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少女に食べ物を与えよ

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詩編・聖書日課・特祷

2024年6月30日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 申命記 15章7〜11節
 詩 編 112編
 使徒書 コリントの信徒への手紙二 8章1〜9節、13〜15節
 福音書 マルコによる福音書 5章22〜24節、35〜43節
特祷(聖霊降臨後第6主日(特定8))
神よ、あなたは天地万物をみ摂理のうちに治めておられます。どうか、わたしたちを害する肉の行いを聖霊によって除き、み心に従って良い行いの実を結ぶことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 前回、こちらの教会(名古屋聖マルコ教会)でお話を担当させていただいたのは、去年の10月29日でした。ということは、11月、12月、1月、2月……、なんと9ヶ月!9ヶ月ぶりに、再びこのように皆さんの前でお話させていただくことになった、ということになります。
 でも実は、前回こちらに来させていただいた時は(去年の10月は)まだ、この聖堂ではなくて、向こうのホールで礼拝を守っていました。こちらの聖堂の改修工事が完了する、本当にギリギリ“直前”の日曜日だったのですよね。なので、まだあの時は、向こうのホールでした。

 この聖堂が使えない最後の日曜日に、聖餐式でお話させていただくという……まぁ、それも一つの思い出であったわけですけれども、今回ようやく、この“生まれ変わった聖堂”で奨励を担当させていただく日がやってきた(!)ということで、今日はワクワクしながらこちらにやってまいりました。
 丁先生たちも、今、韓国のほうで、どこかの教会の礼拝に出席していらっしゃるはずです。日本と韓国は時差がないですからね。ちょうど時を同じくして、礼拝の時間を過ごしておられるはずです。韓国に行っておられるメンバーと、韓国に行ってみたかったけど残念ながら置いてけぼりになってしまった我々が、それぞれに違う国にいながらも、主の御手の中にあって一つとされ、一緒に豊かな礼拝をお捧げしていけますように。

七年目の負債免除

 さて、本日の聖書日課に関してですけれども、今回の聖書日課のテーマに関して、一言で言い表すならば、こうなると思います。「貧しい者に惜しみなく与えなさい」。……これですね。特に、今回の旧約聖書のテクストである、申命記15章という箇所には、「あなたがたの中に貧しい者が一人でもいるならば、その人が必要としているものを、惜しみなく提供しなさい」ということが書かれていました。
 9節のところを見てみますと、興味深いことが書かれていますね。「七年目の負債免除の年が近づいた」とあります。実は、今日のこの箇所の直前には、その「七年目の負債免除」というものに関して……ですね、つまり、「借金などの負債を、7年目にチャラにしなければならない」という掟が書かれています。なかなか気前が良いですよねぇ。借金が7年目にチャラ!太っ腹な掟やなぁと思います。
 まぁ、これはもちろん、「7年目まで逃げ切ったら勝ち」……というような話ではなくて、むしろ、「どうしても、どう頑張っても返済することができない」という人たちを助けるために定められた掟なんですよね。返済能力の無い人に、いつまでも“借金返済のプレッシャー”を背負わせるのは残酷だ――ということで、主なる神の名のもとに定められた掟。7年目という年を迎えたら、その借金・負債は無かったことにしてあげよう、解放してあげよう、というルールが作られたわけです。ですからこれは、弱者救済のための掟だったということなのですね。
 でも、“お金を貸してあげる側の人間”にしてみれば、これは非常に厄介なルールですよね。「えっ、それってやっぱり、『7年目まで逃げ切ったら勝ち』ってことじゃん。」……そうなんですよ。返さなくても良くなるわけですからね。だから、そうするとやっぱり、貧しい人のためにお金を貸すのを渋る(躊躇する)、あるいは、貸すとしてもちょっとだけしか貸さない、という人が出てきちゃう……、そういう“諸刃の剣”のような掟でもあったということなのです。

税金と社会保障費

 皆さんなら、どうでしょう。7年目に返さなくても良くなる借金を、誰か他の人との間に約束できるでしょうか。ちょっと厳しいですよね。それなら、もういっそのこと、最初から返済する必要がない形で経済的な援助をする……というほうが、わだかまり無く、こじれることなく、救いの手を差し伸べられるのではないかなと思います。それも、一人でドーンと、多額のお金を援助するのではなくて、“大勢の人”で“少しずつ”お金を出し合って、社会の中の生活苦を抱える人たちを支えることができるなら、それに越したことはないんじゃないかな、それが理想的なんじゃないかなと思うわけです。

