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も〜っと!宗教改革ドッカ〜ン!

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詩編・聖書日課・特祷

2023年11月5日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 ミカ書3章5~12節
 詩 編 131編
 使徒書 テサロニケの信徒への手紙一2章9~13節、17〜20節
 福音書 マタイによる福音書23章1~12節
特祷(聖霊降臨後第23主日/特定26)
全能の神よ、あなたは独りのみ子を与えてわたしたちの罪のいけにえとし、また清い生涯の模範とされました。どうか深く感謝してその計り知れない恵みを受け、常に力を尽くしてみ跡を踏むことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」
 さて、11月に入って最初の日曜日を迎えました。世間ではいわゆる「ハロウィン」のシーズンも終わりまして、テレビのCMなどを見ておりますと、「さぁ次はクリスマスか」というような雰囲気が漂い始めていますけれども……、いやいや、ちょっと待ってくれ、と。我々キリスト教会の暦(こよみ)的には、クリスマスは、ん〜、まだもう少し先なんですよ、と言いたくなります。
 10月と12月に挟まれている、この11月という月は、決してハロウィンとアドヴェントまでの間の“何にも無い空白期間”というわけではありません。そうではなくて、教会は伝統的に、この約1ヶ月の時間を、非常に大切な期間として覚えてきました。すなわち、この11月は、いわゆる「死者の月」と呼ばれる特別な月なんですよね。
 死者の月……つまり、神様のもとに召された人々を記念する月ということです。イースターの時期も、墓前礼拝が行われるなどして、亡くなられた方々(天に召された方々)に心を向ける期節として大切にされていますけれども、それと同じく、この「死者の月」と呼ばれる11月も、神様の御もとで安らいでおられるたくさんの方々のことを覚える月として過ごされるわけなんですね。

終わりがあり、また始まりがある

 この11月という月は、“教会暦の最後の月”にあたります。前の年のアドヴェントから始まった教会の一年が、(だいたい)この11月をもって終わりを迎えることになるんですね。まぁ、今年のように数日“はみ出す”こともあるんですけどね。細かいことは気にしないでおきましょう。その教会暦最後の月を、我々教会は、「死者の月」として、天の会衆、神様のもとにある多くの魂に心を向けながら過ごすことになります。そして、12月からは、また新しい教会の一年が、アドヴェントの訪れとともに巡ってくる――ということになるわけなんですね。
 死者の月とアドヴェントの間には、前の暦から次の暦へという、一年の区切りというものが存在します。しかし面白いことに、死者の月のテーマは、途切れることなく、アドヴェントへと引き継がれていくんですね。アドヴェント(クリスマス)のテーマは何でしょうか。それは、「キリストの来臨」、また「来たるべき世の終わり(終末)への希望」であると言えると思います。つまり、天に召された聖徒たちの信仰と、この地上にある教会の信仰とが報われることを祈り願う期節であるわけですね。11月(教会暦の終わり)には、地上で生きている我々と天に召された者たちとの繋がりを意識して、そして、その気持ちそのままに、12月……新たな教会暦の始まりと共に迎える「アドヴェント・クリスマス」の期節において、地上の民と天の民が一つとなる「神の国の完成」を待ち望む、ということになるわけです。……教会の暦って、よく出来てますよねぇ。このグラデーション的に移り変わっていく教会暦の美しさの中で、教会は「キリスト教の信仰とは何か」を再確認させられるということなんですね。そう考えますと、やはりこの11月という月は、“空白期間”などでは決してなくて、むしろ、教会にとって非常に重要な月であると僕は思います。
 気付いたら、あら、もう12月?……という感じで、あっという間にアドヴェントを迎えてしまいがちな11月ではありますけれども、ぜひ皆さん、この教会暦最後の月(死者の月)を、天にあるすべての魂と、地上の我々とが、共に「神様の永遠」の中で交わりを保ち続けているということを覚えながら、大切にお過ごしいただければと願っております。

聖公会は宗教改革記念日をお祝いしない?

