ある「ギフテッド」当事者の半生(11) どうしてこうなった

 そんな具合で、私は日本に急遽帰国することになる。
7年前に母が泣きながら送り出してくれた成田空港へ、このような形で戻るとは思ってもいなかったし、何より母の状態が不安でたまらなかった。

翌日。母が入院している病院に行くことになる。そこは、かつて私が世話になった児童精神科がある大学病院でもあった。

母に面会する。体型は変わっていなかったが、顔色は明らかに悪かった。
 – 開口一番「ごめんね、ごめんね」と言われた。
 母は何も悪いことをしていないし、むしろ私に関することでストレスが蓄積し、発病に至った可能性も無きにしも非ずだ。
 私は『心配しなくていいから。大丈夫』としか言えなかった。

程なくして、消化器外科の主治医より手術についての説明を受けた。
 胃を全摘–。胃を全て手術で摘出し、食道と腸をくっつけるという手術である。
それと同時に、抗がん剤のパルス療法、つまり抗がん剤の投与と休むことを繰り返すという治療方針についても説明された。

それから、父の会社についても気がかりだった。
当時父は30人ほどの従業員を抱える規模になっており、母がいない分、父は二人分の仕事量をこなしていた。母のことも心配だが、父の体調についても心配だった。
 弟と妹は仕事をまだ任せられるだけの年齢ではなかった。信頼していないわけではないが、従業員さん30人ほどをまとめるだけの器量−それは私にも備わっているとは思えなかったが−が足りないと父は感じていたそうだ。

 かくして、帰国して数日後から、父の会社の運営について父の手解きを受けることになる。
正直なところ、突然現れた「二代目の道楽息子」に、従業員さんからの信用を得ることは容易いことではない。しかも仕事内容についてまともな知識もない。
ではどうしたら良いのか…。
 考えた結果、朝父と一緒に車で通勤し、一緒に帰るという手段を取ることにした。朝7時に家を出て、午前2時に帰る毎日。休日は存在しない。
だが、当時はそうするしかなかった。他に手段がなかったのだから。

そうこうしているうちに、母の手術は予定通り成功した。
つまり胃の全摘出に成功したのである。
そして、抗がん剤のパルス療法が始まった。

 副作用で髪は抜け、どんどん痩せ細っていく。見ていてとても辛かったし、本人の辛さはその比ではないだろう。
 2011年3月のことだった。

その月の11日、あの東日本大震災がやってくることになる。
自宅や会社は神奈川県のため、東北地方で起きた被害とは比べるまでもなく軽微であった。それでも夕方まで停電が続いたため、会社の冷凍庫が停止。中の商品は全て廃棄の上、保険を使うことになった。その保険請求の手続きについても、父は細かく丁寧に教えてくれた。

 また母の入院していた病院は、非常用発電機が動いたため数秒の停電のみだけだったと聞いた。それでも、17階建の病院の12階に入院していたから相当な揺れだっただろう。母はとても怖かったに違いない。

そして時は過ぎ2012年。
母はだいぶ体調を取り戻しており、一時は私も寛解したと思っていた。段々と本人もそれを実感してきて、毎日ではないが会社に来るようにまで回復していたくらいだ。
 この時期は親子3人で会社を動かせるようになっていて、とても充実した日々だったと今では思っている。私は結局医者にはなれなかったが、親子で同じ仕事ができると言うことはとても楽しいことだと、父と母を通じて知ることができた。


 あれが永遠に続けばよかった。

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