ろしていた。

 翌朝、鳥の声で目覚めたエアリアは、喉の渇きを覚えたような気がして、湧き水を探した。以前の記憶を辿って、水が湧く場所を見つけたエアリアは、水面に口を付けて、一口水を飲んだ。水面に映った自分の顔を見て、12~3歳頃の顔と一緒だと思った。幼くはなっていたが、間違いなく自分の顔だった。

 そして、泉の脇に、目的の物を見つけた。陶器の破片と共に、柄の部分が無くなってしまったナイフだ。錆びてはいるが、用を足すには十分な鋭さが残っていた。誰かが食器でも洗いに来て、そのままになっていたものだろう。もしかしたら、あの襲撃の直前に洗いに来ていたのかも知れない。平和だった頃のエーテルを思い出して、エアリアは、泣いた。

 やがて、涙も尽きた頃、エアリアは巻き付けていた布を体から外し、水に浸けて泥を落としたナイフを逆手に持つと、自ら命を絶つことをエーテルと先祖に、そして両親に詫びてから、自分の心臓に突き刺した。頭まで突き抜けそうな衝撃と、胸から迸った自分の赤い血に驚きながら、最期の時を迎えるはずだった。

 だが、そうはならなかった。やがて痛みが急速に引き、胸の傷が塞がっていく。ナイフは自然と胸から抜け落ちて、地面に転がった。エアリアは混乱して、胸に流れたままの血を拭いてみると、傷は完全に塞がっていた。

 もう一度、ナイフを心臓に突き立てた。今度はもっと深く刺さるように、勢いをつけて。だが、結果は変わらなかった。強い衝撃は受けるが、傷はたちどころに塞がり、何事もなかったような肌に戻る。それから、刺す場所を変えて、何度も試してみた。首に刺し、目に刺し、腹を切り裂いてみたが、結果は変わらない。その都度、死にそうなくらいの痛みと衝撃は感じるが、決して死ぬことはなかった。

 自分は、もはや死ぬことすらできなくなってしまったんだ。

 やがて、どうしようもない無力感にさいなまれ、エアリアは完全に外界を遮断して、内にこもるようになった。食事の必要も、睡眠の必要もないようだった。誰もいない島で、一人、何をするでもなく日々を過ごした。いくつもの季節が移り変わっても、成長することも退行することもなく、ただただ時間だけが過ぎていく。

 そうやって日々を過ごしていたある日、足の向くまま、エーテルで一番高い山に登ったエアリアは、遠く海から昇って来る太陽を見て、心から美しい、と思った。瞳から、何十年振りかの涙が頬を伝い落ちる。それは間違いなく、エアリアの氷った心が溶けた、雪解けの涙だった。

 それからのエアリアは、あの時エーテルを滅ぼした異形の者を追うことに決め、精力的に活動を開始した。はるか昔に両親から聞かされた、『西の大地』を目指してみるつもりだった。

 さらに長い年月を費やし、エアリアはとうとう完全な独力で、一艘の船を作り上げた。それは、船と呼ぶにはあまりにみすぼらしい形ではあったが、帆と舵の備わった、エアリアにとっては立派な船だった。

 今度は、操船技術を身に付けなければならない。エアリアは、船を作るよりさらに長い年月を費やし、毎日海へ漕ぎ出すと、風を捕らえ、星を読み、舵を操って、船を西に進ませる技術を身に着けた。その間に、傷んだ船を補修し、改良して、船はより船へと近付いていた。これなら、『西の大地』へ辿り着けそうだ、という、確かな自信も身に着いた。

 ある日、いつものように海に漕ぎ出した時、ふいに「このまま出発しよう」と思い立った。船の上から、すでに彼方に離れたエーテルを見て、心の中で別れを告げた。海にはいつも、東から西に風が吹いていた。エアリアを乗せた小さな船は、大海原をぐんぐん進んだ。

 そうやって十日ほど進んだ辺りで、水平線に陸の影が見えた。あれが『西の大地』だろうか? それにしては、少し小さすぎる気もする・・・。

 エアリアは舵を操作して、船をその島影に向けた。しばらく進むと、ふいに水面が盛り上がり、大きな海獣が現れた。長い首の先に、小さな頭が着いていて、日の光を受け、つるつるした滑らかな体が、キラキラと輝いていた。その海獣は、首を傾げるようにしてエアリアを見ていたが、やがて首を島影の方に振り、「ついてこい」とでも言わんばかりにエアリアを先導し始めた。

 後をついていって気が付いたが、島の周囲は、危険な岩礁や砂洲などが水面ぎりぎりのところで至る所にあり、あのまま進んでいたら、座礁するか船がバラバラになってしまうところだった。海獣はそれらの危険な地域を縫うように進み、時折後ろを振り返ってはエアリアの様子を確認し、また進む、ということを繰り返した。

 無事に砂浜に船を寄せると、エアリアは久しぶりの地面に立ち、首を伸ばしてきた海獣の下あごを優しく撫でた。思ったよりもざらついた皮膚だ。

 「案内してくれてありがとう。ここは、あなたの島なのね?」

 海獣はそれには答えず、体に似合わない小さな声で、子猫のような鳴き声を出すのみだ。

 「人間の声が聞こえたと思ったら、なんとなんと。娘っこが一人か?」

 エアリアが振り向くと、そこには金色のオーラに全身を包まれた、長身のエルフが佇んでいた。

 「無断でお邪魔して、申し訳ありません。この子がついてこい、と言っているような気がしたので・・・。」

 「なに!? 確かに、懐いておるようじゃが・・・お主が撫でているのは蛟じゃぞ?知っておるのか?」

 「・・・いえ、知りません・・・。」

 「む・・・お主、人ではないな・・・? 何者じゃ?」

 「エーテルの神官、エアリアと申します。」

 「エーテルだと!? はるか昔に滅びたと聞いたが・・・。どれ・・・。」

 そう言うと、エルフは手を伸ばし、人差し指をエアリアの額に付けた。

 「む・・・? むぅ・・・そうか・・・うむ。」

 エルフは時にうなずき、時に険しい顔をしながら、独り言を繰り返していた。何やら訳がわからないが、危険なわけではなさそうなので、エアリアはエルフのするがままに、身を任せていた。

 「・・・うむ、お主の記憶を辿らせてもらった・・・驚いたな・・・。」

 「何を、驚かれたのですか?」

 まじまじとエアリアの顔を見つめたエルフは、話が長くなりそうだ、と言うと、指をパチンと鳴らした。途端に砂浜から、見たことのない草花で彩られた庭園に場所が変わる。エアリアは、庭園の中央に位置する東屋の椅子に、エルフと向かい合う形で座っていた。

 エルフは、フェアグリンと名乗った。実際はエルフではなく、解脱したエルダーだと言う。肉体を手離して久しいが、時折肉体が恋しくなるときがあり、そんな時はエアで疑似の肉体を作り、ここでその感触を楽しむのだ、という。

 「ここは私の作った、私だけの島なのだよ。近付く者とていない、はるか沖合に。メメイに・・・蛟に番までさせていたのに、よもやお主のような者が流れ着くとは、やはりこの世は計り知れんな。」

 フェアグリンはそう言って笑うと、エアリアの置かれている状況を説明した。

 エアリアは、本来なら『秘儀』を受けていない者が行えるはずもない、『降臨』を自分の祈りの力だけで願い出、聞き届けられたのだと言う。ただし、降臨したのは信奉していたエーテルではなく、その使徒である天使だったらしい。

 「秘儀を受けずに『天界の住人』を身に降ろした者は、すべからくその身に呪いを受けることになると聞く。恐らく、お主が不老不死になった原因も、それであろう。」

 さらにフェアグリンは、その身に呪いを受けた身では、もはや神官としての力は使えず、西の大地へ向かったとしても、為すべきことはないだろう、と告げ、しばし考え込んだ。

 「とは言え、廃墟となったエーテルに、一人永遠に閉じ込められるのも、不憫というものだな・・・。これは、定かではないが・・・。」

 そう前置きして、フェアグリンは西の大地の北に、ノストールという街があり、その近辺に同じように呪いを受けたエーテルの神官がいると聞いたことがある、と告げた。その者は後にエーテルに戻り、正式の秘儀を受け、『暗黒戦争』ではその身に神を降臨させて戦ったと言う。いずれも伝聞の話であり、確かなことは何もわからない上に、何百年も前の話だから、もはや他に知る者とていないだろうが、どうしても何かを成したいと言うのなら、試してみてはどうか、と。

 「無限の生と、秘儀を受けずに神に声を届けたお主なら、あるいは見つけ出すことができるかも知れん。試してみるかね?」

 「はい。たとえその方を見つけることが出来なくても、その過程で他の目的を見つけ出すことができるかも知れません。一人の時間は、もう十分です。ぜひ、試してみたい、と思います。」

 「うむ、良かろう。ならば、私もその手伝いをさせてもらおう。焚きつけるだけで放り出しては、な。それに、私はお主が・・・エアリアが気に入ったよ。もはや驚くことなどないほど、世を知っているつもりでおったが・・・。どれ、まずは、その姿から・・・。」

 そう言うと、フェアグリンは再びパチンと指を鳴らした。エアリアの周囲に、色とりどりの砂粒が渦を巻いて現れ、エアリアの全身を覆った。砂粒はやがて金の縫いぶちが付いた濃紺のローブに変わり、エアリアの身を包んだ。足は丈の短めの、履き心地のいいブーツに包まれた。

 「・・・ちと、形が古いかも知れんが、勘弁してくれ。着心地はどうかね?」

 「素晴らしいです! 軽くて、温かくて・・・それに、とても動きやすい!」

 「うむ。そのローブにもブーツにも、特別の魔法を掛けておいた。長い旅の中で役立つだろう。それと、これを・・・。」

 今度は砂粒の渦が、手のひらを上にして開いたフェアグリンの手の上で舞い、そこに大きな緑色の宝石が付いたペンダントが現れ、フェアグリンはそれをエアリアの首に掛けてくれた。

 「これは・・・さよう、『エアリアン・エメラルド』とでも名付けようか。限定的ではあるが、神の呪いの効果を打ち消す作用がある。神の呪いを完全に消し去ることはできんが、何度かであれば、神の『言葉』を使うことができるだろう・・・。ただし、その代償は『老い』と『痛み』じゃ。エアリアの旅の手助けとなることを願おう。」

 「・・・ありがとうございます!・・・何よりの・・・何よりの贈り物です!」

 「うむ・・・そなたの信仰の力はあっぱれだな。私が神なら、真っ先に許すだろうが・・・。それで、な、しばらくその使い方を学ぶためにも、私の故郷で暮らしてはどうかな? もちろん、機が熟したら、旅に出るといい。・・・他にも、いろいろと学ぶことはあるだろうからな。」

 エアリアに、否やのあるはずがなかった。

 フェアグリンは深くうなずくと、三度、指をパチンと鳴らす。

 瞬間に、エアリアは大木の生い茂る森の小径に、フェアグリンとともに立っていた。はるか高くまで伸びた枝葉の隙間から、木漏れ日が漏れ、森の中とは思えないほどに、周囲を明るく照らし出していた。

 「この道を、まっすぐに進みなさい。そこにエルフの里がある。私が連れて行きたいところではあるが、そうすると皆が大袈裟に騒ぐのでな。エルフに出会ったら、私の名を告げなさい。わかったね?」

 「・・・いろいろと、ありがとございました・・・。その・・・あなた様とは、もう会えないのでしょうか・・・?」

 「なに、お互いに無限の命を持つ者同士、いつかは再び相まみえる時もあろう・・・。そうそう、あの船は、私が島で預かっておこう。いつか、他の目的が見つかって、また海に漕ぎ出す時のためにな。」

 フェアグリンは悪戯っぽく片目を瞑ってみせ、エアリアの背中をそっと押した。その勢いのまま数歩進み、振り返った時には、フェアグリンはもう消えていた。

    ※               ※

 「それから、私は里の長老の一人で、アルルのおじいさまに当たる、リネステール様から様々な教育と手ほどきを受けて、冒険者として旅立ったのです。アルルは、古の理と、成年の儀式の課題のため、私の旅に同行することになりました・・・。」

 エアリアは、そう話を結んだ。

 マールには想像もつかない、長く過酷な生き様だった。しかもその旅は、まだ終わりを迎えられそうにない。果たして自分に残された人生で、旅の終わりに立ち会うことができるのだろうか。マールは深い溜息をついて、エアリアの乗る馬車を見た。

 「もしかして、もう疲れた?」

 後ろを歩いていたカイルが、マールの様子を見て馬鹿にしたように声を掛けてきた。

 「ち、違うよ! ちょっと考え事をしてただけだよ! ほら、馬車が道の凹凸で結構揺れるだろ? それを何とかできないかな、って。」

 「あー、確かに。これから山道も増えるし、道はますます悪くなる一方だろうからね。」

 本当はエアリアのことを考えていたのだが、カイルはマールの言い分を信じ、真面目な顔で考え込む様子を見せた。このあたりで、カイルの純朴で素直な性格がわかる。

 まったくの偶然ではあったが、口に出してみて、確かに馬車にも改善の余地はある、と思った。それからのマールは、馬車のどこをどのように変えようか、懸命に考えながら足を進め、自分でも驚いたことに、その日は夕暮れまで一日中歩いて過ごしたのだ。

 ガルダンが手頃な開豁地を見つけ、一行は完全に日が暮れる前にキャンプの準備を始めた。アルルがカイとクィの牽き具を外し、手頃な木に繋ぎ直す。二頭はすぐに周辺に生えている新鮮な草を食み始めた。

 ガルダンは例によって薪と食材の採集、カイルは少し離れた小川まで、水を汲みに行った。残ったマールとエアリアは、手頃な石を組んで即席のかまどを作り、馬車から敷物を下ろして、地面に並べて敷いた。

 「今日は一日中、歩いていたわね? 足は大丈夫?」

 「ええ、大丈夫です。自分でも驚いてますよ! 馬車をどう改良しようか考えながら歩いていたら、いつの間にか時間が過ぎていて・・・。」

 「そうなの? 何か思いついた?」

  エアリアが話を振ってくれたので、マールは考えた構想について、エアリアに語り始めた。それはアルルがカイとクィのブラッシングが終わっても続き、ガルダンやカイルが戻って来た時もまだ続いていた。

 「おいおい、マールや、そろそろエアリアに夕食の支度をさせてあげてくれ。」

 ガルダンが冗談交じりにそう言うまで、夢中になって話し続けてしまった。気が付いて周囲を見回すと、陽も落ち、辺りに夕闇が漂っていた。夢中になると時間の感覚がなくなるのは前々からだったが、エアリアの上手な相槌にも助けられ、つい夢中になり過ぎたようだった。

 「あ、ああ! ごめんなさい! 僕も手伝います!」

 マールが焦ってそう言うと、皆に笑いが広がる。決して否定的な意味で言われたのではないことに気が付いて、マールはホッとした。このクセのせいで、子供の頃からいじめられた記憶が蘇ったが、この仲間たちを相手に、それは杞憂に過ぎなかった。

 ガルダンがおどけて、干し肉と豆だけのスープを大袈裟に喜んでみせ、エアリアとマールの料理の腕を褒め称えた。闇の中に、一行の笑い声が響く。エアリアも無事に回復し、みんなの気分も良くなったようだった。オルスクの宿で食べた食事よりも、こうしてみんなと笑いながら食べる食事の美味しさに、マールはあらためて気付かされた気がした。

 翌日は、昼過ぎから雨となった。道がぬかるみ、カイやクィも思わず足を取られることがあった。勾配の急な道に差し掛かると、アルルの提案で雨が弱まるまで、しばらく休憩することになった。

 オルスクでもらった果物や焼き菓子で小腹を満たし、空模様を眺めて時間を過ごした。マールはその間に、馬車のいろいろな部品の材質を調べ、大きさや長さを測り、手帳に記した。

 「精が出るわね。お茶はどう?」

 「ありがとう、いただくよ。」

 アルルがポットからカップにお茶を注ぎ、マールに手渡す。湯気と共に、ハーブの清冽な香りが鼻孔をくすぐった。

 「そうだアルル、馬車のことで、気になるところはある?」

 「そうね・・・。気になるのは、牽き具ね。恐らくリードの動きに合わせるためなんだと思うけど、二頭が牽き具で繋がれてしまうから、どちらかが足を取られるともう一頭もバランスを崩してしまうの。馬車の動きも不安定になるし、馬の怪我にも繋がるわ。」

 「なるほど・・・。確かに、それはあるね。わかった。何か考えてみるよ!」

 「ええ、よろしくお願いするわ。」

 午後に入り、雨脚も弱まったところで、一行は出発することにした。ガルダンとカイルが、それぞれカイとクィの手綱を取り、道を選んで慎重に進む。

 それ以降、旅は順調に進み、ある時は待避小屋で、ある時は野宿をしながら、8日目の昼近くに、一行はミンスクの集落に着いた。街道の両側から奥に向かって宿や店が軒を連ね、左に見える小高い山からは、温泉のものと思われる湯気が何本も立ち昇っていた。ミンスクには冒険者ギルドがないので、宿は自分たちで探さなければならない。 

 一行は、街道の中ほど、左に逸れる支道の手前にある宿に滞在することを決めた。老夫婦とその娘夫婦が経営する小さな宿だったが、ヤギを囲うための大きな草地があり、そこに生える草は、痩せたヤギ数頭には多すぎるように見えた。ここでなら、カイもクィも新鮮な草をたらふく食べることができる。新鮮な水の流れ込む大きな水桶もあり、山道を登って来た二頭が休息を取るには、最高の場所だった。

 「これから先のことを考えれば、ここで数日、カイとクィを休ませる方がいい。」

 と言うアルルの提案を受け入れ、一行はこの宿に三日滞在することに決めた。

 マールは早速、ミンスクの鍛冶職人のところに駆け込み、ここまでに煮詰めた馬車の改良のための部品を注文した。考えたこと全てを改良するには足らないが、アルルの懸念と乗り心地を改善する程度なら、三日もあれば十分のはずだった。

 手帳の図面を示し、形と各部の長さ、大きさを鍛冶職人に伝え、マール自身は自分の盾の改良のため、幾ばくかのデルを払い、空いている作業場を借りることにした。

 壮年の鍛冶職人は、慣れない仕事ながらマールの詳細な図面と適切な助言を受けて、見事に仕事を果たしてくれた。考えていた以上の出来栄えにマールも満足し、過分の報酬を渡すと、鍛冶屋を後にし、同じように注文をしていた建材商に立ち寄ってから宿に戻った。

 「今度はなんだね? ずいぶんとたくさん、抱えて来たな!」   

 鍛冶屋で借りた荷車にいっぱいの金具と木材を積み込んで宿屋に戻って来たマールを見て、ガルダンとカイルが興味を示す。

 「はい、馬車の改良をしようと思って。それで、お二人には明日、手を貸していただきたいんですが・・・。」

 「もちろん、喜んで手を貸すとも。で、どのようになるんだ?」

  ガルダンとカイルを前に、マールは一つひとつ部品を取り上げ、詳しく説明をした。二人は何度もうなずきながらマールの説明に聞き入り、三人でどのように作業を進めるかを決めた。

 そこに、エアリアとアルルが二階の部屋から降りてきた。

 「ずいぶんと楽しそうにお話をしてますね? なんの相談ですか?」

 エアリアがにこやかに尋ね、カイルがかいつまんで説明をする。

 「まあ、またマールの発明が見られるのね。今度はどうなるのか、今から楽しみだわ。」

 その時、宿の老父が食事の準備が整ったことを告げ、一行は小さな食堂に席を移す。

  食事は質素なものだったが、それだけに一品に手間が掛けられていた。キャベツのザワークラウトには数種のスパイスが掛けられ、トウモロコシのクリームスープには口の中がさっぱりするハーブが浮かんでいた。小ぶりのジャガイモを甘辛く煮付けたものは口に入れるだけで柔らかく溶け、メインの大きな肉の入ったデミグラスシチューにはごろっとしたニンジンやブロッコリーがたくさん入っている。それに、黒くて固い大ぶりのパンとチーズ。パンはこの地方独特の黒麦を使ったもので、何もつけなくてもほんのり甘く、香ばしい。チーズとクリームスープには、ヤギの乳が使われている、ということだ。

  飲み物はシャトーピプローのワインと、黒麦から作られたエールとウィスキー、デザートはチーズケーキとベリージャムの入った紅茶だった。

 一行は食事を楽しみながら、給仕に立った若夫婦から、最近のミンスクの話を聞いた。ここでは、グールもリザードマンも見かけられないらしいが、地揺れが何度かあった、という。ヴァルナネスでもこの地域ではたまに起こるが、短期間に何度も揺れがあったのは珍しい、ということだった。アルルがさりげなくエーテルの神官について尋ねてみたが、二人は笑って「それはおとぎ話ですよ」と相手にされなかった。

 和やかな食事が終わり、エアリアが四人にもてなしの礼を述べた。四人とも恐縮していたが、明らかに嬉しそうにしていた。

 翌日、若夫婦の案内で温泉に行くというエアリアとアルルを見送り、マールたち三人は馬車の改良に取り掛かった。まずは、牽き具だ。今使っている井桁型の金具を外し、中央に可動する接続具を付けた十字型の物に変える。両端から太い鎖が伸び、それらは御者席側についた巻き取り具で自由に伸ばしたり、縮めて牽き具に固定収納できるように作られていた。平地では固定して効率的に推進力を取り出し、荒れた道では鎖を解放して、二頭がそれぞれある程度自由に体を動かす余裕を持たせられる。

 次の改良は、少々大がかりだった。まず、車輪を軸ごと外し、軸受けも外す。次に、荷台の下に補強の鉄板を、前後の軸受け部分に打ち付けた。車輪は軸棒から外され、別に準備された大きな円形の部品に、一つずつ取り付けられた。4つのうち二つは、より幅が合って重く、残りの2つはその半分ほどの大きさだ。次に、荷台の車輪があった部分に、水車小屋で丸太落としに使った部品を小型にして、上下逆にしたものを取り付け、そこに先ほどの車輪を、前輪には重い物、後輪には軽い物をそれぞれ取り付ける。

 さらに、前輪部分には内側に両方に嵌るように作られた細長い棒が取り付けられた。この部分は繊細な作業となるらしく、マールが地面に横たわって一人で作業をこなした。さらにその棒に持ち手のついた棒を取り付け、中央に、縦に長い穴を開けた御者席から持ち手が出るように調整された。

 全てが終わる頃には陽も傾き始め、途中で温泉から帰って来たエアリアとアルルも加わって、完成披露が行われた。一緒に温泉に行った若夫婦も興味津々で、マールの説明に耳を傾けていた。

 「まず、荒れ地でもカイとクィが動きやすいように、牽き具を軽くして、お互いが動きやすいようにしてみたんだ。ここの金具を外すと、鎖が伸びて、カイもクィもそれぞれ体半分くらいは自由に動く余地が取れる。戻したいときはこっちを回すと、鎖が巻き取られるから、好みの位置でまた金具を留めれば、そこで鎖の長さは保持できる。」

 一行が感心してうなずく中、マールは御者席から飛び降り、屈んで車輪を指差す。

 「車輪は軸棒を外して、四輪とも独立して上下に動くようにした。荒れ地で突き上げる衝撃は、この重ね板で吸収されるから、揺れは格段に治まるはずだ。それと・・・いろいろな装置を取り付けて馬車自体が少し重さを増したから、制動装置も取り付けた。帰りは下りになるだろうしね。この棒を前に倒すと、前輪の軸に負荷が掛かって、速度を落とすことができるんだ。ただし、強い制動を掛けたい時は、それなりに強い力がいるから気を付けて。」

 

 マールはそこまでを一気に話し終え、反応を待った。ところが、期待したような反応は得られず、一同がぽかんと不思議そうに口を開けているだけだった。

 「あ、あれ? みんな、どうしちゃったの? 僕、またなんかやらかしちゃった?」

 マールは、また自分が夢中になり過ぎて、みんなが話に飽きてしまったのかと思った。

 「・・・いや・・・みんな、驚いてるんだよ・・・。俺もガルダンも、マールに言われるままに取り付けを手伝ったけど・・・。まさか、そんな機能があるなんて、思ってもみなかったよ・・・。」

 「・・・うむ・・・お主、ほんとはドワーフなんじゃなかろうな? これほどの仕掛けを思いつくとは・・・たまげたわい・・・。」

 「そうですよ、マール・・・。あなたには、無限の可能性さえ感じます。」

 カイルもガルダンも、エアリアまでもが、驚きで言葉を失っていたのだった。これだけのことを、僅かな期間で思いつき、形にし、完成させるというのは、それだけマールの秘めた能力の高さを現すものだった。しかも、これまで一度も魔法は使っていないのだ。

 「・・・すごく・・・良くなったとは思うけど・・・ピプロー卿の馬車を、勝手に改良して、良かったのかしら・・・?」

 アルルがポツンと、小声で言った。確かに。改良に夢中になるあまり、これが他人の物だと言うことを忘れていた。

 「だ、大丈夫よ! ピプロー卿も、きっと喜んでくれるはずよ! ・・・もし、ダメなら、私が買い取ります!」

 エアリアが珍しくうろたえた様子になり、興奮して捲くし立てた。その様子を見て、アルルも焦りを感じたようだ。慌てて取り繕ってはみたものの、言葉がうまく見つからない。

 「あ、ああ! そ、そうですよね! そ、そうよ! いざとなれば、買い取ればいいんだわ! 私、つい余計なことを・・・!」

 そのやり取りを見て、マールは腹を抱えて笑った。いつもは落ち着いた雰囲気のエアリアと、冷静なアルルが二人でうろたえている。これがガルダンとカイルならいつものことだが、この二人がこんな反応をするなんて言うのは、想像したこともなかった。

 マールに釣られて、カイルもガルダンも笑い、申し訳なさそうにしながら、若夫婦も口を隠して笑っていた。我に返った二人が、頬を染めて俯くと、その様子がいかにも可愛げで、さらに一同の微笑みを誘うのだった。

 

