人生における最初の挫折

自分語りです。noteの機能を使って読みやすく構成するというのもあるのでしょうが、ダラダラとした文章をお許しを。実名も出てきますが、もう40年以上前だし、関係者に特に迷惑にならないだろうと思うので妙な推測されるよりは、と。

自分が小学校に入学した頃は記憶は薄いが、まずまずクラスの中の優等生ぐらいの立ち位置であったと思う。親の血筋とか別段のことはないし低学年で出来がいいぐらいその後の人生でいくらでも変わる。

ライバルらしきものができたのが3年生の時。将棋は2年生ぐらいから始めたが、まあまあ強かったので相手が欲しいとか思ってたところに3年になってクラス替えして同じようなことを考えていた子がいた。で、指してみるといい勝負。彼は勉強もでき性格も良かったのでたちまち仲良しとなり、人生における親友と呼べる第一号となった。残念ながら私が3年の夏休みに転校となり杉並区に引っ越した。

小学校が変わると勉強の環境が大きく変わり、国語の時間なんか担任の怖い爺さんが「これ、誰か読んでみろ」というんで自分は前の学校と同じように「ハイ!」と元気よく手をあげ読んだものだが、そういうのは自分一人であった。当然クラスで浮く。おまけに勉強に関してはちょっと自信家のくせに運動音痴だったから運動は何やらせてもダメである。そういう人間は格好のいじめの的となる。まあこっちも自信過剰なところがあったのでいじめてくるやつは自分より成績が悪いヤツ、とか思って見下してた節もあり、嫌ではあったがそんなに深刻ではなかった。

5年になりクラス替えがあったが、1学年90名という都会にしては少ない人数(前の小学校は200人以上いたはず)で、3クラスだったのが2クラスになった。その中で席替えのたびに近くになる女の子が気になるようになり、そのうちどんどんのめり込んでいく。新しいクラスではイケメンで勉強もまずまずできる(自分より上とは認めたくなかった)子がいて、いろいろな噂話ではその女の子も彼のことが好きらしい。ただ、その男の子を好きな子は6名ぐらいいて、なんとなく安心もしたような。

とにかくイケメンを勝手にライバル視し、こいつには勉強負けないぞとか思って勉強はしたものの別にテストの点を見せ合うわけでなし、女の子への思いの方がはるかに強いのでさほど勉強をした、という感じはしなかった。

クラスでは塾に行ってる子もいたみたいだけど、どの学校でもそうであるように先生とかの前、公に塾に行ってるというのは言ってはいけないものである。自分は親しい子が少なかったのでよく知らないが、少なくとも男の子で塾へ行ってる子はいなかったはず。それが何を思ってか6年の夏休み過ぎに親が塾へ行けという。面倒だが、電車に乗っていけるというのでそれも良かろうと思い、高田馬場の城南学園なる塾に行くことになった。

この塾は進学塾で、チェーン店のように都内にいくつか分校があった。それを知るのは後の方であるが、入学して程なくしてクラス分けを兼ねた進学模試のようなものがあった。自分は何がなんでもいい点を取りたいとかあまりその頃は考えてなく、病弱でもあったのでテスト当日欠席。そのせいで2コースに行くことになった。

1コースが成績優秀なクラスのようで受けとけばそっち行けたかもなーとか考えたけど仕方ないし大勢に影響はなかった。ただ色々話が耳に入ってくると1コースの人はもちろん2コースでも私立中学を受験するという子がいるみたいであった。自分はそういうのを聞くまで私立中学を受験するなんて人生があるなんて知らなかったので御三家とか聞いてもふーん、ってなもの。2コースの面々はほぼほぼ自分より成績悪い連中だったのでこういうのでも受かるの?とか考えてたけどいろいろな子と結構仲良くなった。ただそういうのがあると知っても自分も、とはならなかった。というのは普通に公立中学に行けば好きな彼女と同じ学校に行けるからである。もっと成績が良くて1コースに行けてたとしても受けてなかったのは間違いない。

人生のifに過ぎないが、ここで私立中学を受験するという選択肢をもっと早い段階、例えば5年生に上がる時点ぐらいで示してもらえばもしかしたらその気になっていたかもしれない。勉強を一生懸命やれば御三家は無理でもそこそこの学校に行けてた可能性はある。ただ我が家は貧乏家庭でとてもとても私立に行ける学費は当時はなかったはず。学歴には異様にうるさい父親であったが、無い袖は振れないとしたものであろう。別に親を恨んではいないが、この時のことがあり、今二人の子供は私立中学から受験させた。