 なんとそれ、もう我々、やっちゃってるのですよね。「税金」。税金というのは……、まぁどうしても悪いイメージが先行してしまいがちですけれども、実は、我々のようにこの国に住む人たちが、一人ひとりに見合った額のお金をみんなで出し合って、そこから、たとえば「生活保護」を含む、様々な社会保障費を出しているわけなのですよね。国の予算のなかで、3分の1を占めているのは、この「社会保障費」なのです。
 アホな国会議員たちがアホな政治ばっかり続けているから、国の予算の中で「国債費」とか「防衛費」とかを増やしていく、その一方で、それを棚上げしながら、「やれ高齢者の医療費が」とか、「やれ生活保護が」だとか言って、社会保障費に関する批判が騒がれていたりするわけですけれども……、いやいや、ホンマやったら(ちゃんとした政治を行なっていたならば)、もっと国民一人ひとりの状況に応じた形で、もっと社会保障費を充実させることができるはずなのです。だからもうね、辞めるべき人にはさっさと辞めていただきたいと思うわけですけれども……まぁそれはともかくとして。実はもう、我々は、この旧約聖書に書かれているような、「7年目には負債をチャラにする」という制度どころか、最初から「返さなくても良い」形での経済的援助というものを、普段から、「税金」という形で行なっているのだ――ということは、もう少し意識されても良いのではないかなと思うのですね。その上で、「国にちゃんとした税金の使い方をさせる」、そして、「更に困っている人たちの助けが求められていると思うならば、募金などに協力する」ということが必要なのではないかと思います。

会堂長ヤイロの娘

 さて、ここまで、主に旧約聖書の申命記の内容をもとに、今日の聖書日課のテーマですね、「貧しい者に惜しみなく与えなさい(社会的弱者の救済)」ということに関してお話してまいりましたけれども、ところが、今回の福音書のテクストを見てみますと、どうも、そのようなテーマとは少し違うと感じてしまうような内容が書かれているのですね。なので、他のテクストと、今回の福音書との間にある違いをどう捉えるか……。そのことが一つ、今日の御言葉を理解するためのポイントになると思うわけです。
 今朝の福音書は、マルコによる福音書5章22節以下というところが選ばれておりましたけれども、この箇所には、幼い少女が、イエスによって奇跡的に、死の淵から生還させられた――という物語が描かれていました。

Gabriel Max "The Raising of Jairus's Daughter" 1878

 ヤイロという名前の会堂長(「会堂長」というのは、当時のユダヤ教徒たちが集会を行なっていた場所の管理者のこと)が、ある日、イエスのもとにやって来て、ひれ伏して言うのです。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23節)
 残念ながら、その女の子は、イエス一行がヤイロの家に向かう途中に息を引き取ってしまいます。彼の家からやって来た人が、イエスにこう告げたわけですね。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(35節)
 しかしイエスは、「もう来ていただかなくても大丈夫ですよ」と言われても、また、人々から馬鹿にされたり嘲笑われたりしながらも、その少女のもとに行った。そして、彼女の手を取り、「タリタ・クム」(アラム語で「少女よ、立ちなさい」という意味)という言葉を、横になっている彼女に対して告げたのですね。すると、息絶えたはずの彼女が、目を開けた……どころか、すっくと立ち上がり、何事も無かったかのように家の中を歩き始めた――、そのように記されているわけです。にわかには信じがたい話ですけれども、もしもイエスが、「もう来なくても良いですよ」と言われて諦めていたら……、あるいは、父親であるヤイロがイエスに助けを求めなければ……、この奇跡は起こらなかった。そういう奇跡物語として、福音書の中に収められているわけです。

死んだはずの人が食事をする

 まぁ、奇跡物語自体に関しては……ね、僕はもう、そのまんま、そういうことがあったのだと、そう読むしかないと思っているのですよね。余計な詮索などせずに、「なるほど、そうだったのですね」と受け取ったら良いのだと理解するようにしています。
 ただ、今回僕は、この箇所を改めて読んでみたときに、ある面白いことに気が付いたのです。それは何かと言いますと、この箇所の最後の部分、43節なのですが、こんなことが書かれているのですね。「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」この後半のところ。「食べ物を少女に与えるようにと言われた。」……ここなのですよね。
 死んだはずの人が生き返って、食事をする――。これは、聖書の中では結構“あるある”な描写であると言えます。まぁ、“あるある”は言い過ぎですけれども、ヨハネ福音書の中で、イエスによって蘇らされた「ラザロ」。彼も、復活後に、イエスと一緒に食事の席に着いていた(12:2)ということが伝えられていますし、またイエス自身も、蘇ったあとに、弟子たちの前で食べ物を食べてみせた、ということが書かれています。死んだ人は、ご飯を食べられない。逆に、「ご飯を食べられない=死」ということも言えるわけですけれども、聖書の中では、実際に死んだはずの人がご飯を食べる様子を描くことで、「その人は“生きている”のだ」ということを分かりやすく表現しているのですね。なので、今日の福音書の箇所において、「(死んだはずの女の子に対して)食べ物を与えなさい」とイエスが言っているのも、その子は本当に生き返ったのだ(生きているのだ)ということを示す目的があったのだろうと思われるわけです。

