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自然すらもしたがう神のご計画

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詩編・聖書日課・特祷

2024年7月28日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 列王記下2章1〜15節
 詩 編 114編
 使徒書 エフェソの信徒への手紙4章1〜7節、11〜16節
 福音書 マルコによる福音書6章45〜52節
特祷(聖霊降臨後第10主日(特定12))
永遠にいます全能の神よ、あなたは常にわたしたちの祈りに先立って聞き、わたしたちが願うよりも多く与えようとしておられます。どうか豊かな恵みを注ぎ、わたしたちを赦して良心の恐れを除き、あえて願いえない良いものを与えてください。み子イエス・キリストのいさおととりなしによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 7月最後の日曜日を迎えておりますけれども、いやぁ、めちゃくちゃ暑いですね。こんな猛暑の中、よくぞ本日も、礼拝にお越しくださいました。礼拝中ではありますけれども、どうぞ皆さん、遠慮なく水分補給なさってくださいね。僕も今から飲みますのでね、皆さんも好きなときに、お持ちの飲み物、飲んでください。
 先週……だったと思いますけれども、礼拝の奉仕をしている最中、ものすごく熱くてですね、汗が止まらなかったのですよ。まぁ、こういうアルブキャソック着てるから当然かも知れませんけれども、ビッショビショになってしまったのです。なので、「これはもう、“アレ”を買うしかないな」ということで、礼拝が終わったあと、急いでクルマを飛ばしました。そして、手に入れたのがこちらです。ワークマンの「空調服」です。

 最近、屋外でお仕事されている方たちが、みんなこれ着ておられますよね。背中のところに扇風機が二つ付いておりまして、服の中に風を送ってくれるようになっているわけです。これを着ながら、このアルブキャソックを着てみましたところ、かなり暑さが軽減されるようになりました。冷たくなるわけではないのですけれども、風を通すだけで、随分変わるものなのですね。ワークマンの「空調服」、おすすめです。皆さんも、この暑い夏を生き残るために、ぜひ検討してみられたら良いのではないかなと思います。

神のために自ら退く海と川

 さて、今日は初めにですね、今回の「詩編」の箇所として選ばれておりました、詩編114編の内容から振り返ってみたいと思います。
 詩編の114編は、冒頭の1節にも記されておりますように、「イスラエルがエジプトを出て‖ ヤコブの家が言葉の違う民から離れたとき」、つまり、“出エジプト(エジプト脱出)”の出来事をテーマとした詩編となっています。

 エジプトの地で、過酷な生活を強いられていた古代イスラエルの人々は、預言者モーセに従って、エジプトを脱出します。その後、エジプトを出国したイスラエルの人々を、エジプト軍が追跡してきたわけですけれども、そこで起こったのが、かの有名な「葦の海の奇跡」ですね。「葦の海」と呼ばれるところまで来たときに、主なる神は、海を左右に分けて乾いたところをイスラエルの人々に通らせて向こう岸に渡らせた。そして、全員が渡り切ったところで、分かれていた海を元に戻したために、追いかけてきたエジプト軍は皆、海に呑み込まれてしまった――。そのような出来事があったのだと、イスラエル民族は代々、そのお話を語り継いできたのでありまして、今日の詩編の3節のところにも、「海はこれを見て退き」というようにうたわれているわけですね。

Benjamin West "Joshua passing the River Jordan with the Ark of the Covenant" 1800

 この3節の後半の部分を読んでみますと、「ヨルダンはその流れを戻した」と書かれていますけれども、これは、どういうことか分かるでしょうか。この「ヨルダン(ヨルダン川)」に関する記述は、今度は、出エジプトの最後の出来事ですね。長い間荒れ野を旅してきたイスラエルの人々が、ついに約束の地に入ろうかという時になって、彼らの目の前には、多くの水が流れるヨルダン川が立ちふさがっていたわけですけれども、モーセの後継者となったヨシュア率いるイスラエルの人々は、神の契約の箱を担いで、ヨルダン川の中に入っていきました。すると、不思議なことに、川の水が上流のほうでせき止められて、まさに、あの「葦の海」の出来事と同じように、彼らはヨルダン川の乾いたところを歩いて渡り切ることができたのですね。
 このように、今日の詩編114編は、“出エジプト”という出来事の、“水”に関する最初と最後の奇跡ですね、「葦の海の奇跡」と、「ヨルダン川の奇跡」に関することが記されているわけですけれども、ここではまるで、海や川が意思を持ったような感じで(つまり、神を畏れるようにして)自ら後ろに退き、そうして、神のために道を広げた……というようにうたわれているのですね。

