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遠くを見る心の目があるのなら……(沖縄・慰霊の日)

音声データ

詩編・聖書日課・特祷

2024年6月23日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 ヨブ記 38章1〜11節
 詩 編 107編1〜3節、23〜32節
 使徒書 コリントの信徒への手紙二 6章1〜13節
 福音書 マルコによる福音書 4章35〜41節
特祷(聖霊降臨後第5主日(特定7))
すべてのよい賜物を造り、これを与えてくださる力ある神よ、み名を愛する愛をわたしたちの心に植え、まことの信仰を増し加え、すべての善をもって養い、み恵みのうちにこれを保たせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 このマタイ教会で働き始めて、もうすぐ3ヶ月が経とうとしているのですけれども、こうやって(マタイの)皆さんの前でお話をさせていただくのは、今年度に入ってから“初めて”ということになります。それどころか(自分でも意外だったのですが)、前回、このように主日の聖餐式で奨励を担当させていただいたのが、去年の11月でしたので、実に7ヶ月ぶりに、日曜日にここに立たせていただいているということになるのですね。

 柳城の大学礼拝では、だいたい2週に1回のペースでお話を担当しておりますのでね。もう“このプルピット(講壇)”から見える景色も、だいぶ見慣れてきたなと思いますけれども、意外や意外、実は、日曜日にここでお話をさせていただくのは7ヶ月ぶり……ということで、なんとなく不思議な感じがしております。今月からは、ほぼ毎月、お話を担当させていただく予定になっておりますので、まぁ、僕が担当の日は、皆さん、絶対に休まないようにお願いいたします(笑)。

『コロンブス』炎上を巡って

 さて、皆さんご存知かどうかわかりませんけれども、先日ですね、この日本の音楽業界で起こった“とある事件”が、世間を賑わしました。今月の12日に、『コロンブス』というタイトルの曲がリリースされたのですが、この曲の“歌詞”とか“ミュージックビデオ”の内容などをめぐって、大きな議論が巻き起こったのですね。「この作品の、この表現は良くないんじゃないか、不適切なんじゃないか」という批判の声が相次ぎまして、いわゆる“炎上”という事態に発展してしまった、ということなのです。

 では、果たして、その作品のどのようなところが問題視されたのか。簡単に言えば、その曲のタイトルであり、テーマである『コロンブス』という人物――言わずとしれた、大航海時代の有名人でありますけれども――、その「コロンブス」という人物に対する“偏った理解”をもとにして作品が作られてしまった、というところが問題だったわけなのですね。
 「コロンブス」という人物に関しては、かつては、いわゆる「アメリカ大陸の発見者」として称えられていました。皆さんも若かりし頃(今も十分若々しいですけれども)、学校でそのように教わったのではないかと思います。15世紀の偉大な冒険家として覚えておられる方も多いのではないでしょうか。
 確かに、ヨーロッパから“西回り”で、大西洋を渡り、アメリカ大陸への航路を切り拓いた――、そういう点においては、コロンブスの働きは偉大なものだったかもしれません。しかしながら、アメリカ大陸というのは“無人の土地”ではなかったのですよね。コロンブスが到達する以前から、それも何万年も前から(!)、後にアメリカ大陸と呼ばれることになるその土地には、たくさんの先住民の人たちが住んでいたわけです。ですので、「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」という表現は、あくまで西洋人がそう思っただけのことであって、コロンブスは決して「人類で初めてアメリカ大陸を発見した人物」だったわけじゃないのですよね。
 それに、コロンブスという人物を語るうえで、最も忘れてはならないことがあります。それは、「コロンブス」率いる西洋人の入植者集団というのは、アメリカ大陸の先住民たちを奴隷として扱い、自分たちに逆らう者を虐殺し、そして、彼らの文化を破壊した、まさに“征服者”であったということなのです。
 そのような痛ましい歴史的側面があることを理解しないままに、今回、その「コロンブス」のことを「偉大な冒険家」とか「夢追い人」、「人生の航海者」みたいな存在として描いた作品を世に出してしまった……。それで、今回のような事態が起こってしまったのですね。もちろん、そのアーティストたち自身は、只々勉強不足であって、“歴史修正”とか”差別”の意図は全く無かったと思います。すごく良い作品を作る人たちなんですよ、本当は。今この時代だからこそ多くの人たちから共感を得られる……っていう、そういう魅力的な作品をたくさん歌ってくれている人たちなので、僕も大好きなんですよね。ですので、今回のことを糧として、これからもっともっといろんなことを勉強して、世間を良い意味で賑わせていってほしいなと思っています。