みんなで彼女に食べ物を与えよ

 でも、この言葉が今回、僕らに示してくれているのは、どうもそれだけじゃないような感じがするのですね。
「食べ物を少女に与えるようにと言われた。」……、少女……、幼い女性……、死……、食べ物……。
 おそらく身体が弱かったのであろうこの12歳の女の子は、幸いなことに、父親がユダヤ人会堂の管理者をしていた。そのおかげで、その庇護を受けて生活させてもらえていた、この時までは。しかし、あえて厳しい言い方をすれば、当時の一般的な観点から見て、彼女の社会的な“価値”というものは低かったのではないかと思います。何故なら、女性は男性よりも社会的地位が低く、また、女性は早くに結婚して子どもを産んでナンボ、という常識の中で、彼女は生きていたからです。無論、現代においては、そういった悪しき風習というのは撲滅すべきであるわけですけれども、残念ながら、イエスが活動していた時代というのは、それが当たり前の時代だったのです。
 この12歳の女の子は、イエスの不思議な力によって、死の淵から生還することができた。凄いことですね。でも、それで彼女の人生が大きく変えられた……わけではないだろうと思います。虚弱体質、病弱な体質が改善されたかどうかは分からない。それに、人間という生き物は実に残酷なもので、そういう“変わった人”の存在を、世間は次第に忌み嫌うようになっていくのですよね。
 人々はこの時、彼女が蘇ったことに驚愕していますけれども、ほとぼりが冷めた後はどうなるだろうか。おそらく彼らは、その女の子に対して“冷たい視線”を向けるようになるのではないか、と想像してしまいます。「あの娘はなんだか気味が悪い」、「関わったら良くない気がする」、「本当は全部ウソなんじゃないか」……。そんな無慈悲とも言える未来が、この先、彼女のことを待ち受けていたのではないかと考えてしまうのですね。せっかくイエスの奇跡の体験者なのに!死からよみがえることができたのに!
 そのような彼女の未来まで、イエスが見通していたかどうかは分かりません。でもイエスは、この箇所で人々にこう告げています。「彼女に食べるものを与えよ。」これは、その女の子の両親に対してだけ言っているわけではないのです。もちろん、彼女のパパやママも含まれているでしょうけれども、それだけじゃなくて、実は、“周りで驚いているすべての人々”に対して、イエスは、「彼女に食べるものを与えよ」と告げているのですね。これは、今回の聖書日課のテーマ的には、「彼女を一人にするな」、「彼女を置き去りにするな」、「彼女が必要としているものを与えなさい」という、一種の“勧告”、“注意喚起”のような言葉として読み替えることができるんじゃないかと僕は思います。失われたはずの命が還ってきた。その奇跡の現場にあなたがたは立ち会った。あなたがたは、奇跡の“当事者”になったのだ。だから、あなたがたは、この少女がしっかりとその命を輝かせながら生きていけるように、責任をもって支えていかなければならない――。そのような、イエスの厳しくも愛のあるメッセージが、今日の福音書から伝わってくるような気がするのですね。

おわりに

我々人間の社会において、最も弱く、最も乏しく、最も助けを必要としているのは、間違いなく「子ども」という存在だろうと思います。その最も小さい命に目を向けて、しっかりと守っていこうとすることで、自ずと、すべての命が尊重されるようになり、この社会は良くなっていくはずなのですね、……本来は。
 将来の担い手を確保するために、子どもを大切にする? それは違います。社会を支えるために、新しい命が生まれてくるわけではありません。新しい命が生まれてくる理由、その意味、その目的などというものは、神さまにしか分からないことです。我々の社会に求められている最も重要なこと――それは、ただただ純粋に、誠実に、新しい命を大切にしていこう(「子ども」のような小さい命を支えていこう)と努めることです。
 この社会が、見返りを求めず、必要としている人に惜しみなく手を広げることができる社会へと変わっていけるように……、すべての命を大切にできる社会へと成長していくために……、我々教会だからこそできることがあると思います。「少女に食べ物を与えよ。」「彼女を取り残すな。」「子どもの命を守っていこう。」そのようなイエス・キリストのメッセージを、教会の外に、この世界に届けていく。それこそが、今、我々教会に託されている使命であると、そのように僕は思っています。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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