第1章 第7話 「北都の魔女」

 翌々日、宿にもてなしの礼を述べ、多めの心付けを手渡した一行は、ミンスクの集落を後にして、一路ノストールへと出発した。ここからは、山道が続く。行程はおよそ8日とガルダンが見積もった。季節は初夏だったが、標高が高くなるにつれ、空気が冷気を帯びる。

 マールが改良した馬車は、説明通りの効果を発揮し、馬車自体の走破性が上がったことで、カイもクィも牽きやすくなったようだった。ミンスクでのびのびと疲労を取り、新鮮な草をたくさん食んだのも良かったのだろう。

 乗り心地が良くなって一番喜んだのは、アルルだった。常に御者席で同じ姿勢で座っているため、突き上げをもろに受け、腰や背中に痛みが走るようになっていた、と言う。

 「いつものことだけど、本当に、驚いたわ! 乗り心地だけじゃなくて、起伏のある道でもまるで平地と同じように走らせられるのよ! 新しい牽き具も、馬の負担がかなり減ったみたい。カイもクィも喜んで、やる気を出してるのが伝わってくる!」

 旅は順調に進み、足元に気を付けながらゆっくりと進んだにも関わらず、ガルダンの見積もりよりも半日早く、山裾から斜面を登るように広がっている、ノストールの街並みを遠景に目にすることができた。この分なら、明日にはノストールの街に入れるだろう。

 ノストールはヴァルナネスで一番歴史のある街だった。聖四柱が初めてヴァルナネスに降り立ったとされる、霊峰トルナヤの裾野に広がり、聖四柱のものはもちろん、数多の神々の聖地として、各教団の中心となる教会が無数にあった。また、ヴァルナネスに広く流通する硬貨をすべてノストールで製作しており、町とは切り離された場所に、高い壁に囲まれ、各教会の神兵やハイペルからの駐留軍によって、厳重に警備されている「デルコア」と呼ばれる巨大な製作所が置かれている。

 周辺には多くの古代遺跡があり、その中には未だ未踏破の巨大地下都市跡も含まれていた。冒険者になったのなら、一度は挑んでみたいと言われているその遺跡には、数多の財宝と、それを守る種々の仕掛け、また闇に巣食う多くの魔物が、今も訪れる冒険者を待ち構えていると噂だった。そういった経緯もあり、一旗揚げようとノストールを訪れる冒険者も後を絶たず、巨万の富と名声を手に入れる僅かな者たちの陰で、多くの者たちが命を落とし、また行方知れずとなっていた。

 一行は、そんなノストールが一望できる高台に置かれた、ノストール街道の最期の待避小屋で一夜を明かし、翌朝、朝靄の掛かる街道をノストールに向けて出発した。

 途中から街道は馬車一台がようやく通れるほどの細さとなり、右はトルナヤに連なる山の山肌となり、左は急速に落ち込む崖となった。アルルは馬車の速度を落とし、慎重に馬車を進めた。また、カイの手綱をガルダンが牽いて、その目で道の安全を確かめつつ進む。カイルは一昨日から体調を崩し、馬車の中で休んでおり、エアリアがその看護をしていたため、マールは馬車の後ろを進んでいた。

 一行がノストールまでの最後の坂を登っていた時、先導していたガルダンが馬を止め、警戒の声を上げた。アルルがすぐに手綱を引き、制動装置を作動させる。

 最後尾にいたマールは、馬車を回り込むようにしてカイの脇に立った。

 「男が二人、若い女に・・・追われてる?・・・あ、一人捕まった!」

 アルルが御者台に立ち上がり、遠隔視で様子を窺った。ガルダンは油断なく身構え、マールは慌てて御者席によじ登った。

 やがて、曲がり角から出てきた男が、薄笑いを浮かべながらこちらに走って来るのが見えた。数舜遅れて、同じ曲がり角から若い女が現れる。

 「そこの冒険者! その男を捕まえて! 泥棒なのよ!」

 女は、逃げた男の先に馬車を認め、助けを求めてきた。ガルダンが両手を広げて、男を停止させようと試みたが、男はガルダンのそばでステップを踏むと、一気に山肌に向けて飛び、驚いたことにほぼ垂直の壁を走るようにして馬車を追い越そうとした。ガルダンは悔しそうな表情を浮かべて毒付く。マールも御者席から精一杯手を伸ばしてみたが、あと一歩届かない。男は、そんなマールを見て勝ち誇ったような笑みすら浮かべる余裕を持って、馬車を通り越したところで地面に降り立った。

 と、男が途端によろけ、地面に這いつくばってしまった。起きようと必死にもがくが、その場から動けない。よく見ると、地面から一本のゴツゴツした手が現れて、おとこの足首をがっちりと握っていた。

 「くそ! 放しやがれっ!」

 空いた方の足でその手を激しく蹴り飛ばした男は、逆に苦痛の叫びを上げて掴まれた方の足を押えた。

 「いてててて! わかった!わかったから、もう少し力を緩めてくれ!」

 マールの隣で、アルルが右手を少し下げた。どうやら、精霊の力で男を捕らえたらしい。崖の方から馬車の後ろに回ったガルダンが男を小突き、ポーチから取り出した麻縄で両手を縛った。

 「こいつめ。手間を掛けさせおって!」

 もう一度、男の頭を小突いたガルダンが合図をすると、アルルが右手を完全に下げた。男の足首を掴んでいた手は、地面に吸い込まれるように消えていった。

 「ありがとう! 助かったわ!」

 男を追い掛けていた女が、息を切らせて馬車にたどり着いた。赤い革の服を着た、豊かな赤毛の若い女だった。

 女はガルダンから男を受け取ると、服のポケットから細い革紐を取り出し、あらためて男の両手を後ろ手に結び直すと、もう片方の端を自分の手に巻き付けるようにして持った。

 「あの角の向こうに、コイツの仲間を転がしてあるの。悪いけど、冒険者ギルドまで連れて行くのを手伝って。もちろん、報酬は出すわ。」

 そういうと、女はこちらの返事もそこそこに、すたすたと道を歩き始めた。捕まった男も、おとなしく女に着いていく。

 マールとアルルは顔を見合わせ、ガルダンを見るが、ガルダンも何が何やら、といった様子で、首を傾げながら両手を上に上げた。

 「ほらほら! 急がないと陽が暮れちゃうよ!」

 振り返った女が、曲がり角の手前から叫んだ。

 「なんか・・・不躾な感じね。」

 「そ、そうだね。やたらと偉そうだし・・・。」

 アルルと視線を合わせたマールは、ため息を吐いて馬車を進めるアルルの隣で、複雑な思いを抱いていた。アルルに調子は合わせたものの、見た目も話し方も、マールの心を甘くくすぐるタイプの女性だった。馬車に合わせてガルダンも歩き始め、馬車の中で身を起こしていたカイルは、エアリアに何かを囁かれると、また毛布の上に身を横たえた。

 ノストールには門や城壁といったものがない。街道から少し右に逸れた支道の両脇から街が始まり、ノストールの街中までそのまま入れるようになっていた。ノストール街道はデルコアまで続き、そこが終点となる。

 曲がり角の先で、文字通り転がっていたもう一人の男を起こし、女がその懐から重そうな革袋を取り出して、自分のベルトポーチにしまう。そのまま男を見下ろして、何事かを呟くと、男は弾かれたように動き始めたが、両手を後ろ手に縛られており、うまく立ち上がることができないようだった。小走りに近付いたガルダンが男を立たせ、女と共に街の中へ向かう。

 「あの人・・・魔術使いだわ・・・。」

 「え? わかるの?」

 「ええ。種類までは分からないけど、確かに魔力の動きがあった・・・。」

 アルルはそう言うと、マールに手綱を渡し、ガルダンを助けに向かった。女の素性が分からない以上、油断するわけにはいかない。ガルダンは屈強のドワーフで、歴戦の冒険者とは言え、魔法に関しての知識は乏しい。いざという時はアルルが対抗しなくてはならないと判断したのだろう。

 「アルルは、どうしたのですか?」

 エアリアが馬車から顔を出した。

 「ああ、あの女性、魔術使いみたいなんです。万が一に備えてガルダンを手助けに行ったようです。」

 「そうですか・・・。悪い気は感じませんでしたが・・・。」

 「アルルは、そう思ってないみたいです。」

 「では、私たちも気を付けましょう。」

 「はい・・・。」

 エアリアが馬車の中に入り、マールは慎重に馬車を進ませた。街の道も緩やかな登りになっており、時折土砂止めのための薄い石段が設けられていたが、改良した馬車はその衝撃をほとんど受けずに進んだ。

 しばらく蛇行しながら進むと、開けた場所に出る。正面にギルドの看板が見える。ハイペル程ではないが、かなり大きい建物だった。もしかすると冒険者の宿を兼ねているのかも知れない。ギルドの前に馬車を横付けると、エアリアがマールにカイルを委ね、中へと入って行った。マールは御者席からノストールの街並を眺めて過ごした。全体的に大きい建物が多く、歴史を感じる建物が多かった。歩いている人々は、神官の割合が非常に高い。見慣れた聖四柱以外の神官服もちらほら見かけられる。大きい街だが、雑多な喧騒などとは無縁の、厳かな雰囲気が漂う街だった。

 5人の後を追うようにギルドに入ったエアリアは、まずその広さに驚いた。受付が複数に分かれており、一般依頼と教団関連の依頼、それに遺跡探索の依頼窓口が、分かれて設けられていた。その他に、受け入れと登録の窓口が別にあり、報酬の受け渡しはがっちりとした檻で囲まれた窓口が専従で行うようだ。

 女はガルダンとともに男二人を連れ、一般依頼の窓口の前に立った。ポーチから革袋を取り出し、カウンターに乗せる。カウンターの内側にいた肥った男が革袋を改め、奥に声を掛けると、裏口からメルス教団の紋章の入った鎧に身を固めた男二人が現れ、男たちを引き取っていく。受け渡しが終わると、カウンターの男が女に紙片を渡し、その紙片を持って檻で囲まれた窓口へ行くと、報酬が支払われる仕組みのようだった。

 エアリアに気付いたアルルとガルダンが近寄って来る。

 「無事に終わったようですね。私は受付を済ませてしまいますから、二人は引き続きあの女性の側へ。カイルはマールにお願いしてあります。」

 小声でそう伝えると、二人は了承のうなずきをして、ガルダンは女性の後ろへ、アルルは唯一の出入り口の前で全体の様子を窺う。旅を続けて長い二人は、特に細かく話はしなくても、阿吽の呼吸でそれぞれの役割を果たす動きをする。

 ガルダンの前で、女が紙片をカウンターの女性に手渡した。タチアナほどではないが、こちらも丸々と太った壮年と言える女性だった。すぐに布袋に入った報酬が女に手渡されると、女は中身も確認せず、袋ごとガルダンに手渡した。

 「はい、報酬。手伝ってくれてありがとう。おかげで助かったわ。」

 「丸々くれるのかね?」

 「ええ。一応伝えておくけど、10デテイク入ってるはずよ。」

 「お前さんの分は?」

 「いいのよ。気にしないで。」

 「いや、そういうわけにもいかんだろ。儂らはこの報酬に値する働きはしておらん。」

 ガルダンが袋ごと女に返そうとすると、女は目を丸くして振り返った。

 「あら! 今時珍しい、殊勝な心掛けの冒険者さんね! どうしても気になるなら、酒場で一杯おごってよ。一緒に飲みたい気分だわ!」

 「それは構わんが・・・儂はガルダン。冒険者エアリアと共に旅をしている。お主の名前は?」

 「そういえば、自己紹介がまだだったわね! 私はクロエ。クロエ・ピプローよ。ノストールで魔術の勉強をしているの。」

 今度はガルダンが目を丸くする番だった。戸口でさりげなく二人のやり取りを聞いていたアルルも、危うく転びかけた。


第2章 第1話 「新たな目標」

 ノストールでは、酒場でさえも静かで、規律と調和に満ちた空気が漂っている。どこからか、夕方の祈りを捧げる詠唱の声が聞こえてくる。そんな中で酒を飲むとは、なんだかおかしな気がしたが、周囲の席で酒や食事を楽しんでいる他の客は、一向に気にしていないようだった。

 「・・・それで・・・兄の依頼を受けて、はるばるノストールまで来たってわけね?」

 クロエは、グイグイとエールを煽りながら、不満そうな顔をして一行を見回した。

 「ええ。そろそろ今年の仕込みが本格的に始まるので、戻って手伝ってもらいたい、と。それに、何か他の事業も始められるご様子でしたよ。」

「冗談でしょ! 私はこう見えて、第四階層の魔術までの習得を終えているのよ? 秋には第五階層への昇格考査も控えてるって言うのに、今更ワイン造り?」

 「第四階層まで? もう立派に魔術師じゃない! 導師になっていてもおかしくないのに、どうして冒険者ギルドの依頼なんか・・・。」

 アルルが驚いた声を上げた。クロエの修める操気魔術は、第七階層まで存在する。そこまで到達した魔術師は、この300年間での全てを併せても、20人を超えていないはずだった。ハイペルの魔術学院では、第三階層を修めれば『導師』となって弟子を取ることが許されている。冒険者として旅に出る魔術師は、第二階層までの「魔術使い」が一般的で、第三階層を超えた「魔術師」には有力な後ろ盾が付き、自分の塔を立てて研究三昧の生活を送るのだ。それはすなわち、ハイペル魔術学院が「マスターレベル」と認めた、ということだ。クロエはその上の、第四階層を修め、さらに近日中に第五階層への昇格も目前ということは、かなり熟達の『魔術師』と言える。そんな人間が、一人で冒険者ギルドの依頼を受けている、などとは、普通には考えられないことだった。

 「別に深い理由なんかない。ただ、私は魔術を「使う」のが好きなの。勉強や研究が好きなわけじゃない。と言っても、いつでもどこでも魔術を使えるわけじゃないし・・・。ああいう泥棒とか、魔物退治とかなら、思い切り魔術を使えるじゃない? それだけ。」 

 「・・・いやはや! これまたぶっ飛んだお嬢さんだな! だが、儂は気に入った! 太っ腹なところも、その飲みっぷりもな!」

 ガルダンはそう言うと、クロエと本日何度目かの乾杯をして、ジョッキを打ち合わせた。

 「・・・では、戻る気はない、ということですね?」

 「申し訳ないけど、そうね。受け取りのサインはするから、その手紙は持って帰って。全額は難しいかも知れないけど、きちんと報酬を払うように書き添えておくから。」

 「マダム・ピプローが、ご心配の様子でしたけど・・・。」

 「ああ、お継母様にも会ったのね? どういう印象を受けたか知らないけど、あの人は私以上の遣り手だから、大丈夫。」

 「と言うと?」

 「あの人、若い頃はハイペルの外交使節だったのよ。ハイペルが今の体制を整えた後も、各地には地方豪族がまだたくさんいて、時に戦争も辞さない態度でハイペルに反抗していた時代にね。軍を率いて外交交渉に及んだこともあるそうよ? それと、お継母様に会ったのなら、フィリーにも会ってるわよね? あのおじさん、ハイペル五剣星の一人なの。知ってた?」

 「・・・いえ・・・それは、存じ上げませんでした・・・。」

 「でしょ? 自分の手の内は明かさず、自分の目的を果たそうとする・・・。いかにも政治家の考えそうなことじゃない? だから、大丈夫よ。あの人がいれば、兄もシャトーも安泰ってこと。私の出る幕なんか、元々ないの。」

 そう言って、クロエは少し悲しそうな顔をした。そこには、他人の立ち入れない複雑な事情と思惑が絡んでいるに違いない。エアリアは、クロエを連れ帰るのを諦めることにした。無理に連れ帰ったところで、いい結果になるとは、とても思えなかった。少なくても、今は。

 「・・・ところで、クロエはノストールの近くに、エーテルの神官がいるという話を聞いたことはありませんか? 私たちの、もう一つの旅の目的なんですが・・・。」

 「エーテルの、神官? まさか! あれはハイペル成立前の話でしょ? とっくに滅んで、今はおとぎ話の存在じゃない!」

 クロエはそう言って、声を出して笑った。ひとしきり笑った後で、一行が誰一人笑っていないのに気が付いた。

 「え・・・? 本気で、探してるの・・・?」

 「ええ。実は、私はエーテルの神官なのです。この話は、エルフの古老に伺ったお話です。」

 そう言って、エアリアはアルルが制するのも聞かず、マールに語って聞かせたのと同じ話をクロエに聞かせた。最初は本気にしていなかったクロエも、徐々に話に引き込まれ、最後の方はかなり真剣に聞き耳を立てていた。

 「・・・驚いた・・・。じゃあ、あなた、実は400歳を超えて生きてるってことよね・・・?」  「そうなりますね。」

 「すごい・・・すごいわ! そういうことなら、私もとっておきを出す!」

 そう言うと、クロエは身を乗り出して話を始めた。

 クロエによれば、トルナヤの中腹に地元民に「傷跡」と呼ばれる大きな裂け目があるという。その近くに、「仙女」と呼ばれている人物が住んでいるらしい。常に深い霧に包まれ、激しい風が吹きすさび、行く者を阻む、自然の要害であるらしい。雪の精霊サスカッチがたびたび目撃されることもあり、近付く者はいない、隔絶された地だった。この話は、たまたま遭難した罠猟師が、その仙女に命を救われ、途中までサスカッチの背に乗ってノストールに生還した、という話が元になっている。最初は誰も本気にせず、寒さと飢えで夢でも見たのだろう、という笑い話になっていたが、それから数年後、今度は聖地巡礼に出た神官5名が同じように遭難し、同じように生還したことにより、一気に信憑性を増したと言う。

「それから何度か、その時生還した6人の話を元にして、捜索の部隊が出されたけど、全部空振りに終わった。教会も冒険者ギルドも躍起になって探したけど、結局手掛かりらしい手掛かりすら得られなかったの。」

 「その仙女が、あるいはエーテルの神官ではないか、と?」

 「ええ。話を聞いて、真っ先に思いついたのは、この話だった。逆に言えば、これ以外で結びつくような情報は、何もないわね。」

 クロエはそう言うと、ノストールの公文書館にその時の記録があるはずだから、明日一緒に行ってみよう、と提案をしてきた。すでに夜も更けており、宿に残したカイルのことも気に掛かった一行は、クロエの提案を受け入れ、酒場を後にした。

 宿に戻ると、ナーイアスの看護を受けたカイルが、一行を出迎えた。体調はもう大丈夫だと言い、ミルク粥を2杯も食べたという。クロエの話を聞いたカイルは、その偶然に驚き、感心していた。

 「マールが加わってから、俺たちすごく順調だよね。だから、たぶん今度も大丈夫だよ。きっとその仙女が、エーテルの神官だよ!」

 カイルはそう言って、エアリアを微笑ませた。カイルの意見は、人を笑顔にする効果がある。その素直で疑うことを知らない純な心根が、人を自然と笑顔にするのだ。

 「儂は、アルルの慧眼にも恐れ入っておる。さすがはドワーフの儂を受け入れる度量を持ったエルフだけのことはある。」

 「別に、受け入れてはいないわよ? お酒臭いドワーフは、特にね!」

 アルルの毒舌に、ガルダンは豪快な笑いで答えた。確かにガルダンは、少し飲み過ぎのようだった。ドワーフだけあって、酔ったような素振りは微塵も見せないが、その体から臭う、饐えたような臭いは、アルルでなくても顔を背けたくなる。

 今日も、一日の締めくくりは一同の笑顔だった。カイルではないが、確かにいい流れがきているような気がして、マールも自然と顔を綻ばせた。

第2章 第2話 「霊峰縦走」

 ハーメルンは、恐れていた。

 これから強大で残忍で冷酷で、意にそぐわない場合には驚くほど狭量になる自分の盟主に、こともあろうに、『まったく意にそぐわないであろう』報告を伝えなければならない。

 その報は、『西の伯爵』ヴァイロンの下僕によってもたらされた。『北の黒竜』ニズヘイグが、幼生体での目覚めになった、というのだ。恐らくは『環誕の儀式』での生贄が十分ではなかったのだろう、という。

 北の黒竜の儀式を取り仕切ったのは、ドラゴネートのロックだ。ハーメルンが、この一連の『環誕の儀式』の中で、唯一の不安材料に感じていたあのトカゲの化け物が、こちらの再三の忠告を無視し続けた結果が、これだった。

 最後に確認をした時は、こちらの懸念に腹を立て、ハーメルンや『西の伯爵』の儀式を取り仕切ったハンナ、『東の魔女』の儀式を取り仕切ったフラウォンに向かって大声で喚き立て、手にした杖を真っ二つにした上で勝手に席を立つ、という、無礼極まりない態度を取っていた。

 その挙句が、これだった。こんなことなら、時間は掛かっても代わりの者に任せた方が良かったのだが、残念ながら『北の黒竜』が眠る地底の底は、ドラゴネートくらいしか生存することのできない、劣悪な環境の場所だった。そして、ロック以外のドラゴネートは、ロック以上に頭の回転が遅く、粗暴で、話が通じない。

 盟主の居室に続く、暗い廊下に、ハーメルンの足音だけがこだまする。普段は感じたことがなかったが、僅かな明かりに揺れる柱の陰や、その先にある禍々しい装飾で飾られた巨大な扉が、恐ろしく不気味に感じられる。

 「・・・アズアゼル様・・・失礼します・・・。」

 扉の前で首を垂れ、室内に声を掛ける。扉が音もなく開き、黒と赤の布が風に揺れた。ハーメルンはそのままの姿勢で室内へ歩を進める。暗い紫の敷物が、アズアゼルの一段高くなった玉座まで伸びていた。ハーメルンは視線を上げないように気を付けながら、ゆっくりと前へ進み、見当をつけた場所で跪いた。

 「『還らせる者』ハーメルンよ、どうしたと言うのだ? いつになく、怯えているようだが?」

 「ははっ!・・・お、恐れながら、報告致したいことが・・・。」

 ハーメルンの頭の上で、重々しい衣擦れの音が聞こえた。アズアゼルが玉座の上で姿勢を変えたらしい。ハーメルンの物言いで、『意にそぐわない』報がもたらされることに気が付き、立ち上がったのかも知れない。次の言葉までは、たっぷりの間があった。室温は低いにも関わらず、俯いたハーメルンの鼻の先から、汗が一滴落ち、敷物に吸い込まれた。

 「・・・その、報告とやらを・・・聞こうか?」

 抑揚の全くない声だった。身に起こる怒りに備えるため、ことのほかゆっくりと話している感じがした。

 「・・・は、はい・・・。」

 ハーメルンは口ごもりながら、一語一語、絞り出すように報告を伝えた。ニズヘイグが幼生体で環誕してしまったこと、必要な『力』を得るまでに時が必要なこと、それにより全体の計画に狂いが生じたことを。アズアゼルは、一切口を挟まず、黙って報告を聞いていた。いや、報告が終わっても、一向に口を開かない。その間が、ハーメルンをさらなる恐怖へと追い落とした。どこからか、律動的な音が聞こえる。それが、自分の奥歯が鳴らしている音だと気が付いた時、ハーメルンはおずおずと視線を上げ、我が盟主と崇める存在を視界に捉え、瞬間的にのけぞって、仰向けに倒れた。

 アズアゼルは、怒っていた。憤怒と言っていい。赤い光だけの目が、怒りにユラユラと揺れている。

 「・・・ハーメルンよ・・・。ラスファタールを環誕させられるのは、余の他に、東西と北を司る星が必要と言ったのは、お前ではなかったか・・・。その四星が地上に並び立ち、天空の星と重なることによってのみ、環誕なる、と・・・。さらに、こうも言ったな? 天空の星の運行を見るに、それが起こるのは千年に一度、それが本年の夏至だとな。」

 「は、は、は・・・はい・・・。」

 「然るに、だ! 北を司る星の力が足りんだと! 時が必要だと! そのお前が、お前の口が申すのか! よもや、余にもう千年ここで待て、などと言うつもりではあるまいな!」

 「い、い、いえ・・・そ、そのような・・・!」

 「では! いかにすると言うのか? 夏至までに、ニズヘイグにいかにして、『力』を持たせる、と言うのか!」

 「ち、『力』を得るためには、人の血を宛がう他、ご、ございません!」

 「ならば! 人の血を宛がえ! 何千何万だろうと構わん! ニズヘイグに『力』を持たせよ! ニズヘイグの眷属に、ノストールを攻めさせるのだ!」

 それでは事が露見する恐れがある、とは、口に出せなかった。それを口にした瞬間、自分は消し炭にされるだろう。いや、それすらも残さず、ただ異界に墜とされるだけかも知れない。

「か、かしこまりました! す、すぐに・・・!」

 ハーメルンは、急いでこの部屋を後にしたかった。だが、気が焦るばかりで、体に力が入らない。腰が抜けているようだった。

 その様子を見たアズアゼルが、左手を振った。

 どこからか、鈍い銀色に光る悪魔が現れ、ハーメルンの襟首を掴んで、部屋の外に引きずり出した。半ば廊下に投げ捨てられるように外に出されると、扉が大きな音を立てて閉まった。

   ※           ※

 翌日、ノストールの公文書館で、一行はクロエと合流した。初めて顔を合わせたカイルが自己紹介をする。

 「あら、いい男! よろしくね、戦士さん!」

 昨夜はガルダンに負けず劣らず、酒を体に取り込んだはずのクロエだったが、酒が残っている気配はない。今日は魔術師らしく、緋色のローブを身にまとっていた。豊富な赤毛と相まって、クロエの美しさを一層引き立てていた。

 司書とともに、『仙女』に関わると思われる資料を探し出し、大きな樫のテーブルには、そういった資料が山と積まれた。教会の記録、冒険者ギルドの記録が主だったが、当時の新聞や、この話を元にした創作物に至るまで、種々の記録が集まった。

 それらの資料から、何かを見つけようと、クロエやエアリア、アルルも加わり、午前中を資料を読み込んで過ごしたが、大まかな場所とサスカッチの特徴ばかりで、肝心の仙女のものと思われる記録がほとんどない。当時の記録に名前の残る人間を探そうか、という案も出たが、記録以上の記憶が残っているとは思えない、というクロエの一言で立ち消えとなっていた。