受験期が終わり、自分が親しくしてた2コースの友人たちはみんな落ちた。それはそうであろう。自分の方がはっきり上だったもん。あの程度でこの学校、あの学校は無理である。自分だったら、はチラと頭をかすめたけど今思っても別に行きたいところではないし、何よりも頭の中は彼女のことで一杯であった。

中学生になると、井の中の蛙というか自分は大したことないことを思いっきり知ることになる。今でも覚えている、初めての中間試験で世界史24点(50点満点で)。それまで半分を切るなんてありえなかった。よく覚えてないけど70点すらなかったような気がする。家の教育は100点で当たり前、みたいなところがありテストの点が良くても全然褒めてもらった記憶がない。

ただ英語だけはそこそこでき、数学とかもまずまず。クラスで目立って出来がいいというわけではないが、英語だけはできるという認識のされ方であった。まあ中学生の英語、しかもピンからキリまでいる生徒を相手にするわけだから英語のテストなんてめっちゃ簡単。それこそ100点が当たり前であった。ただ100点は1年の時は1回だけのはず。1問はミスってた。数学も出来が悪かったわけではないが、評定の5は取れなかった。記憶が若干曖昧だが、5が7%、4が24%、3が38%、2が24%、1が7%の生徒がとる。4〜2はほんと記憶曖昧。ただ1と5の7%ははっきり覚えている。というのは5をとりたかった数学が取れず、美術がよりによって1だったから。

後年、この話をするとみんなから1を取るなんてありえる?(嘲笑)としたものだが、今時のような絶対評価でなく厳しく相対評価だったから200人に14人は1がついていたはずである。おまけに相変わらずに運動音痴で無器用と来たものだから体育と技術家庭も2であった。

こうなると高校受験は内申点を重視する都立高校より私立がターゲットになってくる。ただ相変わらず塾は行ってなかった。部活は野球部に入ったが、キャッチボールのやり方をろくに習ってなかったので変な投げ方になり最後は肘が痛くてまともな距離が投げられなくて2年の夏休みの練習が終わったところで退部。野球は上手くならなかったけどランニングだけはみっちりさせられたおかげで校内マラソン大会では男子100人中24番という自分にしては上出来な順位を取れたりもした。

ところで将棋であるが野球部を辞めた中2の秋に初めて千駄ヶ谷の将棋会館道場に連れて行ってもらった。もう少し行けるかと思ったけど4級との認定。交通はまずまず便利だしさほど高くなかったので小遣いの範囲内で通ったりしたけど、なかなか昇級できない。

んで、今から考えると幸か不幸かわからないが、地元の荻窪のビルの地下の方に道場があるのを見つけ、行ってみると閑散としていたがそこの手合係の人の計らいで道場代無料となり毎日入り浸ることになる。当然勉強はおろそかになり成績はガタ落ち。それまでは主要5教科では2なんて取らなかったのにとうとうとったり、その他の教科も落ち、内申点ではむしろ学年でも過半数に届いてはないのではないかという惨憺たるものになる。

だが自分の中学校ではアチーブテストなるものがあり、いわば模試を受けさせるというのが期末テストの後あった。マークシートであること、それと問題の性質上すごく難しいものとか出ずに割と基礎的なものが出て自分はすこぶる成績が良かった。男子だけの順位と聞いてがっかりしたがそれでも学年で5番を切ったことがなかった。今思うと簡単な問題を間違えない能力はあったが、塾に行ってなかったので難しい問題を解く能力はなかったのでそれこそ私立受験には自分は向いてなかった。

前述のごとく3年になって酷い成績をとっていても英数国の3科目だけとはいえ常に3番以内をキープしていた。そこでやっぱり自分は実は頭がいいのではという錯覚に陥る。担任の先生も普通にテストは良くないのにアチーブテストだけはいいので驚いていた。それは3年になって頻度がかなり増えても順位、偏差値ともいいので先生も応援してくれるようになる。