 ところで、話は少し変わりますけれども、皆さんご存知のように、僕は今年の4月からこの日本聖公会のメンバーになりました。それで、これまで7ヶ月ほど、聖公会で過ごしてきたわけなんですが、先月……10月ですね。聖公会の信徒になって、初めて10月という月を迎える中で、僕は一つ、気付いたことがありました。それは何かと言いますと、「あら、聖公会って『宗教改革記念日』のこと、全然お祝いせぇへんやん」ってことです。
 皆さん、この「宗教改革記念日」ってご存知でしょうか。そもそも「宗教改革」というのは、16世紀にヨーロッパで起こったキリスト教の大きな革新運動と教会の分裂の出来事のことを言います。詳しい説明は端折りますけれども、まぁ簡単に言えば、当時のローマ・カトリック教会のあり方に、マルティン・ルター(1483〜1546年)という人が異議を唱えて、それをきっかけとして、いわゆる「プロテスタント」という新しいキリスト教の流れが生まれていくことになった。その一連の出来事を「宗教改革」と呼んでいるわけです。そして、その出来事を記念して、毎年、多くのプロテスタント教会では「10月31日」に「宗教改革記念日」がお祝いされているんですね。僕が以前所属していた日本基督教団のカレンダーにも、ちゃんと10月31日のところに「宗教改革記念日」って書いてありました。

 我々聖公会も、宗教改革の影響を受けて誕生した教派ではありますので、その点では“プロテスタント的”ではあります。しかし、聖公会手帳を見てみましても、祈祷書とか聖書日課表などを見てみましても、「宗教改革記念日」のことは一切書かれていません。まぁこれは、聖公会のアイデンティティの問題が関係しているんだろうなぁと思います。聖公会は、プロテスタント的ではあるけれども、同時にカトリック的でもある。また、自分たちは“プロテスタント”だと認識している人たちもいれば、いや、我々は“アングリカンの伝統に基づいたカトリック”だと考える人たちもいる……というような教派なんですよね。
 そういう複雑なアイデンティティを持っている「聖公会」という教派と、一方で、明確にプロテスタントであることを自覚している教会がお祝いする「宗教改革記念日」。この二つを照らし合わせてみたときに、「あぁなるほど、そりゃあ聖公会では『宗教改革記念日』はお祝いせんわなぁ」と、納得することができました。ローマ・カトリック教会から分裂した教派だから「プロテスタント」というわけではないということですね。

原点(原典)に立ちかえろうぜ!

 ただ、それでもやはり、かつてイングランド教会で行われたことは、紛れもなく「宗教改革」に他ならない出来事だったということは、強調しておきたいと思います。
 ヨーロッパ大陸側で行われた宗教改革にしても、聖公会で起こった宗教改革にしても、共通していることが一つあります。それは何より、「原点(原典)に立ちかえろうぜ!」というのが、宗教改革の基本的なコンセプトだった、ということです。「新しいもの創り出していこうぜ!」じゃなくて「原点(原典)に立ちかえろうぜ!」だったんですね。
 当時のローマ・カトリック教会は、そこを誤認してしまっていました。「コイツら、勝手に新しいことを広めようとしてやがる」と誤って捉えてしまったがために、宗教改革者たちをいわゆる“異端”とみなして処罰してしまったんですね。でも、宗教改革の基本はそうじゃなかった。あくまで、今の教会が“歪んでしまっている”から(おかしな感じになってしまっているから)、これを機に、原点(原典)に立ちかえって、そもそも自分たち教会ってどういう存在だったのかをあらためて考え直してみようぜ――というのが、宗教改革の本来の目的だったんですね。
 宗教改革者たちは、当時ラテン語がすべてを支配していた礼拝を、自分たちの言語で執り行えるようにしました。ラテン語のままだと、民衆も(聖職者自身も)何を言っているかさっぱり分からなかったからです。なので、式文も祈祷書も、そして聖書も聖歌も、ラテン語からそれぞれの言語に切り替える作業を行なったんですね。
 また、礼拝における信徒と聖職者の垣根を取り払う努力もしました。まぁ、完全に垣根を取っ払うことは事実上不可能だったわけですけれども、それでも彼らは、聖職者が独占していた礼拝を、信徒の手に取り戻すことには成功しました。初代教会からの在り方に倣って、礼拝を“信徒と聖職者の共同作業”にしたわけです。
 それに、聖職と信徒の間の関係性も整理しました。聖職と信徒は、「上か下か」「救いを授ける側か、救いを授けられる側か」というような関係ではなくて、聖職も信徒も皆、神の前では平等な立場であるという大前提に立って、教会コミュニティを形作るんだという決断をしたんですね。これも、非常に大事な、宗教改革の産物だと言えます。