 「これはもう、実際に行ってみるしか、ないんじゃない?」

 クロエが悪戯っぽく首を傾げる。

 「・・・そうですね・・・。ここまで来たのですから、できることは、全てしようと思います・・・。」

 「じゃ、決まりね! これから準備して、出発は明日にしましょう!」

 「え・・・? あの、一緒に来ら・・・来ていただけるんですか?」

 エアリアは『来られるつもりですか?』と言いそうになって、慌てて言葉を言い直した。いつも落ち着いているエアリアでさえ、クロエと一緒だと調子を乱されるようだった。

 「当たり前でしょ! ここまで来て、つまはじきにはしないわよね?」

 「いえ・・・そんなつもりでは・・・。」

 「良かった! 馬車はギルドに預けるといいわ。それと、氷河を渡る必要があるから、アイゼンとロープは準備しておいてね! なんなら、買い物も付き合うわよ?」

 さも当たり前のように捲くし立てるクロエに、全員が圧倒されていた。アルルもカイルも、口をぽかんと開けてクロエの様子を見守ることしかできない。ガルダンは一人でニヤついていた。

 結局、クロエに押し切られる形で、一行はクロエと行動を共にすることになった。雑貨屋や道具屋を回り、アイゼンやピッケル、数本のロープ、防寒性能を持たせたテント、それぞれの防寒具。しかし、その中で一番の量になったのは、薪だった。暖を取るにも料理をするにも、燃やす物がなければ始まらない。だが、高地では薪とできるような大きな木は存在せず、岩山に生える苔や、小さな草花のみだ。それらの膨大な荷物を、人が背負っていくわけにはいかない。そのため、クロエはこの地方に住む毛長牛を二頭、借り受けた。ノストールでの輸送手段として一般的な毛長牛は、野生にも存在し、その長い毛で極寒に耐え、傾斜に強い、太くて大きい足を持っていた。さらに首の周りにコブを持ち、そこに栄養を蓄えられるので、粗食でも長期間の活動が可能だった。 

 「2頭を10日で5デテイクは、ちょっと高いんじゃない?」

 飛び切りの笑顔で交渉を始めたクロエは、結局14日で4デテイクまで値を下げることに成功し、交渉の能力も垣間見せた。冬山の知識も豊富なようで、何度かトルナヤを制覇したこともあると言う。

 その日は、クロエも一行と同じ宿に泊まり、地図を広げて目的地とおおよその行程を全員に周知した。

 「目的地は、『傷跡』の少し下あたり。記録では、この辺りに湧き水の出る泉があって、この周辺が一番怪しいと思うの。途中の難所は、ここの氷河ね。それ以外は、険しい地形はあっても難所という程でもない。」

 クロエは、目的地の泉までは、3、4日だろう、と見積もった。だが、天候や一行の疲労、また標高が上がることによる体調の変化などを見ながら進む必要があるため、最大で7日は見ておく必要があるという。

 「7日経過して、ダメなようなら、すぐに引き返す。もちろん、怪我や病気の場合は、即、撤退して体制を立て直す。この地域では、ちょっとしたケガも命取りになるから、気を付けて。それに、途中で食料や燃料の補給は一切できないと考えておいて。」

 いつになく厳しい表情で、クロエが一同の顔を見回した。

 「幸いにして、いい季節だからそんなにひどいことにはならないと思うけど、私が引き返す、と言ったら、何が何でも引き返す。もちろん、全員で。これに関しては、今約束してもらう。」

 一行が了承のうなずきを返した。ここに関しては、異論はない。こうした局地での経験がない一行は、クロエの知識がすべてとなるから、当然と言えば当然のことだった。

 話し合いは夜まで続き、ガルダンやアルルが時折質問を挟み、細かいところまで詳細が詰められた。さすがに今夜はクロエもガルダンも酒を控え、翌日に備えてゆっくりと休むことにし、話し合いは終了した。

 翌朝、一行は栄養価の高い食事をできるだけ詰め込んで、ノストールを後にした。ここからは、道なき道を進むことになる。先頭はクロエ。マールとエアリア、アルルが続き、ガルダン。殿はカイルが務める。毛長牛はマールとガルダンが引くことになった。

 初日は天候にも恵まれ、一行は全行程の3分の1を踏破したが、二日目の昼過ぎに天候が急変し、氷雨の混ざった強風が吹き荒れた。クロエはすぐにキャンプを決断し、結局その日はほとんど前進することができずに終わった。

 3日目、初日同様に晴れ上がり、午後の早いうちに問題の氷河へと到達したが、クロエは日が暮れるまでに渡り切るのは難しい、と判断し、氷河の手前でキャンプを設営することになった。

 4日目、この日は曇天だったが、クロエは渡河を決断し、一行はアイゼンを付け、アンザイレンを行う。少し進んだところで、クロエが1名ずつ、氷の上での転び方と滑落した場合の対処法を教え、全員で訓練した。コンテニュアス(全員をロープで繋いで一斉に進む)で進む場合の、ジッヘル(滑落した場合の確保)の仕方がメインとなった。

 「うん。なんとか全員、形にはなったわね。ところで氷河を渡るときに、一番怖いのは、なんだっけ? マール?」

 「あ、えーと、クレバス!」

 「正解! じゃあ、それはなんで? カイル?」

 「小さい裂け目でも、とんでもない深さがあるし、氷壁は突起や凹凸もあるから。それにうっすら雪や氷が乗っていて、見えないことがある!」

 「そうね! 良かった、みんな覚えてた! じゃあ、進むわよ? 隊列は今まで通り。渡り切るまでは、休憩はなし。いいわね?」

 一行は力強くうなずき、クロエがそれを確認すると、身を翻し、渡河が始まった。速度はゆっくりだったが、クロエは手にした杖を前方に突き刺し、『見えないクレバス』を探知しながら進んでいるので、仕方のないことだった。氷の上と言うのが、こんなに歩きにくいとは思ってもみなかった。マールはすぐに太ももの内側が痛み始め、普段の歩行では使っていない筋肉が酷使されているのを感じた。

 半分を超えた辺りで、クロエが手を挙げ、全員の進行を止めた。手にした杖を左右に振り、慎重に前方の足場を探る。すると、クロエの前方、僅か数十センチ前の氷が崩れ、クレバスが現れた。崩落の連鎖は続き、一行の前に幅2mほど、長さ50m程の巨大なクレバスが姿を現した。

 クロエは挙げた手を後ろに振り、列そのものを慎重に後退させる。クレバスの近くでは、当然足元の氷は崩れやすい。ゆっくりと、20m程後退したところで、クロエがようやく振り向いた。

 「毛長牛を連れたままあのクレバスは渡れないから、迂回するしかないわね。一旦登って、安全な距離を取ってから渡河を続けるわ。」

 そういうと、クロエは氷河を登り始め、クレバスの上端からたっぷりと距離を取ってから、進行方向を90度変えた。

 その後は順調に渡河が進み、一行は再び足場のしっかりした地面に立った。 

 「みんな! お疲れ様! 予定よりだいぶ距離が伸びたから、ここで装備を外しながら大休憩にしましょう!」

 クロエは、大きく伸びをしながらそう言うと、ブーツのアイゼンを外し始める。

 「ガルダンに毛長牛を引かせたのは正解だったわね。何度か転びそうになってたけど、毛長牛に捕まって、転ばずに済んだものね!」

 「バカを言うな! 氷の上とは言え、山でドワーフが転ぶわけがなかろう! そういうアルルこそ、アヒルのように尻を振って歩いておったぞ!」

 「俺が一番後ろから見ていた限り、二人ともひどいへっぴり腰だったよ!」

 いがみ合うエルフとドワーフ、そしてそれを見て笑う人間たち。いずれにしても、渡河の極度の緊張から解かれ、気持ちが解れたようだった。クロエがロープをまとめ、肩に掛ける。その手際の良さに見とれていたマールは、クロエの肩口の向こうに、見慣れない獣の姿を認めた。

 「ちょ、ちょっと! あれ、何!」

 マールが指差した尾根の中腹に、直立する真っ白な姿が見えた。それはまるで、大きな猿のようにも見えたが、下あごから生えた大きな牙と、異様に長い腕が猿ではないことを告げていた。

 「サスカッチよ! 気を付けて!」

 クロエが警告の声を上げた。一向に再び緊張が走る。距離はだいぶあるが、記録で見た限りでは、山での移動速度は、完全に向こうに分がありそうだ。カイルとガルダンが、アイゼンを外す速度を速めた。

 お互いに大きな動きのないまま、数分が過ぎた。カイルとガルダンも既に迎え撃つ準備を整え、アルルは弓に矢をつがえていた。と、こちらを凝視していたサスカッチが、くるりと踵を返し、尾根を越えて向こう側に消えた。その速度は、一行の想像をはるかに上回っていた。長い前腕を巧みに使い、傾斜をまったくものともせずに、まるで狐が野を駆けるような軽快な動きだった。

 「むぅ・・・。アレとは、できれば戦いたくないのう・・・。」

 「そうね・・・。あの巨体で、あの動き・・・。恐ろしい相手だわ。」

 ガルダンとアルルの意見が一致した。二人とも同時に小さくうなずく。これからは今まで以上に、十分な警戒が必要だ。サスカッチが消えた方向は、まさに一行がこれから目指そうとしている方角だったからだ。

 大きな難所も超え、新たな脅威の出現に、一行は隊列を変更した。

 先頭はアルル、ガルダン、エアリアとマールが毛長牛を引いて中列を進み、後衛にカイルとクロエが付く。

 慎重に尾根を登り切ると、下った先が目的地周辺となるはずなのだが、そこには、深い霧が立ち込めているのがはっきりと見えた。

 「このままあの霧に突っ込むのは、危険すぎるわ。」

 「・・・そうね。幸い、ここなら見通しもいいし、風が霧を運ぶまで、少し休みましょう。」

 アルルの懸念にクロエも賛成し、一行は、ここにキャンプを張ることに決めた。テントを設営し、交代で温かい食事を摂る。見張りは常時2名。主に、尾根の上と下を見張る。

 「そうだ、アルル、これを渡しておくわ。」

 そう言って、クロエがアルルに小さな水晶玉を手渡す。

  「これは?」

 「んー、名前はないんだけど・・・簡単に言うと、『魔力の素』ってところかな。アイルの結晶みたいな。これを握りながら魔法を使うと、負担が減るの。」

 「そんな便利な物・・・。そもそも、アイルをどうやって・・・。」

 「細かいことは、今度ゆっくり説明する! まずは、試してみて!」

 クロエはそう言うと、テントに入ってしまった。アルルはしばらく掌で水晶玉を転がしてみたが、ただの水晶玉としか思えない。やがてアルルは水晶玉をポーチにしまい、見張りに戻った。

 昼を過ぎても、眼下に広がる霧は晴れる気配がない。一行がいる地点では、確かに風は吹いているのだが、霧の中は窪地になっていて、風が通らないのかも知れなかった。

 「なかなか霧が晴れないね・・・。」

 「そうだね。・・・これは、もしかしてこのままここで野営になるのかな?」

 「うーん・・・クロエがどう判断するか、だけど・・・。」

 この時間の見張りは、カイルとマールが担当していた。今のところ、異常の気配はない。マールは見張りをしながら、カイルの手ほどきを受け、付近の手頃な石を見つけては、スリングスタッフで投擲の練習を繰り返していた。距離はまずまず出るようになってきたが、狙ったところに石をぶつけられるのは、5回に1回、というところだった。

 「なかなか、難しいね。」

 「杖を返すタイミングが大切なんだ。一番勢いのあるところで、こう・・・クイッと。」

 カイルの説明は感覚的に過ぎて、マールにはなかなか馴染めないものだった。せめて、具体的な数字を示してくれれば、それに合わせて動きを調節することができるのだが。マールは再び石を掴み上げると、スタッフの先端に取り付けられた革のスリングに石を挟み、頭上でスタッフを振った。途端にバランスを崩したマールは、悲鳴と共に尾根に倒れてしまう。

「どうしたの!」

 途端にテントからクロエを始め、全員が外に出て来て、左右に首を巡らせ警戒する。驚いたカイルの顔と、照れ笑いするマールの顔を見て、それぞれが「なんだ・・・」と言うように溜息を吐いた。

 「もう・・・驚かせないでよ!」

 「大丈夫ですか、マール?」

 同じ女性なのに、クロエとエアリアでは、反応の仕方がまるで違う。口に出したら、「カイルとマールだって全く違うじゃない」などとアルルに皮肉を言われるに決まってるから、心で思うに留めておく。せめて、逆だったら良かったのにな、と思いながら、マールは腰を上げた。

 「・・・それにしても・・・動かないわね・・・。」

 「ねえ、クロエ・・・少し、おかしいと思わない? これだけ空気の動きがあって、どうしてあそこだけ全く動かないのかしら? それに、大きくなる様子も、小さくなる様子もない。あそこだけ時間が止まってしまってるみたい・・・。」

 「・・・時間・・・! もしかして・・・ねぇ、アルル。シルフでもシルフィードでもいいから、あの霧に風で穴を開けてみて。」

 うなずいたアルルが、人差し指と小指を伸ばした右手を挙げ、何かをつぶやいた。すぐに指の先に小さなつむじ風が現れる。アルルが指を振ると、つむじ風は勢いよく霧に向かっていった。地面の草花や土煙で、つむじ風が霧に到達したのを確認したが、霧は微動だにしなかった。

 クロエとアルルは顔を見合わせ、アルルはもう一度、同じ動作を繰り返した。今度は先ほどより少し大きなつむじ風で、勢いも進む速度も速かったが、やはり霧には何の変化も見られない。

 「どういう、ことでしょう?」

 エアリアが一歩進み、クロエとアルルに問い掛ける。

 「・・・まず、確実に言えるのは、あれが自然にできた霧ではない、ということ。・・・つまり、何らかの魔法で、という可能性が高いと思う・・・。」

 クロエはそこで語を切り、少し考える仕草を見せてから、語を継いだ。

 「もしかしたら、あの霧の中にこそ、目的の場所があるんじゃないかしら?」

 そう切り出したクロエは、自分の考察を述べ始めた。それによれば、こんな僻地で、あれだけの霧を発生させる術者がいるのなら、必ず誰かの噂になるはずだが『仙女』以外でそんな話は耳にしたことはないこと、今まで『仙女』に遭遇した者は、遭難などの理由で偶然そうなっただけで、こちらから見つけようとして見つけ出した者はいないこと、そして、サスカッチの出現と、その行動・・・。

 「考えてみて。サスカッチが突然現れて、何をするでもなく消えていった。その方向に霧が発生している。まともな考えを持っていたら、わざわざあそこを目指そうと思う? 自ら死地に飛び込むようなものだ、と考えるのが普通じゃない?」

 「うむ。それはそうだろうな。現に我々でさえ、霧が晴れるのを期待して、ここにこうしておるわけだからの。」

 「つまり、サスカッチは『見られる』ためにだけ、出てきた、ということ?」

 「そう考えた方が、自然じゃないかしら。ただの霧だけなら、私たちだってここで立ち止まってはいないでしょ?」

 最後にそう言って、クロエは一同を見渡した。反証を述べられる者は誰もいない。

 「後は、どれだけ『仙女』を見つけたいか、どうか、ね。霧の中でサスカッチに襲われたら、まず、全員が無事では済まない。その可能性を、つまりは命を懸けてまで、『仙女』に会いたいか、どうか・・・。」

 クロエがエアリアを見た。エアリアと知り合って日が浅いクロエには分からなかっただろうが、こういう局面でのエアリアの回答は一つしかない。

 「いえ。そこまでの危険は冒せません。」

 きっぱりと、言い放つ。この返答に、尋ねた本人のクロエが逆に驚いていたが、マールを始め、他の一行は、エアリアならそう言うだろうと思っていたので、まったく驚かなかった。

 「え? いいの? ここまで来て?」

 「はい。確実な情報ということなら、私一人ででも向かったことでしょうが、不確実な上に危険しかない場所に自ら、加えて、みんなの命まで『賭けられる』わけがありません。」

 「でも、今行かないと、次はないかも知れないのよ? 今後一生、こんなチャンスはないかも・・・。」

 「もし、そうなら、それがエーテルの御意思、ということでしょう・・・。」

 今では問い掛けた側のクロエが、むしろ「行くべきだ」と暗に促しているような状態になり、クロエがアルルやガルダンに助けを求める視線を送ることになってしまった。

「エアリア。幸いなことに、我々には3人の、しかも、3系統の『守り』の魔法を使える術者がいます。三重の守りの魔法は、いかにサスカッチといえども、簡単には破れないでしょう。ガルダンもカイルも歴戦の戦士。加えて、マールの炸裂炎上弾もあります。危険とは言え、無謀な賭けとはならないと思います。私は、進むことを提案します。」

 「儂も、アルルに賛成じゃ。サスカッチだかなんだか知らんが、儂とカイルで当たるなら、決してヒケはとらんわい! なあ、カイル?」

 「もちろんさ! 魔法の援護と、マールの炎上弾だってあるんだ。ここまで来たんだし、行くべきだよ。」

 各々が意見を述べ、エアリアも少し態度を軟化させたように感じられた。表情に迷っている様子が窺える。それと見て、悲しげな顔で俯いているエアリア以外の全員が、一斉にマールを見た。

 『え! また僕?』

 口には出さず、目と表情で訴える。果たして全員が、イラついたような顔で、小さく、だが強く、うなずいた。なぜか、クロエまで。

「そ、そうだよ、エアリア! 炸裂炎上弾は、まだ4つ残ってる。それに、飛翔閃光弾だって! こんなところに住んでるなら、火と光には弱いはずだ。も、もしサスカッチが襲ってきても、一撃さ!」

 エアリアが顔を上げ、一瞬だが、パッと顔を輝かせた。

 「・・・そうかも・・・知れませんね・・・。私は、もっと皆さんを信じるべき、なのかも・・・。」

 ここぞとばかりに、全員が口々に賛同を示した。

 ようやくに、エアリアが進むことを承知した時、全員がエアリアに知られないように安堵の溜息を吐いた。

 そうと決まれば、ぐずぐずしている時間はない。日が暮れる前に、勝負を決めてしまわなければならない。それに、エアリアの気が変わる前に。一行はすぐに撤収し、計画を練った。

 結果、守りの魔法はエアリア一人に委ねられ、アルルが周囲にシルフを飛ばし警戒に当たり、クロエは有事に備える。神語魔法の『守り』の言葉は、3系統の中で一番強力であり、物理、魔法、両面の守りが可能だ。だが、エアリアの呪いの問題もあるため、毛長牛の荷物を一頭にまとめ、エアリアを空いた毛長牛の背中に乗せる。その毛長牛はマールが引き、荷物を載せた毛長牛をロープで繋いだ。

 先頭にガルダンとアルルが左右に広がり、毛長牛の右にマール、左にクロエ。そして後ろをカイルが守るという、エアリアを乗せた毛長牛を中心に、円陣が組まれた格好だった。エアリアの守りの言葉は、エアリアの頭上を頂点にして、半球状に囲む淡い光の壁となるため、全員がその壁の内側を進むことになる。

 

第2章 第3話 「天女と仙女」

 尾根を下り、霧の目前まで来る。エアリアはすでに毛長牛の背で『守りの言葉』を唱え、一行の周囲に淡く金色に光る光のカーテンができていた。アルルがシルフを数体召喚し、霧の中に飛ばす。数舜後、アルルが無言でうなずき、霧の中へと足を踏み入れた。

 非常に濃い霧だった。マールの位置からでも、ガルダンとアルルがかろうじて見える程度で、視界は数m、というところだ。

 不気味な静けさが、霧と共に一行を包み込む。尾根を降りてからの地面は比較的平坦で、歩行に支障はない。しかし、自分の足元以外の景色は見ることができない。10分ほど進むと、次第に地面に生える草が増えてきた気がした。それに、なんだか暖かくなってきたようだ。進むごとに地面は草が増えていき、やがて地面はすべて植物で覆われた。時折、ピンクや白の小さな花まで見かけられた。その時、アルルが警告の叫びを上げた。

「シルフが騒がしい! 騒がし過ぎて何を言いたいのかわからない! 気を付けて!」

 マールはすぐにポーチに手を入れ、チラッと視線を落とし、自分が掴んでいるものが炸裂炎上弾であることを確認する。ポケットの火口箱も確認した。ほんのりと温かい金属製のその箱の中には、十分に加熱した炭が、灰に包まれるようにして入っている。もしサスカッチが襲って来たら、その箱を開けて息を数回吹きかければ、炭はすぐに燃え上がる。それを炸裂炎上弾の火縄に押し付ければ、点火ができて、5秒後には大爆発だ。

 ガルダンは斧を両手で構えながら、首を突き出すようにして慎重に進んでいた。

 隣を進むアルルは弓に飛翔閃光弾を取り付けた矢をつがえている。いざと言う時には身に潜ませている、アルルの守護精霊であるリザが、それを十分に濡らしてから、放たれるはずだ。

 なおもゆっくりと、一行が歩を進めると、急激に霧が薄くなり、やがて霧が完全に晴れた。そこで見た光景に、一行は一様に息を飲んだ。

 大きくはないが、十分な量の水を湛えた泉がある。驚くほどに澄んだ水の中には、小魚が泳ぐ姿すら見えた。泉の周囲には草花が生い茂り、向こう側には黄色の花が咲き誇った一角もある。その奥に、小ぢんまりとした森さえも。その泉から一本の道が、小高い丘を登るように続いており、その先に小屋が建てられている。道はさらに、山肌にぽっかりと口を開けた洞窟まで続いていた。

 小屋の周囲には、数種の果樹の木が植えられており、畑のようなものまであった。人里から遠く隔絶したこの地で、ここだけはまるで、天上の別世界、とでも言うような雰囲気だった。

 「し、信じられない・・・こんな豊かな土地が、こんなところに・・・。」

 クロエが驚愕の表情で周囲を見回しながら、小声で呟いた。だが、その呟きは、途中からガルダンの声に遮られる形となった。

 「出おったぞ! サスカッチじゃ!」

 泉の奥の森から、のっそりとサスカッチが現れた。大して力を入れたとも見えないのに、一飛びで悠々と泉を飛び越え、ゆっくりと近付いてくる。

 「こ、こっちもだ!」

 再び、カイルの声が上がる。驚いて振り向くと、霧の中から、さらに2体のサスカッチが現れ、同じようにゆっくりと近付いてくる。一行は、3頭のサスカッチに取り囲まれる形となった。

 「ねぇ・・・さすがに、これはヤバくない?」

 クロエがまるで他人事のように声を出した。うっすらと、笑っているようにさえ見える。

 「ヤバい、なんてもんじゃないよ・・・。」

 マールも小声で答え、慌てて火口箱を開けた。3頭のサスカッチは、ゆっくりではあるが、確実に距離を縮めて来ている。と、ふいに最初に現れたサスカッチが、一声吠えた。その声に反応するかのように、後から現れた2頭が、ピタッと動きを止め、地面に手を付いて、まるでこちらに突撃を仕掛ける気になったように、足踏みした。

 詠唱に懸命のエアリア以外、全員が、全身に力を入れて身構えた。クロエが下向きに広げた両手には、小さな光の球が現れ、時折パチッと音を立てて小さな火花を散らし、アルルも弓を半分ほどまで引いた。

 「そこまでです!」

 その時、小屋の方角から、大気を切り裂くような凛々とした声が響き渡った。サスカッチたちはすぐさま反応し、小屋の方角に恐ろしい速度で戻っていく。

 「ここに争いを持ち込むことは許しません。危害は加えませんから、武器を下ろしなさい。それから、そこの若い方、この子達は火縄の臭いが嫌いです。その物騒な球を仕舞って下さい。」

 マールはハッとして、左手に握っていた炸裂炎上弾をバッグにしまう。声の主は、見慣れない服を着た、若い女性だった。緑色の瞳と、長い黒髪持ち、小屋の戸口に優雅とも言える姿で立っていた。3体のサスカッチが、その女性を庇うようにして立ちはだかっている。

 「わ、私は、ノストール魔術学院のクロエと申します! 伝説の『仙女』様でしょうか!」

 クロエが一歩進み出て、女性に問い掛ける。

 「いいえ。私はその人物ではないと思います。もっとも、ノストールで私がどう呼ばれているかは存じておりませんが・・・。以前、ノストールの罠猟師と神官の一団を、やむを得ず救ったことはありますが、その件でここを訪れたのなら、速やかにお立ち去り下さい。お話しすることは、何もございません。」

 きっぱりとした、拒絶だった。むしろ、清々しいくらいに感じるほどに。だが、クロエも負けてはいない。

 「いえ! 私たちはその件でここに来たのではありません! ここに、エーテルの神官をお連れしました! あなた様ならもしや、何かをご存じではないかと・・・!」

 「・・・エーテルの、神官、ですって?」

 女性は、眉根を寄せて警戒の色を濃くしたように見えたが、同時に興味をそそられたようでもあった。エアリアがカイルに手伝ってもらい、毛長牛から降りると、クロエと並んで立つ。

 「エーテルの神官、ソコルトとエーミアの娘、エアリアと申します。秘儀を受けぬままこの身に天界の住人を降臨させ、神の逆鱗に触れました。出来得ることならば、秘儀を授けて頂きたく、ご無礼を承知で推参致しました・・・。どうか、お話だけでも聞いていただくわけには参りませんでしょうか・・・?」

 長い間があった。その女性はエアリアを凝視し、エアリアも微動だにせず、視線に力を込めているかのようだった。

 「・・・いいでしょう。話を伺いましょう・・・。せっかくですから、皆様も、どうぞ、こちらへ。」

 その女性は、そう言うとサスカッチの首に優しく触れ、小声で何事かを囁いた。サスカッチはこちらから視線を外さなかったが、最後に女性がその首をポンと叩くと、一声唸り、他の2頭を連れて霧の中に姿を消した。

 一行は、エアリアを先頭に小屋へと続く道を進んだ。女性はそれを確認すると、小屋の中へ消える。扉は開け放たれたままだった。

 「お邪魔をして、申し訳もございません・・・。」

 小屋に入ると、エアリアがまず丁重に頭を下げて、非礼を詫びた。

 「いえ・・・同邦の人間が苦しんでいると聞いては、無下にもできません。さあ、どうぞ何分一人の住まいですから、手狭ではありますが、お好きなところで体を休めて下さい。」

