ある「ギフテッド」当事者の半生(1) どうしてこうなった

最近、「ギフテッド教育」なるものが認知されつつある。というのも、文科省が「特異な才能のある子供への支援に乗り出し」たからだ。だから教育関連のニュースで『ギフテッド?ああ、頭のいい天才でしょう』と認識されている方も多いと思う。
実際はそんな簡単なものではない。ある意味「ギフテッド」という言葉が一人歩きし、ステレオタイプなイメージが形成されつつあるのには大変な違和感を覚える。
私は1988年(昭和63年)生まれで、平成の年と年齢が一致する歳だ。
そんな"古い教育を受けた"者の、ある意味半生を綴ろうと思う。
特異な才能を持つ、当事者あるいは彼ら彼女らのご両親に少しでも参考になれたら。

1.小学校入学まで
私の記憶は古いものになる程ニュースの記憶が多い。1993年の奥尻島地震、1995年の阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・Windows95発売、1996年の豊浜トンネル崩落事故といった具合だ。当時大体のニュースはテレビで手に入れるものだったから、映像と一緒に記憶している。奥尻島地震では海岸からレポートをする映像が頭からいまだに消えずにいる。豊浜トンネル事故(あれも悲惨な事故だった)の映像記憶では、潰れた路線バスのハザードランプが点滅したところも覚えている具合だ。

私をその後大きく変えることになったのは、'95年のWindows95発売のニュースをテレビで見たことから始まる。当時パソコンは「なんでも出来るすごい機械」といった具合に語られていた。
私はその瞬間からパソコンの魅力にハマっていくことになる。だが、当時のパソコンは30万円程度と非常に高額な機械で、親にねだっても買ってくれるレベルではなかった。代わりに私の母は、パソコンに関する百科事典を買ってくれた。それを読んで、ますますパソコンが欲しくなったものだ。
余談だが、母が「マック買いに行こうか」と言ったのを、自分は「マッキントッシュ買ってくれるの!?」と狂喜乱舞したのも束の間。向かった先はマクドナルドであった。
 また、私の母方の祖父は旧国鉄で設計技師であったのだが、家は新潟にあった。
上越新幹線に乗り年3回、一年のうち3ヶ月はそっちに居ていた。
その時に、何かの機会でゲルマニウムラジオを一緒に作った。あれは電池がいらないのだが、クリスタルイヤホンからは明瞭に放送を聞き取ることができたことをとても感動した記憶がある。「電波を音に変える」と祖父は説明してくれたが、電波は光の一種、音は空気の振動である。すなわち、エネルギー変換の考え方についても養うことが出来た。

そうそう、その当時父がワープロを持っていた(東芝・Rupo 90Fという機種)が、それを使わないということで譲ってもらったことがあった。
ワープロは文書専用専用機のようなものだから、あまり拡張性というものはない。
ただ5歳の自分にとってインパクトは十分で、スタートアップマニュアルに書いてある文章を真似て作って楽しんでいた。無論漢字は読めない文字もあったので、分からないところはふりがなを振ってもらったものだ。

そして、パソコンと電子工作は相性が良いということもあって、ますますそっち方面にのめり込んで行く。


2.小学校時代
その当時、何故かわからないが、私は孤独感のようなものを感じていた。1年生で初めてクラス編成され教室で皆の顔を見た時、「これじゃ友達は出来ないな」と悲しんだことを今でも忘れられない。まあ、そんな心配は杞憂に終わるのだが…。

ただ家で勉強した記憶は全くないのだが、何故か100点しか取ったことがない。みんな家で勉強なんてするもんじゃないだろう、と当時思っていた。家で勉強する人が圧倒的だということに気づいたのは、後に自分が大学に入ってからだった。
それまで友人とどのような勉強を家でしたか、なんて話したこともなかったからということもおおきい。私は家で、電子工作のキットを買ってきて半田付けすることに熱中する毎日だった。
 転機が訪れたのは2年生の時。毎度のように新潟に行くとなんとパソコンが置いてあった。PC-9801RXという機種で、母の兄が不要になったからと実家である新潟の家に送ってきたらしい。当時としても古い機種(Windows95なんて動かない)だったが、N-88 BASICというプログラミング機能が備わっており、マイコンベーシックという雑誌を買ってもらい、プログラムを入力し、色々と知見を広げることが出来た。そしてますます、GUI(マウス操作が可能な)パソコンが欲しくなっていく。。。
勉強については相変わらず家でやることはなかった。学習机の上にはハンダゴテやはんだ、抵抗やトランジスタが散乱していた。