畏れから跳びはねる山と丘

 ちなみに、続く4節にはこんなことが書かれています。「山は雄羊のように躍り上がり、丘は小羊のように喜び躍った」。これは別に、なにか聖書の出来事に関してうたわれているわけではありません。そうじゃなくて、主なる神がイスラエルの人々とともに進み行く、その光景を見て、葦の海やヨルダン川だけでなく、山や丘も、自然界すべてが、神に対して畏れかしこんでいる様子を表しているのですね。

ストッティングをする羊たち(Wikipediaより)

 羊という動物は、たまに“ピョンピョン”と跳びはねることがあります。テレビでやってる「面白動物映像」みたいな番組とかで、皆さんもご覧になられたことがあると思いますけれども、実はあれは、この聖書の箇所に書かれているように、「喜び躍っている」わけではないそうなのですね。あの動作を「ストッティング」と呼ぶのだそうですけれども、「わーい、わーい、楽しいなぁ!」って飛び跳ねているわけではなくて、(諸説ありますが)彼らは、なにか危険を察知したときに、「自分はこんなに飛び跳ねられるほど元気だから、逃げ切れるぞ!」とか、「もうお前の存在に気づいているぞ!」などというように、外敵に何らかのメッセージを伝えるための動作らしいのですね。なので、全然喜んでいるわけじゃないそうなのです。まぁ、見た目はすごく可愛いのですけどね、ピョンピョン跳ねて。でも、実際には、彼らは全然嬉しくもなんともなくて、むしろ“恐怖”と闘っているのだ……ということなのだそうです。
 そうしますと、この詩編114編の4節、我々が今持っている日本語訳では、「喜び躍った」と(つまり、イスラエルの人々の“出エジプト”をお祝いしているように)訳されていますけれども、これは全くの間違いなのですね。正しくは、神の御力の凄さに恐怖している(畏れかしこんでいる)ために、まるで弱い弱い羊のようにピョンピョン飛び跳ねている、というように訳さなければならないわけです。

神のご計画のために自然すらも従う

 ちょっとややこしい話をしてしまいましたけれども、このように、主なる神の偉大さの前には、自然界全体……ですね、森羅万象、海も川も、山も丘も、すべてが畏怖の念(畏敬の念)を抱くのだということを、旧約聖書は語ってくれているのですね。

Giuseppe Angeli "Elijah Taken Up in a Chariot of Fire" circa 1740
Amédée Varint "Christ walking on the sea" 1850

 それは、今日の聖書日課で選ばれている他のテクストとも関係しています。列王記下のエリヤとエリシャの物語。そして、マルコ福音書に描かれている、荒ぶる湖を静めるイエスの物語。これらはどちらも、川や湖の水をコントロールする、という奇跡について記されている箇所でした。しかし、先ほどの詩編の中に込められたメッセージをもとに考えてみるならば、これらの水に関する奇跡というのは、「人間が神の力によって自然をコントロールした」というお話として読むべきではない、と僕は思うのですね。そうではなくて、列王記下のエリヤとエリシャが、ヨルダン川の水を左右に分けてその中を歩いたのも、イエスが、嵐を静めたことに関しても、それらはいずれも、神のご計画のために……、神のご計画を邪魔しないようにするために、自然のほうが自ら協力したのだと、そのように読んでみるのが良いのではないかと思います。
 では、その「神のご計画」とは一体何か、ということですけれども、それは、今日の使徒書の箇所であるエフェソの信徒への手紙4章の言葉に示されているように思うのですね。
 今回のエフェソ書4章、3節から6節のところを読んでみますと、このように書かれています。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」
 「一つ、一つ、一つ、一つ、一致、唯一」というように、あらゆるものが「平和のきずなで結ばれて」、霊によって一つとなることの重要性が、この箇所では説かれています。先ほどの列王記下のお話で、最も重要だったことは、ヨルダン川を割ったことでも、預言者エリヤが火の車に乗って天に昇っていったことでもありません。15節のところに書かれていることですけれども、「エリヤの霊が、地上に残されたエリシャの上に留まっている」――。つまり、エリヤとエリシャは、なおも“強いきずな”で結ばれているのだ、というところが、この物語で一番大切なポイントだと僕は思うのですね。
 福音書に記されている、イエスと弟子たちとの関係も同じです。弟子たちが乗った舟は、荒波に行く手を阻まれて立ち往生をしてしまっていたけれども、後から来たイエスが彼らの舟に追いついて、再び彼らが“一つ”になったとき、嵐は静まったのですね。このことは、「弟子たちがイエスと一緒にいない」、イコール、「それは平和ではない」ということを表しているように思えます。イエスと弟子たちが一体になっている(一つになっている)、それが“平和”なのだと、この物語は語っているわけですね。そして、彼らを“一つ”にしようとする神のご計画のためなら、自然すらも従うのだというのが、今日の聖書日課のメッセージであるわけです。
 ですが、自然すらも従う……それにもかかわらず、「一つになる」「平和のきずなで結ばれる」という希望から、何とかして離れていこう、真逆の方向へ進んでいこうとしてきたのが、我々人間の歴史でもあるんじゃないかと思ってしまうのですね。