 小屋の中は、清潔に保たれていた。椅子や机の類はなく、床に敷物が敷かれているだけだった。奥の一部が一段高くなっており、衝立の奥に寝具のような物が置かれているところを見ると、そこが就寝する場所なのだろう。

 女性はその段の前の、敷物の端に腰を下ろした。エアリアがその正面に腰を下ろし、両脇にアルルとクロエが腰を下ろした。ガルダンとマールがその後ろに、カイルは戸口で立ったまま、外を警戒していようだった。その姿を見て、女性がうっすらと笑みを浮かべた。

 「私は、エナ。トキーロとナミィの娘。エーテルの神官です。今は世を捨て、失われた魂の安らぎを祈るのみの日々です。エアリア、ご両親からは、なぜ『秘儀』を授からなかったのですか?」

 エアリアは、事の経緯をエナに語って聞かせた。エナは一切口を挟まず、静かに耳を傾けていた。エアリアが話を語り終えると、エナは静かに立って、無言で何かを準備し始めた。どうやら、茶を淹れているようだ。室内に爽やかな香りを伴う湯気が漂う。やがて用意が整うと、全員の茶碗がエナ自らの手に寄って配られた。

 エナが元の席に戻り、自分の茶碗から、優雅に茶を飲んだ。それを見て、全員が茶を口に含む。熱くも、かと言って温くもない、ちょうど良い温度の液体が口に広がる。春の草原を思わせる清冽な香りが、口中に広がる。やがて、甘味とわずかな苦みの余韻を残し、喉を過ぎていく。心から落ち着くような、そんな味だった。

 「・・・辛い・・・辛い、そして長い時間、でしたね・・・。良いでしょう、あなたの両親に代わり、私が『秘儀』を授けます。ですが、残念ながら、だからと言って、あなたの身に降り掛かっている『不死の呪い』が解かれるわけではありません・・・。」

 「そうなの・・・ですか・・・。」

 「はい。ですが、『言葉』を再び取り戻すことができるでしょう・・・。その首飾りが無くても・・・。それに、今度こそ、その身に神を宿す力が得られるはずです。もちろん、あなたが『秘儀』に伴う試練に打ち勝つことができれば、の話ですが。」

 「・・・その・・・試練、というのは・・・?」

 「あなたは、これより七日七晩、不寝不食で『聖典』を読み、そこから『言葉』を得なければなりません。その言葉で、神に祈りを捧げるのです。その声が届けば、あなたは『覚者』となります・・・。もっとも、今のあなたに不寝不食と言ったところで、それは何の意味もありませんから、恐らく神は、それに代わる試練をお与えになるでしょう。」

 「・・・はい・・・。試練は、甘んじて受け入れます。『秘儀』を、お授け下さい。」

 エナはうなずくと、再び立ち上がり、今度は衝立の奥に設えられた家具の中から何かを取り出し、両手に抱えるようにして戻って来た。

 「それでは、まず、下の泉で身を浄めて来て下さい・・・。作法は、わかりますね?」

 「はい。大丈夫です。」

 「身を浄めたら、衣服をこちらに改めて、そのままこの奥の洞窟の中へ。しばらく進むと、祭壇があります。その右に、ひと際大きい蝋燭がありますから、それに火を灯す。一度灯したら、その火が消えることがあってはなりません。蝋燭は、七日七晩で燃え尽きるようにできています。その火が自然に消えた時、頭に浮かんだ言葉で、神に祈りなさい。いいですね?」

 「はい。」

 「身を浄めたら、その祈りの言葉を口にするまで、言葉を口にしてはいけません。『秘儀の儀式』は一生に一度のことです。もし今回の儀式が破れたら、二度と『秘儀』が授けられることはないでしょう・・・。ですから、十分に気を付けるのですよ?」

 「はい。」

 「他に、今のうちに聞いておきたいことは、ありますか?」

 「いえ、ございません。」

 「・・・それでは、お仲間にご挨拶を・・・。皆さまも、よろしいですね?」

 とうとうエアリアが、旅の目的である『秘儀』を授けられる機会が与えられた。残念ながら呪いが解かれることはなかったようだが、それは次の旅の目的にすればいい。

 エアリアが一人ひとりと言葉を交わした。アルルは、泣いていた。その涙が、呪いが解けないという事実の悲しみから来るものなのか、『秘儀』が授けられる喜びから来るものなのか、マールには分からなかったが、二人はしっかりと抱き合い、エアリアはアルルを小声で慰めた。

 同じように、カイルやガルダンとも挨拶を交わす。カイルは不安そうな顔をしており、ガルダンは心からの笑顔でエアリアを励ました。やがて、エアリアがマールの前に立った。

 「・・・マール。ここまで、旅を共にしてくれて、ありがとうございます。思えばマールが仲間に加わってからは、まるで飛ぶように事が運びましたね・・・。あなたは、私の幸運そのもののようです・・・。」

 「い、いや、そんなことは・・・僕の方こそ、自分の人生が開けてきたのはエアリアのおかげだと、感謝しているよ。あの時、助けてもらっていなかったら、ハイペルで旅に誘われてなかったら・・・。もしかしたら、今頃アルルの言う通り、親戚にひどい目に遭わされてたかも! ・・・だから、がんばって! みんなに負けないくらい、僕も応援してるからね!」

 「うふふ。はい、がんばってきます。ガルダンとアルルが喧嘩をしないように、見張っていて下さい。」

 そういうと、エアリアはマールを優しく抱きしめた。最後に数舜お互いに見つめ合い、エアリアはクロエの元へと向かった。

 「・・・クロエ・・・。人の世の因果が、これほど不思議だと思ったことはありませんでした。まさか、依頼の目的の方が、私をここに導いてくれるなどと、誰が思い浮かべることができるでしょう・・・。ここまでみんなを率いて、無事に連れて来て下さったこと、感謝してもしきれません・・・。」

 「そこのところは、自分でも信じられないくらい! でも、良かったね! 400年のことを考えれば、七日七晩なんて一瞬よ! みんなとここで待ってるから!」

 エアリアは、戸口で室内を振り返り、深々とお辞儀をした。一同もお辞儀を返し、顔を上げた時、エアリアはもう消えていた。戸口で見送ったカイルが、渋々と扉を閉めて戻って来た。

 「・・・行っちゃったね・・・。そういえば、俺たち7日もエアリアと話さないことなんて、今までなかったよね?」

 「・・・そういえば、そうね。何日か寝込んだことはあったけど、7日なんて言うのは初めてだわ。そんな時でも、誰かは話していたし。」

 「うむ・・・。これは、儂らにとっても、試練じゃのう。」

 マールとクロエは口を開かなかった。彼ら3人に比べれば、二人はいわば「新参者」だった。エアリアに同じ気持ちを抱いていたとしても、「時の重み」が違う。なんとなく、話に加わるべきではない、と感じたのだ。

 「そういえば、エナさん。サスカッチとは、どういうご関係?」

 クロエがエナに話し掛ける。こういう場面でも物怖じしないで自分の疑問を相手にぶつけられるのは、クロエの強みなのだろう。マールも、自然とそちらの会話に加わることになった。

 「ああ、彼らは・・・まあ、言ってみれば、私の子供たちです。・・・50年ほど前になりますか・・・この辺りで大きな地震があって、崩落で親が亡くなってしまったんです。その子供たちを私が引き取って、育てました。」

 「あー・・・50年前、ね・・・。なんとなく知ってたけど、やっぱりエナさんも長生き、ってことですね?」

 「ふふ・・・エナ、でいいですよ。・・・私は、そうですね・・・800何年かまでは覚えていますが・・・正確なところは、もう忘れました。」

 「は、はっぴゃく!?」

 「ええ・・・ここに住み始めてからだけでも・・・300年はとうに過ぎたと思いますよ。もっとも、もはや時間の感覚がほとんどなくて・・・。エアリアと同じく、私も食べることも寝ることも不要ですから。それに、人と暮らしていれば他の方の習慣で、嫌でも時間は感じますけど、ここでは、一人ですからね。」

 見た感じは、クロエよりも年下のようにも見えるエナが、実はエアリアの倍以上も年上だと言うのだ。長命で知られるエルフでも、800歳を超えて生きている存在がいるかどうか、疑問だと言うのに。

 「300年も、一人で、ですか・・・。その・・・寂しくはないのですか?」

 マールが正直な思いを口にした。たった七日、エアリアと話せないだけでも寂しいと感じるのに、誰とも話さずに300年、というのは、とても信じられない想いだった。

 「あなたはとてもいい人のようね。でも・・・考えてみて。あなたの親だけでなく、子供や、愛した人、周囲の人々がみんな、間違いなく自分より先に旅立つのよ? 自分だけが取り残されて、気付けば周りには、親しかった人の孫やひ孫の世代の人間ばかり。そして、そんな人たちでさえ、時が来れば、自分より先に、毎日のように死んでいくの・・・。」

 そう言うと、エナはとても悲しそうな顔をした。マールは、自分が彼女にとって一番触れて欲しくないところに触れてしまったことに気が付いて、激しく後悔した。

 エナは、何百何千という出会いと、そして別れを繰り返してきたのだ。そしてそれは、この先ずっと続く逃れられない宿命で、決して終わりがない。どんなに愛しても、親しく時を過ごしても、それはエナにとって、いずれ確実に訪れる「別れ」の予感に過ぎない。エナは常に「送る側」であり、その思い出と共に悲しみ、辛さが心に積もっていく・・・。

そんなことになるくらいなら、いっそ最初から出会わなければいい。エナはそう考えて、人との接触を断ったのだ。

 今、こうして、何百年振りに人を招き入れ、例え僅かの時とは言え、人と言葉を交わした。それはつまり、エナにとっては『新たな別れ』が数回、確実に増えた、いうことに他ならない。エナはマールに「いい人ね」と告げた。たとえ多少なりとも、「好意」を感じたのだ。

 そんな人の前で、自分たちはエアリアが報われたことを喜んだ。七日の別れが悲しいと漏らした。エナが自分の悲しみや辛さと引き換えに、そうしてくれたことにも気付かずに。あまつさえマールは、その事実をエナに直接的に思い出させたのだ・・・。

 なんという、ひどいことをしてしまったのだろう。自分はなんと愚かなのだろう。だが、それをエナに謝ってしまったら、エナはますます傷つくことになるかも知れない。

 してしまったことの大きさに気が付いて、マールは俯くしかなかった。こんな場面を乗り越えられる言葉を、マールは持っていない。その悔しさと、自分への侮蔑感で、マールは泣きそうになった。涙を見られないためにも、俯くしか、他にやりようがなかった。

 ふいに、マールは柔らかくて暖かい、花の香りに包まれた。気が付くと、エナがふんわりとマールを抱いてくれていた。

 「・・・思った通り、あなたは、とても優しい人・・・。心配することはないわ。私なら、大丈夫。どうか私のことで、傷つかないで・・・。」

 その香りを吸い込むと、不思議と気持ちが和らいだ。とても心地いい匂いだ。あれ、僕はなんで、泣いていたんだっけ・・・。

 香りの余韻をマールに残して、エナは近付いた時と同じ自然さで、マールから離れた。

 「き、急に、どうしたのよ!?」

 クロエが驚きの声を上げた。マールも何が何だかわからなくなって、驚いた顔をしてみたが、エナは静かに微笑んで、カイルたちの方へ向かっていった。

 「さて、みなさん。エアリアが儀式の間、みなさんにも一つ、私から贈り物を差し上げましょう。」

 そういうと、エナは敷物の中央に腰を下ろし、自分を取り囲んで座るよう、一同に促した。

 エナが胸の前で両手を合わせ、詠唱に入る。一音一語が、間延びしたように長いその詠唱が始まると、エナの身体が前後左右に揺れ始めた。

 いや、正確には、『エナの周囲の空間』が揺らいでいるのだ。エナは動いていないのに、揺れているように見えるのは、そのせいだ。やがて、室内が徐々に暗くなり、いつしかそれは満点の星の輝く夜空になった。全ての者が消え失せ、夜空に自分だけが浮かんでいる。

 その星々の中から、急速に自分に近付いてくる星がある。星は、徐々に明るさと大きさを増し、そして、飲み込まれた。

 目を開けると、そこは戦場だった。大軍と大軍が、今まさにぶつかり合う、そんな状態を足下に見ている。まるで、鳥になったようだ。

 『これは、約300年前、大暗黒戦争と呼ばれた、光と闇の戦いの、最期の局面です・・・』

 どこからか、声が聞こえた。聞いたことがあるようで、それが誰の声なのか思い出せない。

 足下の軍勢の一つは、中央が人間、右からエルフ、左からドワーフの軍からなっているようだった。その他にも、木人間?とでも言うのだろうか、大小さまざまな木が、動いていたり、見たこともない、大きな鼻の長い生き物や、虎や狼の姿も見える。空には、エルフの軍の上に、弓を持ったエルフをたくさん乗せた船のような物が浮かび、大鷲や、飛竜に乗った騎士の姿も見える。

 一方の軍は、ゴブリンやオーク、トロルの姿も見えた。こちらはさらに大軍で、地平の彼方まで埋め尽くしているような錯覚を覚える。後方に、体が銀色に光る巨体の生物がたくさん見える。その後ろに、さらに巨大な玉座に乗せられた『何か』が。何とかその姿を見ようとするが、飛んでいる黒いドラゴンや、翼と角の生えた銀色の生き物に妨げられ、どうしても見ることができない。

 両軍は、激しく激突した。喚声、武器のぶつかる音、悲鳴、怒号・・・。無数の矢が飛び交い、雷光や火球がところどころで飛ばされた。それが絶え間なく続けられる。戦闘は、始めは人間軍が優勢なように見えた。だが、数で勝るゴブリン軍が徐々に盛り返し、前方に飛び出していたドワーフ軍は取り囲まれ、自軍から切り離されそうになっている。

 それを見たエルフの空飛ぶ船がそこに近付き、上空から矢を放ちながら、つむじ風に運ばれたエルフ戦士が無数に降り立って、ドワーフ軍を援護した。だが、それも束の間、ゴブリン軍の奥から飛び立った赤く光る眼を持つ、銀色の悪魔の集団が、エルフの空飛ぶ船に攻撃を加え、あちこちから煙と炎が噴き出した船は、たくさんのエルフを乗せたまま、最後の力を振り絞るようにゴブリン軍の頭上に方向を変え、やがて地上に激突した。

 人間軍の劣勢がはっきりしてきた。今では完全に押しまくられ、戦線が徐々に後退している。戦場には両軍の無数の死体が転がり、地面は暗い紫に染まった。赤い血と、青や緑の血が、一つになったのだ。

 もはや、戦力差は明白になった。人間軍が1とするならば、ゴブリン軍は10だ。周囲を完全に取り囲まれ、全ての方向から攻撃が加えられている。進むことも退くこともできない、

絶対の死地だった。

 それは、東の空から現れた。金色の光で包まれた巨人と、周囲を取り囲む無数の天使の軍勢だった。巨人が上空から金色の光線を放つと、人間軍を取り囲んだゴブリン軍の中央に、くっきりと一つの道ができた。その道は、はるか奥の巨大な玉座まで続いていた。人間軍の統率者は、大きな旗を打ち振り、その道に沿って突撃を開始した。

 天使たちは、無数の死体が転がる戦場に降り立つと、体から光を噴出させる。倒れていた人々が立ち上がり、突撃の列に次々と加わった。巨人はその後方に降り立つと、両手を天に掲げる。途端に天空から数千はあるだろうと言う光の矢がゴブリン軍に降り注ぎ、その軍勢を打ち倒した。もう一度、巨人が両手を打ち振るうと、激しく光る小さな光球が現れ、それが玉座の後方に落ちた。

 何事も起こらなかったような間が、数舜あった。しかし、突然の巨大な音と共に、凄まじい衝撃波が、両軍に襲い掛かる。はるか上空まで土砂と砂煙が巻き上げられ、視界は0になった。やがて、その砂煙が晴れると、玉座の後ろには巨大な穴が開いていた。穴の中は光の粒が渦巻く空間になっていて、ゴブリン軍でも体の小さな者は、浮き上がってその穴にどんどん吸い込まれていった。大型の者は地面に爪を突き立て、必死に抗っていたが、そこに突撃してきた人間軍の攻撃を受けると、ひとたまりもなく穴に吸い込まれていく。そうしてついに、ゴブリン軍はすべて穴に吸い込まれ、残るは巨大な玉座のみとなった。ここまで来ても、玉座の上にかかる真っ黒の靄に阻まれ、その姿を見ることができない。

 その『何か』が立ち上がり、迫りくる人間軍に攻撃を加え始めた。それは、激烈な攻撃だった。腕一本を軽く振っただけなのに、ドワーフの一団が空中に消えた。指先から放たれた火線は、エルフの軍勢を消し炭に変え、腕を振って起こした竜巻は人間の軍勢を宙に巻き上げ、その中で粉々に砕いた。

 巨人の手から、青い光の粒が、一本の線のようになって『何か』の胸に放たれた。やがて天使たちもおなじ動作をして、こちらは細めではあったが、『何か』の全身を貫くように光線が放たれる。胸を掻きむしり、もがき苦しむ『何か』に向かい、生き残った人間軍の軍勢が襲い掛かり、『何か』を穴に押していく。

 『何か』も必死に抵抗するが、次々に襲い来る人間、エルフ、ドワーフ、その他の生き物や動物に取り囲まれ、どんどんと穴の縁に追い込まれていった。

 そして、とうとう、『何か』を穴に落とすことに成功した。最後の抵抗とばかりに放たれた黒い光線が、多数の人間軍を貫いたが、穴に飲み込まれ、光の渦に包まれて消えていった。それとともに、穴は、地面に開いたただの大きな穴に、その姿を変えた・・・。

 人間軍が勝鬨を上げ、巨人と天使の軍勢が空へ引き上げかけた時、急激に後ろから引っ張られたように、目の前の光景がものすごい速さで小さくなっていった。

 気が付くと、先ほどと同じように、エナの小屋でみんなと一緒に座っていた。みんなが同じように、座りながら周囲をキョロキョロと見回していた。

 「・・・いかがでしたか?」

 エナが、全員の顔を見回した。全員、驚いてはいるが、体調に変化がないのを見届けてから、にっこりと微笑んで、そう言った。

 「い・・・今のは・・・。」

 アルルが自分の身体を見回して、異常がないことを自分で確かめていた。

 「皆さんに、大暗黒戦争を見て頂きました。お話するよりも、その方が早いと考えたので。」

 「うーむ・・・いや・・・実に・・・実に恐ろしい戦いであった・・・。」

 「あれほどの戦いが・・・この地で行われたのですか?」

 ガルダンとカイルは、また違った驚きを感じたようだ。

 「はい。あれが、大暗黒戦争の真実の姿、です・・・。実は、あれを見て頂いた上で、皆さんにお話ししたいことがあります・・・。」

 その時、マールの腹が、子犬が甘える時の声のような音を立てた。その音は、静まり返った室内に、大きく響き渡った。

 「わ、わ! ごめんなさい!」

 顔がかーっと熱くなった。今頃真っ赤になっているに違いない。子供でもあるまいし、どうしてこんな時に限って腹が鳴るのか、無性に腹が立つ。

 「ふふ・・・話の前に、食事にしましょう。大したものは準備できませんが・・・。」

 「い、いえ! 大丈夫ですから、お話を・・・。」

 マールはそう言い掛け、慌てて立ち上がろうとして、眩暈で倒れそうになった。

 「私の方こそ、ごめんなさい。実は、皆さんにとっての数十分の間に、こちらでは3日が経過しているんです。お腹も空いて、当たり前なのですよ。」

 その時、ガルダンとカイルの腹が続けざまになった。なんと、クロエまで。アルルはすました顔をしているが、お腹に力を入れて音が鳴らないようにしているに違いなかった。

 「なんだよ! みんな腹ペコなんじゃないか! こんなときばっかり僕が一番だなんて! ひどいや!」

 マールの苦情が室内に響き、一同は笑いに包まれた。


第2章 第4話 「真相」


 洞窟の奥の祭壇に来て、何日が経過したのだろう? ここに着くと同時に灯した大蝋燭から見当をつけるとすると、おそらく四日目くらいになるのだろうか。

沐浴を終えて洞窟に入ると、入り口はそれほど大きくないのに、深さは相当の物だと感じた。道は、右に左に曲がりながら、どんどんと地の底に降りていく。入口に置いてあった手燭を持ってきて良かった。

 祭壇は手作りだったが、記憶にある神殿の立派な祭壇を、そのまま小さくしたような、きちんとした正式な作りになっていた。中央にエーテルの姿を写したとされる像が立てられ、その周囲を数多の天使が取り囲んでいる。

 その前に置かれた文机に向かって座り、木の板に金属の象嵌を施した、大きくて立派な聖典を開いて、繰り返し読む、ということを、すでに数十回は行ったが、まだ「祈りの言葉」は読み解けない。

 子供の頃には毎日読んでいたから、ところどころは、特に、エーテルが示した数々の奇跡を記した物語の場面は、よく覚えていた。そういえば、父や母にもよく質問された。その時のエーテルの心情、奇跡を目の当たりにした人々の思い。考えてみれば、それらは全て、この『秘儀の儀式』に通じていたのかも知れない。

 ここで静かに座っていると、今までは感じなかった大地の鳴動が、驚くほど多く感じられた。そういえば、大きすぎて見ることはできないが、この大地も生き物なんだ、と誰かから聞いたことがある。その時は皆と一緒に笑って受け流したが、こうしていると、それもあながち嘘ではないような気がしてくる。

 その時に感じた鳴動も、初めはそういったものの一つだろう、と思った。だが、今回はいつもより長く、揺れも大きい。それに、はるか足元からではなく、むしろ自分の上から揺れが感じられるようだ。

 『これが、私に与えられた試練なのだろうか?』

 この揺れで、聖典から集中を削ぐことが試練なのかも知れない。だとしたら、惑わされてはいけない。エアリアは、何度か深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻すと、再び聖典の世界へとのめり込んでいった。

       ※       ※

 小屋での食事は、大量の豆と、干し魚を焼いたもの、そして様々な果物だった。エナは食事の習慣を失って久しいので、食べ物らしいものと言えば、エーテルに供えるものしか作っていないのだと言う。

 カイルが毛長牛の荷物から黒パンとチーズを出し、ブランデーも並べて、初めて食事らしい食事になった。エナも相伴し、ブランデーはことのほか気に入ったようだった。

 一行の腹が十分に満たされると、エナが多めに茶を淹れて、一連の騒動で中断になっていた話をし始めた。

 「実は、つい最近のことなのですが、私が夕の勤めを終えて小屋に戻った時に、眠気に誘われたのです。ご存じの通り、私は睡眠を必要としませんから、本来『眠くなる』ということ自体があるわけはないのです。私は不審に感じましたが、ついその懐かしい感覚を楽しみたいと言う思いに囚われて、奥の寝具で横になってみたのです。そして・・・夢を、見ました・・・。」

 その夢は、大暗黒戦争の首謀者とも言える、『異世界の神』ラスファタールが復活する、という夢だったそうだ。ヴァルナネスの各地に、魔物の軍勢が現れ、それらの主たる存在が天空に祈りを捧げると、夜空が裂けて、ラスファタールの繭が地上に現れた、というのだ。

 「私は恐ろしくなって目が覚めました。そして、その可能性の一つについて調べてみたのです。・・・今年の星の運行は特殊で、『凶星』『狂星』『恐星』『脅星』の、不吉四星が、天空に正確な四角形を描く星回りなのです・・・。ラスファタールは、その四星と地上の四星が重なるとき、その中央から地上に舞い降りる、とされています・・・。」

 「・・・何かの、予知夢的な夢、ということ?」

 「・・・ええ。そしてそんな時に、あなた方が現れた。神を身に宿す能力を持った人間を伴って・・・。」

 神妙な面持ちでエナの話を聞いていたアルルが、口を開いた。

 「・・・ここに来る途中での出来事なのですが、カリランドでグールの群れが現れ、ハイペルから軍が出たようです。私たちは他の依頼を受けていたので参加はしませんでしたが、ノスハイからは各教会が冒険者を集めて、大規模な討伐隊を派遣しようとしているのを目撃しました・・・。さらに、その北のオルスクではリザードマンの襲撃に遭遇しました。組織だったものではなかったので、偶然と片付けていましたが・・・。」

 「偶然で片付けるには、話が出来過ぎている・・・わね・・・。」

 クロエが、アルルの語を継ぐ形で、そう呟いた。

 「そうですか・・・そんなことが・・・。クロエの言う通り、偶然では片付けられない事態になってきたようです。カリランドの外れに、地上の『脅星』である、ヴァンパイアの王が眠っています。グールの出現は、その王の復活を意味する可能性があります。リザードマンは、ここトルナヤの『傷跡』の奥に眠る『狂星』、黒竜ニズヘイグの眷属です。」

 「そ、それは、本当の話ですか!」

 「はい。少なくても、黒竜ニズヘイグは、この山の・・・トルナヤの地下に封じられています。なにせ、封じた本人が言うのですから、間違いありません。」

 「黒竜を・・・、封じた?」

 「そうです。今から400年ほど前の話になりますが、大暗黒戦争の前に、地上に『異世界の神』を降臨させる企みがあったのです。その時に地上に現れたのが『狂星』北の黒竜ニズヘイグ、『脅星』西の伯爵、ヴァンパイアの王ヴァイロン。そして『凶星』東の魔女、シェルファ、『恐星』南の教皇、アズアゼル・・・。」

 「・・・すごいわね・・・みんな伝説の存在じゃない・・・。もちろん、良くない方のだけど・・・。」

 「今を生きる人たちにとっては、その程度でしょう。ですが、当時を生きた人々には、まさに災厄でした。エアリアのいたエーテルを襲ったのは、その時のアズアゼルの軍団でしょう。彼らにとって恐れるべきは、人間でも、エルフでもドワーフでもなく、天上の存在を身に宿すことのできる、私たちエーテルの民だったのです。」