3年生の時、自分にとっては物凄く大きいことがあった。
例の母の兄がマッキントッシュ(PowerMacintosh 5500/225)を買い与えてくれたのだ。どうやら祖父母や母から『あの子はパソコンに興味があるらしい』と聞いて、当時プリンタとセットで30万はくだらないパソコンをプレゼントしてくれたのだ。涙が出るほど嬉しかった。そしてそれを新潟経由で横浜の自宅に送ってもらい、本当に寝食を忘れるほど熱中したことを今でも懐かしく感じる。

そして4年生に進級。勉強面では相変わらずであったが、学校ではある変化があった。私がいた小学校は、4年生になるとクラブ活動を始めるシステムだった。
私は迷わずパソコンクラブに入ったが、当時はまだインターネットには接続されておらず、皆はパソコンでゲームをして遊んでいた。

ただ自分は何故だかゲームをする楽しさが理解出来なかった。
今でもそうだが、親が言うには「昔から戦隊モノみたいな敵味方で戦うものは好きじゃなかったからねぇ」とのこと。

 そこで出会ったのが顧問のS先生であった。先生は学校の中で一番詳しく(今では信じられないだろうが、キーボードすら使えない先生もままいた)、私のパソコンに対する情熱や熱心さを見てくれて、パソコンルームに1台だけある教師用のパソコンを自由に使っていいという許可と、当時は違法だが比較的よく行われていたソフトのコピー(私はMacintoshユーザーだったので、DOS/Vソフトは持っていなかった)をしてくれた。何せ、その教師用のPCには、当時高価だったCD-Rドライブが接続されており、ブランクディスクだけ買ってくればよかったのだ。
そしてそのS先生が、ある時Visual Basicをコピーしてくれた。そしてそれにハマってしまった。ゲームはやるより作る方が、皆が面白くプレイして楽しんでいるのを見れるのだから…最終的には、MacOS上でWindows95が動くエミュレーターを買ってもらい、家でもプログラミングに熱中するようになった。それだけで5万円近くしたと記憶しているが、新潟の祖父母がなんとか自分に買い与えてくれた。
そして出来上がったゲームをフロッピーディスクに入れ、学校に持って行き皆のフィードバックを参考にゲームを改良したもんだ。

そして、この年にもう一つ自分にとって大きいことがあった。「初めてインターネットを体験」したのだ。といってもプロバイダ契約をしたわけでもなく、当時NTTがいろんな場所にインターネットとISDN回線を試すことができるスポットショップみたいなところが、私が住む最寄駅に出来たのだ。とはいっても、当時インターネットで何が出来るかよく分かっていなかった自分は、インストラクターのお姉さんに「インターネットがやりたいです!」といって困惑させたのだが。

 そこでたどり着いたのがNASA(アメリカ航空宇宙局)のホームページだった。
当時からNASAはアーカイブをネットに公開しており、アポロ計画の写真や動画(記録フィルムを動画化したもの、音はなかった)を自由に見ることが出来た。
その素晴らしさと美しさに魅了されたが、それと同時に自身の英語能力の無さに悔しい思いもした。

そして宇宙計画に魅了された私は、母にねだって映画「アポロ13」のVHSテープを買ってもらった。その映画が当時最新鋭のコンピュータグラフィックスを駆使したもの、また実話に基づいたドキュメンタリーに近いものということはその映画を観る前から知っていたものの、実際に見ると実写としか思えない映像美(ニール・アームストロングは『どうやってこの実写映像を入手したのか?』と聞いたという)に地上管制官の連携や危機解決能力にある種のショックを受け、将来はNASAで働きたいと思うようになっていった。

3.小学5年〜中学受験まで

私のいた小学校では、5年生になると委員会活動が始まる。
最初私は、前述のS先生が顧問を担当している放送委員会に入った。それだけS先生を信頼していたのだろう。そこで、ソニーのフロッピーマビカ(デジタルカメラ)を触れることが出来たし、学校内の放送機器についても知見を得ることが出来た。
が、自分にとって想定外のことが6月に起きてしまう。
なんと「パソコン委員会」が設立され、S先生はそっちの顧問になり、別の先生が放送委員会の顧問を担当することになったからである。
当時絶大な信頼を寄せていたS先生が放送委員会から居なくなるというのはとてもショックだった。しかし、委員会の所属替えは進級時にしか出来ない制度になっていた。