聖書の時代から続く原点回帰の歴史

 キリスト教はこのように、宗教改革の名のもとに“原点回帰”をして、本来の教会の在り方を復興させる――という作業を行なってきたわけですけれども、それは決して、15世紀とか16世紀に入って突然起こったことであるわけではないんですね。キリスト教の歴史は……、いや、それ以前に、聖書の時代から、常に我々信仰共同体は、事あるごとに、原点に立ちかえって自らを見つめ直してきた――その連続だったと言うことができます。
 今日の福音書の箇所で、イエス・キリストは、律法学者やファリサイ派の人々のことを批判していましたよね。「アイツらは、口では正しいことを言って、人々を指導しているくせに、自分たちはろくにまともなことしてへんの、アレおかしいやろ。あんなん絶対見倣ったらあかんで」と、ボロクソに言うてたわけですけれども、これこそ、今から2000年前に起こった、ナザレのイエスによる“宗教改革”でした。
 イエスは、ルターたちと同じく“新しい宗教”を作ろうしたわけではないんですね。結果的に、「キリスト教」という新しい宗教の誕生へと繋がっていくことになるのですが、それは結果であって、目的ではなかった。イエスはあくまで、ユダヤ教の正しい信仰というものを人々の間に取り戻して、「だれでも高ぶる者が低くされ、へりくだる者が高められる」(12節)世界へと人々をいざなうために、文字通り命を賭して闘ったわけですね。
 旧約聖書によれば、本来、ユダヤ教という宗教は……古代イスラエルの信仰は、弱い立場にある者たちを誰一人取り残さないようにすることを理想としていたはずでした。しかし、目まぐるしいほどの国際情勢の変化とともに、ユダヤ教徒たちの信仰は、徐々に非寛容で排他的なものに変わっていってしまったんですね。そのような社会の中にあって、ナザレのイエスは一人、“信仰の復興”を実現しようとしたわけです。この改革者としてのイエスの精神を、我々キリスト教は、まさに2000年にわたって受け継いできた――。そのことを、今日このとき……、特に、10月31日に「宗教改革記念日」という日を今年も世界中のプロテスタント教会が迎えたということも覚えつつ、心に留めたいと思うんですね。

おわりに

 いまこの時代、キリスト教はまさに“転換期”を迎えていると言えます。
 世界からますます平和が失われようとしている中で、我々キリスト教は、役に立たないどころか、一部の歪んだ思想を持つ人々がイスラエル極右政権を支持するなどして、世界平和を自ら脅かしている状況にあります。また、聖書の言葉を濫用して、社会の中で小さくされている人々を更に追い詰めることが“正義”だと考える人々もいます。そのせいで苦しんでいる人たちのことを思うたびに、僕は本当に、その人たちに対して申し訳なくて、悲しくて、情けない気持ちになります。
 しかし同時に、心の中の“イエスの熱意”が、立ち上がるための勇気を与えてくれているように感じます。きっと、これまでの信仰者たちもまた、様々な困難に立ち向かう中で、同じ“熱意”を感じ取っていたのではないかと思います。天に召されたたくさんの聖徒たちの思いに心を向けつつ、そして何よりも、この地上で、“いま”平和を必要としている人たちのために、何としてでも、キリスト教の復興(!)を、皆さんとご一緒に目指していきたい――、そのように願っています。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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