 「・・・。」

 みな、言葉を失った。

 そうだったのか。エアリアの、そしてエナの一族を根絶やしにした存在が、これではっきりした。『南の教皇・アズアゼル』その名前は、一行の胸に、深く刻まれた。

 「私は当時、すでに不死の呪いを受けていて、その呪いを解くための方法を、このヴァルナネスで探していました・・・。ちょうど、今のエアリアのように。そして、その当時、ヴァルナネスで一番栄えていた都、ノストールにいたのです。地上に出てきたニズヘイグは、ノストールの街をその火で焼き払い、ドラゴネートやリザードマンといった自身の眷属に襲撃させたのです・・・。その様子は、まさに地獄でした・・・。」

 エナは遠い目をして語り続けたが、最後の方は思い出した光景に耐えられないというように、俯いた。数舜後、ゆっくりと顔を上げたエナは、決意に満ちた表情で、再び語り始めた。

 「当時のノストールには、聖四柱の騎士団が存在しておりましたが、東、西、そして南の動乱の鎮圧のために、そのほとんどが出払っていたのです。まさか、北からも脅威が迫っているとは、その時は考えられておりませんでした。残された戦力は騎士5名、兵士30名、それに魔術使いが数名・・・。対するニズヘイグの軍団はその10倍はいたでしょう。それはもはや、『戦闘』ではなく、『虐殺』でした。果ては、冒険者から武器の扱いを即興で仕込まれた民間人までが、その戦闘に参加せざるを得なかったのです。私は、そうして稼いでもらった時を利用して、この身に神を宿し、ノストールの街もろとも、ニズヘイグを駆逐しました。そして、トルナヤの地下、その奥深くに、ニズヘイグを封じたのです・・・。」

 「ちょ、ちょっと待って。そうだとすると、そもそも、大暗黒戦争はどうして起きたの?だって、ニズヘイグは封じたわけでしょ?」

 クロエが疑問を口にした。確かに、ニズヘイグが封じられたのが約400年前で、大暗黒戦争が約300年前。ニズヘイグを欠いたまま、『異世界の神』を降臨させたことになる。

 「・・・ニズヘイグを失い、彼らは企てを断念するものと思いました。幸いにしてヴァイロンもシェルファも、多大な犠牲を払いながらも倒すことに成功しましたから。ですが、アズアゼルは違いました。身を隠し、次なる策を着々と準備していたのです。それが、『異世界の神』を降臨させる、もう一つの方法、『千人の堕落した聖職者を生贄に捧げる』というものです。アズアゼルは、100年の時を味方につけ、少しずつ、神に仕える聖職者を堕落させ、生贄に捧げ続けたのです。そして、それが成就したのが300年前。それが大暗黒戦争の始まりでした。」

 「え・・・じゃ、じゃあ、あの戦争は・・・。」

 「はい。アズアゼルの策に乗せられた、とは言え、それは人の手によって為されました。今も各地で暗躍を続ける邪教衆は、その名残と言えるでしょう。教会はこの件を、秘中の秘とし、表にはしていません。それが元で人々の信仰が揺らぐのを恐れたのです。」

 「で、でも! それじゃ、また同じことが起こる可能性もあるじゃない!」

 「・・・クロエの懸念の通りです。私は、そのことで強く教会を諫めました。ことの事実を公表し、人々に警戒を呼び掛けるべきだ、と・・・。そのために、私は各教会の求めに応じ、大暗黒戦争の英雄として各教会の布教活動にすら携わったのです。エーテルの神官たる私が、他の神の教義のために・・・。そうまでしてでも、私は民に事実を告げるべきだと考えました。ですが、いつまで経っても、事実が明かされることはなく、もう教会を頼れないと考えた私が、一人で事実を告げて回る旅に出ると、教会は私を『異端者』として扱い、幽閉しようとまでしました・・・。教会のやり方は、徹底的でした。私が捕らえられないと見ると、私の言葉を信じて活動してくれた人々を捕らえ、残酷な方法で処刑しました。見せしめのために、神の名の下に! ・・・そして、私は全てを諦めました・・・。人との関りを避け、せめてニズヘイグだけは、私の力で抑え込もうと、ここに居を構え、今に至るのです・・・。」

 「そ・・・そんな・・・ひどい・・・。」

 「ですが、真実の話です。神の言葉も、人の口を介して話されれば、そんなものだと言うことです・・・。悲しむべきことではありますが、そうした神官たちでも『言葉』を扱えるのですから、神もそれを赦している、ということなのでしょうね・・・。そして・・・懸念は今まさに、現実のものとなりつつある・・・。」

 驚くべき話だった。ヴァルナネスの、そしてハイペルの今を、根本から覆してしまいかねない事実だ。まさか国の統治に深く関りのある教会が、裏で『大暗黒戦争』の事実を隠蔽し、『なかったこと』にしようと画策していたとは。そしてエナは、そんな教会や人間に絶望し、それでも、二度とあの悲劇を起こさせないために、ここで一人300年という長い時間を費やしてきたのだ。自分を絶望に追い込んだ、人間のために。

 「・・・アズアゼルは、その後、どうなったの?」

 口を開いたのはアルルだった。マールも同じことを聞こうとして、聞けずにいたことだ。うなずいているところを見ると、ガルダンやカイルも同じ気持ちだったようだ。

 「アズアゼルは、大暗黒戦争の決戦の時、ラスファタールともども異世界に葬り去りました・・・。皆さんに見ていただいたのは、私の『記憶』です。最後に現れた巨人、あれこそが、私が神を宿した姿です。」

 マールはその事実に驚いたが、アルルやクロエ、ガルダンは驚かなかった。半ば予想はしていたのだろう。カイルも驚いた顔をしているのを見て、マールは少しホッとした。 

 「じゃあ、今のところは、四星のうち、西のヴァイロンだけが復活している可能性がある、ということね?」

 クロエが腕組みをしてエナに尋ねる。

 「確実とは言えませんが・・・。グールの発生、というのは、軍や教会への陽動の可能性があると考えています。意識をそこに集中させ、その隙に他の四星を蘇らせる・・・。現に、軍も教会も動いている訳ですよね? そこで、皆さんにお願いがあるのです。私と共に、ニズヘイグを封じた地の底へ赴いていただけませんか? 状態を確認したいのです。オルスクでの、リザードマンの襲撃が偶然かどうかはともかく、トルナヤの地下空洞はオルスクどころか、ハイペルやコルダーの方まで続いているのがわかっています。あまりに広大で、支道が幾千とあり、そのすべては明らかになってはいません。ヴァルナネス全体が、地下空洞で繋がっている可能性すらある、と言っていた学者もおりました・・・。」

 エナが、懇願するように一同を見回した。クロエが振り向き、アルルとガルダンを見る。その顔は「行きたい」と言っているように見えた。

 「ふむ・・・。儂は、十分に考えられる話だと思う。エナ殿の話は、現状と辻褄が見事に合っておる。考察も、然り。」

 「・・・私も、そう思う。今すぐにでも、確認に行くべきだと・・・。でも・・・。」

 「エアリアね・・・。ここに一人で、大丈夫かしら? かと言って、人数を分ける余裕はないわよ。相手がドラゴンじゃ、全員で当たってもかなり危険・・・というより、無謀ね。」

 「ここには、サスカッチ達を残します。あの子たちで何とかならないような問題なら、それは我々がいても同じことでしょう。それと、ニズヘイグをこの人数で倒そうとは考えていません。状況を確認して、まずはできることをするつもりです。外に出てくれば、私がなんとでもしてみせます。」

 エナには強い決意があるようだった。たとえ一人ででも、ニズヘイグの元へ向かうつもりだろう。それから、アルルやクロエが中心となり、エナから確認できるだけの事実を確認し、全員でニズヘイグの眠る地の底へ向かうこととなった。マールが意外だったのは、いつもならすぐに賛意を示すカイルが、最後まで渋ったことだった。カイルはそれほどまでに、エアリアが心配なのだろうか。

 「では、本日は準備と計画の詳細を確認して、明日の朝、出発としましょう。目的地までは、半日ほどで辿り着けます。確認してすぐに戻れば、エアリアの秘儀が終わる前に、ここに戻って来られます。」

 エナは簡単そうに言うが、マールにとっては初めてのことだらけで、全てが命懸けだった。闇の支配する地下空間に、丸一日にいることになる。しかも、終点にはドラゴンが眠っていて、その途中にリザードマンが出るかも知れない。マールは思わずブルッと身震いした。今度こそ、ここで待っていた方がいいのではないだろうか?

第2章 第5話 「大地鳴動」


 翌朝、と言っても、まだ陽は完全には昇っておらず、辺りには昨夜の闇が残る時間に、それは起きた。黎明の冷めた大気を揺るがす咆哮が、山々に響き渡る。

 「皆さん! 起きて下さい! あれは『カイナ』の声です!」

 室内に、エナの叫び声が響いた。全員が起き上がり、エナに続いて小屋から飛び出した。

すでに戸外に居た二頭のサスカッチが、山の中腹辺りを見つめ、低い唸りを発している。

 「『ジョウ』『ニノ』どうしたのですか?」

 エナが辺りを覆う冷気に、衣服を掻き合わせるようにして、二頭が見つめる方向を見ると、まだ影の中にある山肌に、松明の赤い灯が列をなして山を下って来るのが見えた。その下、ちょうどエアリアが籠っている、祭壇のある洞窟の入り口付近には、もう一頭のサスカッチが、同じように松明の列を見つめている。

 「リザードマンじゃ! ドラゴネートもおるぞ!」

 夜目の利くガルダンが叫ぶ。ガルダンはカイルに声を掛け、アルルに目配せして室内に戻ると、鎧を着る準備を始めた。鎧の着用には時間が掛かるため、その時間を稼ぐ必要がある。アルルは無言でうなずくと、一旦室内に戻り、自分のブーツと弓、そして外套を素早く身に着けながら、クロエとマールに指示を出した。

 「ガルダンとカイルの準備が整うまで、時間を稼ぐわ! マール、『飛翔閃光弾』を!それからクロエ、ここでエナとマールをお願い!」

 マールから飛翔閃光弾を受け取ると、エアリアは風に乗って、まさに空中を走るようにして、祭壇の洞窟へと向かう。

 「ジョウ、ニノ! カイナと共に祭壇を守りなさい! 一匹たりとも中に入らせてはなりません!」

 二頭のサスカッチも、エナの指示を受け、転がるように斜面を登って行った。その時、アルルの放った飛翔閃光弾が、周囲を明るく照らし出した。見えたのは、重装備のリザードマンと、その隊列のところどころに混じっている、ひと際大きな生き物だった。リザードマンよりも二回りは大きいその生き物は、長い首を持ち、まるで二足歩行をするドラゴンに見えた。武器も持たず、鎧も来ていないが、全身が鱗で覆われ、遠目にも力強さのわかる堂々たる体躯を持っていた。

 突然空を覆ったまばゆい光に、隊列は足を止め、しばしその光を見つめているようだった。その列は、『傷跡』まで続いており、そこから続々と新たなリザードマンやドラゴネートが姿を現していた。現在山肌に見える数だけで、30体以上はいるだろう。『傷跡』近辺にも同じくらいのリザードマンがいる。

 そのうち、一体のドラゴネートがアルルの存在に気付いた。金属同士が擦れ合うような声で、周囲のリザードマンに指示を出したようだ。付近にいた5、6匹が、アルルの方に向かっていく。

 「いけない! アルルが孤立してる! 二人はまだなの?」

 クロエがマールを見た。マールはどうしたら良いかわからず、室内に目を向けた。二人とも、まだ鎧を着込み終わっていない。マールは室内に駆け戻り、二人の鎧の装着を手伝った。鎧は通常、分厚い革でできた「鎧下」と呼ばれる服を着てから着用する。鎧は斬撃や刺突は防げても、衝撃は防ぐことができないのだ。

例えば、リザードマンの蹴りを喰らえば、その巨大な爪で皮膚を破られることはなくても、衝撃で骨を折られたり、筋肉に重大な損傷を引き起こす可能性がある。それを防ぐ役目を負っているのが鎧下で、内側が柔らかい革、外には硬い革を縫い合わせた二重構造になっており、その中に綿や樹脂を詰めて、衝撃を和らげる働きをさせるものだ。伸縮性は全くなく、完全なオーダーメイドで、それだけでも着にくいというのに、分厚くて動きが制限されるのだから、すんなり進むはずがない。

「ふ、二人とも! 急いでよ! アルルが危ない!」

「わかっとるわい! マール、手を貸せ!」

 言われるまま、マールは特に遅れているガルダンの着込みを手伝った。鎧下を引っ張り、革当てが正常な位置に来るように調整し、留め具を止め、紐を結ぶ。ようやくガルダンの鎧下が着終わった頃、カイルは盾と槍を手に、戸外へ出るところだった。

「ガルダン! 先に出るよ!」

「おう! 儂もすぐ追う! よいか、ドラゴネートに気を付けろ! あやつはブレスを使うぞ!」

「わかった!」

 カイルが出ていくと、マールが鎧の留め具を調整している間に、ガルダンがブーツを履いた。このブーツにもある程度の防御性能を持たせているため、非常に履きづらいのだ。

「ええい! この役立たずブーツめが! 言うことを聞かんか!」

「ガルダン、落ち着いて! 左右が逆だよ!」

 慌てて左右を変えると、今度はすんなりと履けた。憮然とするガルダンに構わず、マールは鎧の胸当て部分をガルダンに被せた。左右の留め具を止めている間に、ガルダンが皮手袋を着ける。それが終わると肩当と肘当だ。最後に兜を被せ、顎ひもを締めれば、鎧の装着は完了する。ガルダンは腰の左右に手斧を二本ずつ差し、両手で大型の戦斧を持った。

「ガルダン! 気付けだよ!」

そう言って、マールはガルダンの口にブランデーを瓶ごと当てがった。たっぷり三回、ガルダンの喉が上下したのを確認して、瓶を放す。

 「ぷはぁ! マールも分かってきたようだのう!」

カイルから遅れること数分、一行のうちで一番頼りになる男が、豪快な笑いと共に小屋の外へ飛び出した。マールも自分の盾とバッグを持って、それに続いた。

 アルルはシルフに乗って、地面から浮いた状態でリザードマンを迎え撃った。既に狙いすました矢で、3体のリザードマンを倒していた。4本目の矢は、相手の盾に防がれてしまった。これ以上近付かれては分が悪いと判断したアルルは、そのまま後退しながら斜面を下り、祭壇の入り口に近付いて行った。

 サスカッチのジョウとニノは、祭壇の入り口にいたカイナにエナの指示を伝えた。カイナは、一番体の小さいニノを入り口に残して、ジョウと二頭で隊列の先頭を進むリザードマンに突進していった。途中からジョウが斜面を斜めに駆け上がり、列の中段を襲う素振りを見せると、果たしてリザードマンたちは、どちらを警戒した方が良いのか、迷いを見せた。そして、その迷いが致命的な対応の遅れに繋がった。

 カイナは先頭のリザードマンに体ごとぶつかって行き、その後ろを進んでいた2匹を巻き込んで倒すと、起き上がりざまに4匹目のリザードマンの脳天に、両手を結んだ打撃を叩き込んだ。両目が飛び出るほどの衝撃を受けたリザードマンは即座に絶命し、カイナはそのリザードマンの尾を掴むと、振り回して次々とリザードマンを斜面から突き落とし始めた。

 ジョウは、手近な岩を掴むと、さらに上方を進んでいたリザードマンに、次々と投げつける。その太くて長い腕から繰り出される岩の威力は凄まじく、一撃でリザードマンの膝を折り、頭を潰していった。残されたニノが入口前で両手を叩いて飛び上がり、兄二人の活躍を喜んでいるようだった。

 クロエは、カイルが装備を整えて現れると、簡単に戦況を説明した。その時、アルルが二発目の飛翔閃光弾を空に放った。それはより『傷跡』を照らし出すように打ち出され、その付近にいたリザードマンたちに軽い恐慌を起こさせる。

 「とにかく、あの出口を塞がないことにはどうしようもない! いい? これからあなたと二人であの山の割れ目に『転移』するわ! 私が魔術で何とかしてみるから、あなたはその間の私を守って。」

 「お二人に『守護』を与えます! 少しは足しになるでしょう! すでに出てきたリザードマンはカイナとジョウで対処します! 祭壇の入り口はアルルとニノで!」

 そう言うと、エナは印を結び、短い詠唱に入った。光のベールが二人を包み込み、やがて消えた。

 「じゃあ、行くわよ!」

 今度はクロエの番だった。カイルの方に左手を置き、短い呪文を唱えながら、胸の前で右手を横に振ると、そこに光でできた巻物が現れた。クロエの手振りに寄って巻物はひとりでに開かれ、書いてある文字が宙に浮かんでは、消えていく。全ての文字が空中に消えた時、クロエとカイルの姿はかき消すように無くなり、『傷跡』の前に現れた。

 そこに、ガルダンとマールが小屋から出て来て、エナに並んだ。

 「なんじゃ! ほとんど片付いておるではないか!」

 カイナとジョウの活躍は素晴らしかった。リザードマンが山地への適応に手間取っている間に、地の利を生かした連携を見せ、ドラゴネートのブレスも岩陰に身を隠して躱し、リザードマンの身体を投げつけて目標を逸らせた。攻撃の的を一つに絞らせない戦い方で、山肌を下っていた列をほぼ二頭で壊滅に追い込んでいた。

 ガルダンは出遅れたことを悔しがっていたが、マールはホッとした気持ちの方が強かった。自分の攻撃手段と言えば、カバンに入っている4発の炸裂炎上弾が全てと言える。いかにも心もとない。こんなことなら、もう少し作っておけば良かった。

 『転移』の魔術で傷跡の真正面に現れたクロエとカイルは、十分の距離を取ってはいたが、数の上では絶対的に不利な状況だった。カイルが相手の出方を窺い、槍を構える後ろで、クロエは両手を縦横に振り、光の巻物を次々と自分の周りに浮かばせた。その全てから、文字が空中に浮かび、文字列を作っては消えていく。その光は、マールの位置からでもはっきりと見て取れた。今やクロエの周囲は、前後左右、全ての方向に様々な光の巻物が現れ、クロエの姿を覆い隠す勢いだ。

 「・・・あれは・・・クロエはかなりの術者なのですね? 同時に複数の魔術を使うつもりのようです!」

 「第四階層までを終えて、秋には第五階層の考査を受けると言っていました!」

 「それはすごい! あの若さでその域に達するには、余程の天賦の才があるのですね。」

  エナは、魅入られたようにクロエの姿を見ていた。マールも同じだった。今やクロエの姿は様々な色の光が輝く、柱のようになっていた。

  その時は、ふいに訪れた。クロエの周囲から一切の光が瞬時に消え、東から差し込んできた朝日を受けて、風にたなびいたクロエの赤い髪がキラキラと光るのが見えた。クロエが高々と挙げていた手を、勢いよく振り下ろした。

 突如、カイルの前に現れた五つの火球が、横に広がりながら『傷跡』へと向かった。それとほぼ同時に、『傷跡』の前にいたリザードマンの集団に、カーテンのように広がった雷光が襲い掛かった。それはまるで、雷でできた紫色の蜘蛛の巣のようだった。その蜘蛛の巣のところどころに、リザードマンやドラゴネートが搦め捕られ、体から炎や煙を上げている。激しい雷に、生きながら体を焼かれているのだ。

 そこに、5つの火球が襲い掛かる。火球はリザードマンを通り越し、その後ろ、『傷跡』の上部にぶつかった。火球は爆音とともに炸裂し、『傷跡』の天井部分を崩落させ、中から外に出ようとしていたリザードマンたちを生き埋めにした。濛々とした土煙が晴れると、『傷跡』はほとんどが崩れた岩と土砂で塞がれていた。 

 「す・・・すごい・・・あれが、魔術の力・・・。」

 「いえ・・・私の知る『火球』と『迅雷』の魔術の比ではありません・・・。あれでは体が・・・。」

 エナがそう言い掛けた時、クロエの身体がぐらりと揺れ、横ざまに倒れた。魔術の衝撃に驚いていたカイルが、我に返ったようにクロエに向かう。

 「やはり!」

 エナの行動は迅速だった。口笛を吹いてニノを呼ぶと、自分も斜面を駆け登り始めた。ニノは、祭壇の入り口からエナの元に駆け付けると、その体を背に乗せ、手を前足のようにした四足走行でクロエの元へ向かった。それは、凄まじい速度だった。

 クロエは、気を失っていた。一時に魔力を使い過ぎたのだ。

 「クロエ! クロエ、しっかり!」

 カイルがクロエを抱き起し、必死に呼び掛けるが、目を覚ます様子がない。そこにニノに乗せられたエナが到着する。エナはクロエの額に右手を当てると、言葉の詠唱を始めた。

 荒い息を吐きながら、カイナとジョウも現れる。山肌のリザードマンは、ドラゴネートも併せて、この二頭に駆逐されていた。どちらも、返り血で体のところどころが青緑に染まっていた。ニノが近寄ってその臭いを嗅ぎ、顔を顰めた。

 「クロエは・・・大丈夫かな・・・?」

 「わからん・・・だが、エナ殿がおれば、大丈夫であろう・・・。かなり慌てた様子ではあったが・・・。」

 マールとガルダンは、小屋の近くからエナたちの様子を見上げていた。気付くと周囲は明るくなってきており、アルルも弓を持ちながら、不安げに『傷跡』のあった場所を見つめていた。

 エナが詠唱を続けていると、クロエの瞼がぴくぴくと動き、やがてクロエは意識を取り戻した。心配そうにのぞき込むエナとカイルの顔に気付くと、力のない笑顔を浮かべる。

 「アハハ・・・さすがに、少しきつかったみたい・・・。」

 「当たり前です。『火球』を5つも飛ばした上に、同時にあれほど広範囲に『迅雷』を展開するなど・・・。普通なら、10人掛かりの魔術でしょう・・・。」

 「でも・・・どうやら気絶した甲斐はあったみたいね・・・?」

 「ああ! 30匹くらい、一気に全滅だよ! いや、出てこようとしてたのも併せたら50匹はいたかも! 『傷跡』も塞がったし、もう大丈夫! すごいよ、クロエ!」

 カイルは明らかに興奮しているようだった。今までに何度か魔術は見ているが、これほど大規模なものは見たことがない。実際のところ、ほとんどの人間が見る機会などないであろうほど、大規模なものだったのだから、当たり前のことではあるのだが。

 「とりあえずは、これで良いでしょう・・・しばらくは小屋で寝ていて下さい。・・・ニノ、この方を小屋まで運んでちょうだい、あなたたちも、よくやったわ。」

 エナがカイナやジョウの働きを労う。カイナもジョウも、先ほどまでの荒々しい側面は姿を消し、まるで幼子のようにエナに甘えかかる。

 最初は、爆発音の余波が耳の奥に残っているのかと思った。しかし、それは徐々に大きさを増し、微細な振動を伴う地響きとなり、やがて山を揺るがす振動となった。

 「地震です! 大きい!」

 エナがそう叫んだ時だった。

 どんっ!

 という音と共に、文字通り山自体が下から大きく突き上げられた。その威力は凄まじく、カイナやジョウですら、まともに立っていることが出来ずに両手を着いた。

 マールとガルダンは、地面に転がるように投げ出された。クロエとエナはニノとカイナが支えたが、カイルは槍を地面に突き立て、片膝を着いた。やがて揺れが収まり、ゆっくりと全員が立ち上がった時、アルルの姿が消えており、アルルが立っていた地点には、大きな地割れが出来ていた。

 それは、祭壇の入り口から、わずか数十mの位置だった。


第2章 第6話 「闇穴の死闘」


 エアリアは今度こそ、これこそが『試練』と確信した。絶え間なく続いていた長い揺れが激しさを増し、聖典を読み取ることさえ難しくなってきた。

 そして、極めつけは下からの激しい突き上げ。

 その影響は大きく、天井の岩盤からの落石と、自分が座っていた桟敷の段が崩れ落ち、その拍子に聖典を綴じていた革紐が切れ、中身がバラバラに散逸してしまった。だが、自身にはどこも怪我はなく、祭壇も以前と同じように、その形と威厳を保っている。もちろん、大蝋燭の火も、変わらず灯り続けていた。

 『聖典を修復して、儀式を続けなければ・・・』

 エアリアはそう考えたものの、それが容易でないことも同時に分かっていた。聖典のその内容の膨大さもさることながら、それを桟敷の残骸や岩石の破片の中から見つけ出し、拾い集め、正確な順序で綴じ直さなければならない。それでなくても古い書物だと言うのに、今の衝撃で破れ、傷んだ物もあるだろう。それは実質、不可能とさえ思えた。

 エアリアは一瞬、挫けそうになったが、このために旅を共にしてくれた仲間を想い、エーテルの悲劇を想い、エナの気持ちを想って、決意を新たに、ゆっくりと顔を上げた。

 アルルは、頬に水が当たる感触で意識を取り戻した。見上げると、守護精霊の水鳥リザが気遣わし気にこちらを見下ろしていた。

そのさらに上には、自分が落ちてきたのであろう大地の裂け目が見える。それは、かなりの高さだった。

自分の身体を確かめた。ガンガンと痛む頭に手を当てると、その手に血が付いてきた。こめかみの上がざっくりと切れていて、そこから出血しているようだ。だが、他に痛む箇所はない。手も、足も、円滑に動かせた。

「リザ、ありがとう・・・。」

 恐らく、落下の瞬間にリザがアルルを包み込み、落下の衝撃を最小限に食い止めてくれたのだ。守護精霊のリザとは、生まれた時からの関係だった。エルフは、自分の守護精霊と共に誕生してくる。アルルの守護精霊は、水の属性を持ち、水鳥の形を成していた。アルルの両親はその精霊にリザと名付け、以降、いかなる時も一緒に過ごしてきた。

 身体を起こそうとして、激しい眩暈と吐き気に襲われたアルルは、横向きに倒れ、込みあがって来た苦い液体を口から吐き出した。思ったよりも頭を強く打ったらしかった。こういう時は、横になって時が過ぎるのを待つしかない。荒くなった呼吸を落ち着かせ、寝転んで目を閉じた。五感を研ぎ澄まし、周囲に働く精霊力と、その源たる精霊に語り掛ける。

 やがて、周囲の精霊に寄って周辺の状況が明らかになってくる。ここは、かなりの大きさのある地下空洞の一つのようだった。先ほどの地震で、天井の岩盤の一部が崩れたらしかった。四方は壁になっていて、他の空間と繋がっている気配はない。裂け目からは、30m程の高さを落下してきたようだ。リザがいなかったら、間違いなく命は失われていただろう。

 自分の右側の、一段低くなった辺りに、地下水の溜まってできた池があることが分かる。お世辞にもきれいな水とは言い難かったが、それなりの量の水が湛えられている。

 チャプン・・・

 アルルの耳が、水の音を捕らえてぴくんと動いた。

 ザザー・・・ジャポン・・・ピチャピチャ・・・

 続けざまに、たくさんの音が聞こえる。そこに、もはや聞き慣れた、金属を擦るような声が混ざった。

 リザードマンだ!