『コロンブス』事件が表すもの

 さて、そういうわけで、このたびの『コロンブス』に関する事件というのは、まぁ思いがけない形ではありましたけれども、大航海時代のいわゆる“負の歴史”について、改めて議論を交わす、良い機会になったのではないかと思うのですね。何より、「今回のこの『コロンブス』という作品には、“歪んだ歴史認識”、“正しくない歴史認識”の影響が見られる」という意見が、この日本の社会全体で飛び交うことになった……、そのことは、「我々現代人は、あらゆる物事を様々な角度から(多角的に)捉えることができるのだ」ということを証明する出来事であったのではないかと、僕は受け取っているのですね。
今の日本の人たちというのは、この世界が抱える様々な問題に対して、非常に高い関心を持っているように僕は感じています。それは、日本の教育の水準が比較的高いということ、また、多くの人たちがインターネットなどを利用できる、そういう環境下で生活しているということが関係していると思われます。それこそ、ウクライナとロシアの問題、また、パレスチナとイスラエルの問題に関しても、我々はこの数年間、まるで“自分事”であるかのように心配しながら、早く戦争が終わることを心から願っているわけです。僕も含めて、ほとんどの人が、ウクライナとかガザ地区には一度も行ったことがないのに……です。遠く離れた、海の向こうの、見知らぬ土地の人々のことをいつも覚えて、平和が訪れることを願い続けている――。これは、本当に凄いことだなぁと思います。

近くのものが見えなくなる日本人

 ただ、僕には一つ、気になることがあるのですね。それは何かと言いますと(まぁ、これは僕自身にも言えることなのですが)、我々はどうも、自分から“遠いところ”で起こっている出来事に対しては、強い関心を持って批判的になれる、その割に、案外、自分の“近く”で起こっていることには、それほど関心を示すことができていないのではないかと感じるわけです。

 特に、本日6月23日は、「沖縄・慰霊の日」ですね。太平洋戦争末期の、いわゆる「沖縄戦」などの記憶を思い起こしつつ、過去を悔い改め、そして二度と同じ過ちを繰り返さないと心に誓う日――。それに何よりも、戦後から“いま”にかけて、沖縄の島々と、そこに住む人々が担ってきた(担わされてきた)ものに対して、“日本中の人々”があらためて目を向けるべき日――。それが、「沖縄・慰霊の日」なんですよね。
 「沖縄」、遠いですね。ここからだと、基本的には、飛行機(場合によってはフェリー)を使う必要があります。それくらい距離が離れているわけですけれども、しかし、そうは言っても、沖縄は紛れもなく日本国内にあります。かつて、コロンブスが到達したアメリカ大陸とか、ウクライナ、パレスチナなどと比べたら、ずっとずっと“近い”ところにありますね。日本からアメリカ本土(シアトル)までは約7,700km、ウクライナ(キーウ)までは8,000km、パレスチナのガザ地区までは9,000km。でも、ここ(名古屋)から沖縄(辺野古のある名護市)までは、直線距離で1,278kmです。圧倒的に“近い”ですよね。

イラストACより

 それにもかかわらず、我々はどういうわけか、日本の“外側”で起こっていることには目を向けながらも、このように、日本地図にはっきりと描かれている沖縄のことは、ほとんど、普段の生活の中で意識しないでいます。今このときも、「辺野古」の工事は、無情にも、(反対する)人々の意思を踏みにじるようにして進められておりますし、更には、米軍基地だけでなく、「宮古島」や「石垣島」には、ここ数年の間に、日本の自衛隊の基地が設置されました。そして今や、沖縄本島においても自衛隊の軍備増強が為されようとしているのですね。沖縄は、日本政府とアメリカ、この二つの国によって蹂躙されているわけです。
 でも、それを知っているはずの我々、日本の人々はと言うと……、沖縄が文字通り“削り取られている”状況を横目で見ながらも、さらに海の向こう側で起こっている出来事に対して声を上げ続けている――。これは、どうなのでしょう。他の国から見れば、異様な光景に映っているのではないでしょうか。
 先ほどの『コロンブス』の事件との関連で言えば、我々は、その一つの音楽を通じて、今から500年ほど前の、西洋人による(ネイティヴ・アメリカンに対する)人権侵害のことを想起することができました。それは実に素晴らしいことではあるのですけれども、同時に我々は、もっと“手前”のこと、“本質的”なことに気が付く必要があると思うのですね。すなわち、この国の人たち(アジア人である我々)が、西洋中心主義の象徴である「コロンブス」を“英雄”として描く“おぞましさ”。そして、当時のネイティヴ・アメリカンと同じように、我々もまた(特に、沖縄の人々が)、アメリカという国に、今この時、人権を踏みにじられているのだということの“異常性”。それらがいかに“グロテスク”なことであるかを、我々はしっかりと認識する必要があると思うのですね。

いま自分が生きているところに関心を

「近視眼的」という言葉があります。「目先のことばかりに囚われて、遠くの事柄について考えることができない」ことを「近視眼的」と言うわけですけれども、我々は、むしろその逆、「遠くのことに気を取られて、身近なことに注意を向けることができない」、いわば「“遠”視眼的」な状態になってしまっているのではないでしょうか。実はこれは、今回の聖書に示されているイエス・キリストの態度とは、まるで正反対のものだと僕は思うわけです。

