ある「ギフテッド」当事者の半生(3) どうしてこうなった

〜前項(中学校卒業から国外追放まで)の続きです〜

5.留学先探し

自分にとっても母にとっても、いまいち掴みどころを得ない診断結果だったので、特にそれを悲しんだりすることはなかった。
当時は発達障害という言葉も、ギフテッドという言葉も日本に馴染みはなかった。

ただYドクターの言う以上、日本にこのまま居ても仕方がない。
水曜日に結果を告知され、木曜日は学校を休み考えに考え、金曜日に学年主任のY先生に母同伴で結果を伝えた。
 学年主任のY先生は「ああ、やっぱりそうでしたか」と顔色ひとつ変えずに答えたと記憶している。そして「何年かに一人、こういうケースの生徒さんがいて…最後は4年前だったでしょうか、彼は、スイスに今います」。

 実を言うと、スイスと聞いた時に正直戸惑った。ドイツ語とフランス語の国で生活しても…感があったし、過去にNASAのホームページが読めなかった英語コンプレックスがあったから。

当時の自分では、英語=アメリカというイメージがあった。だがY先生は「アメリカは治安がちょっと…10年位前に日本人留学生が殺された事件があったでしょう、物価とかも考えると、オセアニアが良いかもしれません」
 日本人留学生殺人事件…小学校の図書館で読んだ90年代の事件を私はすぐさま思い出した。ハロウィンのパーティで家を間違えて訪問してしまい、至近距離から撃たれて日本人の留学生が亡くなった事件だ。今思い返せばアメリカ=危険というのはステレオタイプな考え方だが、当時は本気でそう考えてしまった。

Y先生は「地域ごとに留学エージェントがいますから、そういうところで話されてはどうでしょうか」と続ける。流石に即決は出来ないので、考えますと答えて母は来た車で先に帰り、自分は授業を受けてから電車で帰った。

 当時の自分は、とても複雑な心境であった。
能力が高いのは嬉しいかもしれないけど、日本の教育制度から弾かれてしまった…
という、相反する思いが交差して、ずいぶん精神的に参ってしまった記憶がある。
それと同時に、日本の教育制度から弾かれたならもうどうにでもなれ、的なやけっぱちにすらなっていた。

それから、私は学校に行ったり行かなかったりを繰り返していた。
男子校だから保健室は高校側にしかないし、そもそも行っても意味が殆どないな、と思い始めたからである。具体的には、必要だと感じる授業と定期試験だけ出ていた。それでも点数はそこまで落ちなかったのが不思議だ。

 学校に行かないぶん、何をしてたかって?
某ジャンクショップに頻繁に通い、故障した電化製品(特にオーディオ・ビデオ)を自分で修理し、ヤフオクで売り捌き稼いでいた。多い時は月8万円ほどの利益になった。当時のヤフオクは手数料がなかったし、もっと言えば最初期は本人確認すら適当だった。母の名前と本人確認用のクレカを借りてアカウントを作り、それを使い出品していた(当時はメールで直にやりとりする形式だった)。

そして、そのお金は外の世界に向けて使うことになる。
日本の鉄道はとても信頼できる交通機関だ。JRの18きっぷは当たり前のこと、2000年代はとんでもなくお得な電車の切符が存在したのだ。具体的に言えば、JR東日本の古川駅以南の新幹線・特急など乗り放題。指定席も枚数制限なし。値段は中高生用で2日間4000円。
西に行く時は、学校で学割証を出してもらって2割引で切符を買っていた。別に退学したわけでもないし、自分の学校は年間何枚でも学割証を出してくれた。
 そんなこんなで全国を飛び回り、最終的には中学3年までに四国以外の全都道府県を訪れることになる。

話が前後してすまないが、Y先生に結果を伝えて1ヶ月位したあとだろうか。
池袋にオーストラリア留学向けのエージェントがあるとのことで、そこの門を叩いたことがある。そのエージェントはオーストラリア専門だったが、北アメリカやヨーロッパと比較して治安が良いこと、(当時は)物価もそれほど高くないところ、時差もあまりないので家族との連絡が簡単なこと。といったことを説明してくれた。学費に関しても、アメリカより100万円位安いとのことだった。

 結局、私は中高一貫の学校を中学で辞めて、遥か赤道の先にある国に留学することを決めた。学生ビザを取るのに結構な時間がかかったが(911テロのせいで)、渡航1ヶ月前には学生ビザが無事発給された。

2004年4月、私は巨大なスーツケースを抱え、父母弟妹と共に成田空港の出発ロビーにいた。父は「頑張ってこいよ」と言っていたが、母は泣いていた。
 −そしてそれを振り切るようにして、出発ゲートを一人でくぐる自分がいた−

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