 クロエに出口を封鎖されて、他の出口を探していたに違いない。出てきた数からすれば、これは斥候に違いない。非常にまずい事態になってきた。自分が見つかったら、まず無事ではすまない。幸い、こちらは一段高い岩棚のような場所になっているため、池からでは見えないだろうが、あちこち歩き回られたら最期だ。

 アルルは体をずらして、池からは完全に体が隠れるようにすると、あらためて自分が落ちてきた裂け目を見上げた。高さはあるが、壁伝いに登っていくことは不可能ではないように思う。リザードマンなら、なおのことだろう。裂け目から出たら、エアリアの籠る祭壇の入り口がすぐそばにある。たとえ一体でもそこに向かったら、エアリアの儀式は終わってしまう。

 だが、今の時点でアルルにできることは何もなかった。頭痛と眩暈はまだ続いていて、意識の集中がままならない。大声を上げたところで、仲間には届かないだろう。飛翔閃光弾を飛ばすことも考えたが、無情にも落下の衝撃で弓が真ん中から折れていた。

 もはや、ガルダンとマールに託すしかない。あの二人は小屋から『傷跡』の方向を見つめていた。地震の後、自分がいなくなっていることに気付けば、何かの手は打ってくれるだろう。

 『ガルダン! マール! お願い、気が付いて!』

 アルルは再び目を閉じ、必死に祈った。

 

 「アルルが消えた!」

マールは叫びながら、ガルダンを見た。ガルダンも辺りを見回すが、アルルの姿は見当たらない。

 「マール! 行くぞ!」

 ガルダンはそう叫ぶと、一目散に祭壇の入り口を目指した。マールも後に続く。

 『傷跡』の前にいた3人も、アルルの異変に気が付いた。アルルのいたはずの辺りに、大きな地割れができているのが見えた。既にガルダンとマールが山肌を駆け登っている。

 エナはサスカッチを呼び、それぞれが3人を運んで祭壇の入り口に向かうように指示した。カイナがエナを運び、ジョウがカイルを、ニノがクロエを軽々と抱え、斜面を下り降りる。

 3人が降りて来るのと、ガルダンとマールが到着するのと、ほぼ同時だった。近くで見ると、それは地割れと言うより、地面にぽっかりと開いた穴のようだった。大きさはたっぷり10mはあるだろう。穴の一端が壁の一部となっていて、急ではあったが降りることはできそうだ。

 「むう・・・こりゃ、かなり深いぞい・・・。」

 暗闇でも目の見えるガルダンでも穴の底までは見通すことができない。舞い上がった土煙と、穴の開いた角度が視界を阻むのだ。

 「そんなこと言ってる場合じゃないよ! アルルがこの下にいることは間違いないんだ! 助けに行かないと!」

 カイルが両手を広げてガルダンに訴えた。エアリアもアルルもいない今、ガルダンが行動を決定づけることになる。

 「エナ殿、そのサスカッチ達に、儂らを運んでもらうように頼んでもらえないだろうか?」

 クロエを横たわらせたエナが振り向いた。クロエは、また気を失ってしまったようだ。エナがうなずいて、カイナに何事かを囁いた。カイナが足を踏みかえ、鼻息を荒くしてガルダンに近寄ると、「乗れ」とでも言うように肩を下げた。

 「すまぬ、カイナ殿。肩を借りるぞ。」

 同じように、ジョウがカイルの元に、ニノはマールの元に近付いて、カイナと同じように肩を下げた。3人がそれぞれサスカッチの背中に乗った時、穴の底から、あの金属を擦るような声が聞こえてきた。

 「リザードマンがおるぞ! 皆、心して掛かれよ!」

 ガルダンが後ろを振り向くことなく、全員に伝えた。左手でカイナの首筋辺りの毛を掴み、右手に手斧を持っていた。同じように、カイルは槍を抱えている。

 マールはニノの広い背中に、両手で必死にしがみついていた。寒さに耐えるための毛は、思ったよりも脂ぎっていて、しっかりと握ることができない。いつまでもモゾモゾと動いているマールに業を煮やしたのか、ニノが煩わしそうに一声吠え、左手でマールの尻を下から支えた。これで、ようやくマールの姿勢が安定した。

 「よし! 行くぞ!」

 言うなり、ガルダンはカイナの背中で長々と鬨の声を上げ、瞬く間に暗闇の中に消えていく。カイルを乗せたジョウが続き、ニノも続いた。

 マールは、自分が「落ちている」と錯覚した。それほどニノは速かった。暗すぎて周囲の景色が見えないのも、その錯覚を後押ししているようだ。ふいに、後ろから光の球が追い抜いていき、穴の中を明るく照らし出した。エナが何らかの『言葉』を唱えたらしい。それで、穴の中がはっきりと見えた。リザードマンの群れが、壁を登ってきている。穴の底にある水たまりから、次々とリザードマンが姿を現していた。

 「いた! アルルだ!」

 マールは一番後ろから声を掛けたが、前を進む二人に声は届かないようだった。二人も、既にリザードマンの群れに気が付いたのだろう。こいつらを外に出したら、エナとクロエが危ない。

 マールはニノの首の辺りを叩き、それからアルルを指差した。リザードマンが取り付いている壁の反対側、少し奥まった岩棚のようになっている場所に、アルルが横たわっている。ニノもアルルに気付き、進路を変え、思い切りジャンプした。

 「うぅぅぅわぁぁぁぁあああ!」

 マールの悲鳴がこだまする。今度こそ本当に、マールは「落ちて」いた。アルルのいる岩棚が、みるみる迫って来る。マールが恐怖のあまり固く目を閉じる。こうなったらもうニノに任せるしかない。襲ってくる痛みに備えて、マールは一層、身を固くした。

  どうなったのかはわからなかったが、気付くとマールはアルルのいる岩棚にいた。ニノがマールを掴み、無造作に地面に放り投げた。

 「アルル! 大丈夫!?」

 「だ・・・大丈夫・・・じゃ、ないわね・・・。頭をひどく打ったみたいなの・・・。それより、リザードマン・・・。」

 「大丈夫。ガルダンとカイルが向かってる。・・・起き上がれる?」

 アルルは上半身を起こそうとして、マールに倒れ掛かってしまった。その勢いで、マールは危うく岩棚から落下するところだった。

 「わわ! まだ、無理みたいだね・・・。」

 マールは再びアルルを横にして、壁の向こう側を見た。ジョウが壁に張り付いて、壁に取り付いたリザードマンを引き剥がしては落とす、ということを繰り返し、カイルのはその背中から槍でリザードマンを突き刺していた。カイナとガルダンは水辺まで降りていて、それぞれリザードマンと戦っている。

 「ねぇ、ニノ! この人を抱き上げて、穴の外に出ることはできる?」

 マールはニノに話してみたが、ニノは不思議そうに首を傾げるのみだった。今度は身振り手振りを交えて、同じことを繰り返す。アルルを指差し、両手で抱き上げるような仕草をして、上部に開いた穴を指差す。

 「アルルを・・・抱き上げて・・・あそこまで・・・行く。」

 同じことを数度繰り返す。ニノがマールを見て、アルルを見て、穴を見る。ようやく、こちらの意図が届いたようだ。ニノが嬉しそうに何度もうなずいた。

 「よし! じゃあ、お願い!」

 ニノは、ゆっくりと、慎重にアルルを両手で抱き上げると、優しく向きを変えさせ、母親が赤子を抱くようにして、左手のみでアルルを支えた。それから何度か周囲の壁を、まるで穴までの経路を確認するように見渡して、慎重に足を踏み出した。岩の突起に捕まり、時折短くジャンプをしながら、ジョウが張り付いている壁のかなり上にたどり着くと、そのまま穴の外へ向かう。これで、あとはエナが何とかしてくれるはずだ。

 向こう側の激戦は、まだ続いていた。地面には夥しい数のリザードマンが倒れていたが、次から次へと現れるリザードマンに、全員が手を焼いているようだった。壁に張り付いているリザードマンはいなくなり、ジョウとカイルも地面に降りて戦っていた。

 カイナとジョウの疲労の色が濃い。先ほどから連戦となっているのだから、無理もない。カイルは槍を失い、長剣一本で戦っていた。ガルダンは両手に手斧を握り、鬼の形相で暴れ回っているが、体で息をしているのが遠目にも分かる。

 マールは急いで炸裂炎上弾を準備した。火口箱を開け、灰を吹いて埋め火を確認すると、大声で叫んだ。

 「炸裂炎上弾を使うよ! みんな、壁に戻って!」

 声を限りに叫んでみても、戦いの渦中の人間には、そう簡単に声は届かない。マールは仕方なく、付近の石を投げながら、必死に叫び続けた。

 「ガルダン! 壁だ! 壁に引こう!」

 ようやく、カイルがマールの意図に気が付いた。ガルダンの肩を掴み、振り向かせると壁を指差して引っ張った。その動きに、カイナもジョウも気が付いた。一瞬不思議そうな顔をしたが、カイルを真似て壁をよじ登る。

 マールは炸裂炎上弾を取り出す。向こうの壁までは20m程だろう。ただし、下向きに投げることになるから、その分だけ距離が伸びる。もう一度、足場を確認し、ガルダンたちの様子を確認した。よし、大丈夫。マールは炸裂炎上弾の火縄に火口箱を押し当てた。すぐにシュッと音を立てて火縄が燃え上がる。マールは右手を振りかぶり、半分くらいの力で炸裂炎上弾を放り投げた。

 どぉぉぉぉおおん!

 洞窟の中に轟音が響き渡った。マールの計算通り、炸裂炎上弾は空中で爆発した。つまり、最大限の効果を出せたということだ。ジンジンする耳を押さえ、煙が晴れるのを待つ。

 やがて煙が晴れると、水辺にはリザードマンの「破片」がところどころに散らばって、小さな炎を上げていた。もはや、動いているのは池の上に浮かんで燃えている、小さな炎だけだ。

 「今の内だ! 池にもう一発落とすから、地上に戻って体制を立て直して! それから、僕にも迎えを!」

 向こう側の壁で、呆気に取られている二人に声を掛ける。二頭のサスカッチが、驚いた顔でこちらを見ている。

 「わかった!」

 カイルが剣を上げて答えた。カイルが向こうで何かを呟くと、カイナが長い腕を伸ばしてガルダンを掴み、壁をよじ登っていく。カイルは一人で壁を登っていた。こちらには、ジョウが向かってきた。味方だとわかっていても、サスカッチがこちらに向かってくるのを見るのは、あまり気持ちがいいものではない。

 マールはもう一発、炸裂炎上弾を取り出したが、今投げてもリザードマンがいないのでは仕方がない。マールはとりあえずジョウの背中に乗り、向こう側の壁に移ることにした。その間にリザードマンがまた出てくるかも知れない。

 壁を回り込んだところで上を見ると、カイルもほぼ穴に到達していた。カイナとガルダンはもう外に出たらしい。下を見てみたが、新たなリザードマンが現れる気配はなかった。もしかしたら、水面に浮かぶ炎を見て、出てくるのをためらっているのかも知れない。

 『それとも、全滅させたんだろうか?』

 一瞬、そんな考えもよぎったが、油断はできない。かと言って、残り3発になった炸裂炎上弾を無駄にする気にもなれない。結局、もう少し様子を見ているしかなかった。

 そのまま、10分ほどの時間が経過した。まだリザードマンが現れる気配はない。その時、外からマールを呼ぶ声がした。声の主は、カイルだった。

 「マール! どうだい?」

 「今のところ、リザードマンは出て来てないよ!」

 「じゃあ、一旦上がっておいでよ!」

 「分かった!」

 マールはもう一度、地の底を眺めてみた。水面の火が消えてからも、リザードマンが上がって来る気配はなかった。ジョウの肩を叩いて振り向かせ、穴を指で差すと、ジョウは瞬く間に壁を駆け登り、穴の外に出ることができた。

 「やあ、お疲れ様! すごい威力だったね! クロエの魔術並みじゃないか!」

 カイルが水筒を差し出しながら、マールの肩を軽く叩いた。新鮮な空気は、それだけで美味しかった。水を飲むと、生き返ったような気持になる。

 「炸裂したのが空中だったから、威力が増したんだ。毎回あんな感じで投げられたらいいんだけど、炸裂する前に池に落ちてたら台無しだからね。そういう意味でも、クロエの魔術とは比べられないよ。でも、今回は上手くいって良かった!」

 マールはまだ横になっているアルルとクロエの方に向かった。アルルの顔は、右半分が包帯に包まれていて、痛々しい。

 「アルル、クロエ・・・具合は、どう?」

 「私は大丈夫。一気に魔術を使い過ぎただけだから。」

 クロエの方は心配がなさそうだ。アルルは心配だ。さっきはアルルを見つけただけで安心したが、考えてみれば、あの高さから落下して無事なわけがない。

 「マール・・・。助けに来てくれて、ありがとう。」

 アルルが弱々しく左手を差し出してきた。マールはその手を優しく取って、両手で包み込んだ。

 「そんなの、当たり前のことじゃないか。いいから、ゆっくり休んで。」

 「うん・・・。」

 アルルはそれだけ言うと、再び目を閉じた。呼吸も落ち着いているし、エナも、クロエもいる。ここは、大丈夫みたいだ。

 マールはガルダンとカイルの方に向かった。二人は、穴の前に陣取り、様子を窺っている。

 「出てこなくなったね。全滅させたのかな?」

 「いや、そんな感じには思えんが・・・。」

 「もしかして、他の入り口を探してる、とか・・・?」

 三人とも、急にエアリアのことが心配になってきた。祭壇の洞窟のことは全然わからないが、さっきの地震で何かが起こっていたら、大変だ。もしかして、リザードマンの出口になるような裂け目や穴ができていたら・・・。さりとて、確認に行くわけにもいかないのがもどかしい。

 「エナなら、何かわかるんじゃないかな? ガルダン、聞いて来てよ。」

 「儂がか!? そういうのは・・・どうもな・・・。」

 カイルとガルダンが、揃ってマールを見る。何となくわかるけど、そういう役回りが当たり前のようになってきた。

 マールは諦めたように振り向くと、クロエとアルルに付き添っているエナのところに戻った。

 「さっきの地震だけど・・・エアリアは大丈夫かな? その・・・リザードマンが祭壇の洞窟に出てくる、なんてことは・・・?」

 「大丈夫ですよ。あそこは強力な結界が張ってあります。かなり揺れはしたでしょうが、全体的に崩れたり、私が認めていない者が侵入したりすることは、有り得ません。」

 「そ、そっか! なら、いいんだ! ちょっと心配になったから・・・。」

 「そうですよね。不安なお気持ちはわかります。・・・なんにせよ、後3日です。エアリアが儀式に集中できるように、私たちもがんばりましょう。」

 「そうだね! 良かった! 二人に伝えて来るね!」

 マールは意気揚々とガルダンたちの元に戻り、先ほどの心配が杞憂だと言うことを告げた。

 「そうか、そうか! 何よりじゃ。・・・そうすると、こちらも体制を考えねばならんな。」

 「そうだね。とりあえず、アルルたちには小屋に戻ってもらおうよ。ここよりはゆっくりできるだろうし。」

 「そうじゃな。よし、ここは儂が見ておく、エナ殿にその旨を話してみよ。」

 エナは、カイルの提案に全面的に賛成した。クロエもアルルも、まずはゆっくりと体を休める必要がある。エナは、カイナ達にも話をすると、カイナとジョウは急いで泉へと向かった。体に着いたリザードマンの血が気になっていたのだろう。

 「カイナ達には、夕方にまた戻って来てもらうことにしました。・・・それで、皆さんはどうします?」

 「夕方にカイナ達が戻って来てくれるなら、昼間は俺達3人が見張りに立つよ。」

 「わかりました。アルルとクロエを運んだら、ニノをこちらに戻します。」

 「はい、そうしていただければ、大丈夫だと思います。」

 これで、体制が決まった。明日になれば、クロエは戦列に復帰できるだろう。

 ニノがアルルとクロエを小屋に運び、しばらくすると3人の荷物を持って戻って来た。クロエかアルルが気を利かせてくれたのだろう。ガルダンとマールは、まずはパイプを準備し、カイルはリンゴにかぶりついた。

 これから見張りをしながら、次の戦いに向けて準備を整えなくてはならない。夜のことも考えて、テントとかがり火の準備も必要になるだろう。それぞれ、パイプと果物を楽しみながら、その役割を話し合って決めた。ニノは、パイプタバコの煙が珍しいらしく、一生懸命掴もうとしたり、咥えようとしたりして遊んでいる。

 「あと、3日・・・か・・・。いつもならあっという間だけど、待ってる時間だと、長く感じるよね?」

 「まったくじゃ。それも、今回はエアリアにとって大切な儀式じゃ。なんとしても、守り抜かねばならん。」

 「僕たちの責任も、重大だね。」

 あと、3日。もう地震もリザードマンもごめんだ。マールはそう願いつつも、心のどこかでは、そうもいかないだろうと、ぼんやり考えていた。


第2章 第7話 「刹那の休息」


 祭壇の洞窟前での準備は、着々と整っていった。テントを立て、そこがいわば「前進基地」だった。3人は交代して休息を取りながら、見張りと、迎撃の準備を整えていた。

 ニノもよく働いてくれた。この好奇心旺盛なサスカッチは、身振り手振りを交えて、急速に言葉を覚えていっているようだった。もちろん、話せるようになったわけではないが、ある程度の意思疎通ができるようになっていた。ガルダンと一緒に薪を集めたり、丸太を組んで身を隠せる場所を作ったり、カイルから棍棒の使い方を教わったりしていた。

 マールはと言うと、ニノに綾取りを教えた。丸太を組んだ時に出た、半端な長さのロープを使って、巨大な綾取り紐を作ったのだ。ニノは、これに見事にハマった。何かの形になっているわけではないのだが、両手の指を使って違う形ができるたびに、ニノはマールに自慢げにその形を見せてくるのだった。

 「ニノはすごいね! 次々といろんな形を作れるなんて!」

 マールはそのたびに、大袈裟にニノを褒めた。ニノは喜び、また違う形を作る。そうして、ニノはマールの側から離れないようになった。

 「マールめ。サスカッチを手懐けおった! 見事だわい。」

 ガルダンが目を丸くして驚いていた。お互いに山の民であるドワーフとサスカッチは、衝突を避ける意味も含め、本来は距離を置いている存在だった。ドワーフの中には、その戦闘能力の高さから、サスカッチを神聖視する向きもあり、マールとニノのようにじゃれ合う姿など、想像すらできなかった。

 やがて陽が傾き始めた時、エナが「前進基地」にやってきた。手には熱いスープの入ったポットと、ブランデーの瓶を持っていた。

 「どうやら、動きは一旦収まったようですね。」

 「そのようですね。このまま何事もないといいんですけど・・・。二人の様子はどうですか?」

 「クロエはぐっすりと寝ています。明日の朝には完全に回復するでしょう。アルルも快方に向かってはいますが、まだ少し、時間が掛かりそうですね・・・。」

 エルフは人間やドワーフと違い、基本的には「神」を信仰していない。というよりも、自身も精霊や妖精に近い種族であるため、自然そのものや精霊の王を信仰している、という方が正しい。それゆえ、神の加護を受けにくいのだ。つまりは、神の持つ「治癒の力」がアルルにはほとんど効果がない。だが、自然そのものや精霊から力を集め、治癒する力を持っている。ほとんどの毒に耐性を持ち、基本的には病気や老衰という概念がない。肉体の物理的な限界が訪れたら、フェアグリンのような「エルダー」になるか、「転生」するか、ということになる。

 マールはエナからポットと瓶を受け取ると、焚火の準備をしているガルダンに声を掛けた。そこに、カイナとジョウが現れる。ジョウは、イタチのような動物と、ウサギを数羽、手にしていた。どうやら、差し入れのつもりのようだった。

 「やあ、御馳走をありがとう!」

 カイルがそれを受け取り、ジョウに笑顔で礼を述べた。ジョウはめんどくさそうに手を振って、それに応える。カイルは早速、腰からダガーを取り出し、手頃な岩の上でそれらの動物の下ごしらえを始めた。少し塩を振って丸焼きにすれば、たちまち御馳走の出来上がりだった。

 「そうだ、ガルダン、完全に陽が落ちる前に、一度穴の底の様子を見ておこうよ? カイナやジョウも来てくれたし。」

 「おお、それもそうだの。エナ殿、構わんか?」

 「もちろんです。」

 ガルダンとマールが、カイナとジョウに捕まり、穴の中に入っていく。エナが先ほどと同じく、「瑞光」の言葉で明かりを灯す。穴の底は静寂に包まれていた。リザードマンの死体があちこちに転がり、水面が静かに揺れているだけだった。

 マールは、用意してきた即席のランプを、手頃な岩棚に設置していった。叩いて深いボウルのようにした鉄板に油を張り、芯となる固く縛った布を固定しただけのものだが、しばらくは明かりが灯っているはずだ。マールはそれを合計5個作っている。もちろん全体を照らすわけにはいかなかったが、これで穴の入り口から少し降りるだけで、底まではある程度、見通せるようになる。

 さらに、ロープに端材の鉄片を数枚ずつ、何か所にも取り付けた「鳴子」を、壁際に釘を打ち付けて取り付けた。リザードマンが登ってくれば、自然と鳴子に触れ、音が鳴るはずだった。ランプの光が反射しないように、ロープにも鉄片にも、たっぷりと煤を塗ってある。

 「これでよし・・・。」

 試しに、マールが鳴子を鳴らしてみた。シャラシャラと言う金属の触れ合う音が共鳴して、そこそこ大きな音になった。下から見上げていると、事情を知らないエナとニノが顔を覗かせたので、外まで音が届いたのだろう。

 案の定、外に出たガルダンとマールに、エナが不思議な音が聞こえた、と伝えてきた。マールが鳴子とランプの説明をすると、エナは感心したようにマールを見た。

 「なるほど。それなら、警戒も楽になりますね。」

 基本的にはこの穴が要注意なことに変わりはないが、どこからリザードマンが現れるかは予測ができない。これからは、穴だけでなく、周囲にも警戒が必要となる。

 エナが交代を申し出てきたが、カイナとジョウが来てくれただけで十分だ、と断った。ニノと共に、休んでもらう。ガルダンもカイルも、もちろんマールも、エアリアが出てくるまで、ずっとここで過ごすつもりだった。

 夕闇が訪れ、星が見え始めた頃、エナとニノは小屋の方に戻って行った。その頃には差し入れの肉が香ばしい匂いで焼き上がり、カイナやジョウも含めてその肉に舌鼓を打った。焼いた肉を初めて食べたらしいカイナとジョウは、最初は警戒していたが、食べ始めると止まらない勢いで肉を平らげた。

 見張りは交代で行われた。カイナとジョウは適当に寝転がったり、あるいは周辺を警戒して回ったりしていたが、ガルダンたち3名はテントを中心に動かず、休憩を取りながら、常時2名が見張りをするようにした。

      ※       ※

 エアリアは、ようやく聖典の修復を終えた。幸いにして、逸失した稿や、ひどく損傷した稿はなかったので、後は記憶を頼りに並べ直すだけだった。革紐の代わりが見つからず、綴じることまではできていないが、読むことはできる。

 あの地震の後、外からも、自分の足の下からも激しい音が聞こえてきたが、どちらも長くは続かなかった。静寂の中に長くいることで、耳がおかしくなったのかも知れない。

 桟敷段は倒壊してしまったが、なんとか破片を寄せ集めて、簡易的な居場所を祭壇の前に作り直した。そこで聖典を読み解く作業を再開する。大蝋燭はかなり短くなり、蠟が溶けた分、全体的に下部の方が太い、山のような形に変わっていた。時間はどれくらい残されているのだろうか。まだ、『言葉』は見つからない。

         ※       ※

 特に何事もないまま、無事に朝を迎えた。これで、儀式が終わるまで、あと二晩となった。

 交代で泉まで降りていき、顔を洗って体を拭き浄めた。途中、全員が小屋に寄って、アルルとクロエの様子を確かめた。クロエは完全に元気を取り戻していて、最後に小屋に立ち寄ったマールとともに前進基地へと向かった。マールはエナからお茶の入ったポットと数種のフルーツを預かって来ていた。

 「そうそう、あなた、発明家なんですってね?」

 斜面を登りながら、クロエが尋ねてくる。

 「うん・・・まあ、一応そういうことにはなってるけど、まだ発明品が売れたことはないんだよ。だから、発明家と言えるのかどうか・・・。」

 「でも、アルルからはすごい発明家だって聞いてるわよ? シャトーの水車や馬車を直したんでしょ? それに、あの光を放つ矢とか。爆発するのもあるって・・・。」

 「あー、確かに、それは作ったけど、危険すぎて使いどころが難しいんだ。クロエの魔法と違って、場所とかタイミングとか、運任せなところがあって・・・。」

 「でも、そういう思い付きは素晴らしいと思うわ! アルルの話じゃ、町で簡単に手に入る材料で作ったっていうじゃない? しかも、一晩で!」

 「いや・・・まあ・・・そうだけど・・・。」

 「それに、戦士でもないのに、真っ暗闇でリザードマンだらけの穴に入って、アルルを助けた。」

 「・・・クロエ・・・一体、何が言いたいのさ・・・?」

 さすがに、褒められ過ぎだと思った。そこで思い出したのが、クロエもピプロー家の人間だ、ということだ。これは裏に、何かあるに違いない、とマールの勘が告げていた。

 「別に。ただ、すごいな、って。なかなかできることじゃないわ・・・。それで、この冒険が終わったら、一緒にシャトーに帰ってもいいわよ?」

 「え? どういう意味さ?」

 「私から兄に話すから、ウチで研究を続けたら? もちろん、費用も十分に準備するわ。」

 「は、はぁ? 」

 「あなたの才能を、高く買っているの。トンカなんかで埋もれてていい才能じゃないわ。ピプロー家が後援になって、あなたの才能を支える。どう?」

 マールにとっては、願ってもない話だ。つまりは、金の心配をしないで研究を続けられる、ということだ。代わりにピプロー家に発明品を納めることになるのだろうが、その方が売りやすいのも間違いない。

 「答えは今すぐじゃなくていいから、考えておいて。」

 そういうと、クロエはすたすたと歩いていってしまった。マールは狐につままれたような気持ちになった。クロエは、どこまで本気なんだろう?

