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さかなは 目をつぶらない

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詩編・聖書日課・特祷

2023年3月19日(日)の詩編・聖書日課
 旧約聖書:サムエル記上16章1~13節
 詩編:23編
 使徒書:エフェソの信徒への手紙5章8~14節
 福音書:ヨハネによる福音書9章1~13節、28~38節
特祷
恵み深い父なる神よ、み子は、すべての人のまことの命のパンとなるために、天からこの世に降られました。どうかこの命のパンによってわたしたちを養い、常に主がわたしたちのうちに生き、わたしたちが主のうちに生きられるようにしてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 皆さん、おはようございます。今月も皆さんとお会いできたことを嬉しく思っております。
 先週は上着無しでも外出できるような、そんな一週間でしたね。いよいよ春がやってきたなと感じました。ただ、桜はまだもう少し時間がかかるみたいですね。おそらく来週の日曜日には、教会までの道すがら、満開の桜を見ることができるのではないかと思います。

地球まるごと生き生きイースター

 さて、世間では今、いわゆる「春のお彼岸」の季節を迎えております。日本の仏教の慣習ですけれども、この時期になりますと、特に仏教を大切にしておられる方々は、お寺で行われる法要に参加されたり、お墓参りに行かれたり、仏壇に団子やおはぎをお供えしたりして、ご先祖様に心を向ける時を過ごされます。
 我々キリスト教会におきましても、この時期はイースター(復活日)を間近に控える時でありますので、イエス・キリストの死と復活を思い起こすと同時に、すでに世を去った方々が、神様の御もとに誘(いざな)われて、永遠の平安を過ごされていることを願うという、そのような伝統があります。
 この時期にお彼岸やイースターといった宗教的な行事が重なることについては、様々な理由が考えられるわけですけれども、その内の一つとして、この「春」という季節が「始まりの季節」だから……、というようなことが言えるのではないかと思います。『暑さ寒さも彼岸まで』という言葉がありますように、日本の仏教でいうところの「お彼岸」を迎えるこの時期、寒さが和らぎ少しずつ暖かくなってくることで、(我々人間も含めた)あらゆる動物たちは活発に行動できるようになるし、植物たちは芽吹き、そして花を咲かせます。つまり、キリスト教的な観点から言うならば、この「春」という季節を迎えた多くの生き物たちが、創造主である神によって起こされる、目覚めさせられる、立ち上がらされる……。そのような季節であるというようにも言えるかもしれません。
 暑すぎたり寒すぎたりしたら、元気がなくなって、何事においてもあんまりやる気が起こらないですよね。面倒臭いことが余計に面倒臭くなってしまう。罰当たりと言われてしまうかもしれませんけれども、お墓参りなんか特にそうかもしれませんよね。クッソ暑い時期に、あるいはクッソ寒い時期に、わざわざお墓参りに行こう!とは思わないはずです。でも気候が穏やかな季節であれば、重かった腰を上げやすい。せっかくだからお墓参り行きますか、という気持ちになりやすいはず。そして、自分のことだけでなく、先祖や故人に心を向けるという余裕が出てくるのではないかと思うわけです。
 そう考えますと、この春の季節に「お彼岸」や「イースター」という特別な宗教行事が重なっているのは、なかなか理にかなっていることなのかなと思ったりします。
 ちなみに、これはちょっと余談ですけれども、僕らが住んでいるこの日本は北半球に位置しています。南半球では季節が逆になりますので、つまり、この北半球が春を迎えている時、たとえばオーストラリアなど南半球の国々では、季節は「秋」を迎えているということになるんですね。では、南半球のイースターはどのように過ごされるのか。クリスマスの場合、オーストラリアでは半袖短パンで颯爽とサーフィンしていたりするんですけれども、イースターに関して言えば、南半球も、夏の暑さが和らいで、比較的穏やかな気候へと変わってくる時期を迎えていますので、季節は真逆ですけれども、北半球と同様に、生き物が活動しやすい時期にイースターがお祝いされているわけなんですよね。
 そう考えますと、少々大袈裟かもしれませんけれども、この大斎節から「イースター」にかけての期節というのは、北半球も南半球もまるっと、1年で最も“地球全体”が生き生きとしている時期であると言っても過言ではないのではないでしょうか。そしてそのような時期に、あえて神様は「イースター」というキリスト教の暦の中で最も重要な期節を設けてくださったと言えるかもしれないですね。
 ただし、春というのは自律神経が乱れやすい時期でもありますので、健康管理にはくれぐれもご注意いただきつつ、楽しくお花見シーズンをお過ごしいただければと願っております。