代祷 〜「エルサレム及び中東聖公会」のため〜

 このお話のあと、いつものように「ニケヤ信経」、そして「代祷」と進んでまいりますけれども、今日の「代祷」では、“世界の聖公会”のための祈りとして、「エルサレム及び中東聖公会」のため、という祈りの課題が与えられています。普段でしたら、せっかくこのように週報に書かれていても、「あぁ、そんな管区があるんだなぁ」というような感じで、あんまり吟味することなく、さらっと次に進んでしまうことが多い「代祷」の時間ですけれども、しかしながら、今回の「エルサレム及び中東聖公会」に関しては、やはり、少し立ち止まって考えてみなければならないように思うのですね。
 「エルサレム及び中東聖公会」と言いますのは、エルサレム教区、キプロス・湾岸教区、そして、イラン教区という3つの教区から成る管区ですね。かつては、その中に「エジプト教区」も含まれていたのですけれども、エジプト教区は、2020年に「アレクサンドリア聖公会」という管区として独立することになりました。
 Wikipediaの情報によりますと、現在、エルサレム・中東聖公会には、55の教会・共同体があり、信徒の数は、全体で約35,000人。聖職者は90人。そして、教育施設や医療施設が40あるとのことです。
 昨年2023年の10月に始まった、パレスチナ・ガザ地区(ハマス)とイスラエル軍による戦争(武力衝突)は、皆さん御存知の通り、イスラエルがガザ地区を侵略する形が続いています。今月の7日(日)には、今日、代祷で覚える「エルサレム及び中東聖公会」が運営する「アル・アハリ・アラブ病院」――この病院は、昨年の10月17日に、大きな爆発事件があったことで知られている――が、イスラエル軍によって強制退去の対象とされて、そこにいた負傷者や病人も含めたすべての人が、その病院を去らなければならないという出来事が起こりました。

 世界中が、そのようなことを繰り返すイスラエルに対して反対の声を上げていますけれども、もうすぐ10ヶ月が経とうとしている今も、全く終わりが見えない状況となっています。ヨルダン川西岸地区に関しても、イスラエルの治安部隊や入植者たちによる襲撃が相次いで起こっており、大勢の人たちが命を奪われ、また、住んでいた場所を追われる事態となっています。
 11月のアメリカ大統領選挙の結果次第では、イスラエルの動きが変わってくるのではないかとも言われていますけれども、しかし、そんな何ヶ月も先のことを、呑気に待っていられる状況ではありません。一日でも早く、一刻も早く、ガザ地区で起こっている虐殺行為と侵略行為が終わることを、世界中の人々とともに、パレスチナの人々とともに、そして、イスラエルの良識ある人々とともに、我々も祈り続けたいと思います。
 何よりも、これから代祷の中で覚える「エルサレム及び中東聖公会」というアングリカンの仲間たち、その中でも、生命の危機に瀕していたり、迫害の恐怖に直面していたりする、主にあるすべての兄弟姉妹が、神の御守りのうちに助け出されることを心から願い求めたいと思います。

おわりに

 この世界は、21世紀という新しい時代を迎えて、確かに、確実に、“一つ”になろうという機運が増してきているように感じます。これまでの分裂や対立の歴史を反省しつつ、これからは一致と協調の歴史を作り上げていこうという思いが、人々の間で高まっていることは、間違いないと言えます。この「平和のきずな」は、誰にも断ち切らせてはならない。様々な人たちが、手を取り合って、支え合って、助け合う。そんな“一つ”の世界を目指す我々人類のことを、全能の神が祝福し、守り導いてくださるよう祈りつつ、今日のお話を終わりたいと思います。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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