 ガルダンもカイルも、笑顔でクロエを迎えた。何と言っても、その魔術の力には、誰もが度肝を抜かれたと言っていい。

 「おお! 我らが魔術師のお出ましじゃな!」

 「クロエ! もう起きて大丈夫なのかい?」

 「あら! ご心配をどうも。おかげさまで、私は大丈夫よ! そっちは? 全然休んでないんじゃないの?」

 「俺たちなら、大丈夫だよ。普段から外での生活には慣れてるしね。しっかり休めてるから!」

 カイルがそう言って、テントを指し示す。敷物と毛布が乱雑に置かれているのを見て、クロエは軽く顔を顰めた。

 「・・・あんまり居心地が良さそうには見えないけど。」

 「ああ、いつもならアルルやエアリアがきれいにしてくれるんだけど・・・。」

 カイルが慌てたように毛布を畳みだす。

 「アルルの具合は、どうじゃ?」

 ガルダンも慌てたように、話題を変えた。

 「ええ、今朝は起き上がってスープを飲めるまでに回復したわよ。傷もすっかり塞がったし、『悪い傷』にはなってない。」

 「・・・そうか・・・傷跡は・・・残りそうかの?」

 「そうね・・・結構、深いみたいだし・・・。」

 「・・・。」

 ガルダンは、アルルの綺麗な顔に傷がついたのがショックだったようだ。普段はいがみ合っているようで、実はガルダンとアルルはお互いを認め合い、種族を超えて尊敬しあっている様子が窺える。エアリアやカイルに対してもそうだが、ガルダンはアルルを自分の娘か何かだと思っているのかも知れない。

 傷は、たとえ小さなものでも、どす黒くなったり、傷口が膿んだりすると危険だった。そういう傷を「悪い傷」と言って、誰もがそうならないように気を付ける。実際、マールの隣に住んでいた気のいい女性も、ちょっと包丁で指を切っただけなのに、10日も経たずに亡くなってしまったことがある。この季節には、特に気を付けなければならないのだ。

 それから、お茶と果物で食事を摂り、ニノが現れたことで、カイナとジョウが山へ帰って行った。これから、見張りは昼の体制となる。クロエが加わったことで、ガルダンとマールがテントでしばらく休むことになった。今夜に備えて、足りない睡眠を補っておかなければならない。

 マールはテントで横になり、先ほどのクロエの話を考えていた。もしクロエの言った通りにするとしたら、クロエはどうするんだろうか? 一緒にシャトーへ帰ると言っていたが、第五階層の考査もあるのだから、またノストールに戻ってしまうのかも知れない。それとも、しばらく一緒にいることになるのだろうか? それなら、それこそ願ったり叶ったりだな、などと夢想しているうちに、マールは眠りに引きずり込まれた。

 どれくらい、眠っていたのだろう。マールは自然に目が覚めると、太陽の位置を確認した。太陽はすでに中天に昇っており、ある程度まとまった睡眠が取れたことに満足した。隣では、ガルダンがまだ高いびきをかいて眠っていて、その先の岩陰で、ニノもいびきをかいていた。

 二人を起こさないように気を付けながらテントの外に出ると、少し先の岩に、並んで腰かけたカイルとクロエが、笑いながら楽しげに会話している様子が見えた。

 『そりゃ、そうだよな』

 眠る前に思い描いた甘い夢想など、起こるはずもない。マールとクロエでは、そもそものつり合いが取れない。家柄の歴史だけなら引けは取らないかも知れないが、かたや片田舎で没落し、かたやハイペルで飛ぶ鳥を落とす勢いなのだから、比べたところで物笑いの種にされるだけだ。立場上も、新進気鋭の魔術師のホープと、名ばかりの発明家。それに、身長だってクロエの方が高い。

 その点、カイルとクロエならお似合いだ。戦士と魔術師なんて、お話によくある組み合わせじゃないか。それに、見た目もお似合いだ。そんな二人のやり取りを見ながら、マールはちょっとだけ心が痛んだ。

 「あら! 目が覚めたのね!」

 そんなマールの気持ちを知ってか知らずか、クロエはにこやかにマールに話し掛けた。カイルがもう少し寝ていてもいいのに、と気を遣ってくれたが、もう十分に休んだから、と告げて、見張りを交代することにした。

 カイルがテントに向かうと、クロエがコーヒーを注いだカップを渡してくれた。

 「あ、ありがとう。」

 「ゆっくり休めた?」

 「うん、おかげさまでね。」

 そんな会話をしながら、二人は自然と並んで座ることになった。敷物に座ろうとすれば、意識しなくてもそうなるのだ。カイルとクロエがどうの、というわけではなかったようで、マールは自分の低俗な考えを恥じ、同時に何か心が弾むのを感じた。話は、主にマールの今までの発明のことだった。発明の話となると、元々饒舌になるマールだったが、クロエが相手だと、話がいつも以上に熱を帯びた。

 あっという間に時間が過ぎ、陽が傾き、夕方の風が山から吹き下ろす頃に、ガルダンがようやく起きてきた。すでにサスカッチ達の交代は終わっていて、カイナとジョウが転げ回りながらじゃれ合っていた。

 「すまんな、寝過ごしてしもうた!」

 「大丈夫だよ。クロエを送りながら、アルルの様子を見て来てよ。」

 「む。そりゃ、構わんが・・・。」

 「カイナもジョウもいるし、カイルもすぐ近くにいるし、こっちはしばらく大丈夫。アルルも会いたがっていると思うし。それに、お酒も取ってこないとね。」

 「おお、そうじゃの! それなら、そうさせてもらうとするか!」

 アルルのことだけなら、ガルダンはおそらく行き渋ったに違いない。だが、人一倍アルルが心配なはずのガルダンは、アルルが崩落に巻き込まれてから、アルルとまともに話をしていないのだ。状況が落ち着いている今、その時間を取ってもいいはずなのだが、何となく気恥ずかしくて言い出せないでいたのだろう。クロエを送ることと酒。これを絡めて、ようやく正当な理由ができた、と言わんばかりのガルダンは、誰が見てもわかるほど、機嫌が良くなったようだった。

 足取りも軽く、ガルダンとクロエが山を下っていった。マールはその後ろ姿を見送ると、製作中の弓をもう一度見返した。あの崩落で、アルルの弓は壊れてしまった。そこで、マールはアルルのために新しい弓を作ることにしたのだ。

 残念ながら、ここでは弓に適したしなりの強い柔らかい木が手に入らない。そのため、マールはニノに頼んで、カイナとジョウに複数の木材を手に入れて来てもらったのだ。先ほどその木が手に入り、マールはその中から手頃な木を削り、組み合わせて、今までアルルが使っていた物より一回り小さい弓の原型を拵えた。

 自分の盾を改良するつもりで準備していた鉄線を寄り合わせ、弓の弦にし、薄い鉄板を重ねて、本体の補強にする。滑車の技術を使い、アルルの力でも引ける、強力な弓を作るのが目標だった。問題は、重さだった。だからマールは弓を小型にし、全体の重さを抑えることにしたのだ。

 組み合わせた弓を引いてみる。弓の部分があまりしならないため、以前ほど後ろまで弦を引くことはできないが、木よりも戻る力の強い金属を使っているので、手を離すと、力強い音で弦がもどって震えた。アルルには、もう少し弦が引けて、軽い力で引ける方がいいような気がしたので、滑車を調整して弦の「引きしろ」を伸ばした。もう一度試すと、今度はいい感じだ。後は、アルルに試してもらいながら調整しよう。

 小屋から、ガルダンが大きな袋を手に戻って来るのが見えた。遠目にも明るい表情をしているので、アルルの具合が良くなってきているに違いない。そこで、マールはこの弓に、ガルダンの手でアルルにふさわしい模様を細工してもらおう、と思いついた。

 戻って来たガルダンに弓を見せ、試しに引いてもらう。ガルダンの力だと、弦は軽々と目いっぱいまで引き絞られる。だが、つなぎ目の部分はビクともしなかった。力の掛かる方向に強くなるように、組み継ぎと留継ぎに工夫した甲斐があった。

 「おお・・・、どれ・・・。」

 そういうと、ガルダンは同じようにマールが削って作った矢を手にした。試しに真っ直ぐに削っただけの矢で、矢じりは鉄の錘で、矢羽根もついていないものだったが、ガルダンが引き絞って矢を放つと、恐ろしい速度で30m程先の岩にぶつかり、岩のその部分が破裂したように割れた。

 「こりゃ、良い弓じゃな!」

 「ほんと? アルルにどうかな、と思って。それで、これに素敵な模様を細工してもらえないかな?」

 「おお! そりゃいいな! よし、請け合った。」

 そういうと、ガルダンは早速自分の荷物の中から、細工用の工具を取り出した。全て金属製で、様々な角度、大きさのナイフ、鋭く尖った、太さの違う錐のようなものなど、十数本の工具が、巻物のような布に納められていた。すべての工具が、布の小さなポケットに一つずつ、きれいに納まっていた。もちろん錆など浮いておらず、いかにも熟練の職人らしい道具の扱い方に、マールは感動すら覚えた。

 それに比べると、自分の道具の扱い方が、いかに粗雑なことか。

 「この道具も、すごいね・・・。完璧に手入れされてる。」

 「お、さすがにわかるか? この入れ物はな、儂が妻の手作りで、道具ごとに大きさ変えて作られておるんじゃ。場所が決まっとるから、見ないでも欲しい道具が取り出せる。なかなかのもんじゃろ?」

 「うん、すごいよ。ガルダン、奥さんに愛されてるんだね!」

 「はっはっは! そうだと良いが、久しく顔も見ておらん。もはや、儂の顔など忘れておる頃だろうよ!」

 そう言いながら、ガルダンは腰を下ろすと、弓を腿の上に横に置き、細い錐のような道具で迷いなく薄い線を描いていった。木材が細く長い線になって足下に落ちていく。

 マールは、ガルダンの集中を削がないように、ゆっくりとそこから立ち去った。肝心の、アルルの具合を聞くのを忘れたが、ガルダンがあの調子なら、大丈夫に決まっていた。

 焚火に戻り、夕食の準備を始める。今日は差し入れがなかったので、干し肉と豆のスープだ。それに、ガルダンが小屋から持ってきたチーズと果物。

 やがて夜の帳が降り、夜空には満点の星が輝いた。起き出したカイルが、あくびをしながら焚火に来たが、ガルダンは細工に夢中になっていた。こういう時、夜目が利くというのは至極便利なものだ。マールでは、そうはいかない。

 こうして、その夜も何事も起こらずに更けていき、やがて東の空から明るい陽射しが差し込んできた。エアリアの儀式が終わるまで、あと一晩になった。

  ※           ※

 大蝋燭が元の形を完全に無くし、もはや溶けたチーズの固まりのようになっていた。灯は赤々と燃え続けていたが、その残り時間は刻々と失われていく。

 エアリアは、まだ『言葉』を見出せないでいた。だが、ぼんやりと何かが形になりつつあるような予感は、確かにある。灯りが消えた時、それが形を成すかどうかは分からないが、迷っている時間はない。ひたすらに、ただひたすらに聖典を読み込むのみだ。


第2章 第8話 「アルルの弓」


 ガルダンの細工は、夜明けとともに完成した。細工自体は夜が明けないうちに終わっていたが、それから磨き粉で木製部分を滑らかにし、最後にニスとワックスで仕上げを施した。

 それは、見事な出来だった。水面に浮かぶ水鳥と、その体を優しく包む風の動きが、優美な曲線で描き出されている。反対の面には、風に乗ってハープを奏でる乙女が彫られていた。顔や服などは彫り込まれていないのに、曲線だけで「これはアルルだ」とわかる。

 「・・・なんて美しいんだ・・・。」

 マールはガルダンから差し出された弓を手に取り、朝日に透かすようにして隅々まで見つめた。隣でカイルも息を詰めている。誰が見ても、思わず見惚れてしまう、そんな会心の出来だった。

 「これは、アルルが喜ぶね。みんな起きてると思うし、ガルダン、ちょっと行ってきたら?」

 「ば、バカを言うな。これは、マールが渡すべきだ。儂は細工をしたに過ぎん。きちんと、弓の説明をしてやらねばならんだろうしな!」

 そう言うと、ガルダンはプイと後ろを向いて、テントの方に歩み去ってしまった。マールはカイルと顔を合わせ、微笑んだ。ガルダンは、恥ずかしいのだ。

 「それじゃあ仕方ない。ちょっと行ってきていいかな?」

 「もちろんだよ。アルルによろしく言っておいて。」

 マールは小屋に向かい、扉の前でノックをした。中には女性しかいないのだから、当然のことだ。すぐに中から扉が開き、クロエが顔を覗かせた。

 「おはよう、クロエ。みんな起きてる?」

 「ええ、起きてるわよ。ちょうど、スープを持っていこうと思ってたの。」

 確かに、小屋の中からスパイシーな香りが漂って来ている。小屋に入ると、奥の一段高くなった床に、アルルが腰を掛けて微笑んでいるのが見えた。まだ包帯はしたままだが、顔色も良くなっている。

 「アルル。今日の気分はどう?」

 「ええ、おかげさまで、かなり良くなったわ・・・。」

 アルルが、マールが手にしている弓に気付いて、視線を動かした。

 「良かった・・・。それでね、アルルの弓、壊れちゃっただろ? これ、作ってみたんだけど・・・。」

 マールがアルルに弓を手渡した。アルルは座ったまま弓を受け取り、たっぷりと時間を掛けて弓を眺めた。

 「これを・・・マールが・・・?」

 「うん。持ち手の細工は、ガルダンがしてくれたんだ。」

 「・・・信じられない。あなた、弓作りの経験もあったの?」

 「いや・・・実は、初めて作ったんだ・・・。どこか不具合があれば、調整するよ。」

 「とんでもない! これは・・・素晴らしいわ。持った時のバランスが完璧よ。重さを感じないくらい! それに・・・とても、美しい・・・。」

 「ほんと? 良かった!」

 そう言うと、アルルが立ち上がり、弦を引いた。さすがに熟練の射手の構えだった。引き絞っても、体が全く揺らがない。

 「うん・・・いい感じ。とても、いい感じよ!」

 アルルはそう言うと、弦を離す。ビュンという風切音とともに、弦が小刻みに揺れて、やがて止まった。アルルはその余韻に少し浸ってから、やにわにマールに抱き着いて、頬にキスをした。

 「ありがとう! とっても嬉しい! 早くこの弓を使ってみたいわ! とても美しくて、とても力強い・・・。それに・・・これは、私?」

 「うん、僕もカイルも、たぶんそうだろうって話してたんだ。ガルダンが、昨日寝ないで彫ったんだよ。」

 「そう・・・ガルダンにも、お礼を伝えておいて。とても喜んでたって。」

 「わかった。きちんと伝えておくよ。」

 アルルがクロエとエナにも弓を披露した。二人とも、驚き、感嘆の声を漏らした。

 「作り手の気持ちを感じる・・・。とても温かくて、とても大きい・・・。」

 「ええ、例えるなら、父の愛ね・・・。」

 エナの意見に、クロエが率直な感想を述べた。それはまさしく、ガルダンのアルルへの思いだろう。

 「それにしても、これを、一晩で?」

 「そうそう、木材はカイナとジョウに探してもらったんだった!」

 「カイナとジョウ? あの子たちと、話せるのですか?」

 エナが目を丸くして驚きの表情を見せた。

 「いや、僕達が話せるのはニノだよ。話せるっていうのは、違うかな・・・。とにかく、お互いに何を言おうとしてるか、何となくわかる感じ、っていうのかな。」

 「そうですか・・・。ニノが・・・。」

 「そうなんだ。だから、ニノを通じて、カイナとジョウにお願いしたんだよ。」

 エナが感心したように何度もうなずいた。

 マールはクロエを伴って前進基地へ戻った。アルルの言葉をガルダンに伝えたが、ガルダンは照れくさそうに笑うだけで、斧の手入れに余念がない。

 カイルが交代で下へ降り、池の傍で体を拭き始めたのが見えた。

 「そうだ、僕も水浴びしてくれば良かった。」

 「あら、行ってきていいわよ? ここはガルダンと私で見ておくから。」

 クロエにも促され、ガルダンも勧めてくれたので、マールは再度下に降り、カイルの横で顔を洗い、水を浴びた。

 「とうとう、あと一晩だね。エアリアはうまくいってるかな?」

 「どうだろうな・・・。エアリアのことだから大丈夫だとは思うけど・・・。」

 「カイル、心配そうだね・・・。」

 「え? いや、そんなことはないけど・・・。ほら、エナが言ってただろ? エアリアには別の試練が与えられる、って。・・・それがちょっと気になっててね。」

 確かに、エナがそう言っていたのはマールも聞いていた。リザードマンの襲撃がそれかとも思っていたが、まだ何かあるんだろうか? そういえば、何日か前にマール自身も何か起きるのではないか、という思いが頭をよぎったのを思い出した。あれから何も起こらず、杞憂に過ぎないと考え直していたが、カイルも同じような思いを抱いていたと知って、漠然とした不安がまた沸き起こってきた。

 「・・・何が起こるにしても、僕達は僕達にできることをやるだけさ。それしかないだろ?」

 「・・・そうだね・・・。うん、それしか、ないよな・・。」

 カイルは自分に言い聞かせるようにそう言うと、また体を拭き始めた。マールはそれ以上掛ける言葉が見つからず、同じように黙々と体を拭いた。

 二人が戻ると、ガルダンにも水浴びを勧めたが、ガルダンは頑として動こうとしない。カイルがなだめすかしてみても、クロエが臭うと言っても、ダメだった。

 「まあまあ、ガルダンがいいって言ってるんだから、それでいいじゃない。」

 マールは二人をやんわりと制止して、ガルダンから離すようにした。口には出さないが、ガルダンは前回のリザードマンの襲撃の時、鎧の装着に手間取って出遅れたことを後悔しているのだ。そのせいでアルルがケガをすることになったとさえ、思っているフシがあった。

 もちろん、そんなことは誰も考えていないのだが、ガルダン本人が自分を許さないことには、誰が何と言おうと、考えを曲げることはないだろう。

 その後は、再び交代で睡眠を取り、夜に備えた。今日はガルダンとクロエが長めの見張りを務めてくれたので、マールとカイルは日中ぐっすりと休むことができた。二人とも自力で起きることができず、夕方にクロエに起こされるまで寝てしまったのだ。

 最初は、クロエに揺り動かされているのかと思った。だが、クロエはマールの肩に手を置いたまま、周囲を見回している。違う、クロエが揺すっているんじゃない。地震だ。

 マールは飛び起きた。カイルも隣で飛び起き、テントの外に出ていった。前回ほど大きい揺れではなかったが、揺れている時間が長い。小屋の方を見てみると、エナとアルルが外に出て来て、こちらを見上げているのが見えた。

 「油断するな! 普通の揺れとはちがうぞ!」

 ガルダンが斧を手に叫びながら、祭壇の洞窟の前へと急いだ。カイルが槍と盾を取り、後に続いた。マールとクロエもカイルを追った。

 前回の地震でできた崩落した穴付近の地面で、小石が弾んでいるのが見えた。揺れの元は、その穴だった。


 

第2章 第9話 「推参の黒竜」


 「・・・ようやく・・・この、大きさ・・・。」

 トルナヤの地下空洞の奥底で、ロックは金属的で耳障りな声で呟いた。眼前の窪地に横たわる幼い竜に、リザードマンの肉を与え続けること数日、目も開かない、矮小な状態で『環誕』したニズヘイグが、5m程の大きさに育った。

 「あれだけ食って・・・この・・・程度・・・か・・・。」

 この数日間で、ロックはリザードマンを50匹はニズヘイグに与えたが、思っていた以上に成長が遅い。

 ヴァイロンの部下だと言う、あの生意気な女ヴァンパイアは、ノストールに攻め込んで人肉を与えろと言っていたが、そんなことをしたら手ひどい仕返しに遭うのは火を見るより明らかだ。現実に、ノストールに人を攫いに向かわせたリザードマンの部隊は、このすぐ上にいるたった数人の人間どもに全滅させられた。50を超えるリザードマンと、8体のドラゴネートが、だ。

 忌々しい人間どもめ。だが、ニズヘイグもようやくここまで育った。この大きさになったニズヘイグと、自分も加わってノストールに攻め込めば、人間を喰わせて、さらにニズヘイグを成長させられる。夏至までに、大いなる『環誕』に足る力を得させることもできよう。全土からかき集めた手持ちのリザードマンは、その数を恐ろしく減らしてしまったが、そんなものは、すぐに増やせる。

 その前に、この上にいる奴らを何とかしなければならない。今度はニズヘイグのブレスで先制攻撃を仕掛ける。それからリザードマンをけしかけて、あいつらがその対応をしている時には、こちらは空の上だ。

 ロックは、ブレスで焼き尽くされる人間の肉の臭いを思い出して、口元を残忍に引きつらせ、細くて長い舌で口の周りを舐めた。思い出しただけでも食欲がそそられる。こうなったら、もう躊躇していることはない。今こそが、動くときだ。

 ロックは大声でリザードマンどもに指令を下した。同じように幼いニズヘイグにも指示を出して、あの穴に繋がる地下水脈に一緒に飛び込んだ。

   ※           ※

 地上では、カイルが支えて、ガルダンが穴から身を乗り出して中を覗いていた。マールの遺してきたランプの明かりにガルダンの夜目の能力が合わさり、洞窟内を見渡すことができた。

 「む! 池に動きが・・・な、なんじゃ、ありゃ?」

 水面に次々と気泡が現れ、次第にその数と大きさを増していくと、やがて水面が大きく盛り上がり、中から背中にドラゴネートを乗せた黒い竜が姿を現した。

 「いかん! ドラゴンじゃ!」

 ガルダンが急いで身を引いて、全員に警戒を呼び掛けた。山からは、異常を察知したカイナとジョウが猛烈な勢いでこちらに向かっており、小屋からはエナとアルルが斜面を登って来るのが見えた。

 「ドラゴンだって? ニズヘイグってやつか?」

 「わからんが、ドラゴネートを背中に乗せておった!」

 カイルとガルダンの話を聞いたクロエが、詠唱の準備を始めた。

 「相手がドラゴンなら、普通の武器は効かないはずよ! 二人とも、武器を構えて!」

 クロエの正面に光の巻物が二つ現れると、その巻物はカイルの持つ槍と、ガルダンの持つ斧を包み込み、染み込むように消えていく。そうすると、武器自体が鈍く白色に輝きだした。

 「魔力を付与したわ。これでドラゴンの鱗も貫ける!」

 「よし! やるぞ!」

 カイルとガルダンが穴の前で、あらためて武器を構えた。マールは炸裂炎上弾を準備する。

 「ねぇ! これ、落としたらどうかな?」

 「おお! やってしまえ!」

 マールは迷わず、焚火から抜いたばかりの木を火縄に押し付け、穴に落とした。穴の中から轟音に混じり、怒声とも悲鳴とも取れる叫びが聞こえたような気がした。

          ※           ※

 ロックはニズヘイグの背に乗り、壁を這い上がり始めたところだった。池の端には次々とリザードマンが姿を現して、下からその光景を眺めていた。穴から外に出たら、すぐにニズヘイグにブレスを吐かせるつもりだ。やつらは度肝を抜かれるに違いない。

 そのタイミングを計ろうと上を見上げた時、穴の外から何か丸い物が落ちてきた。気付く者は誰もいなかったが、それはまさに、奇跡のタイミングだった。ロックは反射的に、落ちてきた物を口に咥えた。少し前に食欲をそそるような回想をしたロックが取った、完全に無意識の行動だった。

 次の瞬間、それが口の中で弾けた。ロックが落下しながら最後に見た光景は、首から上がない、自分の身体だった。

    ※          ※

 「マール! 後は下がっていて!」

 カイルの声に、マールは後ろに退がり、自分の盾を構えると、地面に突き刺した。盾の下に金属製のスパイクを一本付け、常に保持していなくても大丈夫にしようと考えていたのだが、ここの固い地面にはあまり深く刺すことができなかった。

 盾の内側に付けたラッチを外すと、上と左右に盾が広がる。のぞき窓の下に取り付けたクロスボウを固定してからストックを折り、弦を引いた状態にしてストックを戻した。レールに、金属製の太い矢をセットする。予備の矢が、あと5本、盾の内側に取り付けられていた。

 「盾も改良してたのね! 」

 クロエがマールに身を寄せるようにして盾の内側に隠れた。のぞき窓から様子を窺うと、カイナとジョウも戦列に加わり、エナがそれぞれに『守護』を与えていた。アルルは一人、全景を視界に納められる高台に身を置き、弓を構えている。