話は飛ぶが、荻窪の将棋道場では毎日入り浸っていたおかげで順調に昇段し、3年の1学期あたりで二段ぐらいにはなっていた。そこへ見慣れぬ少年が現れ、二枚落ちで指してみろと席主から言われてこの俺に二枚落ちだと?とか思ったもののよくあるパターンで最初は優勢だったもの終盤でひっくり返される。こんな子がいるのか、と思ったけど聞けば桐朋中学なる私立の中学という。国立にあるというので外観を見るだけだけど行ってみた。途中に一橋大学もあった。いくら疎い自分でも東大ぐらいは名前を聞いたことがあったが、さすがに苦手科目が多い自分では無理だとか思っていた。一橋大学というのも難しい大学と聞いてはいたが東大よりは落ちるとか考え、かつ自分が目指そうとする高校のそばとなると必然的に憧れの的となる。かっこよかった一橋大学。

模試では桐朋の合格率は40%ぐらいであった。一度開成を書いたこともあったけど、出来が良くても30%であった。早稲田実業は当時はさほど難しくなく、自分も早実に行ったら早稲田にしか行けないとか思いっきり不遜なことを考え、受験日が同じだったため桐朋を第一志望とする。

ただ今でも覚えている、そういうクソ生意気なガキに現実を知らしてくれる同学年の奴ら。試しに駿台模試を受けてみ?それでその成績なら本物だよ、と言われ、11月に会場を上智大学として受けた。結果は散々なんてのを通り越して全く手も足も出ず。今から思うと桐朋と早大学院の過去問とかやってたはずなのに何でボロボロだったかな。暗澹たる気持ちで上智大学から帰る。まさかその時のちに自分がこの大学に通うことになるなどとは神ならぬ身知る由もなかった。

中学の間は塾は中3の夏休みと冬休みの講習だけだったはず。通信教育は受けてたけど、毎回成績が良かったため役に立ってなかった。いや、あれほど学校ではボロボロだったのにアチーブテストでは成績良かったのは通信教育のおかげだったろう。

桐朋高校の受験では実力は出し切った。もしかしたらワンチャンあるかも?とか思っていた。当日は試験だけで翌日面接と聞いていたがどういう事情か受験日に変更になった。待っている間、試験官をやっていた先輩と受験した生徒の会話が聞こえた。「君、72群受けるの?」「ハイ」「両方受かったらどっちに行く?」「72群です(笑)」「そうだろうな(苦笑)」のやり取りははっきり覚えている。当時は都立は学校群制度で、72群といえば都内でも有数の学校群で立川高校と国立高校である。自分のところは32群というのが一番で西高校か富士高校である。他に有名なところでは新宿の方の学区で戸山高校と青山高校の群があり、この3つの群が都立ではトップということになっていた。まあ自分でも両方受かれば都立に行くだろうというレベルである。もちろん自分は内心がひどいので受ける資格などない。

さて、面接。他に何聞かれたのか覚えてないけど、ド急所の質問として「君、美術が1だね。どうして?」というのが来た。来るべくして来る質問だが、上記の通り面接は翌日の予定だったのでシミュレーションしてなかった。していても適切な答えはできなかったであろう。「別に授業をサボったりしたわけではないのですが、どうしても苦手だったのです」みたいな答えをしどろもどろに答えるのが精一杯であった。

試験は落ちた。今から思うと実力不足もさることながら、1があるという変な生徒は取らない、という可能性も否定できない。自分は滑り止めは都立33群であったが、万が一ということで先生の勧めもあり成城高校というのも合格発表当日受けていた。それが私立対策をしてなかったものでボロボロだったため、ショックも増大した。

後日成城高校から合格通知を受け取った時はその当時人生の中で一番嬉しかった出来事かもしれない。まあ先生からすれば受かるべくして受かったと思ったであろうが、手応えが0だったので本当にホッとした。こうしてみると模試では70%出ていた早実も受ければ落ちた可能性が高い。プレッシャーに弱い自分のことだから都立とて実力を発揮できれば受かるとはいえ、220点というのはミスると届かない可能性もあった。そうしてみると滑り止めがゲットできていたのは大きかった。

全部書こうと思ったが、ここまでにしておく。結局33群に受かりその中の一つの高校に行くことになった(荻窪、杉並、豊多摩のうちの一つ)。ただ落ちたショックはただものではなく、暗黒のうちに高校生活を送ることになる。

ーー続くーー

P.S
好きな女の子であるが、中学に入り別のクラスになって非常にがっかりして始めの頃はその子のクラスの教室に行ってみたりしたが、そのうちクラスの女の子で魅力的に見える子ができ、その子に関心は薄らいでいった。やはり毎日近くで顔を見たり話したりしないと気持ちが変わるものなのかな。2年の時に同じクラスになった時にはもはや別の子に関心が移っていた。自分でも驚いたな。

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