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ルカによる福音書第15章11〜32節「父の覚悟に見る神の愛」

7月14日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材はルカによる福音書第15章11〜32節「父の覚悟に見る神の愛」。

ルカによる福音書第15章11〜19節
はルカによる福音書第15章19〜29節「父の覚悟に見る神の愛」
はルカによる福音書第15章30〜32節「父の覚悟に見る神の愛」


 今日の箇所は放蕩息子の話として、聖書で最も有名で愛されている下り。あるアメリカ🇺🇸の牧師は、放蕩息子に関する説教を7回に分けて説教した。結果的に教会の雰囲気はとても良くなったそうだった。自分は7回に分けようとまでは思わないけれど、前半後半の2回には分けてお話ししたい。この物語の主たる登場人物は父、兄、弟の3人である。このうち父は神が表現されており、兄と弟はわれわれ人間を指している。聖書時代の相続は親の死後が常識であり、生前贈与はまずありえないことであった。それを要求した弟は「貴方が死ぬまで待てない」という大変失礼な態度を父親に取ったことになる。
 聖書では必要最低限の描写しか行わない。これがテレビドラマなら、たった5分で終わってしまうことだろう。自分が脚本家だったらと考えれば、おそらく財産分与に至るまでの父親の心の葛藤が描かれていたことだろう。若いうちに大金を与えてしまえば、息子がどうなってしまうか、父親にはわかっていたはず。そのことを非難する人も多かったことだろうしかし父親にとって、世間体はどうでもよかった。父親は弟を何度も嗜めたはず。しかし彼を説き伏せることはできなかった。それならばと息子の自由を尊重したのである。
 ある教育系の座談会に出席した。ある母親が、自分の息子の進路について「本人が考えているより、もっと適した進路があるのに」と嘆いていた。これに対して、座談会の講師は「親は子供に強制することはできない。しかし幅広い視野で、子供に対して助言をすることは大事」と諭した。創世記第2〜3章で、アダムとイブはエデンの園で自由に暮らしていた。二人は善悪を知る実以外の全てを採って食べることを許されていた。しかし結局のところ二人は神を裏切って、善悪を知る実を食べてしまった。そも結果として楽園を追放され、死す運命となった。この時に二人は神に従うことも、背くこともできたが、後者を選んだ。神は人の心に強制はしない。ただ神の心に添ってくれるのを待ってくれている。
 父親は次男の帰りを待ち侘びていた。私が小説家だったら、父親の決断を次のようにポエティックに語るだろう。「息子よ、私は財産を手に入れたいという要求に心から賛同しているわけではない。お前はきっと大金を手に入れたら、気ままな生活を送るだろう。だけどお前はまだ世の中の怖さがわかっていない。たしかにお前に金があるうちは、みんなチヤホヤするだろう。だが世の中には、いつ何が起こるかなんてわかるものじゃない。あっという間に財産を失うこともあるだろう。その時になって、お前は人の世の冷たさ、厳しさ、世知辛さを知るだろう。私はお前が傷つき、みじめな思いをすることに耐えられない。だからできれば財産を渡したくないし、うちを出て行って欲しくない。しかし私がどんなに言葉を尽くしても、今のお前には理解できないだろう。だからこれがどうしてもお前の願いなら、財産の分け前を与えよう。私にはお前がどのような道に進もうとしているか、目に見えている。だがお前が傷つく時、私も一緒に傷つこう。お前が惨めな思いをする時、私も一緒にその惨めさを引き受けよう。お前が苦しむ時、私も一緒に苦しむつもりだ」。
 神さまはわれわれに選択の自由を与えてくれた。しかし自由には責任が伴う。人は自分の愚かな、誤った選択に苦しむ時がある。神さまはわれわれの苦しみを一緒に負って下さる。神がイエス・キリストを派遣して罪を背負ってくれた。父親はひたすら次男の帰りを待っていた。これが神さまの私たちに対する心であり、愛である。私たちはこの神の愛を受け取って生活してゆきたい。

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