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『覚悟』へのまなざしから生まれた目標

とある取材をしていたときのことです。ある領域の有識者の方に、「(その領域の)初心者は何から始めればいいのでしょうか」と質問したところ、「(その領域に挑むことを)覚悟すること」という答えが返ってきました。

具体的なアクションではなく『覚悟』という言葉が出てきたことに、私はなんとも言えない“ひっかかり”のようなものを覚えました。そして執筆するときも、『覚悟』という言葉をそのまま書いてもどうも腑に落ちない感覚が残ったので、改めて言葉の意味を調べてみました。

事前に厳しい困難な事態を予測して心を決め、 そのようになっても仕方がないという気持ちを持つこと」。それが『覚悟』の定義でした。

私は衝撃を受けました。『覚悟』の意味を、ちゃんと知らなかった。私がこれまでなにげなくつかってきた『覚悟』は、全然違うニュアンスだったのです。

改めて自分の『覚悟』の解釈を言葉にしてみると、「よーし!やってやるぞ!」くらいの解像度で意気込むことだったと思います。つまり、その先にある困難な事態まで予測し、かつ仕方がないというマインドをセットするなんて思いもよらなかったのです。

このひとつの学びは、私に大きな波紋をもたらしました。というのも、私は一度たりとも『覚悟』したことなどなかったと気付いてしまったんです。


私は何かに挑戦するとき、「よーし!やってやるぞ!」と意気込んで目標を掲げてきました。でも、すぐにやめてしまう。なんでもそう。趣味にしても、健康のためのダイエットや美容にしても、仕事に関わる新しい学びの開拓にしても、3日坊主になってしまう。

そのたびに「私ってダメなやつだ」とか「あきらめ癖がついている」とか、自分自身に問題があるという視点でうじうじと悩み、しばらくして心の痛みが減ってくると、違うことならできる気がして「よーし!やってやるぞ!」と同じサイクルを繰り返してきたのです。

でも、問題はそこじゃなかったのだと、『覚悟』の本当の意味を知って気付きました。私はいつも、成功や喜びしか想像していなかった。その先にある困難を予測していなかったのです。

そうやって自分の行いを振り返ってみると、改めて『覚悟』とはなんと重たい言葉なのだろう、と思うのです。だって、もしも具体的な困難が思い描けてしまったら、そもそもやる気にならないじゃないですか。「それでも仕方がないよ」と言いながら、新しいことをゼロから始めるなんて。私が今までなんとなく繰り返してきた「よーし!やってやるぞ!」と比べものにならないくらいのエネルギーがなければ、そんな決断できません。

私は今まで、何かを始めるためのひとつのステップとして『覚悟』を捉えたことがなかった。けれど、そのステップを踏まなければ、何もうまくいかないんだ。それは大きな気付きであり、衝撃でした。


じゃあ、何に対して私は『覚悟』ができるんだろうか。そう自問してみると、そこからは今までと異なる考えの道筋ができていく感覚を覚えました。

今まで意識的にやってこなかっただけで、困難を予測することについては、ある程度できることに気付きました。問題はその先です。それを「仕方がない」と思えるかどうか。ここで私はつまづいているようです。

例えば、ダイエットをするとき。体重や体型の目標を作って、それを達成する期間を設定したとします。でも、忙しくて食生活が乱れたり運動できなかったりという困難があって、期日が来たとき目標に至れなかった。これを「仕方がない」と思うことができるのか。そうなってもいいと割り切って、それほど好きではない運動や食事制限という努力を始められるか。

そこまで想像してみて初めて、納得できる理由が欲しいと思いました。そうすると今度は、自分が納得できる理由とは何なのかという新しい疑問が生まれてきます。ここもまたひとしきり考えてみて、いくつかのパターンに分けられることに気付きました。

ひとつめは、「仕方がない」と思えるレベルのストレス負荷であれば、目標に至れなくてもそれほど苦ではないということ。先に挙げたダイエットの例で言えば、自分にとって過剰な運動や食事制限でなければ、「まぁこの程度だったら、別にうまくいかなくてもいっか」と諦めがつきそうだと想像できました。ならば、そもそもその負荷レベルで達成できる目標を先に設定しておけば成功確率も高まるし、仮に失敗したとしても「仕方がない」と思える。これなら『覚悟』できそうです。私は『覚悟』はハードルの高いこととセットだと思いこんできた節があるぞ、と気付きました。

ふたつめは、プロセスそのものに意味があると感じられること。またダイエットを例にとると、たとえ痩せなくても、ダイエットに挑戦したことが健康に良い影響をもたらしたと実感したり、食費を節約することにつながったりと、別の効果ももたらしていると気付ければ、「まぁいっか!」と割り切れそうでした。このパターンを考えたとき、私は成果だけに目を向けがちだったということを改めて自覚しました。それもそうで、成功したところしか想像しないということは、言い換えれば点で見た結果だけしか思い描けていないということなのです。困難を受け止めていくことは、結果に至るまでのプロセスに散らばる学びや発見に対する感度を高めることでもあるのだと感じました。

そしてみっつめは、純粋に「楽しい」という感覚があるかどうか。もしもどんな困難があったとしても根底に「楽しい」という熱狂があれば、困難は困難ですらなくなるはずです。これについては、正直やってみなきゃわからん。でも、何を「楽しい」と思えるのか自分の心の動きを深く理解していれば、ある程度予測はつくはずです。ここで私は、ハッとしました。そもそも私が『覚悟』をできてこなかった要因のひとつは、ここにあるのではないか、と。自分自身が熱狂できることや「楽しい」と思えることを、私は正直あまり自覚していません。「アニメを観るの楽しい!」とか「ゲームが好き!」とかはいくらでも挙げられるのですが、それは自分にとって困難を伴わないものだから言えることであって、困難があっても度外視できるような熱狂を何に感じるのか、自分でちょっとよくわからないな、と首をかしげました。私は私のことを、知らなすぎる。


こうした『覚悟』から始まった内省の旅は、2024年の目標へとつながっていきました。大きな目標は、「『覚悟』を決められる対象を見つけること」です。そのための小さな目標は先ほどの気付きから3つに分けました。「自分のストレス耐性と連動したスモールステップづくりを習慣化する」、「プロセスから得られる学びや発見をできるだけ多く自覚する」、そして「自分が熱狂する瞬間を言語化する」です。

とても堅苦しい言葉が並んでしまって、恐縮です。別にそこまでしなくたって、いいっちゃいいですよね。自分でも思います。『覚悟』しなくたって、ある程度いい人生、なんとなく心地よい時間は流れていく。それは自分自身が今までの人生でよく知っていることです。ここまで書いてきたことはあくまで私にとっての指針で、これを読んだ人に「ぜひやってくださいね!」とか押し付ける気はこれっぽっちもありません。

ただ、私の場合は今回『覚悟』という言葉に向き合った結果、自分が『覚悟』できたらどんな景色が見えるのか気になったし、私はこの先何を『覚悟』するのか知りたいな、と思いました。そして『覚悟』が決められる皆さんに対するまなざしも今までとは違うものになるんだろうな、と想像しています。楽しみ。そう、楽しみなんです。

2024年は『覚悟』という言葉を心の片隅に置きつつ試行錯誤していく1年になりそうなので、周囲にいる皆さまも、これから出会う皆さまも、あたたかな目で見守っていただけると幸いです。

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