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特許明細書では、並列を示す際に「や」を使ってはいけない

翻訳された特許明細書のチェックをしていて気付くのは、"and"と"or"の訳に「や」を充てる翻訳者が思いのほか多いことです。


私は、特許翻訳者になった頃から今まで、"and"と"or"の語に対して「や」の訳を充てたことはありませんし、むしろこれは、特許翻訳者としてあるまじき対応だとすら思っています(念のため言っておきますと、特許や法律系の、堅い分野以外の翻訳やライティングでは大いに許容されるべきだと思います。この直前でも早速、「特許”や”法律系」と使っていますし)。


では、なぜこの「や」という語を使うべきではないか、というと、理由はとても簡単で、「や」だと、原文で書かれていたことが"and"なのか"or"なのかがわからなくなるからです。


「や」という言葉は便利でもありますが、それと同時に意味もぼんやりしてしまい、「AやB」と表現したときに、それが「AとB」を指すのか、「AかB」を指すのかがよく分かりません。ここでは分かりやすく、「と」「か」を用いて表現しましたが、これが特許は法律分野では、「及び」と「又は」で表現されます。


そして特許明細書(というより、厳密には、「英文特許明細書」)では、一般的には、「又は」というのは"at least one of"を意味します。英文明細書を読んでいると、多くの明細書で、「本明細書では、"or"は、"at least one of"の意味で用いられる」というような記載が見られますが、そのことです。


ここで、at least one ofというのはどういう意味かというと、「少なくとも1つ」という意味です(そりゃ、英語を読んだらそうなるだろう、というツッコミが入りそうな気がしますが)。


では、「少なくとも1つ」とはどういうことなのかというと、"A or B"が"at least one of A or B"の意味で用いられる場合には、「Aだけ」、「Bだけ」、「AとB」の3つの場合を考慮する、ということです。


これが、特許以外の、一般的な意味合いだと「AまたはB」というと「AかBのどちらか(=一方だけ)」というものになるかと思います(おそらくですが、私達が日常で使う場合、文脈によって違うことはあれど、第1の意味は「どちらか一方(=両方を選ぶことはできない」の意味合いで使っているはずです)。



しかし、特許明細書だと、構成要素を複数列挙したときに、A, B, or Cという記載がされたら、その記載は「Aだけ」「Bだけ」「Cだけ」「AとB」「BとC」「CとA」「AとBとC」を全て意味する、という場合が往々にしてあります。


なぜこのような記載にするのかというと、特許を取りたい権威範囲の大小だったり、周知技術との兼ね合いがあるのだと思いますが、その話は弁理士さんが専門なので、一翻訳者としてどうこう話をすることはできません。


話を戻して、何が言いたいかというと、特許明細書では「及び」と「又は」は厳密に違う意味で用いられる(使い分けられる)ことが一般的なので、その使い分けを無視して、翻訳者がズボラで「や」を用いるのは良くない、というわけです。


なお、これは、特許翻訳者が注意すべきこと、というよりも、「特許明細書ライティングの際に注意すべきこと」として言われていることでもあります。

産業日本語研究会が出している「特許ライティングマニュアル」の4-2章では、『並列要素を「や」「・」(中黒)で並べる場合は注意する』という小見出しで、

並列要素を「や」「・」(中黒)で並べる場合、「や」「・」が、「及び(and)」「又は(or)」のいずれの意味であるか不明確となる場合があるので、意図する意味が明らかな表現に改める。

特許ライティングマニュアル(第2版)「産業日本語」15ページ


という説明がされています。


つまり、「特許明細書を書くときは、「や」という表現は不明確になるので避けましょう」ということが言われているわけです。


特許明細書を書く人が知っている、心得ていることを、翻訳者が知らなかった、というのは恥ずかしいことですから、私としては、特許翻訳者が訳語で「や」を使うのは本当に撲滅すべきことだとまで考えています。


これは、機械翻訳が出力した訳文を修正する場合(所謂MTPE、ポストエディット)にも言えることで、出力された訳文で「や」が使われている場合に、それに気付かずに(無視して?)修正を行わない、というのは、翻訳者としての業務放棄だと考えます。


特許明細書で、並列の意味で「や」を用いない、というのは、明細書ライティング(特許翻訳)では基本的な注意事項だと思いますので、こういう基本的な部分から、まず大切にすべきだと思います。

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