 「エナ! こっちへ!」

 マールが呼び掛けると、エナが振り向き、ニノとともにこちらに駆け寄って来る。

 それから、しばらく不気味な沈黙が続いた。だが、穴のすぐ下に、何かの気配があるのは間違いない。風の具合で、呼吸をするような重々しい音も聞こえてくる。

 穴から出てきたのは、算を乱したリザードマンたちだった。慌てて穴から出て来ては、それぞれが勝手な方向に逃走を図っているように見える。中には腕や尾が食いちぎられたようなリザードマンもいた。

 「な、なんじゃ!?」

 その予想外の動きに、ガルダンもカイルも、サスカッチ達も戸惑った。まるでこちらのことなど眼中にないように向かってきて、カイナに吹き飛ばされるリザードマンまでいたのに、それでもこちらに向かってくるのを止めない。

 ガルダンたちから反対方向や、小屋の方向、山に逃げ込もうとするリザードマンもいたが、それらはアルルの矢と、ジョウの投石で次々と倒れていった。中でもアルルの矢は凄まじく、目から頭を撃ち抜かれたり、一矢で2体を串刺しにしたりと、大車輪の活躍ぶりだった。

 やがてその波が落ち着きを見せた時、最後のリザードマンとともにニズヘイグの巨体が穴から現れた。背中に生えた巨大な翼を翻してジャンプすると、頭からリザードマンに噛みつき、その体をあっという間に食い尽くした。

 「リ、リザードマンを喰ってる! 」

 リザードマンが恐慌を来たしていたのは、このためだったのだ。穴の中でも同じような惨劇が繰り返されていたに違いない。味方のはずのドラゴンに食われては、リザードマンもたまらなかったろう。

 ニズヘイグの食欲は旺盛だった。その後も次々と倒れているリザードマンに襲い掛かり、腹の中に納めていった。やがて周辺にリザードマンがいなくなると、目標がこちらに変わったようだった。

 「来るぞ! 構えろ!」

 カイルの叫びが響き渡る。ニズヘイグは翼を翻し、後脚で立ち上がると、首を真っ直ぐ上に伸ばして息を吸い込んだ。

 「ブレスが来ます! 避けて!」

 エナが叫ぶと同時に印を結びながら「言葉」の詠唱を始めた。クロエが右手を振り、呪文なしで『魔弾』を飛ばす。

 それは、猛烈な勢いの火流だった。マールは何がどうなったのか、状況の整理が追い付かない。気が付くと、自分の周囲が完全に火炎に包まれていた。目の前の自分の盾があっという間にバラバラになり、破片一つひとつが燃え上がり、消し炭になった。悲鳴を上げようと息を吸い込んで、肺がカッと熱くなる。咳をしたかったが、溶けた喉の内壁が肺からの空気を外に出してくれなかった。髪の毛が燃え上がり、瞼が溶けて垂れ下がり、視界が失われた。自分の肉が焦げ、骨が砕ける音が脳に直接聞こえた。クロエが自分の名前を呼んでいるのが、その音に混ざって聞こえた時、マールは闇に落ちていった・・・。

   ※        ※

 エアリアは、その背中に、わずかに熱気を感じた気がした。先ほどまで続いていた地鳴りと揺れが収まると、静寂の後に、嵐が荒れ狂うような大きな音が聞こえた直後のことだった。

大蝋燭の火が、大きく揺らいだ。洞窟内の空気が動き、エアリアは耳に違和感を覚え、頭を軽く振った。そのわずかな動きで、ローブの羽織紐が一本切れた。不吉を覚えたエアリアが、腰を浮かせる。こんな動きだけで、麻でできたローブの紐が切れる訳がない。

『地上で何かあったのだ』

全身の感覚が、危機を告げていた。頭から血の気が引き、眩暈とともに吐き気が襲ってくる。体中から冷たい汗が出てきた。

『行かなくては!』

 エアリアはそう決意し、立ち上がって出口の階段に向かい掛けた、その時、

 『ダメだ! エアリア! ダメだ!』

 脳裏に、マールの声が響き渡り、エアリアはハッとして立ち止まった。そうだ、今ここを離れたら、儀式はそこで終わってしまう。エアリアは目を閉じて、深呼吸を繰り返した。意識を耳に集中させ、僅かな音も聞き逃すまいと、耳を澄ませてみるが、微かな風の音以外は何も聞こえない。

 エアリアは目を開けた。私が今、成すべきことは、他にある。儀式を無事に完了させた時以外、仲間の元には戻れない。危うく本質を見失い、道を誤るところだった。仲間を信じてここまで来たのだ。仲間もまた、同じようにエアリアを信じてくれた。裏切るわけにはいかない。

 『マール、ありがとう・・・。』

 エアリアは聖典の前に戻り、続きを読み込み始めた。大蝋燭は、今にも燃え尽きようとしている。言葉をみつけなければ。

      ※          ※

 「マールっ! マールっ!」

 クロエは立ち上がりながら、目の前に広がる風景から、マールを探そうと必死だった。魔弾を飛ばした直後、マールに思い切り突き飛ばされ、クロエは地面に投げ出された。文句を言おうと振り向いた時、ニズヘイグのブレスがさっきまで自分のいた位置に襲い掛かり、目の前が紅く染まった。それが収まった時、そこにいたはずの、マールの姿が消えていた。

 地面が真っ黒に焦げ、それが筋のようになって続いていた。その筋を追って視線を左に動かした時、それを見つけ、クロエは両手で口元を覆った。

 全身真っ黒に焦げ、体のあちこちから燻ぶった煙を上げているマールが、手足を縮めたような姿で横たわっていた。一目で、その体から命が失われていることがわかった。マールは、自分を犠牲にして、クロエを救ったのだ。

 少し離れた斜面の下から、エナが登って来るのが見えた。泥だらけではあるが、体は無事なようだった。

 「エナ! マールが!・・・マールがっ・・・!」

 クロエは噴き出してくる涙を抑えられなかった。自分で感情のコントロールができていないのがはっきりわかったが、それを抑えてしまうことは、自分が自分ではなくなってしまうということだ、と無意識に理解していた。

 「クロエ! 今は、ダメです! マールは私が! ニズヘイグをお願いします!」

 そう言うと、エナはマールの元に走り寄って行く。そうだ、ニズヘイグ!

 クロエは振り向いた。

 ニズヘイグの背中に、カイナが乗り、その翼を引きちぎろうと両手に力を込めていた。その下で、カイルが長剣を振るってニズヘイグの左足に切りつけているのが見える。カイルの槍は、ニズヘイグの左肩の辺りに刺さったままだった。ガルダンは少し離れた位置で、ちょうど起き上がったところだった。右腕が異様な角度に曲がっていたが、それに構うことなく、左手の手斧を振り上げ、ニズヘイグに向かっていく。ジョウがニズヘイグの足元に仰向けに倒れており、ニノがその体を引っ張って、戦域を離脱しようとしているのが見えた。アルルは高台で何かの呪文を唱えている最中だった。

 クロエは一度深呼吸をすると、ゆっくりと目を閉じ、凄まじい速さで両手を振り始めた。足元の地面と、クロエの頭の上に、金色に光る魔法陣が現れ、それぞれがゆっくりと回転を開始した。引き続き、両手を胸の前で打ち合わせ、呪文と共に両腕を伸ばす。今度はクロエの面前に、巨大な光る巻物が現れ、勢いよく左右に開いた。その両の手に、魔法陣と巻物から金色の光の粒子が集まり始めた。

 そのまま、クロエは両手を胸の前で合わせるように動かそうとするが、光の粒子がそれを阻むように手と手の間に流れ込んだ。クロエの両手が震えながら、徐々に、徐々に、合わさり始める。その動きは驚くほど緩慢だったが、それとは反対に、クロエは必死の形相だった。

 やがて両手がある一点を超えると、光の粒子は一つの大きな球となり、クロエの手と手の間で膨らみ始めた。それを、クロエの両手が挟み込み、抑えるようにする。

 金色の球は輝きを増しながら、さらに大きくなりながら、回転を始める。

 回転が速くなると、今度は集束し始め、輝きをどんどん増してきた。キーンという音が周囲に響き渡り、クロエの足元の地面が小刻みに震え出した。

 『よくも・・・よくも・・・私の想い人をっ!』

 クロエの目がカッと開かれた。

 「いぃぃぃけええぇぇぇぇぇぇっ!!」

 クロエの胸から青みがかった金色の光線が放たれた。光線は砂煙を巻き起こしながらニズヘイグに向かっていき、その大きく開かれた口から、尾までを貫いた。

 光線に貫かれたニズヘイグの身体が、ビクッと弾かれたように動いたかと思うと、真っ赤に光っていた瞳から急速に光が失われ、そこから漏れ出た金色の光が、火山の噴煙のように噴き出した。

 そして、ニズヘイグは完全に動きを止めた。

 カイナは動かなくなったニズヘイグから興味を失ったように、掴んでいた翼を放り投げると、ジョウのところに向かった。カイルとガルダンは、止めとばかりに打ちかかり、硬い背中の皮を残して、ほとんど首を両断するばかりに打ち落とした。

 「あ、危なかった! ガルダン、大丈夫?」

 「なに、かすり傷じゃ!」

 その言葉とは裏腹に、ガルダンは尻もちを着くように地面に座り込んだが、その拍子に走った右腕の激痛に、顔を顰めた。

 「ガルダン! カイル!」

 そこにアルルが現れ、二人と合流した。3人は、そこで初めて、後方の異変に気が付いた。クロエとエナが屈みこんで何かをしている。エナの両手からは溢れるばかりの光が見え、その光にシルエットとなっているクロエは、泣き叫んでいるようだった。

 そういえば、マールは・・・。

 3人はハッとして顔を見合わせ、急いでエナとクロエの元に駆け寄った。

         ※            ※

 その様子をはるか上空から、白い蝙蝠が見下ろしていた。蝙蝠はニズヘイグの首が斬り落とされたのを見届けると、闇の深まる西の空へ飛び去っていった。 

 

第2章 第10話 「英雄の覚悟」

 マールの魂は、エナによって、かろうじて肉体に繋ぎ留められていた。肉体の損傷が激しく、魂を元に戻せない。だがこのままでは、何らかの理由でエナの詠唱が途切れた瞬間に、マールの魂が肉体から完全に離れることを意味する。逆に言えば、肉体の損傷を元に戻すことができれば、マールは高い確率で蘇生するはずだった。

 駆け付けた3人がマールの現状を見て、絶句した。ニズヘイグのブレスをまともに喰らってしまったマールは、全身が黒く焦げており、手の指は完全に失われていた。眼球のない眼窩だけの顔・・・。苦しそうな浅い呼吸と、微かな胸の上下動が、かろうじてマールが生きていることを示している。

 「マール! マール! しっかり!」

 クロエはほとんど半狂乱の体だった。両手で自分の頭を挟み、狂ったように名前を叫び続ける。アルルがその肩を、そっと抱いた。その顔も、涙でぐしゃぐしゃだった。

 ガルダンは怒りを嚙み殺し、カイルは茫然として、崩れ落ちるように座り込んだ。

 「エアリアを! エアリアを呼んできてっ! 早くっ!」

 クロエがアルルの胸倉に掴み掛るようにして懇願する。アルルが正解を求めて、ガルダンを振り返るが、ガルダンにも答えは得られないようだった。

 その時、マールの指の無い左手がクロエの太ももに触れた。マールが僅かに首を振りながら、何かを話そうとしているが、それは声にはならず、空気の漏れる音が繰り返されるだけだった。

 「儀式が、何よっ! あなた、死に掛けてるのよ! な、仲間の、命よりっ・・・!」

 クロエは最後まで言い終えられず、泣き崩れた。マールの手が、ポンポンとクロエの太ももを叩く。相変わらず、首を左右に振っている。声にはならなくても、その思いは、全員に伝わった。

 「ぐ・・・ぐぅ・・・!」

 ガルダンは怒りの表情のまま、その小さな瞳から涙を溢れさせた。きつく噛んだ唇から血が流れ、強く握りしめられた左手は、小刻みに震えていた。

 意識を取り戻したジョウが、カイナに抱えられるようにしてやってきた。ニノが心配そうにマールを覗き込み、子猫のような声を出す。ニノは、泣いていた。

 闇が、辺りを支配した。静寂に包まれた山に、エナの必死の詠唱が低く、果てしなく続いている。初夏とは言え、冷気が覆う時間にも関わらず、エナの額には汗が滲み出ていた。

   ※            ※

 大蝋燭の炎が急激に明るさを増し、大きく揺らめくと、ジッという音を響き渡らせて消えた。

 エアリアは顔を上げた。蝋燭が消えた瞬間に脳裏に浮かんだ言葉を、迷わず口にした。

 「神を追い求めてはいけない。神は、己に見出すもの。それ即ち、信仰の心・・・。」

 エアリアは、雷に打たれたように体を強張らせながら、天井を仰いだ。頭上から、まばゆい光がエアリアを包み込み、光の闇の中で、エアリアは意識を失った。

      ※            ※

 長い夜が、今まさに明けようとしていた。東の空から太陽の明かりが差し込み、マールとその周囲に佇む一行に、冷気を払う暖かい光を注いでいる。

 マールは、まだ、かろうじて、生きていた。だが、それももう、まもなく終焉を迎える。

 エナは必死に詠唱を続けているが、既にその声は枯れ果て、破れた喉から溢れた血が、口から流れ出ていた。疲れ果てたその瞳から、涙が一筋、頬を伝った。

 そして、その時は訪れた。エナの声が完全に枯れ、「言葉」は力を失った。それでもエナは、必死に口を動かし続けていたが、そこから漏れ出るのは乾いた空気の音だけだった。エナの両手から、光が消えた。

 マールは最後に、大きく息を吐いて、まるで人生に満足してうなずいたように、ゆっくりと顔を俯けた。

 「・・・マ・・・マール・・・。」

 クロエは、泣き腫らした目でマールを見つめ、その唇にキスをした。

 アルルは、文字通り、声を上げて泣いた。

 カイルは、何度も何度も、地面に拳を打ち付けた。

 ガルダンは、低い唸りを発しながら、静かに瞑目した。

 ニノが天空を睨み据えるようにして、慟哭の咆哮を上げた。ジョウがそれに続き、やがてカイナがひと際低く、後に続いた。

 悲しみに暮れる一行の前に、音もなくゆっくりと近付いてくる人影があった。いち早く気付いたカイルが、驚きの声を上げる。

 「エ・・・エア・・・エアリア?」

 その声に顔を上げたエナが、ハッとして両手を組み、首を垂れた。

 現れたのは、エアリアに似ていたが、髪の毛が銀色に輝き、見慣れない衣装を身に着けた女性だった。女性は滑るように近寄り、マールの足元に立つと、右手をゆっくりと持ち上げ、マールの身体にかざす。

 マールの身体が、まるで真珠のような光沢を放つ、白い光に包まれた。

 やがて、光が消え去ると、マールの肉体が元の形を取り戻した状態で、静かに横たわっていた。

 『この者の魂を、呼び戻しなさい。』

 それは、耳で聞いた音ではなかった。頭上から直接それぞれの頭の中に響き渡る「声」だった。

 全員が、口々にマールの名を叫んだ。クロエとアルルは体に取り付くようにして、必死に揺すりながら呼び掛けた。カイルも、ガルダンも。声の出せないサスカッチ達は、明け方の空に放った遠吠えでマールを呼んだ。

 ひゅー

 その音と重なるように、マールの胸が大きく膨らむ。全員が一瞬の沈黙の後、さらに大きな声でマールに呼び掛けた。

 「マール! マール! 目を覚まして!」

 「マーーール! がんばれ! 頑張るんだ!」

 「戻るんじゃ! 目を開け! マールっ!」

 マールの瞼が、ピクリと動いた。呼吸は規則正しく続けられ、同じリズムで胸が上下に動き、やがてマールは、まぶしそうにしながら、ゆっくりと目を開けた。

 「あ・・・あれ?」

 「マールーッ!!」

 なんだかわからないが、マールは幸せだった。右からアルルが、左からアルルが抱き着いてきて、頬に何度もキスをされた。何が起こったっていうんだ・・・?

 『マール、小さき魂よ、見事な戦いでした・・・。私の娘たちを守ってくれて、ありがとう。』

 頭の上から、じんわりと広がるように声が響いた。足元に立っている見慣れないきれいな女性が、うっすらと微笑んでいた。

『あなた方の世界に、闇が迫っています。それを跳ね返せるのは、あなた方を始めとした、全ての命ある者たち・・・。』

 その女性が、遠く南の方を向き、しばらくしてから向き直って語を継いだ。

 『エナ・・・ご苦労でした。あなたの役目は、次の段階に移りました。これよりは、神々の言葉を伝えなさい。全ての天上の力を、あなたに授けます。』

 エナが片膝を立てた正式の礼法に則った姿勢のまま、深く首を垂れた。

 マールはその横顔を見て、はじめてこれがエアリアだと気が付いた。髪の色も雰囲気もまったく異なっていて、すぐには気が付かなかったのだ。ということは、エアリアは無事に儀式を終えたのだ。今、目にしているのは、神を宿したエアリアの姿だ。

 『ガルダン、アルル・・・私はあなた方の神ではありませんが、どうか、お願いです。これよりも、この者たちに力を貸してあげて下さい。あなた方に、私がして差し上げられることは多くはありませんが、どうか・・・お願いです・・・。』

 エアリアが、いや、人間の神であるエーテルが、ガルダンとアルルに深々と頭を下げた。ガルダンもアルルも、無言で頭を下げた。再び顔を上げた時、ガルダンの右腕は以前よりも頑健に治癒し、アルルのこめかみの傷は、きれいに消えていた。

 エアリアの身体が、天に昇るかのように、ふわりと浮いた。次の瞬間、まばゆい光に包まれたエアリアの身体から、光だけが天空へと飛び去り、意識を失ったままのエアリアの身体が、ゆっくりと地上に降りてきた。

 走り寄ったカイルがその身体を受け止めると、エアリアはゆっくりと瞼を開いた。

 「カイル・・・みんな・・・ありがとう・・・。」

 いつもの、見る者をほっとさせる、エアリアの笑顔だった。

 再開の喜びは、一同に活気をもたらした。エアリアはすぐにエナに治療を施し、マールは大丈夫だと言うのにカイルに背負われ、後ろからアルルとクロエに腰を支えられて小屋へと戻った。先頭を歩くガルダンは調子はずれの鼻歌を口ずさみ、カイナ達でさえ愉快そうにふざけ合っている。

 エーテルは、ニズヘイグの屍体を完全に消し去っていた。地面にはニズヘイグの形に黒ずんだ跡と、巨大な牙が人数分、残されていた。その牙は、ドラゴンを倒した証として冒険者の勲章となる。今やここにいる全員がドラゴンスレイヤーだ。それはハイペルの300年の歴史の中でも、稀有な存在、ということになる。エーテルの、粋な配慮、ということだろうか。

「私の記憶では、カイルが12人目、ということになるわね。」

「僕がかい? 倒したのはクロエの魔術じゃないか!」

 冒険者ギルドでは、ドラゴンの牙を持つ者を正式の記録として登録している。その身体に最初の一太刀を浴びせた者が、その称号を手にすることができる。

 クロエにその説明を受けたカイルは、照れたように頭を掻いた。

 「ははは! そう卑下するでない、カイル! 最初の一撃は、間違いなくお前の槍じゃ!」

 「それは良いとして、クロエ、あの魔術は何? あんなの、初めて見たわ! ドラゴンを一撃で倒すなんて!」

 「ああ、あれね! あははっ! 実は、私も初めて使ったの! 階層のわからない古代の呪文らしいんだけどね、ちょっと前に地下遺跡帰りの冒険者から譲ってもらった魔術書に書いてあったから!」

 「そ・・・そんな・・・そんなデタラメで、いいの!?」

 「まあ、なんとなくはわかってたから! 私も夢中だったのよ!」

 「そんなにすごい魔術だったの? 僕も見たかったなぁ。」

 暢気な声を上げたマールに誘われるように、一行から大きな笑いが巻き起こった。実際マールはそれどころではなかったのだが、その記憶はなくなっているらしい。クロエなどは涙を流して笑い転げていた。

 『私があの術を使った理由は、まだ秘密にしておいた方が良さそうだわ』

 笑いながら、クロエはそう考えていた。とにかく、今はマールが戻り、エアリアも目的を果たした。伝説の女神さまにも会えたし、ドラゴンも倒した。これ以上の幸せを求めたら、罰が当たりそうだった。

 小屋に戻ると、全員が倒れ込むほどに疲れ果てていたが、エナとエアリアが心尽くしの料理を振舞い、小屋の外で大きな焚火を囲んで、サスカッチ達を巻き込んだ大宴会となった。

 ガルダンはカイナにブランデーを飲ませ、酔った二人が早々に寝転がって大いびきをかき始めた。

 「・・・未だに信じられないよ。俺たち、とんでもない強運に恵まれて、少し怖いくらいだよ。」

 「強運と言えるかしら? エーテル様の言うことが正しければ、大暗黒戦争の再来ってことでしょ? 自分たちの生きている時代にそれがまた起こるっていうのは、むしろ運がないんじゃないの?」

 「いいか悪いかは別として、少なくても『運』だけは持ってるってことだね。」

 カイルとアルルの会話に混ざり、マールは自嘲的な笑みを浮かべた。二人とも大きくうなずいて、同じように笑った。

 「おかげさまで、無事に秘儀をやり遂げることができたようです・・・。」

 「覚者エアリア。その礼は、あなたの仲間たちに・・・。とても素晴らしい仲間に恵まれましたね・・・。」

 エアリアが大きくうなずいて、それぞれを見た。エナの話によれば、ニズヘイグのブレスが襲った時、エナもマールに突き飛ばされていた。その勢いで斜面を転がり落ちたエナは、ブレスから逃れることができたのだそうだ。

 「いくら不死とは言え、まともに喰らっていれば、無事では済まなかったでしょう。」

 エナは感謝と共に、マールの動きに感動すら覚えた、と言う。マールが咄嗟に取った行動は、まさしく「自己犠牲」そのものだ。人間は、ああした咄嗟の行動に、その本性が現れる。自分の身の危険を顧みず、他者を救う行為は、「最も聖なる行為」として称えられる。それ故、エーテルはエアリアの身を借りて、マールをこの世に戻したのだろう、と。

 「・・・これよりは、お互いに新たな試練に立ち向かわなければなりません。私も山を下り、この危機を、それに立ち向かう術を、世界中に広めるつもりです・・・。」

 「・・・はい・・・。私たちは、カリランドに向かおうと思います・・・。」

 「それがいいでしょう・・・。相手は不死の王、ある意味では、ドラゴンよりその信仰を試される相手です・・・。」

 「はい。覚悟は、できております・・・。」

 エアリアはもう一度、それぞれの時を過ごしている仲間を順々に見た。

 いずれも、この世で最も信頼できる、心の通じた仲間だった。この仲間とともになら、なんでもできそうな気がした。

 マールは、一人離れたところで、夜空を見上げてブランデーを飲んでいるクロエの元へ向かった。エアリアの悲願達成のお祝いも兼ねているこの宴会では、新参のクロエが少し浮いてしまうのは、無理もないことだった。

 「シャトーに戻るのは、少し先になりそうだね。」

 マールはそう話し掛けながら、クロエの隣に腰を下ろした。

 「そうねぇ・・・。残念だけど、世界の命運には代えられないわ。世界が終わったら、私たちも自動的に終わりになっちゃうんじゃ、ねぇ?」

 「あーあ、ドラゴンの次は、ヴァンパイアだってさ。トンカを出た時は、そんなこと考えもしなかった。」

 「人生って、そんなものよ? いつ、何の拍子でどうなるか、少し先のことだって、誰にもわからないんだから。」

 クロエは、『恋もね』と、心の中で呟いた。一目見たときは、自分がマールにこんな感情を抱くとは、それこそ考えもしなかった。

 「まあ、やるだけやるしか、ないね。どうやら僕も、エーテル様に借りができたみたいだし。それに、クロエにもね・・・。あの時、なぜかクロエの声だけは、はっきりと聞こえてたんだ・・・。クロエに呼ばれたから、戻らなきゃ、って。」

 「そ・・・そう・・・なの?」

 「そうさ! 雲の上を歩いていてね、目の前に、とんでもなく大きな扉があったんだ。その扉がゆっくり開いて、中に入ろうと思った時にクロエの呼ぶ声が聞こえたんだ。それで、慌てて戻って来たんだよ!」

 クロエがマールに飛びつくように抱き着いた。

 「良かった・・・。良かったね・・・マール!」

 「ちょ! クロエ! く、苦しいよ!」

 「黙って! 少しは我慢しなさいよ!」

 そう言われて、マールはクロエがきつく抱きしめて来るのに任せていた。こんなに喜んでくれるとは。やっぱり人生は、不思議だ。

 カイルもアルルも、エアリアもエナまでも、その二人の様子を温かい目で見つめていた。

          ※          ※

 はるか西の地で、ノストールへ使いに出していたヘルガの報告を聞いたヴァイロンは、声を出して笑った。

 「やはり! あのトカゲの化け物は、役立たずであったな!」

 「・・・懸念していたことが、現実になってしまいました、ね・・・。」

 隣で同じ報告を聞いていたハンナも、そう言いながら不敵な笑みを浮かべた。

 「だから、最初から言っていたであろう! そもそも知性の欠片もない連中に、何を期待しろと言うんだ!」

 「・・・まさに・・・。」

 「こうなっては、アズアゼル猊下もこちらの提案を飲まざるを得ないであろうな?」

 「・・・そうなりましょう・・・。すでに、猊下の策は破れました。」

 「よし! ならばハーメルンに使いを出せ。今後はこちらの思うようにさせてもらうとな! 捕らえてある愚か者どもの様子はどうか?」

 「すでに、半数ほどを堕落し終えております・・・。残りも・・・時間の問題でしょう。」

 「作業を急がせよ。それと、な。カリランドを落とすぞ。あそこにはこちらに必要な物がいくらでもある。聖職者などと呼ばれておるが、所詮はただの肉の器よ!」

 「・・・御意。」

 ヴァイロンは高笑いを響かせながら、その部屋を後にした。後ろには腹心のヴァンピレス、ヘルガとアービスが、いつものように付き従っていた。


「W.I.A.」~World was saved when an Inventor became an Adventurer~

第一部 了。 


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