レンブラント “The Storm on the Sea of Galilee” 1633

 イエスは、今回の福音書の箇所で、弟子たちと一緒に舟に乗って、湖の向こう側、ガリラヤ湖の東に渡ろうとしています。ガリラヤ湖の向こう側には、「ゲラサ人」と呼ばれる人々の土地があったそうなのですけれども、イエスは、そこで出会った一人の男を悪霊から救い出した、ということが、続く5章のところに描かれています。イエスがこのように、ガリラヤ湖の“向こう側”に行ったというのは、イエスの救いが、手の届く範囲の“限定的”なものでなくて、その枠を大きく越えるものであった――ということを物語っているのだと、そのように理解して良いだろうと思います。
 ですが、その後のことが、非常に興味深いのですね。イエス一行は、(今日の箇所に描かれていましたように)嵐に見舞われるというハプニングがありながらも、なんとか、ゲラサ人の地域にたどり着き、そこで一人の男性を悪霊から救い出しました。ところが、イエスは、その男性一人を癒やしただけで、すぐまた、舟に乗り込んで、ガリラヤへと帰っていくのですね。まさに、とんぼ返りです。この福音書に書かれていることが真実であるならば、イエスは、ガリラヤ湖の“向こう側”の地域に、本当に一瞬しか滞在しなかったことになるわけなのですね。
 非常に不思議な行動だなと思ってしまうのですけれども、しかし僕は、この一連の物語の中に、「人間イエスのこの地上での働きは、どういうものであったのか」ということが端的に表されているように思うのですね。すなわち、イエスの最大の関心というのは、自分が生活していた場所、つまり「ガリラヤ」にあったのだということです。イエスの人生のクライマックスは、ガリラヤではなくて、「ユダヤ・エルサレム」で迎えることになるわけですけれども、ただそれは、“最終決戦”の地がそこだっただけであって、イエスは決して、常に「エルサレム」を意識していたわけではないのですね。そうじゃなくて、イエスという人は、一人の人間としての限界を抱えながら、最大限(エルサレムとか、あるいは今回のように“ガリラヤ湖の向こう岸”といったエリアまで)救いの手の幅を広げようとしつつも、基本的には、いま、自分が生きている“この場所”の人々に寄り添うことに力を注いでいた――、そのように言えるのではないかと僕は思うのですね。

おわりに

 どこからどこまでが「日本」で、また、どこからどこまでが「外国」で……というのは、所詮は人間が決めたものでしかありません。ですから、このグローバルな時代においては、我々は皆、そういった“国境”という枠(それぞれの国の偉い人たちが勝手に決めている枠)を超えて、同じ人間同士、助け合い、支え合っていく必要があります。ただし、その“国境”というボーダーラインは、やはり無くてはならないものであるとも思うのですね。そのようなボーダーラインをもうけることで、少なくとも“この領域”の中の人たちは、運命共同体であり、より強い関心(特別な関心)を向けながら共に生きていくべきなのだという、一つの指針を見出すことができるからです。イエスにとっては、それは「ガリラヤ」という地域だった。ガリラヤという地域を中心に、彼は隣人愛を実践したわけです。一方で、我々、この日本という国に生きる者にとっては、(ざっくりとした言い方になりますけれども)北海道から沖縄までが、聖書で言うところの「ガリラヤ」――、文字通り、共に生きている運命共同体なのであって、だからこそ、今日の主日のテーマである「沖縄」……、その沖縄の抱える問題を、まさに“自分たちの問題”として、我々は真摯に捉え直す必要があるのだと思うわけです。
 我々は、この高度な情報社会の中にあって、海の向こう……どころか、地球の裏側にいる人々にも目を向けて、その人たちの平和のために祈り願うことができるようになりました。……でも、そうであるならば(!)、それほどの“心の目の視力”があるならば、我々は、もっと手前の、自分たちにとって運命共同体である隣り人たちのために“も”、正義と平和を祈り、行動できる者であるべきではないでしょうか。
 これまで、まさに“嵐”のように、長年、我々の生活を停滞させてきたこの国の政治が、変わろうとしている――。暗闇に覆われていた航路に、再び光が差し込もうとしている――。そのような時代の転換点を迎えているこそ、これまで、この国がないがしろにしてきてしまった「沖縄」、その沖縄の平和の実現のために祈り、連帯していく心をますます強くしていきたい……、そう願っています。沖縄の未来は、日本の未来であり、沖縄の平和は、世界の平和である――。そのことを覚えて、今日、「沖縄・慰霊の日」からまた、ご一緒に新しい日々を過ごしていければと思います。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

日本聖公会・沖縄週間の祈り

歴史と生命の主である神よ、わたしたちを平和の器にしてください。
嘆きと苦しみのただ中にあなたの光を、
敵意と憎しみのただ中にあなたの愛と赦しをお与えください。
わたしたちの出会いを通して悲しみの中に慰めを、痛みの中に癒しを、
疑いの中にあなたへの信仰を、主よ豊かに注ぎ込んでください。
この沖縄週間を通してわたしたちを新たにし、
あなたの示される解放と平和への道を歩む者としてください。
わたしたちの主イエス・キリストのいつくしみによって、
このお祈りをお献げいたします。 アーメン


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