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過去に引きずられず、期待せず、継続する

筋肉痛が1日遅れてやってきた。

…歳?

確かに運動らしい運動は、月1〜2キックボクシングをやっている程度だ。だから日頃から体をよく動かしていますとは口が裂けても言えない。ただ数年前よりは体を動かしている…はず。

恐る恐るGoogleさんを開く。「筋肉痛 遅れ」。どうやら諸説あるものの、まだ確固たる論はないらしい。自分の体には何が起きてるのだろうか。

調べてもよく分からないので、自分で考えてみた。なんとなくこんな感じのイメージだ。

高校や大学時代の全盛期の体の使い方を脳が覚えていて、無意識のうちにそれを繰り出そうとする。実際、筋肉の質は当時から落ちているものの、脳はそんなことを無視する。アドレナリンという薬物で筋肉をハイにさせ、オーバーワークで筋肉を動かす。パフォーマンスがどうであれ、筋肉は消費される。運動が終わってからも脳は当時の自分の感覚でしばらくいるから、筋肉からの悲鳴に気づかない。そうして1日遅れでようやくやせ我慢していたことを実感する。

そこで気づいた。

これって筋肉じゃなくて脳の問題だし、しかも、筋肉に限らないことじゃないか。

基本的に人の能力は、積み上がっていくものだというイメージがある。経験を重ねることで、対処する能力の幅と厚みが出てくる。そしてそれは無くならないというイメージも同時にある。なぜなら企画力や計算力、脳の回転力はなかなか目で測れないもので、減ったことが実感しづらいからだ。

ただそれも筋肉と同じように劣化すると僕は思う。しばらく企画をしていないと企画脳は弱くなるし、短期的な視点に特化して動いていると長期的な視点が動き出すまで時間がかかる。

何かしらピーク時の感覚は半ば快感に近いものだから、脳は強烈にそれを記憶している。ただそれはあくまで過去であって、現在を約束しているものではない。

つまり、年齢のせいでもなく、筋肉や脳が衰えているせいでもなく、過去に引きずられた自分を前提に、今の自分に過剰な期待をしているのだと思う。

それに対する処方箋は、継続し続けることと、いい意味で自分に期待しないことだ。全てのものは研ぎ続けないと錆びる。そう思っていた方が生きていく上でズレがない。特に気持ちに向き合うのではなく、今のあるがままの自分と見つめ合う。それを継続できたら、本当の力になるのではないか。

そんなことを思いながら、筋肉痛に苦しむ日曜日だ。

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