お彼岸とキリスト教の「目覚め」

 さて、先ほど、「お彼岸」という日本の仏教の行事に関して話題に出しましたけれども、せっかくですので、もう少しだけお彼岸のお話をさせていただこうと思います。今日の説教の半分は“仏教”の話からできています(笑)
 お彼岸といいますと「ご先祖様の供養をする期間」として広く認識されているわけですけれども、実は、本来の意味はそうじゃなかったらしいんですね。今回、仏教の専門書を読んでしっかり勉強してきました。
 「お彼岸」は、漢字で書きますと「彼(か)の岸(きし)」というようになります。彼の岸、向こう岸……。すなわち、仏のおられる境地を指す言葉なんですね。これは必ずしも、「あの世」とか「死後の世界」のことだけを表すものではありません。そうではなく、もっと包括的に「“悟り”の世界」のことを指します。向こう岸にある悟りの世界に到達したいものだ、というように思いを馳せつつ、修行に励み、仏道を成就すること。それが「お彼岸」という言葉の持っていた本来の意味なんですね。しかし、それがいつしか、日本古来の“先祖崇拝”などの習俗と混合してしまった。その結果、現在のように「ご先祖様を供養する期間」というように認識されるようになってしまったということらしいんですね。
 仏教の教えというのは、一言で言い表すならば「迷いの世界から悟りの世界に至ろう」とすることなのだと、今回、僕が読んできた仏教の入門書には説明されていました(服部,2005)。つまり、「生老病死」という四つの苦悩が常に付きまとうこの世の中(此岸世界)において、悟りの境地である彼岸世界を目標にして真っ直ぐに歩んでいく。それこそが、仏教という宗教の根本にある教えなのだということなんですね。

 キリスト教では、皆さんご存知のとおり、仏教で言うところの「悟り」という言葉は使われません。その代わりに「目が開かれる」とか「目を覚ます」などのような言葉が使われます。これ実は、本日の聖書日課、詩編を含めて4つの箇所があるわけですが、それらすべての箇所で共通しているテーマなんですよね。今日は4つの箇所に関して細かくお話することはしませんけれども、少しだけ触れておきますと、たとえば、ヨハネ福音書には、目の見えない人の目をイエスが見えるようにした、という奇跡に関して長々と9章全体を通じて事細かに記してくれています。長かったですよねぇ。朗読されるの大変だったかと思いますけれども、おそらくこの福音書を書いたヨハネはそれほどまでに、この箇所に描かれているイエスのエピソードを重要視していたのだろうと思われます。相当な熱意を持ってこの箇所を書いたのだろうなぁということがうかがえます。
 イエスは「目が開かれた」人に対して、最後にこう告げます。「あなたは人の子を信じるか。」「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(35~37節)著者ヨハネがこの福音書全体を通じて読者に伝えようとしてくれているのは、20章29節の言葉です。「(トマスよ、)わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」けれども、今回の箇所では「目を開く」「見る」ということの大切さを強調しているように思えます。そのことから我々は、おそらく、「見える者は見えないものに目を向けよ」、しかし「いま見えなくなっている者は目を開け」という、まさにイエスらしい、逆説的かつ表裏一体のメッセージを受け取ることができるのではないかと思うんですね。
 それに、本日の使徒書として選ばれておりました、エフェソの信徒への手紙の5章。この中の14節、最後のところに次のような言葉が記されています。
 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
 「起きよ」「立ち上がれ」と訳されているギリシャ語は、いずれも「復活する」という意味で使われることのある言葉なんですけれども、興味深いことが一つあります。それは、新約聖書の中では通常、「復活する」というのは、「神から復活させられる(起き上がらされる)」という受動態(受け身)の使い方で記されることが多い言葉なのですが(そりゃそうですよねぇ。自分の力で蘇られたら何も困ることはありません)、けれども、ここでは“能動態”、つまり「(起こされるのではなく)自ら目を覚まして起き上がる」というように記されているんですね。ここに、エフェソ書の著者の復活に関する理解が反映されていると言えます。といいますのも、エフェソ書が書かれた時代にはすでに、「復活」というものが、死者が肉体をもって(あるいは霊的な存在として)復活するという考えではなく、神との交わりに自ら参与し、新しい生き方を始めていく……という意味に変わっていっていたわけなんです。ですからエフェソ書の著者は読者たちに対して、「〔古い生き方を捨て〕心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に、基づいた正しく清い生活を送るように」(2:23~24)との教えをこの手紙を通じて伝えたわけなんですね。ここでもやはり「目を覚ます」ということが大きなテーマとして扱われているというように言えるかと思います。