結局のところ、自分は校長先生に直談判し、結果特別にパソコン委員会に異動できることになった。S先生からも、校長先生に対してアプローチがあったようである。そして晴れて、放送委員会からパソコン委員会に移ることが出来た。

委員会の仕事としては、昼休みと放課後に解放するパソコンルームの機器を整備して、皆が使えるように整えておくことである。学校独自のホームページを作る段階には到達していない時代であった。
それでも当時はパソコンに触れるというだけで嬉しかったものだ。
もちろん、そこで自分の作成したゲームアプリをインストールしておいて、皆が楽しめるように整備をしたのである(笑)。

そしてまた5年生の春あたりから、色々な環境の変化が訪れ始める。
まずは自宅にISDN回線を引き、父の部屋にルーターを置き、自室まで有線LANケーブルを敷設して自室でもインターネットが使えるようになった。
当時はまだ常時接続はOCNエコノミー(月4万円近く)しか選択肢が存在しなかったので、ISDN回線にテレホーダイ(23時〜8時までプロバイダ接続通話料が低額になるシステム)という形だった。ただあまりにネットにハマりすぎたので、テレホーダイ時間外の通話料に激怒した父がルーター側で接続制限をかけて、19〜20時、23〜翌8時しかネットに繋がらないようにされただが。

そして塾。母は幼稚園教諭、母の姉と祖母は中学校の数学教師という教員一家だったのだが、どうやらパソコンや電子機器に熱中する私を見て「私立中学に入れた方がいい」と言ったそうだ。
 それを母から言われたのは5年生の時だった。詳しい理由は上記の以外何故か記憶にないのだが、スイミングスクールを辞めて塾に通い始めたのはこの頃である。

ただ自分は相変わらずだった。自宅では全く予習復習をせず、まともに机に向かったのは3回だけだと記憶している。それでもそこそこの点数取れていたのだから、「熱心な人はすごいねー」的な考え方にしか当時はならなかった。

時を同じくして、我小学校においてもインターネットが導入される。
ルーターなどを見る限りOCNエコノミーを入れていたようで、今からしたら信じられないほど低速(スマホの通信制限時と同じ速度)だったのだが、当時はあまり問題にならなかった。むしろ、学校でようやくインターネットが使えるようになったことで、自分がネットに触れる機会が増えたことを嬉しく感じた。

6年生に進級すると同時に、私はパソコンクラブの部長と情報委員会(パソコン委員会だと前者と紛らわしため)の部長と委員長を兼任する形になった。
とは言っても立候補して選出されたわけでもなく、S先生が推薦したようである。

この頃の私は、今思い返せばすごいスケジュールだった。
午後4時に下校し、5時過ぎから9時過ぎまで塾。10時に家に帰ってご飯を食べ、11時からインターネットを始め翌2時に就寝。朝5時に起きて登校時間(7時40分)までインターネット。横になってまともに寝れる時間は3時間しかないが、小学生だったから耐えられたのだろう。今だったら絶対に不可能である。

私の母校は他の平均とは少し違い、クラスメイトの三分の一〜半分程度は中学受験組だった。学区内に国家公務員の官舎があtたり、平均所得が比較的高い地域だったということもあるかもしれない。ただ当時は他の学校と比較する手段がなかった(インターネット検索でもそういう記事が出てくる時代ではなかった)ので、そんなもんだろうと思っていた。

そして6年生の2月1日〜3日。言わずと知れた中学受験日がやってきた。
受ける学校を3校に絞り込んで、偏差値順に第一、第二、第三志望…と決めていった。スクリーニング基準は「コンピュータ教育が先進的である学校」。

 端的にいうと、全部合格してしまった。偏差値で言えば10程度違うので、親は驚いていたみたいだが私は「ああそうなの」といか思わなかった。
その中で私が選んだのは、二番目の学校であった。理由は、他の学校は電車乗り継ぎで時間がかかる一方、その学校は電車で10分程度で行けるからだ。
またその中学校はコンピュータ教育にとても熱心で、2001年当時でも「パソコンを学校で自作する」「課題をPCでこなし学校のホストコンピュータにアップロードし添削してもらう」といったシステムが構築された学校であった。
そういうこともあって、J中学への入学を決めた。親は「あんたが決めるんだから」と、今まで通り全く干渉してくることはなかった。

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