人間は常に目を開いてはいられない

ichthus(イクスース)

 皆さん、こちらの図像をご覧になられたことはあるでしょうか。魚のマークですね。これは、古代のキリスト者たちが、ユダヤ教徒やローマ帝国から迫害されていた中にあって、信者同士、「ここに仲間がいるよ」というのをこっそり知らせるために使われたシンボルだと考えられています。魚のマークの中にギリシャ語のアルファベットが書かれていますけれども、これはイクスースと読みます。「イエス」「キリスト」「神の」「子」「救い主」というギリシャ語の頭文字をとって、このようにイクスースと記しているわけです。イクスースという言葉自体が偶然にも「魚」という意味があるギリシャ語なので、古代の信者たちはこれを自分たちのシークレット・シンボルとして密かに使っていたんですね。最近、日本でもこのマークを車に付けているクリスチャンの方々が増えてきているんですけれども、皆さんは付けてらっしゃったりするでしょうか(もし付けておられる方がいましたら、ぜひ安全運転を心がけてください。これ付けて荒っぽい運転してたら、悪い意味でキリスト教の宣伝になっちゃいますからね)。
 最近、僕、この画像を見ながら一つ気づいたことがあるんです。それは「魚ってまばたきしないよね」っていうことです。魚は目をつぶらないんですよね。

 イエスは「目をつぶらなかった」……ということは、まぁさすがに無いと思います。人間ですからね。日常的にまばたきしたり、普通に目をつぶって眠ったりしたはずです。けれども、イエスは“信仰的には”常に目を覚ましていた。あるいは、今日の旧約テクストの中にあるように「心の目を開いて物事を見ていた」(サム上16:7より)というのは確かだと思います。このイクスースという魚の図像にそのような意味が込められているかどうかは定かではありませんけれども、魚が目をつぶらないように、イエスもまた常に“目を覚まして”おられたということを、我々はこのシンボルから読み取ることができるのではないでしょうか。
 本日ご一緒にお読みした詩編の23編。非常に有名な詩なので、暗唱できるかたもおられるかもしれませんけれども、その中の4節には、「たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない」という言葉が記されています。この「死の陰の谷」というのは、いわば意訳であって、本来は単に「真っ暗闇の谷」という意味です。光が一切届かないような暗黒の世界。しかし、そんな世界を歩むときも、この詩人は「わたしは災いを恐れない〔主がわたしとともにおられるから〕」というように詠っているんですよね。一言で言えば、「見えなくても見えるから大丈夫」ということです。それはまさに、神への絶大な信頼に他ならない、究極の信仰であるというように僕には感じられます。
 まぁそうは言いましても、我々人間、魚のように常に目を開いているわけにはまいりません。人間は、1時間で1,200回まばたきをしているそうです。仮に1日16時間起きているとしたら約1万9,200回も目をつぶっていることになるらしいんですね。それに、人間は毎日寝なければなりませんから、そのときには目をつぶって眠ります。これは、信仰生活にも言えることで、常に清く正しく美しく生き続けるなどということは、弱さを持っている我々人間には絶対にできないことです。けれども、だからこそ我々は、神様に起こしていただく必要があるわけであり、そしてその都度、信仰を再確認しつつ、仏教で言うところの「悟り」、キリスト教で言うところの「救い」(エフェソ5:8)という目標に目を向けて、歩みを続けていくことが求められているのだろうと思います。

おわりに

 大斎節も第4主日を迎え、残すところ来週、再来週でレントの期間が終わり、そして今年は4月9日にイースター(復活日)を迎えることになります。次週の福音書は、かの有名な「イエスが涙を流される」という箇所(ヨハネ11:35)、そしてその翌週は、いよいよイエスの処刑と葬りの場面(マタイ27章)がそれぞれ朗読されます。人間として生きられたイエスのありのままの姿を、聖書のテクストから心に受け止め、そしてそのイエスにこそ、我々は従って生きていくのだという決意を新たにしつつ、その先のイースターへと向かっていければと、そのように願っています。
 ……それではまた来月。

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